灰色の空を見上げると、どこか遠い世界を眺めているような気分になる。それは、私がこの孤児院で過ごす日々が、いつかは終わることを夢見ているからなのかもしれない。
私の名前はノイン。もっとも、これは私が生まれたときからの名前ではない。幼い頃の記憶がほとんどなく、気がついたらこの孤児院の薄暗い廊下に座り込んでいた。そのとき院長先生が言った。「この子が……九番目、ね」。それが始まりだった。
孤児院の子供たちはそれぞれ番号を与えられていた。赤ん坊の頃に捨てられた子供や、親が何らかの理由で育てられなくなった子供たちが集まるこの場所では、一度にたくさんの子供を管理しなければならない。名前を与えるよりも先に番号を付けるのは、いかにも業務的であり、同時に冷たさも感じられる仕組みだった。その九番目として登録された私には、しばらくの間「九番」としか呼び名がなかった。
――しかし、院長は言ったのだ。
「この子に“ノイン”と名を付けよう。『9』という意味だ。今は名前を思い出せないようだし、せめて私たちが呼びやすいものにしてあげよう。」
こうして私は「ノイン」という名で呼ばれるようになった。はたして名付ける側にとってどれほどの愛情があったのかはわからない。ただ「番号」だけの味気ない呼び方よりは多少ましだろう、と院長が判断しただけかもしれない。その真意は知らないし、院長に聞いたところで答えてくれるかどうかすら怪しいが、それでも私は「ノイン」という名前を自分のものとして受け入れるしかなかった。
孤児院の生活は厳しい。衣食住は最低限しか与えられず、物心がつく頃から何かしらの役目をこなさなければ食事の量すら減らされる。子供たちは皆、自分の生存をかけて必死だ。だからこそ、少しでも院長やシスターたちに目をかけてもらえるように、競争が生まれる。力の弱い子や身体の小さい子は、いつも虐げられるのが当たり前だった。
私もまた、そんな立場のひとり。特に、同年代の男の子たちにはよく狙われた。私が小さかった頃は、男の子に勝つ体力もなく、抵抗すればするほど面白がられてしまう。だから、いつの間にか抵抗することをやめ、いじめにじっと耐えるだけになっていた。
それでも心のどこかでは、「いつか、こんな生活から抜け出せる日が来るのではないか」と期待していた。外の世界は広く、そして孤児院以外にもいろいろな場所があるらしい。町にはたくさんの人々が暮らしていて、お店もあれば大きなお城もあるという。そんな話を、たまに院長が教えてくれることがあるのだ。「外の世界は厳しいが、ここよりも自由さはある」と。
私には記憶がない。両親の顔はもちろん、自分がどこから来たのかもわからない。孤児院にくる子供の多くは、どこかで親を失った記憶を持ち、その悲しみを抱えている。だが、私は「親がいた」ことすらピンとこないのだから、悲しみも湧いてこない。だからこそ、外の世界への漠然とした憧れだけを抱いて毎日を過ごしていた。
孤児院には、私より年上の少女が二人いた。どちらも10代半ばに差し掛かるころで、院の中では古参の部類に入る。しかし、彼女たちは私と遊んでくれるどころか、「あんたなんていなくてもいいのよ」と冷たい態度を取るばかり。ある日、そのひとりが私に言い放った。
「ノイン、あんた番号だけの子なんでしょう? もっとマシな名前がある子はみんな、ここから養子にいくのよ。あんたは運が悪いわね。」
まるで呪いの言葉だった。実際、周囲を見ても可愛らしい名前をもらっている子は、地域の商人や農家、あるいは子供のいない夫婦に引き取られていく。ところが、私はこの数年ずっとここにいる。同世代の子供が次々と引き取られていくのを見送りながら、「誰も私を求めてくれないんだ」と自覚していく日々は、悲しくもあったが、いつしか諦めにも似た淡々とした気持ちに変わっていった。
そうして私は、孤児院の中でいちばん下っ端のような扱いを受けていた。劣悪な待遇というほどではないものの、ご飯の配給が少しだけ少なかったり、他の子が持っているような温かい上着を私だけ持っていなかったり……。それでも、院長やシスターがそこまで悲惨な状況に放置しているわけではない。小さな毛布くらいはあるし、最低限の食事は与えられる。けれど、孤児院では皆がギリギリの生活をしているため、力や要領のいい子に食料や生活用品がどんどん回っていき、私のところには残り物しか届かないのだ。
そんな日々だったが、ある日の朝、いつものようにシスターの呼びかけで子供たちがホールに集められたとき、私は少しだけ奇妙な空気を感じた。なにやら大人たちがざわついている。男性の声が聞こえるので、誰か貴族が来ているのだろうというのはすぐにわかった。
孤児院には、たまに寄付をするために貴族や商人が訪れることがある。冬が始まる前に毛布を持ってきてくれたり、年に一度のお祭り前にお菓子を配ってくれたり。そんなときは決まってみんな、玄関ホールに整列して頭を下げるのが習わしだった。だから、私も他の子供たちと同じようにそれをしなければならない。たとえ相手に何かを期待できなくても、礼儀作法の訓練だとシスターは言う。
そこで私は聞いた。
「今日はどんな方が来ているんですか……?」
私の小さな声はシスターに届いたらしく、彼女はちらりと私を見て短く答えた。
「伯爵様です。……失礼のないように、ね。」
伯爵様。孤児院を訪れる方の中でも、伯爵はかなりの高貴な身分だ。大抵は地域の下級貴族や商人だったから、伯爵の来訪は年に一度あるかないかだろう。もしかすると、何か大きな寄付をしてくれるのかもしれない。周囲の子供たちにも期待感が広がる。
――そんな中、私は違和感を覚えた。ホールの入口に立つシスターと、奥の部屋へ案内される伯爵と思しき男性と、その側仕えだろうか、若い女性が見える。その伯爵は初老に近い年齢だが、品のいいスーツを身につけ、貴族らしく姿勢が美しい。貴族様といえば、皆そうした気品を漂わせているものだ。
ただ、伯爵は薄く微笑みながらも、どこか思案げな様子を見せていた。連れの若い女性のほうが、意気揚々と先を歩いているように見える。彼女はおそらくメイドか侍女なのだろうが、その女性がじろりとこちらを見る。そのとき、視線が合った私の胸はぎゅっと締まるような痛みを覚えた。
「……あの子?」
唇の動きだけでそう言っていたように見えた。
私は慌てて目をそらし、他の子供たちの後ろへ回り込む。こんな私に注目されるはずがない。だから、勘違いだろう――そう思いたかった。
やがて伯爵と侍女は院長室へ向かっていき、孤児たちはホールに取り残される。突然の来訪にわずかに混乱していたが、年長の少年たちは「寄付に来たんだろ」「もしかしたら誰かが引き取られるかもな」などとひそひそ話を始めた。私には関係ない話だ。すでに何年も引き取り手がいないのだ。今さら貴族に選ばれるなど、そんなご都合のいい話があるわけもない。
――しかし、その日は違った。
しばらくして、院長の声が孤児院の全体に響く。ホールから続く階段を降りてきた院長は、子供たちを上から見下ろして、息をつくように言った。
「皆、聞いておくれ。……このたび、エドラー伯爵家からお話があって……うちの孤児をひとり、養女として迎えたいとのことだ。伯爵様から選びたいと仰せなので、皆、失礼がないように振る舞うように。」
たちまち孤児たちの間にさざめきが走る。誰が選ばれるのか。どんな基準なのか。もし選ばれれば、こんな孤児院を出られるのだから、夢のような話だ。伯爵家ともなれば、育てられる環境も段違いにいいはずだ。暖かい食事とベッド、綺麗な服、もしかしたら立派な勉強もさせてもらえるかもしれない。そんな甘い期待が子供たちの胸を膨らませる。
だが、私はどうせ自分が選ばれるわけがないとわかっていた。選ばれる子供は美しく、愛嬌があり、そしてある程度の年齢に達していなければならない。私は容姿に自信があるわけでもなく、積極的におしゃべりができるわけでもない。孤児院の中でも“みそっかす”と呼ばれているのだ。伯爵家の目に止まるなんてありえない。私は、胸のうちで「ああ、そっか」と、ほんの少しだけ残念に思いながら、そう諦めた。
ところが、その日院長に呼び出されたのは……なんと私だった。院長室の扉を叩き、重々しい返事を待って中へ入ると、伯爵と侍女が椅子に腰かけ、私を上から下まで値踏みするように見つめていた。視線が肌に突き刺さり、気分が悪くなる。それでも私は、失礼がないようにと必死に頭を下げた。何がなんだかわからない。
伯爵はメガネの奥の目でじっと私の顔を見ている。まるで「本当にこの子でいいのか?」と自問しているようにも見えた。一方で侍女の女性――まだ若く、20代前半くらいか――は、どこか満足げな表情を浮かべている。まるで「この子ならば文句あるまい」と言わんばかりの雰囲気だ。
院長が困惑まじりに口を開く。
「……本当に、この子でよろしいのですか? もっと年上の少女もおりますし、明るくて元気な子も……」
伯爵は静かに首を振った。
「いや、この子でいい。ノイン……とか言ったな? それが名か?」
「は、はい。私、ノインと呼ばれています……」
情けない声が自分でもわかる。第一印象は最悪だろう。でも仕方ない。伯爵のような身分の高い人物に見つめられているだけで、緊張して足が震えてしまう。
「ノイン。それが気に食わないというわけじゃないが……まあ、養女になるのならば、もう少し名の響きも考えてみようか。……とにかく、あとはよろしく頼むよ、院長殿。」
伯爵はそれだけ言うと、椅子から立ち上がり、侍女に向かって「もう行くぞ」と声をかける。侍女は深く一礼し、伯爵に寄り添うようにしてドアへ向かう。院長は慌てて伯爵を見送るために後を追った。
室内には、ぽつんと私だけが残された。立ちすくむ私の頭の中には、「なぜ私が選ばれたのか」という疑問でいっぱいだった。伯爵家が“気まぐれ”に選んだだけなのか、或いは何かの間違いなのか……。いずれにせよ、これで私の孤児院生活が終わるのかもしれないと思うと、心のどこかで安堵する気持ちもあった。
――しかし、その裏でうっすらとした不安も漂う。
伯爵家に行けば、本当に温かい日々が待っているのだろうか? 私のようなみそっかす孤児が、いきなりそんな幸せを掴んでいいのだろうか……。
その後の手続きは、とんとん拍子で進められた。エドラー伯爵はやや急ぎの様子で、孤児院との「養育契約」を結び、早ければ数日中には私を迎えに来ると伝えていた。あまりに唐突で、周囲の子供たちも驚いていた。と同時に、私へのいじめや陰口が一気にエスカレートする。
「なんでノインが選ばれたんだよ! 嘘だろ!」「どうせ伯爵様もすぐ後悔するさ。そんなみそっかす連れて行っても役に立たないだろうし。」「ああ腹立つ……どうして私が選ばれないのよ!」
子供たちの小さな世界でこそ、これは「重大事」だった。なぜなら伯爵家という大貴族に養子に迎えられれば、今後の人生が大きく変わるのは火を見るより明らかだからだ。嫉妬や憎しみが渦巻いて、私の持ち物を隠したり、夜中にこっそり私の部屋に入りこんで布団をぐちゃぐちゃにされたりもした。朝起きてみると、食器棚にしまっていた私のコップが粉々に割られていたことすらある。陰湿ないじめに心が痛む。しかし、私がここを出るまでの辛抱だと思えば……なんとか耐えられた。
院長やシスターたちは「子供同士の喧嘩」とあまり深刻には受け止めていないようだった。孤児院では、いじめや小競り合いは日常茶飯事だ。いちいち止めてはいられないというのが実情なのだろう。それでも、引き取られるまであとわずかだからと、私は夜な夜な怖い思いをする毎日を過ごした。
そして、ついに私が孤児院を去る日がやってきた。伯爵の馬車が孤児院の門の前に止まったとき、誰一人見送りに来る子供はいなかった。みんな奥の部屋に引きこもってしまったり、廊下の隅でこちらを睨んでいるだけだ。院長は少し離れた場所から「元気でね」とだけ声をかけると、さっさと奥に戻ってしまう。そんなものだ。私とて今までたいした存在でもなかったから、別れを惜しむ相手などいない。
伯爵の侍女が私の手を引いて馬車に乗せてくれたが、その際にも冷たい視線を感じた。侍女は私に微笑みを向けるわけでもなく、ただの義務として動いているかのようだった。やがて、揺れる馬車の中で私がうずくまっていると、侍女がぼそりと呟く。
「あなたが噂のノイン……本当に、これでいいのかしら。」
その言い方に引っかかるものを覚えながら、私は目を伏せる。返事をしようにも何を答えていいかわからなかった。
馬車を走らせる御者は無言だ。車輪が石畳を踏む音だけが、私たちの間に響く。孤児院を出てすぐの道は、今まで掃除したこともないような広くて立派な道で、両脇には商店が並び、人々が忙しそうに往来している。普段は孤児院の庭先や裏口から少し離れた町角を遠目に眺めるだけだった私には、これほど大きな街があることが新鮮な驚きだった。
(ここが、外の世界……)
そう胸が高鳴る一方で、私は再び恐怖を感じていた。私がこれから住む伯爵家は、どれほど広い屋敷なのだろう。使用人たちはみな、きっと私を「みすぼらしい孤児」と見下してくるのではないか。そんな不安はつきまとい、決して消えることはない。
さらに言えば、なぜ私は選ばれたのか。伯爵は言った。「この子でいい」。侍女もなぜか納得した様子だった。それがどういう理由なのか、まったく見当がつかない。もしかして、養女という名目で家に仕えさせるためなのだろうか――そんな噂を昔どこかで聞いたことがある。身寄りのない子供を引き取っては、事実上の下働きとして使う貴族もいるとかいないとか。
馬車はしばらくして壮麗な門をくぐり、やがて美しい庭園を通って大きな屋敷の玄関に停まった。遠くから見てもわかるほど立派な建物だ。白亜の壁に金色の装飾が施され、玄関前には噴水まである。これが私の新しい「家」になるのだろうか……。胸の奥が、ずきりと痛む。まるで場違いなところへ来てしまったような感覚でいっぱいだった。
玄関先には、何人ものメイドと執事らしき人物が整列していて、伯爵の帰館を迎えていた。伯爵は少し面倒そうな顔をしながらも、「ただいま」と静かに言葉をかける。執事が深々と頭を下げ、侍女はそのまま私を屋敷の中へ誘導した。
廊下を進む間、私は驚きの連続だった。壁には名画が飾られ、床のカーペットは足が沈むほどふかふかだ。天井は高く、クリスタルのシャンデリアが光を反射してキラキラと輝いている。孤児院での冷たい石床や、古くなった木製のベッドしか知らない私は、ここの豪華さに圧倒されっぱなしだった。
(こんな場所……私がいていいのかな……?)
ふと、侍女が足を止めると、私を振り返り、少しばかり鋭い目つきで尋ねる。
「ノイン。あなた、挨拶はきちんとできるの?」
「……え?」
「娘として迎えられるのなら、まず当主や奥様方に挨拶をしなければならないわ。わかっているの?」
「は、はい……でも、どうやって……?」
孤児院では最低限の礼儀作法しか教わっていない。貴族の前でどう振る舞うべきかなどわかるわけもない。侍女は呆れた様子でため息をついたが、やがて思い直したように、簡単な指示をしてくれた。
「まず頭を下げ、名を名乗りなさい。そして、今日からお世話になりますと伝えるの。言葉遣いは丁寧に。短くてもいいから、失礼のないようにね。」
「わかりました……」
震える声を必死に押し殺して応じる。すぐにでも逃げ出したいような気持ちだったが、今さら孤児院に帰りたいとも思わない。どうせあちらではみそっかす扱いだ。こんなに綺麗な屋敷で暮らせるというのなら、多少の厳しさにも耐えられるかもしれない……。そう自分に言い聞かせて、私は緊張で強張る足を前に進めた。
ほどなくして、奥まった部屋の扉が開かれ、中に通される。そこには、さきほどの伯爵が優雅な椅子に腰掛けており、その隣には華やかなドレスを身にまとった貴婦人が立っていた。おそらく伯爵夫人だろう。その後ろに、私と同年代か少し上くらいの少女もいる。彼女は私を見て、小馬鹿にしたように笑っていた。きっと伯爵夫妻の娘に違いない。
私は侍女の助言を思い出し、ぎこちない動作で頭を下げた。
「は、初めまして。わ、わたし、ノインと申します。今日から……ここで、お世話になります……」
言葉が震えていた。覚えたての挨拶すらまともに口にできない。伯爵夫人はすっと目を細め、私を値踏みするように顔を左右に振る。そして、鼻で笑うかのようにこう言った。
「あら、ずいぶんと……地味な子ね。あなた、本当にうちで養女として迎えるつもりなの?」
その言葉は、私に言っているのではなく、伯爵に向けたものだった。まるで「こんな子を本当に?」と疑っているのだろう。
伯爵は小さくうなずき、夫人に目を合わせることなく答える。
「エミリア(娘)に代わる形で……ということだろう。先方――その……公爵家との縁談の話がある以上、まずは養女としてこちらに迎える形にしておかねばならん。」
公爵家? 縁談? 何の話だろう。私にはまったくわからない。ただ、私の存在がまるで“誰かの代わり”であるかのように言われているのが引っかかった。
伯爵夫人はふっと視線を私に戻し、唇を曲げて微笑んだ。
「まあいいわ。とにかく、あなたはエミリアの……妹代わり、という立場になるのね。しっかり礼儀作法を叩き込まないと恥をかくわ。私は忙しいから、基本的に使用人たちがあなたを指導することになるでしょうけど……がんばってちょうだいね、ノイン。」
優しげな口調で言っているが、その目にはまるで爬虫類を見下すような冷たい光が宿っている。私は思わず身震いし、短く「はい……」とだけ答えるのが精いっぱいだった。
後ろに立つエミリアと呼ばれた少女もまた、私をあざ笑うような目つきで見つめている。彼女はたっぷりとフリルのついたドレスに身を包み、金色に輝く髪をゆるやかなカールにまとめていた。透き通るような肌に紅をさした頬が美しく、きっと「貴族のお嬢様」と呼ぶにふさわしい。そんな彼女が私の存在を憎々しそうに眺めているのは、なぜだろうか。
「……お父様、私、こんな子と本当に姉妹なんて御免だわ。恥ずかしくて友達に紹介もできない。孤児なんて穢らわしいし。」
軽蔑を隠そうともせず、あからさまに軽んじる言葉を吐き捨てるエミリア。私は心が冷たく凍るようだった。伯爵は苦々しげに顔をしかめたが、特に叱る様子はない。エミリアが一歩足を踏み出すと、私の肩を乱暴に押して嘲笑った。
「大人しくしてなさいよ。うちの家名に泥を塗るような真似はしないで。いいわね?」
「……はい。」
私にできることは、俯きながら返事をすることだけ。孤児院でいじめられていたのと同じような構図だが、ここではさらに相手が「貴族のお嬢様」なのだから、抵抗など考えることも許されないだろう。
すると、伯爵夫人がエミリアを制するように言った。
「エミリア、そんな言い方はしなくてよ。……ノインもまだ若いし、慣れないだけなんだから。使用人たちに礼儀作法を叩き込ませるわ。そのうち、あなたの役に立つときが来るかもしれないじゃない。」
エミリアは納得していない様子だったが、「わかったわよ」と投げやりにつぶやいて、その場を去っていく。伯爵夫人もそれを追うように部屋を出るとき、ちらりと私を見て意味深な笑みを浮かべた。何か企んでいるような、その笑顔。私の胸に嫌な予感が広がる。
結局、その日は軽く屋敷の中を案内されただけで終わった。どの使用人も、私に対して好意的というわけではなく、「また厄介な子が来た」という雰囲気を隠そうともしない。中には明らかに嫌悪感をむき出しにする者もいた。そりゃそうだろう。孤児院から突然現れた娘が、伯爵の“養女”という名目でやって来たのだ。自分たちが仕えているご主人様の思惑がどこにあるのか、彼らも探っているのかもしれない。
侍女のひとりが、私の寝室になる部屋へ案内してくれた。そこは、屋敷の中でも使用人部屋に近い区画にあり、こぢんまりとした狭い部屋だった。けれども、孤児院で寝起きしていた部屋よりは数倍も綺麗で、ベッドも羽毛布団がかけられている。私にとっては贅沢な空間だ。
「ここが、あなたの部屋よ。……エミリアお嬢様には近づかないほうがいいわね。あの方、気に障るとすぐに怒鳴るから。」
侍女は気まずそうにそう言うと、深くため息をついた。私が「はい……」と大人しく答えると、彼女は小さくうなずいてドアを閉める。
ひとりきりになった私は、そのままベッドに腰を下ろした。すべてが一日の出来事だったことが信じられない。孤児院でのいじめ、伯爵家での冷たい視線、そして唐突に引き取られた理由のわからない養女という立場――何もかもが不安の種になりそうだ。
(でも、ここでしっかり立ち振る舞えば……ちゃんとした食事や暖かい部屋で寝起きできるのよね)
そう自分に言い聞かせる。貴族の世界に入ることができれば、これまでとは違う人生が開けるかもしれない。そこに微かな期待を抱きながら、私は布団の柔らかさに身を委ねた。
――まるで、嘘のように柔らかい。孤児院の薄い毛布とは雲泥の差だ。こんな贅沢を、私が味わっていいのだろうか。そんな罪悪感さえ覚える。
このとき私はまだ知らなかった。私が「エミリアの身代わり」として、ある公爵家に差し出されるために、ここに連れてこられたのだということを。まさか、この先にもっと過酷ないじめと、運命を大きく左右する出来事が待ち受けているなど、想像すらできなかった。
そして、この伯爵家が、結局のところ私にとって“安らぎ”とは程遠い場所になるということも……。
孤児院を出るまでは、みそっかすのように扱われていても、まだ気楽だったのかもしれない。仲間同士のいじめは当たり前であっても、外の世界の複雑な事情などなかったから。だが、貴族社会での“養女”は、想像を絶するほどの軋轢の渦中に放り込まれる立場なのだろう。
心細さを紛らわせるために毛布を強く握りしめる。夜の闇が訪れるとともに、私は眠れるかどうかわからないまま、初めての貴族屋敷での夜を迎えた。
――これが、本当に私の新しい生活になるのだろうか。孤児院よりはマシなのか、それともあまり変わらないのか。誰も、そんな疑問に答えてはくれない。
ただひとつだけ確かなのは、私はもう引き返せないということ。孤児院で見送ってくれる人もいない。もう私は、ここで生きるしかないのだ……。
窓からは、薄暗い月の光が差し込んでいた。孤児院の庭から見上げる空とは違って、まるで別の世界の夜空のように見える。あの灰色の空の向こう側に、もし私の知らない“居場所”があるのなら、いつか見つけられたらいい。そんな漠然とした願いを抱きながら、私はそっと瞼を閉じる。
その先に待つのは光か、闇か。それさえわからないまま、私は静かに眠りへと落ちていった。