翌朝、藍良は静かな寝室のベッドの上で目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝の光。そして聞こえる鳥の声。
──……夢、か。
昨日のことを思い出し、藍良は起き上がりながら思わず頭を押さえる。
しゃべる蛇。死神。……バカバカしい。あんなの、絶対に夢だ。現実にそんなことが起きるわけない。そう自分に言い聞かせながら、寝ぼけた足取りで居間へ向かう。今朝は、
『おはよう、藍良。夕飯の残りと茄子の味噌汁、作ったから』
隣の台所へ行き、鍋の蓋を開けた。ふんわり漂う、赤味噌のにおい。藍良は食事を用意し、ひとりで黙々と食べる。
──よしよし。やっぱり、夢だ。よかった。
そう全力で思いながら、朝食を完食。食べ終わった食器を台所へ下げて、驚いた。洗われた食器やコップの数が多いのだ。慈玄の分だけじゃない。もうひとり──千景だ。
押し寄せる現実に、藍良はがくりと肩を落とした。どうやら、昨日の出来事は夢ではなく、現実だったらしい。だが、この場に千景の気配はない。すでに家を出たようだ。
藍良は胸に手を当てて、昨日の出来事を
「……今年に入ってから、この学園の中等部と高等部で、自殺が相次いでるでしょう。あれはただの自殺じゃない。すべては闇に堕ちた死神の仕業。僕はその死神を捕まえて裁くために──死神界から来た“
そんな衝撃的な話を聞いたあと、二人で浴室へ向かった。そこで、千景はそこで見たこともない力を使った。千景が言葉を唱えた途端、彼の声に引き寄せられるように、換気扇の中から黒い鱗の蛇が突如として現れたのだ。
これだけでもかなりの非日常。だがそのあと、さらに驚きの展開が待っていた。あろうことか、その蛇は人の言葉を喋ったのだ。ここまで思い返したところで、藍良は身震いした。
その時、居間の壁時計が音を鳴らし、時刻を知らせる。朝八時。気付くと、居間には一層眩しい朝の陽射しが差し込んでいた。
「行かないと」
藍良はそう呟き、足早に居間を出た。
☽ ☽ ☽
授業中、朝からなんとなくそわそわしていた藍良は、振り返り、誰も座っていないある席を見つめていた。
「白月は、今日欠席だ」
担任の犬飼が言うには、「風邪」らしい。
だが、千景は家を出ていったはず。なぜ学校に来ないのか。どこか、別の場所にいるのだろうか。そんな疑問を抱えたまま、藍良はふと窓の外に目をやる。そのとき、自転車置き場をトコトコと歩く千景の後ろ姿が目に入った。
「えっ!」
思わず身を乗り出す藍良。あれは千景だ。授業にも出ず、一体なにをしているのだろう。
次の瞬間、チャイムが鳴り、昼休みを告げる。鳴り終わった瞬間、咲が軽快に声をかけた。
「藍良~、お腹減ったあ。早く売店行こ!」
「ごめん、咲!先に行ってて!」
藍良は咲にそう短く告げると、慌てて教室を飛び出した。そして、そのまま自転車置き場へと向かう。が、いない。校庭、校舎の裏も千景の姿はなく、風だけが吹き抜けていた。
そして、最後にたどり着いたのは体育館の裏手。誰もいない、静かな場所。風が木々を揺らす音だけが耳に残る。
「ここにもいないか……」
がっくりとうなだれ、
「わっ!!?」
目の前に、唐突に現れた人影──千景に驚き、藍良は思わず尻もちをついた。
「藍良、大丈夫!?」
千景は目を丸くし、慌てて手を差し伸べる。藍良はキッと千景を睨み、むくれた。
「それはこっちのセリフ!ずっと探してたんだから!!」
「探してた……?」
「そう」
「……僕を?」
その一言に、藍良は言葉を詰まらせた。顔を上げると、千景はどこか嬉しそうに微笑んでいたのだ。
こんな言葉にまでキュンキュンされるとは……。
藍良はそう心で呟くと、そっと目を逸らした。すると、藍良の視界に千景の大きな手がそっと差し出される。
「怪我はない?掴まって」
藍良は戸惑いながらも、その手をぎこちなく取り、立ち上がった。
「……ありがと」
しばらく、風の音だけが流れる。沈黙のあと、藍良がそっと口を開いた。
「あんた、ここでなにしてたの?」
「邪気の気配を探してたんだ」
「邪気?」
藍良が眉をひそめると、千景は小さく頷き、周囲に目を走らせながら静かに言った。
「昨日も話したけど、この学校に
「そもそもさ……なんでその“黒標なんちゃら”が、この学校にいるってわかったの?」
少しだけ身を乗り出す藍良。千景は視線を宙に彷徨わせ、そして語り始めた。
「順を追って話すね。人が亡くなると、魂は一度冥界に送られるんだ。そこで、転生するか冥界に残るか選ぶ。けど、黒標対象に奪われた魂は冥界にすら行けない」
藍良の表情が強張る。
「じゃあ、どこに行くの?」
千景は一瞬、沈黙した。
「僕にもわからない。ただ、人の魂はものすごく強いエネルギーを持ってる。きっとそれを、何かに利用しようとしてるんだ。とても、よくないことに」
藍良は息を呑んだ。一見信じられないような話だが、千景の眼差しは驚くほど鋭かった。どうやら本当に、この学園内に恐ろしい黒標対象が身を潜めているらしい。そう自覚した瞬間、藍良の心臓が、恐怖でドクンと跳ねた。
「黒標対象がこの学園にいることがわかったのは、遺体の記憶を辿ったんだ。魂は抜かれていたけど、ほんの断片だけ、記憶が残っていた。僕は審問官として、その記憶に少しだけ触れられる。調べていくうちに、亡くなった全員が、この学園の敷地内で同じ邪気に触れていたことがわかったんだよ。だからその邪気を探してるんだ」
藍良はそっと顔を伏せ、深く息を吐く。
「……そうだったんだね」
そう呟いて顔を上げると、千景が穏やかに微笑んでいた。
「ありがとう。理解しようとしてくれて」
突然、柔らかな声で語りかけられ、藍良は思わず視線を落とした。
……調子狂うな。なんなんだ、この男は。
昨日、そして今の千景のやり取りを通じて、藍良はひとつの確信を抱いていた。昨日千景が言ったように、どうやら本当に藍良に危害を加えるつもりはないらしい。
それに、この男は本物の死神なのだろう。まさかとは思ったが、昨日のあの異様な力、あれが全部嘘だとは思えなかった。
だが、目の前の男は、藍良が抱いていた死神のイメージとは、あまりにもかけ離れていた。死神といえばドクロの顔に、黒いローブをまとって、大鎌を振り回して……そういうおどろおどろしい存在だと思っていたのに。
目の前の男は塩顔で、鎌どころかペンすら持っていなさそうで、ずっと穏やかな表情を浮かべている。藍良は小さく息を吐いて、静かに問いかけた。
「ねえ、あんた審問官って言ってたよね?それって、結局何なの?それに、どうして顔を変えてるの?」
「ああ、それね」
千景はふっと笑みを浮かべた。どうやら、藍良に質問されるのが嬉しくて仕方ないらしい。
「審問官っていうのは、人間界でいう警察官みたいな役職なんだ。僕は死神界の秩序を守るために働いてて。今回は、黒標対象を捕まえるために、ここに来たんだよ」
「警察官……?」
千景はさらに続けた。
「顔を変えているのは、単純に……本当の顔が、あまり好きじゃなくて」
そう言って千景は僅かに目を伏せた。そんな彼の様子に、藍良は一瞬きょとんとする。
「だから、なるべくこの世界で格好いいと思われる人間の姿をイメージして……死神界の“
「……幻顔士?」
「うん。死神ってね、顔をある程度自由に変えられるんだよ。そのための職業があって、専門的に顔のイメージを形にしてくれる死神を“幻顔士”って言うんだ」
お手軽な美容整形みたいなものか……?
思わずくすりと笑う藍良に、千景は首を傾げた。
「……変かな?」
「ううん。なんか、ちょっと面白くて。死神の世界って、思ったより人間くさいんだなって」
藍良は千景に向き直ると、小さく笑った。
「顔なんて、気にする必要ないよ。あんたはあんたじゃん」
そう言ったあと、藍良は千景に向き直り、ぺこりと頭を下げた。
「昨日はごめん。あんたの笑顔が胡散臭いなんて、酷いこと言って」
「いや、そんな……」
千景が慌てて手を上げかけた瞬間、藍良は顔を上げて、言葉を続けた。
「それと……昨日はありがとう。助けてくれて」
「え?」
「あの蛇、退治してくれたんでしょ?」
その瞬間、千景の目がすっと泳ぐ。
「ん?」と藍良が首を傾げた、次の瞬間……。
千景の肩に、黒い鱗の“アイツ”がにゅるりと巻き付いた。