わからなかった。
インは『いつでも自分を頼って欲しい』と言っていたのに、
何故こうして銃をつきつけ、強制連行を促すのか。
ID保持者としてオズが連行するようにディーバに
命じたのだろうか?
宿の外に連れ出され、エンジンを暖め続けていた
軍用車の中に連れ込まれる。隣りでシートに腰掛けたニルは
腕を組んだまま、薄闇の車内に鋭い眼差しを向けていた。
運転席にいたのは鷲の顔をしたバイオロイドの
マルタだったが、彼女も一言も話さなかった。
「ニル……」
シザーや緋牡丹との面会も許されず、二人と
連絡を取る前に退室させられた事は不安を肥大させた。
ニルの腕を握ると、その手を
優しく包む指に視界を上げる。青い瞳が緩められていた。
「大丈夫だ。コイツらは、オマエをキズつけたりしない」
「どうして?」
「……オズの目的は、オマエを殺すとイミが無いからだ」
ニルは何を知っているのだろうか。それを自らの口で
語ろうとしない。聞かせたくない話なのだろうか?
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オズと逢えると言うのに、全く安心など出来なかった。
ニルがいなければ不安で泣き出していたかも知れない。
Eシティの中枢にあるオズの居城『クレイドル』に到着
し、緑のランプが続く廊下を歩いている間中、ずっと
ニルは手を繋いでくれていた。
やがて開けた部屋へと到着したが、その異様な室内に
視線は方々を泳ぐ。
大小様々なパイプが部屋の床や天井に蔓のように
巻きつき、絡み合っており、歩く事も困難だったのだ。
インは配管を慣れた様子で避けて歩き、前へ進む。
これからどうなるのか? 何が起ころうとしているのか?
オズの目的は何なのか? ニルは何を知っているのか?
何一つ分からない闇の中で、握り締めた手だけが
頼りだった。
その時、聞き覚えのある声が、くぐもった室内に響く。
「ようこそ、小鳥と人形。束の間の旅は楽しめて?」
それは、魔女・ブレアの声だった。
「!」
直ぐにニルが前に進み出て庇う。その手に銃が
握られているのが見えた。
先を歩いていたインが控える傍を、白衣のブレアが
優雅に歩く。手を広げ、迎え入れるような仕草と
美しい笑みを浮かべているが、警戒心は最大に
跳ね上がっていた。
「あなたが、オズ……?」
問いかけにブレアは微笑んだ。
「いいえ、違うわ。オズは全知全能にして至高なる神。
私は、それに仕える神官に過ぎない。オズの意向を汲み、
彼の望みを満たすのが私の存在意義。……ああ、でも、
ようやくオズは甦るの! 長かった……長かったわ!」
オズが『甦る』?
その神にも等しいと謳われる存在は既に死亡して
いるのだろうか?
ブレアの言わんとしている事がわからなかった。
いや、そもそも此処に呼ばれたのはオズの命令で
遣わされたディーバの連行によるものではなかったのか?
「ふふ……いいわ、教えてあげる。可愛い優良種。
オズの本体は、コレよ」
ブレアが懐から取り出したケースを開けて中身を見せる。
指輪を収納する厚手の箱に似ている。その中に
収められていたのは、鈍く光る小型のチップだった。
「これがオズの脳よ」
「脳? 脳が、そんな小さな機器におさまるの?」
「うふふ。ニルヴァーナシステムの根幹とは、ニンゲンの
脳が基盤になっているもの。だから、あなたの
ニルヴァーナは、そこらの劣等スペックAIよりも
状況判断力に優れているでしょう?」
ニルを見ると、その横顔に変化は無かった。
感情が無いなどと言っていたが、ヒトの脳から
作られたのならば、そこに心が宿るのではないか。
実際、ニルは様々な喜怒哀楽を見せていたのだから。
「でもね、ニルヴァーナではダメなの。
人間の脳より優れたAIは存在しないし、してはならない。
だから、脳を無機物に収めようとすれば
今までの技術では容量が足らなかった……でも!」
足場の悪い室内を踊るように歩き回りながら、
ブレアは振り返った。
「私はお父様復活の為に頑張った! 脳も肉体も損傷した
お父様を甦らせる為には、脳をデータ化するしかなく、
私はそれを成功させた! クローンは論外よ!
だって、クローンは遺伝子は同じでも、心が違うもの!
私を覚えていないお父様なんて、お父様じゃない!」
「お、父様? オズは、あなたの……」
「ええ。実の父であり、最愛の存在。私が唯一、
この世界で愛した男。お父様は、私を沢山愛して
下さったわ……お母様よりも、インソムニアよりも、
私だけを! だって、インソムニアには何も
してあげなかったのよ?」
ブレアの笑みには狂気しか含まれていないのだと気づいた。
整いすぎた美貌を示すように、頬を撫でて口を歪めている。
「……最初は、唇からだった。私の唇は、生まれつき左端が
上がっていたから。左右対称でなければ美しくないから。
だから、お父様は私の口を作り変えた。次は鼻、次は頬骨、
目の色、目蓋、耳も、指も、骨格すらも……全部、手術で
組み替えて美しくしてくれたのよ! 凄いでしょう?」
全身を整形されたと言うのか。
考えられなかった。過去の時代では、どちらかと言えば
整形は否定的に捉えられていた。
あるがままが美しいと礼賛されていた気がする。
なのに、ブレアは原型の残らぬ己の容姿を
『愛情の証』だと誇っていた。
「だから私はお父様の愛情に応えられるようにと、必死で
勉強したわ。学校では一番以外を取らないようにした。
運動だって、そう。私が他の子より優れていると証明されれば
される程、お父様は喜んだ。お父様が喜ぶと、私も
嬉しかった……。そんなお父様は、科学者としても優れて
いたわ。このニルヴァーナシステムを生み出したのも
お父様だし、IDについても研究していたの」
「IDについても?」
ニルヴァーナシステムとIDに共通項でもあるのだろうか。
矢継ぎ早に繰り出される情報を制しきれず、
受け入れるだけで精一杯だった。
「ええ。IDはね……」
話し出したブレアにニルがペイルライダーを取り出した。
「オマエのムダ話に興味は無い。ユレカの両親の遺体を
返せ。用件は、それだけだ」
「あら? IDの治療はいいの? その為に病室から
出てきた……という『設定』でしょう?」
「IDの治癒は不要だ」
「ニル?」
言い切るニルに声をかけると、相手は唇を噛んだ。
「ユレカ、IDを完治させるな。IDを失えば……」
「死体に戻ってしまうものね」
「え……?」
ブレアの言葉を頭の中で問い返す。が、理解出来なかった。
「……IDを治療すれば死ぬって……どういう、こと……?
死体に戻るって……なに……?」
「ユレカ!」
ニルが遮るが、眩む視界の中では目を逸らすインと、
笑うブレアが映っている。
「ニルヴァーナ、あなたは彼女の耳を塞いでいるようだけど、
知らずにいれば幸せで済む内容じゃないのは、もう
わかっているでしょう?」
「……」
「彼女は知るべきよ。自分の正体を」
この状況で、タチの悪い冗談だ。こんな下らない嘘で
こちらを惑わしたつもりなのかとブレアを睨む。
「うふふっ、覚えてないのね。あなた、自分の
お父様とお母様の事、覚えている?」
「お、覚えてるわ! パパもママも、私の為に必死に
生きてくれたもの! IDに感染して、迫害されても
守り続けてくれた……。その二人が生きてた証が、
私だから!」
悲鳴にも似た甲高い笑い声を発しながら、ブレアは問う。
「生きた証? 殺した証じゃないの?」
閃光が飛び散る。
ニルの放ったペイルライダーはブレアの
眼前、彼女を庇って立ち塞がったインの肩に突き刺さっていた。
ニルが舌打ちをしながらも、再度得物を向ける。
「どけ! その女を生かしておけば害になる!」
「……退くわけにはいかない。ディーバとして、
彼女の最後の砦として……」
「ナゼだ! ナゼ、ソレを庇う?」
「その質問に答える必要性を感じない」
インがショットガンを抜き放つ。至近距離からの狙撃を
ニルは身軽にかわしたが、流れ弾が此方に向かわぬように、
距離をとったまま、インへ向けて得物を放つ。
方向を推測しているのか、インは
軌道上にショットガンの銃身を向けて飛び道具を弾く。
そして手元で銃を回転させ、ニルに狙いを向けると
容赦なく鉄の獣を吠えさせた。
破裂音と飛び交う弾丸は敵を威嚇するに余りあるだろうに、
ニルはインを前にしても退かない。
「五月蝿い少年をインソムニアが黙らせている間に、本題に
入りましょう? あなたの御両親のデータ、
残っていたんだけれどね、おかしいのよ? 二人は
未知の奇病に侵され、診療機関からも拒まれ、
失意の内に行き倒れたとあるのだけど……報告書には
『子供は死産だった』とあるの」
「え?」
心臓が震えた。
「何、言ってるの? そんなの、おかしいよ……。
私、生きてるのに……」
「世界大戦の影響で資料を探すのに手間取ったけれど、事実よ。
死亡した母体から摘出された嬰児は、死亡していた。
それがね、おかしな事に
『胎児の遺体は、その数日後に紛失した』。そして、更に
数年後、あの東京大汚染が発生したの。わかる?」
首を振る余裕すら無かった。ブレアの言わんとしている事が
意図が全く理解出来ない。
「わ、わからないよ……何が言いたいのか、わからないよ……。
私、生きてるもの! ほら、身体、温かいもん!
喋れるし、考えられるし!」
「IDの原因……それは長い間不明とされていたけれど、
お父様は一つの仮説を立てた。体液を感染経路とし、
Es、自我、超自我の精神三層のコントロールを狂わされた個体は
入水によって死亡する……似た行動をとる生物がいると」
「似た、生物?」
「ええ。ネズミの脳に寄生し、猫に食される事で猫の脳に
寄生する寄生虫、カマキリの体内に寄生し、産卵までの
養分を蓄えた後に宿主を水辺に誘導し、その身体から
飛び出すハリガネムシ……寄生虫に、よ」
寄生虫? 人体にパラサイトする生物が存在する事を
認知はしていたが、それらが脳まで支配するなどという
話は聞いた事が無かった。
人間の脳は複雑であり、言語や常識、概念というものが
網の目よりも細かく絡みあっている。それを寄生体が
正確にコントロール出来るなど、誰が信じるというのか。
「IDが支配するのは行動原理全てではなく、本能衝動……
『Es』に基づく暴力衝動や生存に必要な部分よ。だから、
倫理を司る『超自我』や、エスと自我の共存を受け持つ
『自我』には影響出来ない。むしろ、インソムニアのように
超自我の支配が本能を押し殺す個体にとってIDは
脅威ではないの」
「……」
つまり、道徳的・理性的であればIDは抑えられる、と
いう意味なのだろうか?
欲動に従って行動すれば、
IDの寄生部分であるEsを活性化させると?
「IDとは、ヒトの体液の循環を利用して脳に寄生する
新たな生命体ではないかと考えた。そうすれば説明がつくわ。
でもね、IDは欲動に寄生するけれど、超自我との
バランスが崩れやすい個体……いわゆる、誘惑に弱い個体ね。
それからは早々に見切りをつけて水辺に誘導し、
より強い超自我を持つニンゲンの身体を点々とする。
理性強き人間には、ID寄生体が何匹もいたりするわ」
「そ、そんなの、あるわけないよ!」
あってはならない。そんな事が起こるはずはない。
「あら、あなた覚えていないの? あなたね、ニンゲンの中の
ID寄生体を活性化させちゃったのよ? 覚えてないの?」
「……」
記憶の片隅に残る、忌まわしい記憶。
死の静寂に包まれた都市。
その中を歩き続ける。
次々に死んでいく人間に怯えていた。
だが、何故、気づかなかったのか。
自分だけが無傷で歩いていた事に。
「う、嘘、嘘だよ、そんなの……」
記憶の箱の奥底に封じ込めていた忌まわしいモノが
解き放たれた。
――妻を喪い、失意の中にいた男は『死亡した』はずの
子供を抱えたまま、灰色の街を走り続けていた。
曇天から降り注ぐ雨から庇うように、上着を頭からかぶり、
父は微笑み続けていた。
足を引きずり、涙を流し続けながら笑っていた。
『大丈夫だよ、いつか病気は治るから。治ったら母さんの分も
あわせて色々な場所へ行こう。動物園とか水族館とか
遊園地とか……。……仕事も無くなってしまったし、住む所も
追い出されてしまったけれど、僕は頑張るよ。お前が
生まれて来てくれたからね』
IDの所為で涙が止まらず、ふとすれば父は自傷行動に
走りかけるのを歯を食いしばって耐え続けていた。
白かったワイシャツは泥と埃で汚れ染まっている。
食べるものも無いのに、見つけた食料のほとんどを
子に与えてばかりだった。
『パパ、ごはん、たべないの?』
『パパはお腹が減ってないから、いいんだよ』
『でも、ゼッタイあとでおなかへるよ? はい、はんぶんこ』
『ははは。ありがとう。お前は母さんソックリで優しいなあ』
コンビニエンスストアの残飯から見つけて来た
カレーパンを千切って差し出す。父は微笑みながら
一口だけ食べ、こちらに渡して来た。
『お前は本当に不思議な子だな。心が読めるんじゃないかって
思うくらいに頭がいい。子供って、もっと
手のかかるものだと思っていたのに、
成長が凄く早い。ほとんど時間も経ってないのに……』
もう小学生くらいだなあ、と、笑っていた。
幸せな夢を見ながら発狂してしまった父は、ある冬の朝、
アスファルトに横たわったまま動かなくなっていた。
死の概念が無かった当時、寝ているのだと思って
揺り動かしていた。
『パパ、朝だよ、パパ? ねむいの?』
『……』
『パパ……?』
道行く者は目を逸らしていたが、構わなかった。
『パパ、疲れちゃったんだね。うん、おきるまで
まってる。おきたら、今度は海にいきたいな。あのね、
話したいことがあるの。いきたい場所があるの。パパと
いっしょなら、私、ガンバれるから……』
膝を抱えたまま、魂無き者の傍で目覚めるのを
待ち続けていた。
やがて近隣の住民が苦情を訴えたらしく、
遺骸を引き取りに来た者がいた。
食料を探して戻って来た時、父は青いシートに包まれ、
車の中に運び込まれていた。
『パパ? ねえ、おじさん、パパをドコに連れてくの?
パパ、寝てるだけなの! ココで寝ちゃダメなら、
ほかの場所にいくから、つれてかないで! ここに
いちゃダメなら、どこかにいくから! おねがい!』
大人達の服を掴んで止めるも、誰もが顔を見合わせている。
『何だ? この子…ホトケの子どもか?』
『そうは言ってもなあ、もう死んでるんだし、
住民が迷惑してるだろ? お嬢ちゃん、パパはね、もう
死んでるんだから……』
『しんでる……? しんでるってなに? だって、パパ、
起きてたよ? しんでるになっちゃったら、そんな風に、
ゴミぶくろに包んじゃうの? しんだら、もう、ニンゲンじゃ
ないの?』
『これはね、ゴミ袋じゃなくて…』
『パパ、おきるから! だって、私、海、いっしょに行くって、
つれてってくれるってゆったもん!』
『あぁ、もう……』
子供の相手が面倒になった相手は、言い放った。
『子供がいるのに、定職にもつかずに野垂れ死んだ親なんか、
親の責任果たしてないだろう? まったく、こっちは
忙しいんだ! キミも、こんなお父さんの所に生まれて、
ツイてなかったんだろうけどねえ!』
ガラスが割れる音が身体の中から聞こえた気がした。
『おい! 子供の前で!』
他の大人が諌めていたが、男は叫んだ。
『五月蝿いな! さっさと引き上げたいのに、
ジャマするから……』
ひび割れたガラスの下から、ドス黒い獣が赤い舌を
垂らして這い出してくるのを感じる。
それは、憎悪と攻撃性なのだと。
「……!」
思い出した。
全身が濡れたように汗にまみれる。
そうだ、あの日、あの時、投げかけられた悪意を喰らい、
心の中の獣が暴れた。その後は記憶が途絶え、
気づいた時には街中がIDで汚染され尽くしていたのだ。
暴発する欲動に勝てる理性を持たなかった人間達は
寄生体の脱出行動に従い、入水によって死亡した。
そして、水に逃れたID寄生体は更なる宿主に住み着き……
まるで、人類を選別するように、寄生を繰り返したのだ。
「私……私が……」
力が抜けて床に座り込んでしまった。
足から染み入る無機物の冷たさは、あの父と過ごした日の
アスファルトと同じ感触に思える。
「思い出せたかしら? 生き残ったのは強き魂を持つ
人間……今のレムナント達。あなたは、人間の恐怖や
憎悪という負の感情を食べ尽くして満腹になったものの、
世界大戦で人間の少ない世界では栄養失調に陥ると、己の
身体を蛹のように眠らせたのがヒュプノスリープ」
「……そ、んな……ウソ、だよ……」
「嘘じゃないわ。そもそも、生身の人間が何の機器の
助けも無しに、何百年も生きられると思う? それに、
人間の脳の寿命は、約三百年なのよ? あなたが
存在している事が、人外の証だわ」
ばらばらだった記憶のピース。
残りを手にとろうと残骸を見るも、もう完成形と成り、
付け入る空間も無い。
膝をつくと、滲んだ涙が床に落ちた。
ブレアの言葉だけが、ノイズのように響く。
「餌となる人間が少ない時期には目覚めず、養分となる
存在が増えた頃合に目を覚ました。強い精神を持つ
個体を見つけ、成虫になる為の眠りなのだから」
「う、うぅ……」
頭痛が己を苛む。
「あなたの行動自体、IDの手順を踏んでいるじゃない?
隔離された病室から外の世界、集団への潜伏を好み、
より強い精神体に近づいて捕食しようとした。産卵の為に
必要なのは、幼生に戻った己を成体に進化させる為の
より大きな感情と強い精神を持つヒト個体と、その遺伝子。
そして、人口の多いEシティを目指した。餌が必要だものね。
途中で心が折れかけた時、IDは自傷に走り、他者へ
乗り移ろうとした。ニルヴァーナでは脳が無いから
寄生出来なかったのよ。でも、あなたは自力で
持ち直したから、入水にまでは行かなかった」
全ては、この本能の成せる行動だったのか?
あの閉じられた箱の中で、いつか家族と共に生きる事を
夢見た日々も、空を見たいと願った想いも、ニルと生きた
時間の全ても、本能に刻み付けられた
プログラムの破片でしか無いと言うのか?
破壊の欲動のままに暴れ、餌となる存在が絶滅へと
近づけば冬眠し、より強い精神体『レムナント』が
育つよう種を撒く。
撒き散らした種子が繁栄にさしかかった時、再び
目覚め、また悲劇を繰り返す……。
ただ、それだけの為に。
ただ『絶滅しない』それだけの為に生きる寄生虫なのか。
「う……ッく……」
混乱するあまり、反論のセリフが何も浮かばず、
憑かれたように『嘘』だと叫び続けていた。
「嘘じゃないわ。あなたが存在している事自体が証明なのよ。
人間の屍に寄生しながらも意思を持ち、
生存しているように『擬態』している!
IDは寄生虫としての性質を持ちながら、生物の中で進化を
続けるウィルスの性質も持っている新種の生命体。
霊長類を自然宿主としたサル免疫不全ウィルスが突然変異に
よってヒトへの感染方法を獲得したヒト免疫不全ウィルス、
俗に言うエイズウィルスの如く……。
ヒトインフルエンザウィルスとの統合を果たした
トリインフルエンザウィルス……奇科内
インフルエンザウィルスへと変異した事例然り。
その感染力や威力を生命体の体内で強めていった。
レムナント種が高い学習能力を持つのも、祖である
IDオリジナルのコピー能力の名残りだと推測しているわ」
ブレアの言葉は此方の感情を読もうとすらしていなかった。
彼女は己の研究に酔い痴れている。その台詞の一つ一つが
処刑台へと追い立てる無慈悲な煽りだと気づいていない。
『ヒトではなくウィルスや寄生虫と同じ』なのだと突きつけられ、
最愛の父母を殺めた罪深さを思い出し、
目の前が歪んで何も見えない。
「元々、人類はIDと共存していた節があったわ。
太古の英雄や偉人が生きた時代、IDは逆に彼等の
精神の強さ故に入水に追い込まず、心身の強壮をもたらした。
ナポレオンの睡眠時間が極小であったのを知っている?
諸葛孔明の知略・策謀の数々、知っている?
それらの高度な能力など、宿主の強化に役立ったのよ。
当然よね。居心地の良い場所があれば、誰でも
それを守ろうとするのだから。
それが人類の精神が弱体化した近世では、進化したIDが
共存者である人類を滅ぼしかけてしまった。
IDの共存者……いえ、宿主にすらなれない欲望の獣達は
愚かにも同胞で殺し合い、それは第三次世界大戦となった。
弱き旧人類が淘汰され、優れたレムナント種と、
レムナントの慈悲で生き延びた劣等なるニンゲン……つまり
バイオロイドが共存を果たしたのが、今の世界。
あなたは、旧約聖書のイヴの如く、
人類を産み変えたのよ! ええ、旧人類は
アダムを捨てたリリスと魔族の間に生まれた哀れで惨めな存在。
でも、レムナントは違う。レムナントこそが、人類!」
そんなバケモノなのではないと後ずさった時、ブレアが
指を弾くと、床の一部が大きく口を開けた。
マンホールが巨大化したような穴が出現し、
その遥か下方では肉色に蠢く水が淡く光っている。
薄く濁った水の底に花弁のように転がるのは、
ヒトの脳だった。
「何、これ? 何で脳が……? それに、水……」
水が、動いている?
「これがニルヴァーナシステムの本体よ。世界の気象管理すら
行える素晴らしいシステム。基盤はニンゲンの脳だけれど、
死亡した脳では意味が無い。だから、
生きたままこのホールに沈めなければならないわ」
「生きたまま……?」
だが、脳だけしか無い。死体が無いのだ。
「あのピンク色の水は、人体を急激に消化する肉食系
クリーチャーを改良させたものよ。脳だけは
消化しないけどね。この人食いクリーチャーのホールに
人間を投げ込むだけで、脳が得られるの」
「う……」
吐き気がした。こんな残虐な方法で人を犠牲にしている事に。
世界の為の人柱にされるなど、人間ではなく
『部品』と同じではないか。
「あ、あなた……あなたは……!!」
「ちなみに、あなたのご両親の脳も手に入れて此処にあるわ。
逢いたかったのでしょう? 親に逢いたがるのは子供の
本能だもの。そんなに優れた脳じゃなかったけれど、
あなたの為に用意してあげたの」
「ひ、ひどい! あなた、それでも人間……」
人間なのかと言いかけて口を噤む。
この言葉を吐ける存在ではないのだと、何かが
釣り針のように言葉を口中に縫いとめた。
このグロテスクな海の底に父母がいるのか。
なら、ニルヴァーナシステムとは、ニルとは、父や母の
無数の情念から生み出された存在なのか。
それらが世界を支えていたのならば、既に自分は星に
溶けた二人を見ていたのだ。
あの施設から逃げ出した夜、既に……。
「パパ、ママ……っ、うぅう」
「泣かなくてもいいのよ。きっと寂しくなんかないはずだもの。
この中にはね、もっと沢山の人間が
『居る』のよ。……レイも、いるから」
初めて聞く名前だったが、顔を上げると、
ブレアは視線を天井にと向けていた。
「レイ……。私と、お父様の子供。優れた脳を持っていたから
ニルヴァーナシステムの基盤として、この中に……
私が、投げ込んだ」
父との子……いや、我が子をクリーチャーの居る中に?
眼下には肉塊が溶けた赤い水面しか見えない。
「そんな事って……生きたまま殺すなんて!
こんな中に!」
ニルは父母であり、ブレアの子である事になるのか。
もう精神は許容量を越えていた。
「あら、それを貴女が言うの? クリーチャーは
あなたの子供なのに?」
「え?」
背筋から凍りついてゆく。
醜悪で凶暴な怪物であるクリーチャーが……?
「この世界に溢れるクリーチャーはね、冬眠状態の貴女の
身体から採取した卵子と、私達が選んだ優秀な雄の
精子を掛け合わせた試験管ベビーなのよ」
何を、言っているのか。
子供? そんなの事は知らない。覚えが無い。
なのに、舌の根が乾いて言葉が出ない。
「IDオリジナル体とレムナントの交配実験は何度も
行われていたんだけどね、やっぱり愛し合う者同士でないと
ヒトの形にならないみたいね。IDオリジナル遺伝子体が
人間の遺伝子を侵食し、あんなクリーチャーにしてしまうのね」
「私が寝てる間に……勝手に、勝手に
赤ちゃんまで作ったの?」
「この方法で新人類が作れていれば、
今回みたいに、あなたをワザと解放して雄と遭遇させる、
そんな回りくどい真似を経なくても良かったのよ。
ヒトの恋愛手順を踏み、性交を経て受精までを
ニンゲンのように行わなければ
生まれた子供はクリーチャーになってしまうのが
動物実験で確認したわ。あぁ、クリーチャー達は
奇形児とかそういう類じゃないわ。ヒト遺伝子は皆無で
ID遺伝子しか無いんだから」
頭の中で火花が飛び散り、怒りと哀しみと絶望で
周囲が黒に包まれていく。人を喰らう化物を、
この身が産み落としたと言うのか。
「それに、この中に直ぐにインソムニアも入るんだから」
「……?」
「ニルヴァーナシステムの重大な欠陥…。
人間の脳を使用しているが故に、システムの根底に
塵のように人間の残留思念が溜まり、エラーを起こし始めた。
でもね、お父様はIDそのものであるあなたを
保有する事によってニルヴァーナシステムの
欠点すら補ったのよ?」
その薄赤く輝く水面に、喉が鳴る。
腹が減ったと、この身が訴えているのだ。
それは、どんな言葉よりも正確に己の存在を示していた。
人間などではない、人間の心を餌とする種なのだと。
「成体化したIDオリジナルをレムナントで最も優れた遺伝子を
持つインソムニアと交配させるの。そうすれば卵を
産みつけられたインの身体を苗床に、最上級の遺伝子を
持った生物が誕生するわ。
ふふ、幼生は、このホール内の残留思念と、
インの肉体を餌に孵化する。
その子に、お父様の脳を移植して偉大なお父様に
相応しい優生遺伝子体をプレゼントする……
これが、私の望み」
己を守る男を犠牲にしてまでも父親を甦らせようと言うのか。
屍に湧く蛆にしか見えない存在に、愛する父を
宿らせようと言うのか?
蛆……その蛆のような存在を作り出すのは我が身で、
父母の命を奪った罪悪感、クリーチャーの母という嫌悪感が
己の存在を否定し尽くすようだった。
虚ろな心で視線を上げると、ブレアがニルを見つめていた。
ニルはインの攻撃を受け流し、かわしながらも
こちらを見ている。
ニルの視線に絡め取られなければ、崩れていたかもしれない。
「私は、父親を餌にしたあなたとは違うわ」
「……」
「あなたは父の死を知っても、遺体を埋葬したいと
言っただけでしょう? 私は違う! どんな摂理も法も私を
縛る足枷にはならない。それらに背いてでも、最愛を
この手に取り戻して見せる!」
ブレアの手が伸びる。
インはニルとの戦闘が長引いている。もしも
ニルが倒れれば、哀しみに嘆く間もなく
実験動物のように交配させられるのか。
そうしてインの屍から、おぞましい新生物が生まれてくるのか。
後ろに這って逃げようとしても、己の出生、
その忌まわしい存在意義、ブレアの狂愛を目にした恐怖で
体は立ち上がる気力を失い、不甲斐なく足掻くだけだった。
己のアイデンティティが崩壊すれば、
ここまで脆くなるものなのか。立つ事すらままならない。
人間だ、己は人間なのだ。
ニルが必要としてくれた。
自分自身で我が身を愛せずとも、彼さえ居ればいい。
だが、その時インの攻撃がニルを弾き飛ばす。
「くっ!」
床を転がりながらも、素早く立ち上がって迎撃体勢を
とるニルの姿はボロボロだった。
胸の中の不安が肥大してゆく。
戦う事が生業のイン相手では分が悪いのではないか。
そこでブレアが囁く。
「ニルヴァーナは用済みだから、破壊した後に廃棄処分に
なるわね。でも、私は知ってるわ。最愛を喪う苦しみを
知っている。だから、取引しましょう?」
ブレアは微笑みながら手を差し伸べた。
「貴女が私に協力してくれるなら、ニルヴァーナと二人だけの
世界をプレゼントしてあげるわ。破壊したりなんかしない。
あの子と共に生きれるように……ね?」
「……」
「ウソはつかないわ。穏便に済ませたいもの。
ニルヴァーナが、欲しいでしょう?」
ブレアの手を……