昭和十年三月十二日/東京・神田
神田の路地は、雨の名残を石畳に光らせていた。街灯の灯りはゆらぎ、夜の静けさに溶け込む。濡れた舗装を靴が叩く音が一つ、二つ。そして、引き戸が静かに開いた。
居酒屋「つるや」。通人しか知らぬ裏手の一軒家。表ののれんは藍色、奥にある座敷には赤い火鉢の明かりがぼんやりと灯る。
「遅かったな、提督」
すでに酒の香りが漂う六畳間の中央、将棋盤の前に座っていたのは――水谷義政。スーツの上着は脱いで畳にたたまれ、白いワイシャツの袖は二の腕までまくっている。老眼鏡の奥の目は、盤面ではなく新たに現れた来客に向けられていた。
「軍令部の会議が五分延びてな。議題が“外務省に非協力的だ”だとさ。笑わせる」
桐谷洋輔中将は、コートを脱ぎ、丁寧にたたんで柱の傍に置く。第十艦隊司令長官。軍帽を脱ぎ、髪を整えるその所作は軍人然としていながら、どこか静かだった。
「鯵の開きがいい頃合いです。ほら、脂がちょうどいい具合で」
水谷がすすめた皿から、桐谷は箸を伸ばす。居酒屋特有の甘辛い味付けに、うなずき一つ。
「味が濃くなったな。昔はもっと薄かった気がするが」
「三崎からの直送になったんですって。店主の娘さんが目利きらしい。これも時代の進歩というやつです」
二人はしばらく、酒と肴を前に静かに過ごした。話は他愛ないものだった。魚の産地、酒の出来、最近の新聞。どこにでもある話だが、その沈黙と間に漂う空気は、やはりどこか違っていた。
将棋の駒がぽつ、ぽつ、と動く。香、銀、歩。駒台の上に小さな木音が重なるたび、盤の上に新たな静けさが広がる。
「銀が浮いてるな」
「意図的です。誘ってます。……乗ってくると見た」
「策士め」
桐谷が笑った。将棋を“遊び”で済ませられる相手はそう多くない。水谷とは十年来の付き合いだ。立場は違えど、言葉の節々から感じる知性と直感の鋭さに、桐谷は常に一目置いていた。
そんな空気が、一つの言葉で変わる。
「……大和の次を考えている」
水谷の箸が止まった。魚の骨がひとつ、皿の上に音を立てる。
「艦政本部の構想ですか? それとも――あなたの発案?」
「艦政はA-140の強化型を進めている。だが、それは所詮、大和の延長線だ。私は……別のものを見ている」
「ほう」
「戦争の形が変わるかもしれん。空からの打撃、潜水艦の襲撃。だが、それでも“海を抑える象徴”としての艦が消えるとは思えない。ならば、次の艦は……」
桐谷は将棋盤を見た。敵陣に踏み込んだ銀、その背後に控える金将。
「“先”を考えねばならん」
「“先”……それは、火の話ですか? 推進機関?」
「ああ。重油だ。これまでは帝国の戦艦を支えてきたが、十年後、二十年後はわからん。南方資源地帯を押さえれば当面は持つ。だがいずれ、枯渇する」
水谷は湯呑みを持ち上げ、湯気の向こうで老眼鏡の奥の目が細くなった。やはり来たか――と言わんばかりに。
「……そんなこともあろうかと思ってな」
言って、彼は懐から封筒を取り出した。厚手の紙に、薄く赤い封蝋の痕跡。桐谷はそれを見ただけで、すでに「何か」が始まったのを悟った。
「原子炉、か」
「加圧水型。構造は単純、蒸気タービン駆動。小型化は困難だが、実験段階では連続稼働に成功している。……火だ。だが、目に見えぬ火だ」
「試験炉をどこに?」
「呉の地下。艦政本部の連中にも知られていない。知っているのは、今この場で、あなたを入れて三人だ」
「三人?」
「もう一人は設計主任。名は出せません。安全のために」
桐谷は封筒に触れず、湯呑みを口に運んだ。味は変わらない。だが、喉の奥に何か重いものが落ちていく。
「……これは、艦を動かすための火か? それとも、世界を焼くための火か?」
「提督」
水谷は静かに将棋盤の端に、封筒を置いた。その手元にあるのは、まだ動かしていなかった“歩”の駒。彼はそれを一つ、盤の中央に進めた。
「これは……一歩です。まだまだ、本番には遠い。だが、“一歩”がなければ、どこにも辿り着けない」
桐谷は頷き、銀将を前に出した。相手陣に踏み込む手。その背後には、すでに守る者はいない。
「……戻れぬ一手、か。ならばこちらも……」
彼は、まだ駒台にあった“飛車”を手に取り、盤の端に打ち込む。盤上、ちょうど“四隻”ぶんの駒が並んでいた。水谷が小さく笑う。
「まるで艦列ですね。……四隻が突き、十二が支える。お好きな形だ」
「昔の“土佐”を覚えているか?」
「ええ。無用艦と呼ばれ、海に沈められたはずの……」
桐谷は頷いた。
「だが、あの艦こそ“基礎”だった。積み直せば使える。火を変えれば、生き返る」
水谷は目を細める。
「――なるほど。土佐の亡霊に、“見えぬ火”を宿すおつもりで」
「亡霊ではない。未来の亡霊だ。今夜ここに、もう一度、呼び戻す」