夏の盛りを過ぎた王都の空には薄く雲がかかり、刷毛で引いたような雲が横に伸びている。
青々としていた街路樹は夏の暑さに疲れたように葉の色を変え、冬には赤くなる木の実が少しずつ膨らみ始めていた。
あれから私は結婚の仕度を進めるため一度実家へ戻り、およそ二か月ぶりに王都へ戻ってきた。
「ユフィール!」
ハンスの手を借りて馬車を降りると、屋敷から飛び出してきたアレク様に抱き締められる。まるで大型犬だ。
「あ、アレク様!」
「ああ、会いたかった! よかった、道中なにか不便はありませんでしたか」
「あ、ありません!」
私はいまだに人のいる前でのスキンシップに慣れない。これは前世がどうとかいう話ではなく、単純にそういうことに慣れていないだけだ。
「もう! 実家に戻ったのはたったの二か月ですよ」
「僕には一日だって長い」
アレク様は顔を上げると、少しだけ口を尖らせて私を見下ろした。
だから! そのお顔でそういう甘いことをさらっと言わないで!
「し、仕方ないです、あのまま帰らないわけにはいかなかったのだし」
「それはわかってますけど。でも次は必ず僕も一緒に行きますから」
「ええ、もちろん! 家族も喜びます」
六月に学園を卒業したアレク様はその後すぐ、異例の早さで近衛隊に配属となった。
私を拉致したボルド伯爵を追求するためにも、王家直轄の近衛に早く身を置いた方がいい、ということからだった。何かいろいろ進めるのに都合がいいらしい。
しばらくは忙しくなるというアレク様の言葉に、それならと私は実家に戻ることを決めたのだけれど、それはもう大騒ぎだった。
自分も行くというアレク様を何日もかけて説得し、結婚式の準備とこちらに引っ越すための準備をしたいと言って、何とか戻ることができた。
これでしばらく実家に帰ることはない。というか、帰れないだろう。
「アレク様、お仕事は?」
「だいぶ落ち着いたので休みをもらってます」
「まあ、嬉しいわ。一緒にゆっくり過ごせますね」
「……」
(……あら?)
アレク様の目許が赤くなった。また何か変なことを言っただろうか。
ハンスは小さく咳ばらいをすると、私の荷物を屋敷へ運び込むため、アナと一緒に先を行く。そんな彼らにアレク様が声を掛けた。
「ハンス、アナ、彼女の部屋は僕の部屋の隣だから、荷物はそこへ」
「えっ!?」
その言葉に驚いて顔を見上げると、アレク様はいい笑顔で私を見下ろし口端を上げた。
「夫婦の部屋です。貴女のいない間に準備したんだ、気に入ってくれるといいな」
そう言って私の手を取り、ちゅっと指先に口付けを落とす。その言葉と表情にいろいろな意味を含んでいるのを感じ取り、顔が熱くなった。
「それから、貴女の希望していたお茶会ですが、本当に明日で大丈夫ですか? 疲れてない?」
「大丈夫です。それよりも、アレク様のお手を煩わせてごめんなさい」
「とんでもない! ユフィールの的確な指示で、使用人たちも迷いなく準備ができましたから」
「それはよかったわ」
私が拉致されたあの日、アレク様の声に応え共に救出してくれたご友人方に礼をしたいとお茶会を開くことにした。
全員が揃う時間を取るのが難しく、しかも私も実家に戻ってしまい時間が経ってしまったけれど、アレク様が間を取り持ち準備を進めてくれた。
細かな手紙のやりとりで細部を決めるのは中々大変だったけれど、アレク様の分かりやすくまとまった文章は遠方にいる私でも様子が分かり、とても助かった。さすが、優秀な成績を収めて卒業されたことはある。
「……そうだわ」
「なんです?」
私を見下ろすアレク様を見上げる。不思議そうに首を傾げるお姿が美しい。そうだ、この人はとても美しい人だった。また顔が熱くなる。なんだか胸もドキドキして落ち着かない。
「や、約束です」
「約束?」
「小説の」
そう言うとなんのことかすぐに察したのか、彼はふいっと横を向いた。
「アレク様?」
「そう言えば、明日のお茶菓子について相談したいと侍女長が言っていました」
「アレク様! 覚えてますね?」
グイッとその腕を引っ張ると、目許を赤く染めた彼は目を細め私を見下ろした。
「ユフィールは?」
「え?」
「結局、見せてくれるんですか?」
「あ」
そうだ、私も見せるんだったかしら……、あら? どうだっけ?
「……覚えてま、せん?」
「えー! ずるいなぁ!」
「だって本当に覚えてないんです!」
あはは! と声を上げて笑うアレク様はぎゅうっと私を抱きしめ、頭頂部に口付けを落とした。
(だから! 突然のそういう甘い仕草はまだ慣れてないんです!)
顔を赤くして慌てる私を見下ろし、アレク様はますます笑みを深め、宥めるように私の背中を撫でて囁いた。
「大丈夫、一緒に過ごせばすぐに慣れますよ」
え、何に?
「ユフィールお姉さま」
いろいろと混乱していると、入口から声を掛けられ、見るとそこにはチェックのスカートにジャケットを着たサーシャ様が立っていた。
慌ててアレク様の胸を押すと、なぜか益々腕の力を強めるアレク様。どうして?
そんな私たちを見てサーシャ様はクスクスと笑った。
「あ、あの、サーシャ様、ご無沙汰しております」
そんな挨拶をしたってアレク様に抱きしめられたままでは格好がつかない。
ああもう、恥ずかしい!
「それは新しい学園の制服ですね、とても素敵だわ」
「ありがとう」
頬を染め恥ずかしそうに俯くサーシャ様は、もじもじと俯いた。
彼女はあの後、規律の厳しい学園に入学が決まりこの秋から通うことになった。それは本人の意志でもあったのだと、アレク様からの手紙で聞かされていた。
「今日、仕立て終わったばかりなの」
「本当にとてもお似合いですよ」
「ありがとう。貴女も、とても素敵なドレスだわ」
「まあ、ありがとうございます」
(それはもう、気を付けたので……!)
ここに来た時の自分の緩い姿を顧みて、服装には気を付けたのだ。身体を締め付けるコルセットを楽なものにしつつ、見劣りしないドレス。アナが前世の知識をフル活用して張り切って用意してくれた。
サーシャ様はふうん、と言いながら私をじっくりと観察する。なんだか緊張して、思わずゴクリと息を呑んだ。
「合格ってところかしら」
「まあ! サーシャ様に合格がもらえたらもう大丈夫ね」
おおげさね、と笑うサーシャ様に安心する。
これでも本当に気になっていたのだ。合格点をもらいホッと息を吐く。
「今度は私にもドレスを選ばせてもらいたいわ」
「もちろんです。ぜひ一緒に仕立てに行きましょう」
サーシャ様は嬉しそうに頬を染め笑うと、アレク様にもにこりと笑顔を見せた。なんだか年相応の落ち着きを取り戻した彼女の姿に、心がソワソワと嬉しくなる。
「私、お友達と制服を見せ合う約束をしているの。これで失礼するわね」
サーシャ様はそう言って屋敷の前に待機させていた馬車に侍女と共に乗り込み、出かけて行った。
「明るくなりましたね」
「ええ、本当に」
走り去る馬車を見送り、私たちは目を合わせふふっと笑いあった。
*
「ライアン様!」
「マクローリー嬢、ご無沙汰しております」
翌日、侯爵家の中庭に立つサンルームで小さなお茶会を開いた。
小さな、とは言ってもさすが侯爵家、中々豪勢なものだ。
美しく飾り付けたテーブルには先に到着していたご友人たちが婚約者や奥様を連れてすでに席に着いている。ライアン様の姿を見て、皆嬉しそうに手を挙げ挨拶を交わした。
「ご無沙汰しております。この度は本当にありがとうございました。お礼が遅くなってしまい申し訳ありません」
「とんでもない! 本当にご無事で何よりでした。それに、あの状況でも冷静な判断をしたマクローリー嬢に俺は感銘を受けたんですよ」
「まあ、大げさだわ! でも、わかっていただけて本当によかったわ。ライアン様のお陰です」
「いやあ、もしあそこでしくじっていたら、俺は今ここに存在していないでしょう」
アレク様を見ながら肩を竦めるライアン様に、ふふっと笑いが漏れる。アレク様は目を眇めながらライアン様に手を差し出し握手を交わした。
ライアン様はあの後、辺境には戻らず王都の騎士隊に配属されることになった。あの日の活躍と研鑽を積みたいという本人の意志で推薦してもらったらしい。ご実家にはその後戻っても問題ないとおおらかに笑った。
「今日はどうぞ、ご友人とゆっくりお過ごしくださいね」
「ありがとう、そうさせていただきます」
(そう言えば、ライアン様も前世でアレク様と繋がりのあった方なのかしら)
目の前でニコニコと笑うライアン様をじっと見つめる。私にもアレク様みたいに、この人の前世は誰か、なんてわかる能力はないのかしら。アレク様に聞いても、何のタイミングでどうしてわかるのか、ご自分でもわからないと言っていた。ただなんとなく、そうだと確信するらしい。ちなみにアナのことはお姉様だとわかった今でも、観察しても何もわからないらしい。
それはアナも言っていた。不思議だわ。
「……レディ、そんなに見つめられると俺の命が危ないのですが」
「えっ?」
「ライアン、もういいだろう」
低い声で牽制するようにアレク様が私の肩を抱き引き寄せた。
「いや、俺なにもしてねえだろ!」
「うるさい、座れ」
(本当に仲がいいのね)
別に、生まれ変わりではなくてもいいのかもしれない。記憶があってもなくても関係なく、彼らは今、関係を築いているのだ。
ハンスに前世の記憶があるのかわからないけれど、別にそれは確認する必要もなく彼は今もアレク様のもとで騎士として働いているし、侯爵閣下は記憶がなくても夫人と恋に落ちて結婚し、アレク様とサーシャ様が生まれた。
きっと、それでいいのだ。
「ところで、今日はレディの侍女はいらっしゃいますか?」
ライアン様がキョロキョロと辺りを見渡した。
「あら、アナですか? ええ、もちろん……、アナ?」
振り返ると少し離れた場所で鉢植えに身を隠すようにアナが立っている。名を呼ばれ、肩をビクリと震わせた。
「アナ、と言うんですね。彼女のお陰であの日はとても助かりました。ご挨拶をさせてください」
「ええ、もちろん」
呼ぼうとするのをやんわり遮られ、ライアン様は自らアナへ近づき声をかけた。
会話は聞こえないけれど、彼を見上げるアナの頬がみるみる赤くなっていくのを見て、アレク様と顔を見合わせた。
(あら……)
なんだかロマンス小説みたいだな、と頭の片隅で思いながら、私の肩を抱くアレク様を見上げる。
アレク様もなんだか嬉しそうな、それでいて少しくすぐったいようなお顔をして、二人を見つめていた。
*
――そしていつの日からか、夢は見なくなった。
アレク様ももう、あの日々のことを口にしない。
彼らは確かに私たちだったけれど、今の私たちとは違う人生を歩んだ人たちだ。
今の私たちは彼らを大切に胸に抱き、彼らの想いと溶け合って私たちの人生を歩む。
あの辛かった思いを救われて、私たちはきっと、彼らから私たちに生まれ変わったのだ。
「――ユフ、行きましょう」
そう言って笑う目の前のアレク様に、あの愛しかった日々の中に息づく高槻レンの面影を感じながら、私は今、彼のすべてを心から愛し慈しむ。
前世では描けなかった美しい未来を、二人で共に歩むために。
『――ゆふセンセ!』
――愛しい君が、どうか幸せになれますように。
私はそれを、心から願ってる。
これからも、ずっと。