それから、藍良と千景は二人並んで浴室の扉の前に立っていた。藍良が照明を点けると、白い光が一気に弾けて天井と壁を照らす。
カタ…カタカタ……。
換気扇の奥で、異音が途切れ途切れに鳴った。普段も音はするが、こんな音はしたことがなかった。それが気になっていたのだ。
「聞こえるでしょ? この音。昨日からなの」
千景は無言で換気扇フードを見上げる。背伸びをして、指先でカバーの下端を押し、ほんの少しだけ隙間を開けた。
「ちょ、何してんの?」
「……正直ね、君をここに残したままやるのは気が引ける。でも、僕の話、ちゃんと信じてもらいたいから」
千景は振り返り、藍良に向かって柔らかく笑う。
「ここで、見ててくれる?」
「ゴキブリ退治を?」
藍良は、へへんと鼻で笑ってみせる。信じる気持ちが半分、もう半分は虚勢だった。千景はそのまま、さらにカバーを横にずらす。すると、湿った風が少しずつ浴室に漏れ出してきた。
「ここに、君の髪に付いてた邪気の原因がいる」
言いながら、千景はそっと目を閉じた。呼吸を整え、掌を開いたまま換気口へ向ける。すると、千景の口元がわずかに動いた。そうして、低く、静かな声で厳かな言葉が紡がれる。
──
我が身の影よ 風となれ
邪なる者を 誘い出せ
月の光よ 我が手に
虚ろを晴らし
──
すると、千景の掌にふわりと青白い光が灯った。それは静かに
そのときだった。
千景の頬に、わずかな“
藍良は息を呑んだ。今、自分は本物の“死神”の姿と、その力の片鱗を目の当たりにしているのだ。風は千景の髪を撫で、そのまま換気扇の隙間へと流れ込んでいく。そして──
──ボテッ。
場違いな間抜けな音が、浴室に響いた。一瞬、何が起きたのか分からず、藍良は目を凝らす。光の中、床に横たわっていたのは──。
蛇。
黒く艶めく鱗。全長八十センチほどの細長い体を、微かにくねらせている。よく見ると、体の一部に白銀の三日月模様が浮かんでいた。
「へ……蛇ああああああっ!!??」
反射的に悲鳴を上げた藍良は、気づけば思いきり千景の胸に抱きついていた。ガクガク震える手で、彼の制服の胸元をぎゅっと掴む。
「な、ななな……なにあれ!なんで!?どっから!?無理無理無理!!早くなんとかしてよぉぉぉ!!」
千景はというと、突然の密着に面食らいつつも、耳までほんのり赤く染まり、気まずそうに頭を掻いた。
「藍良、落ち着いて。大丈夫、この子は敵じゃないよ」
「……はあ!?あんなのが“この子”!?」
震える声を押し殺しつつ、恐る恐る顔を上げる藍良。床に
ぴょろっ。
舌を出した。
つぶらな瞳が、どこか愛嬌たっぷりに藍良を見つめる。そして──
「いやぁ、驚かせてしまってすまなんだ、娘よ。わしは決して怪しい者では……」
「しゃ、しゃべったぁああああぁぁぁあああ!!」
蛇から放たれた甲高く古風な声が、浴室中にこだました瞬間、藍良はその場でビクリと硬直し……。
バタリ。
白目をむいたまま、千景の腕の中で静かに気絶したのだった。