人魚の歌声を聴くと、恍惚の内に溺れ死ねるという。
ここ
毎年、何人もの人間が海辺で何者かの歌を聴き、行方不明になる事から生まれた話かもしれない。
実際は人買いの所業や、島の周辺に大量発生している狂暴な鮫やウミヘビの類の所為なのだと思う。
しかし今の自分にとって、破滅は甘美の極みだった。
最愛の存在を喪い、後悔と苦痛を抱えて生きている『現在』が永遠に続く生ならば、死んだ方がラクだと、その時は思ったのだ。
この苦しみからの解決は死への逃避しか考えられなかった。
生きる事が死ぬ事より辛く厳しいのは当たり前で、それでも人は生きようとする渇望を持つ生物だと今ならわかるのに。
夜の海辺で熱を孕み、疼く傷跡に手を添える。
愛する彼女の傍に今なら迷わず逝けると、氷の如く肌を怜悧に刺す白波の先へと歩を進める。
冷気が腰、胸、そして首筋と這い上がる中、海水を吸った衣服は罪人を繋ぐ鉛の鎖の如く、この身を海中へと沈めていった。
塩辛い液体が口や鼻から無遠慮に入り込む中、ずっと嗤っていた。
誰も守れなかった馬鹿な男が、ようやくこの世から消えてやれるのだ。これが笑わずにいられるか、と。
波に攫われた体が翻り、海中から見上げた月は太陽のように煌めいていて、忌々しい程だった。
口からは、ごぼごぼと白い泡が海面へと昇る。その泡の中を大きな魚影が横切った。
怪我をしていたから、血の臭いを嗅ぎつけた鮫が来たのだと思い、その貪欲さを少しだけ羨ましいと思う。
今の自分には、他の生物を蹴落としてでも生きたいと思わなかったから。
だが、その影は海の狩人のものではなく、この世のものとは思えない程に美しい生き物だった。
半身が人で、魚の尾をもつ生物が物珍しそうに周囲を旋回しながら、此方を見ている。
(なんだ……?)
興味津々に見つめる瞳は、どんなに清らかな海よりも煌めいている。
透き通るように白く、なめらかな肌は真珠の如く優雅な隆線を描いていて、白銀の髪は墨色の海の中で月のようで、唇は赤い珊瑚を思わせる艶やかさだった。
こんなにも美しい存在がこの世に居るのかと見惚れずにはいられなかった。
つい先刻まで、死に焦がれていたというのに、無様にも今はその人智を越えた美貌を瞳に焼きつけたいと思い、瞬きすら惜しむ程に見入っていた。
魔性の美とは、こういうものなのかもしれない。
ぼんやり思いながら片手を伸ばす。
すると人魚は微笑み、両手を差し伸べ、頭を抱きしめてきた。
胸から伝わる鼓動は確かに生物のもので、傷ついた心身を柔らかな音と体温が包み込む。
人魚の肌は驚く程に柔らかくて、極寒の海で冷えた体も、孤独と絶望で凍えていた心も、その抱擁で溶けてゆくのを感じた。
いつしか、その熱は瞳から雫となって海中に溶けていた。
涙なんて、とっくに枯れ果てたと思っていたのに、まだ泣けたのかと驚く。
そうして、泣いて泣いて、泣き疲れて眠ってから意識を取り戻した時、夜明けの海の浜辺に居た。
体を起こすと、水平線を薄紫色に染める空の色が広がってゆくのと同時に、暗闇しかなかった胸の内に変化が訪れているのに気づいた。
「……きれいだ……」
彼女を喪ってから、月も太陽すらも鈍く見えた目に、その夜明けの色は心が震える程に美しく見えたのだ。
◆◆◆
「……これがガキを助けて、捕まったバカな人魚……、だと?」
そんな暴言をオレに吐いてきたのは、濃紺色のスーツを着た、長い黒髪の人間だった。
水槽の中からソイツを睨みつけると、相手は片目を細めた。
その片目や表情から感情は伺い知れない。
不思議な事に、その男は片目に黒い皮のベルトみたいなものを巻きつけており、自ら片方の視界を封じていたのだ。
(なんで片目を隠してるんだろ?)
そんな事をする存在は人魚の世界では見た事がなかったので、ついジロジロ見てしまう。男もオレの事を凝視していて、視線が交じり合うのは、何だか気まずい。
すると男の周囲に居た部下らしき男達が片目男に話しかけた。
「
何か難しい会話をしてるけど、片目男はフーゴーっていうのかと思って、水槽から顔を出して呼びかけた。
「おい、フーゴー、オマエ、なんで片目を隠してるんだ? それじゃあ前がよく見えないだろ? ニンゲンって、船とかヒコーキとか作れる癖に、結構バカなんだな~」
あはは、と笑うと、フーゴーの周囲の男達が瞬時に引き攣った顔をした。
何でそんなにビビってるのかと思ったけど、フーゴーは眉間を寄せている。
もしかして傷ついたのかな。見た目の割に繊細なんだなと思いつつ、オレは正直な気持ちを伝えた。
「でも、オマエのその顔のやつ、カッコ良いよな!」
フーゴーが片目を見開いた。
おっ? 褒められて嬉しかったのかと思い、オレは大きな声で続ける。
「オレは良いと思うよ! そういうのスキだな!」
水槽の縁に両手を乗せて、しっぽで水面を叩きながら伝える。
心からそう思ったのだ。
そいつは本当に、綺麗な顔の男だったから。
艶のある黒髪に、翡翠色の瞳は意思が強そうで、それでいて冷水のような清廉さを感じる。唇を開く度に漏れる吐息混じりのかすれた声は色っぽく、きっとこいつと出逢った女の子は皆、恋に落ちちゃうんじゃないかなと思うくらい、雄としての魅力と自信に溢れていた。
そんな奴が片目を隠しているのはミステリアスで、その秘密を知りたくなってしまう事だろう。
まぁ、オレは女の子じゃないし、陸地に来たのは、居なくなった姉ちゃんを捜す為だから、ニンゲンにウツツを抜かすとか有り得ないんだけど。
けどオレの言葉にフーゴーは沈黙したまま動かない。
「……」
無言で見つめられるので困ってしまった。
(いや、もしかして人魚のオレの魅力に見惚れちゃったかな~? 人魚はニンゲンと違って不老だし、美形揃いだからさ!)
調子にのったが、直ぐに我に返る。
ま、まぁ、オレは一族の中で一番、見た目も歌もポンコツって言われてるけど……。
そんな風に考えていると、ぽつりと聞こえた。
「……
ん?
片目男を見つめると、そいつは再び繰り返した。
「伏竜だ。伏哥ってのは部下からの呼びかけだ。手前に呼ばれる謂れは無ぇ」
そう教えられたので、オレも答えた。
「ふぅん? ニンゲンって、いっぱい名前があるんだな~? あ、オレは
白月……つまり、オレの姉ちゃんの名前を口にすると、伏竜が片眉を上げた。
しかし、伏竜の周囲の奴らは先程みたいに凍りついてるし、伏竜は露骨に機嫌が悪そうに、舌打ちしながら告げた。
「他人の名前を呼び捨てにしてんじゃねぇ!」
「別に良いだろ、それくらい! オレの名前も呼び捨てでいいからさ! それよりさ、白月を知らない? 数年前に陸に行くって書き残したきり、音沙汰なくてさ……。オレが世界一、大好きなひとなんだ!」
何よりも姉ちゃんの事が心配で大事だから、そう伝えたのに、伏竜は苛々が増していっているように見えた。
それでも、低い声で問うてくる。
「……その女、手前の何だってんだ」
「何って……。この世で一番大事で、大好きなひとって言っただろ?」
言わせんなよ~こんな事~! シスコンみたいじゃーん! と内心でテレテレしながら、尾びれをバタつかせて伏竜を見たオレは、息が止まりかけた。
「……」
伏竜は、まるで死刑宣告をされた人みたいに、形の良い唇をわななかせ、瞳から光を失って見えたのだ。
「フ、伏竜……?」
名前を呼んだけど、伏竜は疲弊した死にかけの獣にでもなってしまったかのように、ゆるゆるとした動作でオレを見つめた。
そしてその顔には、何だか見覚えがあった。
暗く冷たい冬の海で、無抵抗に沈む少年の面影が脳裏をよぎる。
小さな手を引いて砂浜まで連れて行く最中、冷え切った瞳に熱が灯るのを見た気がする。
あの子は無事に生き延びられただろうか……?
人間は海の中で生きられないから砂浜に置いてきたけど、海に還ろうとするオレをあの子は泣きながら追いかけていた。
溺れるから来ちゃいけないと叫んでも、行かないで、傍に居てって、ずっと……。
(あの子、どうしてるかな……)
だが、オレは首を振った。
(いやいやいや! あの子はまだ子供だろうし! 伏竜、オレより老けてて、でっかいし! それより今は姉ちゃんを捜すのが最優先事項だし! 伏竜なんかに構ってるヒマないし!)
気を取り直すも、オレが姉ちゃんの名前を呼ぶ度に伏竜の機嫌は傾いてゆく。
周囲の部下達が伏竜を止めようとするも、伏竜は長い髪を揺らして背を向けて退室しようとする。
そんな相手にオレは慌てて呼びかけた。
「お、おい! 伏竜!」
しかしアイツは肩越しに振り返ると、病んだ笑みを浮かべた。
「……上等じゃねぇか。クソ餓鬼。金を持て余した汚ぇ親父どもに買い回されてこい」
「は?」
問い返すも、伏竜はオレの方を見ずに告げる。
「汚れきった手前でも、手前の女は引かずに受け入れてくれりゃあいいがな」
何言ってんだオマエ! 性格悪いぞ! と水槽の中で叫ぶも、ドアは無情に閉じられたのだった。
続く