2025年7月24日18時、東京・高輪区立図書館の地下書庫には、夏特有の湿気と古紙の匂いが漂っていた。晃は白い手袋をはめ、棚の最下段に眠る羊皮紙の写本を慎重に引き出した。埃が舞い上がり、天井の蛍光灯に照らされてきらめく。
「晃、そんな奥にまで潜り込むなんて、今日の調査は気合い入ってるね」
彩夏が控えめに声を掛けた。彼女はメモ帳を片手に、晃の動作を見守っている。
晃は眼鏡を指で押し上げると、ゆっくりと答えた。
「この写本、7世紀のもので、翻訳の痕跡が残っている可能性がある。今日ここに来たのは、それを確認するためだ。……ただ、少し古すぎるな。表紙が脆い」
純也が横から覗き込み、冗談めかした声を出した。
「壊さないでくれよ、俺まで責任取らされそうだ」
その声には微妙な震えが混じっていた。本番に弱い性格が、場の静けさを余計に意識させていたのだ。
佳那は興味深そうに写本の金具を指で触れた。
「これ、現代の装丁じゃない。もしかして魔道具っぽい要素があるかも。新しい発見になりそうね」
明日美が背後で落ち着いた声を出した。
「荷物と備品は整理済みよ。帰るときすぐ動けるようにしておいたから」
優太はすでにノートパソコンを開いていた。
「晃、ページ番号ごとに写真撮影して、OCRかける準備は整ってる。データ化すれば解析が速くなる」
そこへ、館内放送が閉館30分前を告げた。エアコンの音がやけに大きく感じられる中、晃は写本の表紙をそっと開いた。その瞬間、微かに空気が波打った。ページの中央に虹色の渦が現れ、光が渦を巻く。
「なにこれ……?」
彩夏が一歩前に出た。
英語の声が背後から響いた。
「Wait, don't touch that manuscript yet!」
振り向くと、英国から来日している翻訳家エマーソンと編集者ジョーダンが立っていた。
エマーソンは額に汗を浮かべ、理解しがたい状況に動揺しているようだった。ジョーダンは手に持ったノートを落とし、驚きの表情を浮かべていた。
だが、その驚きは長く続かなかった。ページから放たれた光が一気に強まり、床が沈むような感覚が全員を襲った。
「落ちる!」
純也が声を上げたが、その声は渦の音に飲まれた。
目を開けたとき、晃たちは見知らぬ荒野に立っていた。赤土が広がり、遠くには城門がそびえている。空は薄橙色で、地平線近くに見える二つの月が現実感を奪っていく。
晃は混乱する頭を押さえ、必死に呼吸を整えた。
「ここは……どこだ……?」
彩夏が周囲を見回し、城門に向かって歩き出した。
「人がいるかもしれない。聞いてみよう」
エマーソンは驚きの中で目を細め、呟いた。
「This... is not Earth.」
ジョーダンが小さく笑った。
「なら、私たちも物語の中の登場人物になったってことかしら」
晃は彼らを止めようとしたが、言葉が出なかった。目の前の世界はあまりにも現実的で、夢と断定するには冷たい風と赤土の匂いが強すぎた。
晃は落ち着こうと深呼吸した。未知の状況に直面すると、彼は理屈で心を落ち着かせる癖がある。だが今は、その理屈すら追いつかない。
「彩夏、無理に先走るな」
晃はようやく声を絞り出した。
しかし彩夏は足を止めない。
「ここで立ち尽くしてても何も始まらないでしょ。人に聞けば、せめて場所くらいは分かるかもしれない」
彼女の背中には、恐怖と決意が入り混じっていた。晃は小さく息を吐き、彼女の後を追った。純也と佳那も慌てて続く。
城門に近づくにつれ、晃たちは異様な言語が飛び交う声を聞き取った。それは日本語にも英語にも似ていたが、微妙に音の節回しが異なっていた。
彩夏は眉をひそめたが、臆することなく門の前に立った。
「……こんにちは、私たちは道に迷いました。ここはどこですか?」
警備隊らしき男たちが互いに顔を見合わせ、答えを返した。言葉は聞き慣れないが、彩夏の耳には部分的に意味が届いた。
「王都フェランディア……滞在者か?」
晃が目を細めた。
「彩夏、言語体系が少し似ている。たぶん古代日本語系統だ」
彼は瞬時に脳内で文法を組み替え、短いフレーズを作り出した。
「私たち……旅……滞在……許可?」
警備兵は驚いたように眉を上げたが、やがて頷いた。紙のような許可証を渡し、城内への道を開けた。
「すごいわ、晃」彩夏が振り返った。
「即興で言語を合わせるなんて」
晃は軽く首を振った。
「まだ基礎の一部だ。でもこれで何とかなる」
ジョーダンが笑みを見せた。
「あなたたち、日本で言語の天才扱いされてるんじゃない?」
「いや、ただ分析してるだけです」晃は短く答えたが、その声はどこか硬かった。
城門の先には赤茶けた大通りが広がっていた。市場らしき場所では、鮮やかな衣を纏った人々が行き交い、見たことのない果実や金属製の装飾品が並んでいる。異世界という言葉が現実味を帯びてきた瞬間だった。
佳那が目を輝かせた。
「これ、全部未知の技術と文化じゃない? 調べがいがあるわ!」
純也は喉を鳴らし、気圧された様子で呟いた。
「なんか……舞台のセットに迷い込んだみたいだな」
晃は立ち止まり、仲間全員を見渡した。
「とにかく、ここで生き延びる方法を考えよう。宿を探して、情報を集める必要がある」
宿探しは意外にも容易だった。市場の端にある掲示板に、滞在者向けの案内が記されていたのだ。晃はその文字列を一つずつ確認しながら解読を進めた。古語と現代日本語の間に似た語彙が点在していることに気づき、わずか数分で読めるようになった。
「ここ、『星影の宿』って名前だ」晃が指差した。
「料金は……銀貨三枚。幸い、こっちの通貨も金属価値である程度理解できそうだ」
優太が頷く。
「僕が持っている日本円を、金属比重で換算してみようか。まずは生き延びるために、物資の価値を理解するのが先決だ」
エマーソンが財布から銀色のコインを取り出した。
「偶然だが、私は銀のコレクションを持ってきている。重さを比べれば、少なくとも一晩は泊まれるだろう」
城門近くの宿は、木材と白壁で造られており、どこか中世ヨーロッパを思わせた。扉を開けると、甘い香辛料の匂いと温かい光が迎え入れた。宿主は初老の女性で、異国の言葉を話しながらも親しげに微笑んでいる。
彩夏は勇気を出して声をかけた。
「私たち……滞在、一晩……できますか?」
女性はにこやかに頷き、手で「どうぞ」と示した。
部屋に案内されると、木製のベッドと布の寝具が整然と並んでいた。明日美が荷物を整理しながら呟いた。
「すごく整った部屋ね。少なくとも野宿は免れた」
晃は窓際に立ち、街の灯りを見下ろした。城門周辺には小さな焚火が点在し、人々の声が絶えない。未知の土地だが、活気と秩序がある。
「僕たち、まずは情報を整理しよう」晃が全員を集めた。
「ここはフェランディアという王国の首都らしい。二つの月、赤土の大地、そして未知の言語……帰還の手段は不明だ。だが、恐らく写本に関係がある」
ジョーダンが軽く肩をすくめた。
「つまり、あの図書館の本を調べ直せば、元に戻れる可能性があると?」
晃は頷いた。
「ただし、その本が今どこにあるのか、全く分からない。渦に吸い込まれた瞬間、写本も一緒に消えた」
佳那が目を輝かせた。
「じゃあ、ここで調べ物をすればいいってことね? 図書館とか学術院があるなら、すぐに行きたい」
純也が気弱な笑みを見せた。
「けど、知らない土地でいきなり動き回るのは危なくないか?」
彩夏が純也の肩を叩いた。
「怖いのは分かるけど、何もしない方がもっと危ないよ。私たち、帰れるかどうかも分からないんだよ?」
その言葉に、晃は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。彼女は控えめだが、要所で必ず声を上げる。だからこそ信頼できる。
晃は深呼吸し、紙とペンを手に取った。
「まず、現状を整理する」
彼は無意識に理屈へ逃げる癖を発揮していた。
1. 東京・高輪区立図書館の地下書庫で、羊皮紙写本を開いた瞬間に光の渦が発生した。
2. 渦に吸い込まれ、8人全員がこの異世界フェランディアに転移した。
3. 写本自体も消え、転移の原因と手段は不明。
4. 当面の生活基盤を確保する必要がある。
「だから、まずはこの国の仕組みを知ろう」晃が結論づけた。
「学術院のような機関を探して、写本と同じものがないか調べる。彩夏、君は交渉に強いから窓口をお願いしたい」
彩夏は軽く頷いた。
「うん、私、言葉は完璧じゃないけど、伝えたいことはきっと伝えられる」
純也はやや不安げに口を挟んだ。
「俺、役に立つかな……」
ジョーダンが彼の背中を軽く叩いた。
「あなたの自由な発想は大事よ。型にとらわれない視点は、交渉でも必ず役立つ」
佳那は手を挙げた。
「私は未知の技術を優先的に調べる。写本と同じ素材や構造が見つかれば、転移の鍵になる可能性がある」
優太は冷静にメモを取りながら言った。
「物資と資金は僕が管理する。データが揃えば、最適な動き方が見える」
明日美はにっこりと笑みを見せた。
「私はここを拠点として整理しておく。どんな混乱があっても、帰る場所が整っていることは重要よ」
エマーソンが抽象的な調子で言葉を添えた。
「異世界に来たことは偶然ではないかもしれない。何かしら、ここで果たすべき役割がある」
ジョーダンは静かに笑った。
「私たち、ただの見学者じゃなくなったってことね」
晃は仲間を見渡し、胸の奥で決意を固めた。
「僕たちは必ず帰還の方法を見つける。そして、この世界に来た意味も見極めよう」
その夜、全員は深い眠りについた。
外の空では二つの月が静かに輝き、どこかで鈴の音のような風の音が響いていた。