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第3章 混乱

第1話

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 帰ってくるなり、ノノの様子がおかしかった。


 いつもの元気はどこへ消えてしまったのか、何か言葉を口にしようとしては閉じ、閉じては開いてを繰り返す。


「どうしたんだい、なにかあったのかい」

 信彦がそう声をかけても、

「……ううん、なんでもない」

 ただその繰り返し。


 その繰り返しだけでも、十分にノノの異変を感じ取れる。


 食事もそこそこにノノは風呂に入り、そのまま自分の部屋へと姿を消した。それっきり、ノノの部屋からは物音ひとつ聞こえてこない。心配になって廊下を通って何度もノノの部屋の前に立ち、聞き耳を立ててはドアをノックしようと腕を伸ばし、そしてその腕を引っ込めるのを繰り返した。


 やがて信彦は大きくため息を吐いてから、再びダイニングへと足を向けた。紅茶を入れ、いつものようにベランダの小さな椅子に腰かける。傍らのテーブルに置いたラジオをつけると、流れてきたのはまたしてもあのニュースだった。


『本日夕刻、再び凄惨な殺人事件が発生しました。先日、全裸の男性の遺体が発見された安芸坂南地区五番街の橋のたもとで、今度は若い女性のバラバラに切断された遺体が発見されました。遺体の一部には数字の“11”と思われる字が残されており、同一犯による犯行か、あるいは模倣犯による犯行かは現在のところ不明です。現場を去る人影を見たという情報が多く寄せられており、現在安芸坂地区警備局は本庁との合同捜査本部にて、犯人の行方を特定するべく百人の捜査員と共に広く情報を――』


「――パパ」


 ノノの声に、信彦は咄嗟にラジオの電源を落とした。


 慌てながらノノに顔を向け、

「ど、どうしたんだい、ノノ」


 ノノはやはりどこか落ち込んだような様子で、そっと信彦に小さな箱を差し出す。


 綺麗にラッピングされたその箱には、商店街の文房具屋の印が押されていた。


「……いつもありがとう。これ、パパへのプレゼントだよ」


「あ、あぁ、ありがとう、ノノ」


 そういえば先日、誕生日プレゼントのお返しがしたいと言っていたっけ。


 信彦がノノの手から小さな箱を受け取って開くと、そこには青と白のグラデーション模様の万年筆が一本、収められていた。


 しかし、ノノに与えているお小遣いで買えるような代物とは思えない。といって、まさかノノが万引きをしたとも思えなかった。ラッピングされていたのがその証拠といっても良いだろう。最も考えられるのは、友達にお金を借りた可能性――恐らくノノと一番仲良くしてくれている京都葵あたりがお金を出してくれたのではないだろうか。だとしたら、今度会ったときにちゃんとお礼を言っておかなければならないな……


 信彦はにっこりと微笑み、再びノノに顔を向ける。


「――ありがとう、ノノ。嬉しいよ」


「……うん、なら、よかった」


 ノノも、ぎこちない笑顔でそう口にした。


 ……これは。


 信彦はそんなノノの偽りの笑顔に、これまで忘れようとしていた過去を思い出す。


 手の中にある万年筆を握り締め、忘れようとしていた過去を、今、この万年筆でぐちゃぐちゃに塗り潰してなかったことにしたくてたまらなかった。今目の前に立つノノは、このノノは――ノノであって、ノノではない。これまで育ててきた我が子ではない。別のノノに戻ろうとしてる。しかし、それを信彦は決して認めることができなかった。


 そんなはずは――ない。


 あの頃のノノは――確かに――あの日に――


「あのね、パパ……」


「あ、あぁ、どうしたんだい?」


 信彦は、思わず身構える。


 脳裏によぎる不安を払しょくするように、大きな動きで、ノノに顔を向けた。


 ノノはそこで再び口を閉じ、小さく息を震わせた。


 その目には、涙が浮かんでいた。


 ――あぁ、そんなはずは、ない。


 信彦はそんなノノの姿に、絶望する。


 ノノには、あの頃の記憶は、もう……


「……ごめんね、パパ。いつも迷惑をかけてばかりで」


「な、何を急に。迷惑だなんて、そんなこと、パパは思っていないよ……」


 ノノの様子を探るように、信彦はノノの顔を見つめる。


 そこにはもう、これまで無邪気な笑顔を浮かべていたノノの姿などどこにもなかった。


 ノノは、今にも泣き出してしまいそうなほど顔を歪める。


 ――ダメだ、ノノ。


 信彦の目にも、涙が浮かぶ。


 ――それ以上、思い出してはいけない。


「あのね、パパ」


 ノノはすっと信彦の腕に両手を伸ばした。


 信彦は一瞬、ノノの手に身を引いたが、すぐにその手を受け入れる。


「――今まで、ありがとう」


 その瞬間、信彦は息を飲んだ。


「――ノノっ」


 刹那、ノノの姿は消えていた。


 一陣の風だけをそこに残して、その姿はどこにもなかった。


 信彦は目を大きく見開き、立ち上がる。


「――ノノ! ノノ!」


 そして、叫んだ。

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