「……はい?」
藍良はぽかんと声を漏らす。何を言われたのか、すぐには理解できない。数秒の沈黙のあと、千景は小さく首を傾げ、まるで天気の話でもするかのように静かに続けた。どうやら、藍良が話を聞き取れなかったと思ったらしい。
「今年に入ってから、この学園の中等部や高等部で五人亡くなってる。それは知ってるよね?」
藍良はゆっくりと頷く。ここまでは現実に起きたことだ。
「その自殺、全部本人たちの意志じゃないんだ。闇に堕ちた死神──通称“
…………はい?待って。一気にわからなくなった。
戸惑う藍良をよそに、千景は真顔のまま言葉を重ねる。
「その黒標対象を放っておけば、この学園でまた人が死ぬ。だから僕は、それを止めるために来た。死神界から派遣された“
「ちょいと待ったあああああ!!」
藍良は反射的に声を張り上げていた。自分でも驚くほどの声量。気付けば冷や汗がつっと頬を伝い、手がかすかに震えていた。千景の言っていることは、一つひとつ全部がぶっ飛んでる。けれど、その中でもどうしても、藍良がスルーできなかった言葉があった。
「死神界から来たって……ちょっと待って……それって、つまり……」
千景の目は真っ直ぐだった。ふざけても、狂ってもいない。藍良はそんな千景の顔を覗き込みながら、恐る恐る尋ねた。
「……あんた、人間じゃないってこと……?」
すると、千景はきょとんとし、意外そうに目を瞬かせた。そしてそのまま小さく咳払いをし、ゆっくりと口を開いた。
「……ごめん。なんとなく、察してるのかと思ってた」
「は?」
「だって、さっき僕の笑顔を“胡散臭い”って言ったでしょ?だから、僕のこの顔が、“本物じゃない”って見抜かれてるのかと思って」
その言葉に、藍良の表情が一瞬で強張る。千景を見つめた瞬間、ぞわりと、背筋を撫でるような感覚に襲われた。どこか“変”だった。言葉にできなかった千景への警戒心はこれだ。
──この人が、人間じゃないからだ。
そんなはずない。そんなの、信じられない。だが、不思議と藍良には、千景が人間ではないという確信があった。そして、目の前の男に恐怖しながら、同時に藍良には別の感情が湧き上がっていた。その感情とは──。
──懐かしさ。
藍良は自らの感情に戸惑っていた。記憶を辿っても答えはでない。だが、藍良はどこかで千景を見た。どこかで、彼と会ったのだ。
そのとき、藍良の視界がふっと揺れた。立っている感覚がふいに抜け落ちた瞬間、倒れかけたその身体を、千景がすぐに支えた。震える藍良を、千景は不安そうな目で見つめる。
「……ごめん。順番を間違えた。驚かせるつもりじゃなかったんだ。本当に、ごめん」
千景は藍良の肩を支え、床に座らせる。彼は慌ててお膳の上に置かれていた水の入ったピッチャーを手に取り、空のコップに注ぐ。そしてそれを、藍良にそっと差し出した。だが、藍良の手は反射的にそれを払う。
──パシャッ。
水が飛び散り、畳にじっとりと染み込んでいく。その音が、やけに静かな部屋に響いた。千景は動かない。ただ悲しげに、それでもどこか優しく、藍良を見つめていた。
「どうしたら、信じてくれる?」
その声は真っ直ぐで、嘘の混じらない響きを持っていた。千景は藍良から目を逸らすことなく、続けて口を開く。
「僕は絶対に、君を傷つけない」
数秒の沈黙。秒針が何度か「カチカチ」と部屋に響いたあと、藍良はゆっくりとぎこちなく頷いた。それを見た千景は、表情を緩ませてふうっと息を吐く。
「どうして、うちに?」
藍良はかすれた声で尋ねた。千景はわざわざこの寺に来た。それには必ず理由があるはずだと、藍良は思った。
「……いいよ。ちゃんと説明するね」
千景は、座りながらも姿勢を正し、再び真剣な表情を藍良に向ける。
「僕がここに来たのには、三つ理由があるんだ。一つ目は、このお寺にある“ある物”が、黒標対象を見つけるために必要だから」
「ある物?」
「黒標対象は、姿を誤魔化して人間に紛れている。その正体を暴くために、どうしてもその力が必要なんだよ。だからそれを、少しだけ貸してもらいたいと思って」
藍良は目を泳がせながらも、必死に理解しようと小さく頷く。一度、大きく深呼吸。それを見ていた千景が、またお膳から別のコップを手に取る。そして、ピッチャーの水を注ぐと、遠慮がちに藍良に差し出した。藍良は、今度はしっかりそれを受け取り、勢いよく飲み干す。
「あと二つの理由は?」
一拍置いて尋ねる藍良。すると、千景の顔が一気に真っ赤になった。
「えっ……?」
千景は藍良から目を逸らし、もじもじと足元を見つめる。そして、ちらりと藍良の顔を窺うと、照れくさそうに口を開いた。
「……藍良のことが、好きだから」
……………。
ズコーーー。
思わぬ爆弾発言に、藍良は勢いよく頭を垂れる。ゆっくりと顔を上げると、千景はまだ赤い顔で目を逸らしつつ、指先をそわそわ動かしていた。
「なんていうか、一秒も離れたくなくて。だから、こうして下宿も……」
ぽつりぽつりと、言葉を紡ぐ千景。その様子は、恋する乙女そのものだ。
……いや、マジか。
生まれて初めて告白してきた相手が、よりにもよって死神とは。
藍良は目を伏せ、黙り込む。
そして、真っ先に浮かび上がってきた言葉は……
──こいつには申し訳ないけど……正直めんどくせぇぇぇぇ……
「……あ、あのさ、最後の一つは?」
話を変えるように問う藍良。すると、千景がふいに手を伸ばし、藍良の髪にそっと触れた。その指先が頭頂部を撫でた瞬間、藍良の身体がびくりと跳ねる。
「……な、なに?」
思わず身を引く藍良に、千景は真顔のまま、穏やかに言った。
「借り物競争のときから気になってたんだけど……君の髪に、ほんの少し“邪気”が」
「邪気?」
聞き慣れない言葉に、藍良は眉をひそめる。千景は藍良の髪に触れたまま、静かに言葉を続けた。
「うん。小さなものだけど、放っておくと良くない。最近、この家で何か変わったこと、なかった?些細なことでもいいから」
「変わったことって……」
少し考えたあと、藍良はふと天井を仰ぐ。
「そういえば、この前物置で変な音がした。犬か猫かと思ったけど、開けたら何もいなくて。それと……浴室の換気扇、変な音がする。ずっと、カタカタって」
それを聞いた千景は、なぜか楽しげに口元を緩めた。
「やっぱり。連れてってくれる?浴室に」