――気がつくと、窓の外では雪が降りはじめていた。
『音なんてしないと思ってるだけで、この静けさが雪の降る音なんだよ』
そう話す横顔は、灰色の雲が落とす白い雪に照らされて濃い影をつくり、いつもの不思議な色をした瞳を長い睫毛が暗く翳らせていた。
――何かあった?
あの時、そう声を掛けるのを躊躇ってしまった。
私はそのことを、いつも、後悔していた。
*
「あ、ユフィールお嬢様、見えてきましたよ!」
侍女の嬉しそうに弾む声を聞き、眠りに落ちそうなのを引き戻された。いや、眠っていたかもしれない。
何か、夢を見ていた気がする。
ぼんやりする頭をひとつ振り、侍女のはしゃぐ声に視線を窓の外へ向けた。
「やっと到着したわね」
見えてきたのは、丘を取り囲むように密集するオレンジ色の屋根の家々、それらを見下ろすように聳え建つ王城、青い空に飛び立つ白い鳥の影。遠くから教会の低い鐘の音が聞こえる。
まだ外門をくぐっていないというのに、街の喧騒が聞こえてきそうだ。
「わたし、王都って初めてなんです!」
興奮を隠しきれず窓にへばりつく彼女の姿に、自然と笑顔になる。
「アナ、屋敷のみんなに随分色々頼まれていたわね」
「はい! 責任持って買い物に行かねばなりません!」
「ふふっ、大変ね」
「がんばります!」
私の婚約者、侯爵家嫡男のアレク・フォン・フューリッヒ様の騎士学校卒業と成人を祝う祝賀会に参加するため、遠い田舎の領地からここ王都へやって来た。
領地から七日もかかる旅程だけれど、アレク様が立派な馬車を用意してくれたおかげで、思っていたよりも遥かに快適な旅だった。途中で宿泊した街も全て宿が手配されていたし、郷土料理を楽しんだり景色も楽しめて、とてもいい旅だった。
(……いよいよ、顔を合わせるのだわ)
七年前、当時十八歳だった私に突如舞い込んできた侯爵家嫡男アレク様からの婚約の申し込み。
それは、細々と領地を守り暮らしていた田舎の子爵家に激震を走らせた。
しかも当時、アレク様は若干十一歳。
一体どこで知り合ったのか、なぜ私なのか、憶測が憶測を呼びあらぬ噂まで立てられ、当時、それはちょっとした騒ぎとなった。
もちろん田舎に引っ込みろくに社交を行っていなかった私が王都の侯爵家の子息と知り合えるはずもなく、私含め両親も混乱のうちに王都に招かれ、私はアレク様と婚約式で初めて顔を合わせた。
『はじめまして、ユフィール嬢。突然の申し込み、驚かれたことと思います』
初めて会った幼さの残る顔立ちの少年は、銀色の髪にエメラルドのような瞳をキラキラと輝かせ、目許を赤く染めてまっすぐに私を見つめた。
その瞳の内包する熱に当てられたように、私も顔が熱くなった。
『はじめまして、ですわね』
『はい』
『私がアレク様とお会いしたことを忘れているのかと、心配していました』
そう言うと、彼は少しだけ困ったように眉尻を下げ微笑んだ。
『困らせるようなことをしてしまい申し訳ありません。ユフィール嬢は何も……忘れたりなどしていません。これは全て、僕のわがままなんです』
『わがまま?』
『はい。――でも、ありがとう。申し込みを受け入れてくれて、本当に嬉しいです』
そう言ってはにかんだアレク様に、私も忘れ嬉しかった。彼の姿を見て、私との婚約を心から望んでくれたのだと感じたから。
『あの、なぜ会ったこともない私なのでしょうか?』
そう聞くと、彼は少しだけ顔を伏せた。長い睫毛が白皙の肌に影を落とす。
『それは、もう少し待ってもらえますか。僕が……僕が成人したら、必ずお話します』
聞きたいことは色々あったけれど、彼のまっすぐで強く美しい瞳に、私はそれ以上聞くのを止めた。
『……約束ですよ』
『はい、約束です』
そう微笑み合ってすぐ、アレク様は全寮制の騎士学校へ入学した。
それから七年。私たちは一度も顔を合わせることなく、穏やかに手紙の交流だけを続けてきた。
「間もなく王都へ入ります」
コンコン、とノックされ窓の外を見ると、道中ずっと付き添ってくれた騎士が馬を並走させこちらを覗いていた。騎士の示す方向へ視線を向けると、道の先に大きな外門が聳え、王都へ入るための行列ができている。
「いよいよ婚約者様にお会いできますね」
同じように窓の外を見ていたアナが声を弾ませた。
「そうね。……なんだか緊張するわ」
「お手紙も絶やさず送られてきたんですもの、きっと婚約者様もお嬢様にお会いするのを楽しみにしていますよ!」
「そうだと嬉しいわ」
(お会いした時は私とあまり変わらない身長だったけれど、きっと身長も高くなったのでしょうね)
アレク様は騎士学校を首席で卒業したと聞いている。卒業生を代表して騎士の宝剣を授与されるのだと手紙に書いていた。
ぜひ、私に見に来てほしいと。
(……卒業式だなんて)
こんなことで婚約者との年齢差を感じてしまう。なんだか、婚約者としてと言うよりは保護者のような、姉のような気持ちになるのだ。
そして、手紙でしかやりとりをしていなかったとは言え、あの優しい手紙を送ってくれていた少年がいつの間にか大人になろうとしているのだから、なんだか不思議な気持ちだ。
(手紙はいつも優しくて可愛らしいのよね)
鍛錬の最中に見た小さな花や季節の変化、寮の食堂で口にした初めて食べる料理、友人たち。
アレク様のくれる手紙には、そんなささやかな日々のこと、季節の移ろいなどが書かれ、とても穏やかなものだった。少年が書く手紙にしては落ち着いていて、字も丁寧で年を追うごとに美しく変化していった。そんな手紙が届くのを、私はいつも楽しみにしていた。
(……楽しみね)
そう、会うのが楽しみだ。
周囲には私たちの年齢差を揶揄されることもあるけれど、私はこの婚約を悪く捉えたことはなかった。