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桂木信彦はベランダの小さな椅子に腰掛けて、窓の外に広がる星の瞬く月夜を眺めつつ、芳しい香りの紅茶を楽しみながらくつろいでいるところだった。信彦の髪は毛先まで綺麗な銀色で、口髭もまた同じくらい白く染まっていた。口元には深い皺が刻まれており、眼鏡の奥に見える優しげな瞳の周りにも歳相応の貫禄が滲み出ていた。
信彦の後方に立つ家屋の壁は至るところにヒビの入った剥き出しのコンクリートで、娘であるノノが昔描いた落書きがところどころに見受けられた。そのどれもが今では雨風にさらされて消えかかっており、信彦はそれを見るたびに言葉も喋れなかったノノを思い出すのだった。
信彦は紅茶を一口含むと、それをゆっくりと喉の奥へと流した。最近ではそうでもないが、戦前戦後は食糧難により紅茶も高くてなかなか手に入るような代物ではなかった。お茶の葉と称されたただの葉が市場に流れていた時期もあった。だから当時は珍しく紅茶が手に入ると少しずつ少しずつ十分味わって飲むようにしていたが、戦後五十年以上が経過した今になってもその癖はなかなか抜けず、ちびりちびりと紅茶を飲むのが当たり前になっていた。
これがノノになると入れた次の瞬間にはカップが空になっていて何だかもったいない気がするのだけれど、だからと言って信彦はノノを叱ったりするようなことは決してなかった。眼に入れても痛くない可愛い娘だから、ということもあるのだが、そんな自分の感覚で叱っても意味はないと考えていたのである。だから信彦はノノを叱ったりなどしない。教え諭すことはあっても、感情的になって怒ったり、それで手を上げたりすることもこれまで一度も無かった。
その所為かどうかは解らないが、ノノが自由に育ってしまったことは信彦の責任としか言いようが無かった。悪意のないノノの行動が他人に迷惑をかけてしまうのはいつものことで、ノノの通う高校から何度も注意を受けているものの、信彦はただノノの代わりに謝ることしかしてこなかった。ノノことは、仕方の無いことだと、割り切っていたから。
信彦は小さな溜息を一つ吐くとふと後ろを振り向き、室内の方に目を向けた。コンクリート剥き出しの外壁とは対照的に部屋の中の壁は白一色で、そこにかけられているアナログ時計の針は午後六時を回ったところだった。
「あぁ、もう、こんな時間か……」
信彦が呟くように言った瞬間。
「たっだいま~! パパ!」
玄関のドアが勢いよく開かれて、ノノの声が家中に響き渡った。続いてどたどたという廊下を駆け抜ける音が聞こえてきたかと思うと信彦の居るベランダにその姿を現した。
「パパ! ただいまぁ~!」
嬉しそうなノノに、信彦もにっこり笑って返事する。
「あぁ、おかえり、ノノ。今日も楽しかったかい?」
「うん! いっぱい楽しかったよ! 今日も葵チャンに怒られちゃったけどね! けどね、葵チャン、今日もちゃんとノノが作ったピアスしてくれてたの! それでね、ノノ嬉しくて飛びついたら恥ずかしいから辞めろって怒られちゃったけど、葵チャン恥ずかしがり屋さんだからねぇ――」
「あぁ、あぁ、解った、解ったから、ノノ。とりあえずお風呂に入りなさい。話は食事の後、聞いてあげるからね」
「は~い! りょ~か~い!」
ノノは右手を上げて笑いながら返事をすると、浴室の方へと駆けていくのだった。
そんな後ろ姿を見送って、信彦は投げ捨てられた鞄を拾い上げる。
ノノが高校に通い始めてから、約二年。当初は一人で高校に行かせて大丈夫だろうかと不安に思ったものだし、実際最初の一ヶ月は乗るバスを間違えて反対方向の街に行ってしまい迎えに行くことになったりもしたが、今ではそれもなくなり無事に行って帰ってくることができるようになった。
小学校も中学校も行っておらず、それまで人とのコミュニケーションといえば父親である信彦や時々訪れる友人達だけだった。果たしてノノに友人が出来るかどうか不安でならなかったが、京都葵という親友に恵まれて本当に良かったと信彦は思っていた。
信彦は鞄を開いて中から大きなお弁当箱を取り出すとそれを流しまで持っていき、洗い桶の中に貯められた水の中にそれらをつけた。それからすぐ脇の古びたガスコンロに火をいれ、鍋に入った味噌汁を暖めなおす。よく食べるノノのために畑で取れたり知人から貰った野菜を沢山いれたそれは味噌汁というよりは味噌煮込みに近く、飲むものではなく食べるものになっていた。それと並行して冷凍庫から取り出した魚を焼き始めたころ、突然浴室からどどどっと足音が聞こえてきたかと思うと、
「パパ、パパ、パパ!」
とタオル片手に素っ裸のノノが姿を現したのだ。
ノノが浴室へ入ってから、まだそんなに時間は経っていない。たぶん、服を脱ぎながらまた何か思いついてそれを教えに来てくれたのだろうと、信彦は口元に笑みを浮かべつつ、深いため息をついた。
「ノノ、いつも言っているだろう? タオルはちゃんと巻きなさいと」
言ってノノの持つタオルを体に巻いてやる信彦に、ノノは相変わらずの笑顔で良いことを思いつきましたという表情で口を開く。
「そんなの良いから、聞いてパパ!」
やれやれ、と信彦は腰に手を当てる。
「なんだい? また何か面白いことでも思いついたのかね?」
「あのね、ノノね、パパから貰った新しいリストのお返しがしたいの!」
ノノの言葉に、信彦は思わず口をほころばせた。
「あれは、ノノへの誕生日のプレゼントなんだぞ? そのお返しだなんて、パパはノノのその気持ちだけで十分さ」
「でも、だってノノ、すっごく嬉しかったから! だからね、どうしてもお返ししたいの! 葵チャンはノノに紅いピアスくれたからね、ノノ、お返しに葵チャンには青いピアスをプレゼントしたの! パパは何が良い? 何が欲しい?」
えへへ、と笑うノノは本当に嬉しそうで、その嬉しいという思いはノノの胸いっぱいに溢れかえっているのが見ただけですぐに解った。そしてノノはいつもこうだった。まるで幼児のように、嬉しいことがあると所構わず喋りだす。
信彦はそんなノノの頭を優しく撫でつつ、
「そうだね、ノノがお風呂に入っている間に考えるから、早く入ってきなさい」
「絶対だよ! 考えてね!」
そう言い残してノノは、また浴室へと駆けていくのだった。
食事の準備が済み、食卓に配膳してからもノノが風呂から上がってくる気配はまだなかった。ノノは一度風呂に入ると長く、だいたい三十分以上は出てこない。そんな長い時間いったい何をしているのか信彦は何度か浴室を覗いたことがあったが、ノノは何をするでもなく、ただぼうっと物思いに耽っているだけのようだった。
たぶん、今日もそんなところだろうと思った信彦は浴室に向かい、扉を二度ノックする。
しかし、返事はない。
「ノノ、開けるぞ?」
言って扉を開けた先には、思ったとおりぼうっとしているノノの姿があった。
湯船に浸かるノノの体の前には、幼児向けの風呂玩具がいくつもぷかぷかと浮かんでおり、まるでノノもその中の一つであるかのように見えた。小さな人形の中の、大きな人形。ぼうっとするノノの表情はどこか生きていることを忘れさせてしまいそうだった。
のぼせてはいけないと思った信彦は、
「ノノ?」
と声をかける。
その声にぴくりと僅かに反応して、ノノは信彦のほうにゆっくりと顔を向けた。
表情を変えず、しかしいつもの口調で、
「……あ、パパだぁ~」
「ノノ? そろそろ出なさい。のぼせてしまうよ?」
「……は~い、もうちょっとしたら出る~」
ノノの返事を聞いて、信彦は扉を閉めた。それから食卓に戻り、部屋の脇の小さな棚の上に置かれたラジオの電源を付けた。ジジジッと電波を受信する音が部屋の中に響き、やがてニュース番組にチャンネルが合わされる。
信彦はゆっくりと席に着き、ラジオニュースを聞きながらノノが出てくるのを待った。
ラジオは信彦たちの住む安芸坂地区で行われた定期行事や個人商店のCMなどをいくつか流し、やがて街で起こった事件事故を伝え始めた。いくつかの事件がキャスターによって読み上げられたが、どれも小さな出来事でしかなく信彦は聞き流していた。
そんな中、突然キャスターの声が低くなり、信彦はおやっと思い傾聴する。
『――では次のニュースです。本日未明、安芸坂南地区五番街の橋の袂で、全裸の男性が血を流して倒れているのを新聞配達中の少年が発見、すぐに病院に運ばれましたが死亡が確認されました。現場には大量の血痕と共に、被害者の血で書かれた数字の“11”と思われる字がコンクリート壁一面に書きなぐられており、現在安芸坂地区警備局によって調べられています』
それを聞いて、信彦は思わず目を見張る。遠い昔に忘れ去った自分の過去が思い起こされ、けれどそんなことはない、ただ似ているだけだと自分に言い聞かせる。
だって『奴』は、死んだはずじゃないか。
あの日、あの時、無残にばらばらにされた奴の遺体を処分したのは、自分達だった。
幾人もの同士と共に殺された『奴』は、確かに人を殺したときに自己主張するように、自分のナンバーを被害者の血液でその場に残していた。
どうして、そんなふうに『奴』が育ったのか、信彦には解らなかった。
確かに『奴』を育てたのは、信彦たちだった。
同じように同士を育てたはずだったのに、彼らは皆体格も性格も異なっていた。
多分、人が育つ上で人格が形成されるのは、なにも環境の影響だけではないからだろう。
もともと持って生まれた性質、そういうことだったのだと信彦は判断していた。
しかし、そんな『奴』も、もうこの世に居ない。
だから絶対に、犯人は別の人間に違いない。
『現場は人通りの少ない、非常に見通しの悪い一画で目撃証言はなく、また犯人の残していった遺留品なども見つからず捜査は難航している模様です。安芸坂警備局は本庁に協力を要請、現場に残された謎の数字などから犯人の特定を――』
「パパ、お待たせ~!」
その時、突然パジャマ姿のノノが浴室から出てきて、
「!?」
信彦は反射的にラジオの電源を切っていた。
こういった事件を、ノノの耳にいれさせてはならない、そう思って。
そんな信彦の行動を見て、ノノが口を開いた。
「どうしたの、パパ?」
「あ、あぁ、いや。ノノが出てきたから、切っただけさ」
しどろもどろになりながらも、信彦はそう答えた。
しかしノノは納得がいかない様子で、
「でも、いつもは付けっぱなしだよ?」
不思議そうに首を傾げるノノに、信彦はどこか慌てた様子で答える。
「あぁ、いや、今日は特に面白そうな番組がなかっただけだ、気にしなくていい」
「ふぅ~ん? それよりノノ、お腹すいたぁ! ごはんごはん!」
「そ、そうだな、うん、食べようか」
ノノが笑顔で食卓につき、信彦は深いため息を一つ吐く。
そのとき、信彦は小さく、呟いていた。
「まさか――な」
言い知れぬ不安を感じながら。