5-1 触れられる手のぬくもり
「うっ……く……!」
執務室の奥、書類が整然と積み上げられた大きな机に両手を突きながら、フェルディナンド公爵は額から汗をにじませていた。
その背中がいつもよりわずかに震えていることに、ノインはすぐに異変を察した。
「閣下、大丈夫ですか……!?」
駆け寄ったノインの声に、フェルディナンドは無言で手を上げて制す。
「……すまない。平気だ……ほんの一瞬……頭が、締めつけられるような感覚があっただけだ……。」
そう言いながらも、手に力が入っていないことは明らかだった。
近ごろ、公爵の呪いに“変化”が出てきていた。
角の一部がわずかに欠けて薄くなっていたり、鱗の模様が小さくなったり――まるで、何かが溶けていくように。
だが同時に、それを打ち消すかのような反動も出ていた。高熱、頭痛、筋肉の痙攣。呪いが弱まる一方で、その“核”があらがっているように感じられた。
「昨日の夜も、眠れていなかったのでは……」
心配するノインに、フェルディナンドはちらと視線を寄越す。金色の瞳はうっすらと濁り、疲労の色を帯びていた。
「……夢を見た。ずっと昔の……父が呪いで苦しんでいた頃の記憶だ。あの頃、わたしはまだ幼くて……何もできなかった。」
ぽつりと漏れるように紡がれた言葉。
ノインはその言葉の重みを受け止めながら、そっと机の横に膝をついた。
「……今、わたしがいます。」
そう言って、彼の手に自分の手を添える。
ザラリとした鱗の感触は確かにあるのに、その奥に感じる温度は、人のそれと変わらない。
「少しだけ……癒しの力を流してみますね。」
ノインの掌がほんのりと温かくなり、淡い金色の光が彼女の指先からあふれ出す。
微弱な力ではあるが、それでも以前より明らかに“効いている”のがわかった。
「……ふ……ふしぎだな。お前の手に触れていると、こうして……痛みが引いていく。」
フェルディナンドが目を閉じると、その呼吸がわずかに深く、穏やかになった。
その顔を見て、ノインはほっと息をつく。
「もっと、強くなりたいです」
小さな声でつぶやくノインに、公爵は瞼を開けた。
「お前はもう十分に……」
「いいえ。だって……」ノインはきゅっと彼の手を握る。「閣下が“苦しんでいる姿”を見るのが、一番つらいんです。」
その一言に、公爵は目を見開いた。
普段なら決して動じないはずの男が、戸惑い、言葉を失っている。
ノインは俯いたまま続けた。
「……わたし、閣下がどんな姿でも、好きです。角があっても、鱗があっても、化け物なんかじゃありません。」
「ノイン……」
「でも、もし……もし呪いが解けて、苦しみから解放されるのなら……それを見届けたいんです、わたしの手で。」
フェルディナンドはしばし沈黙したあと、そっとノインの手を包み込むように握った。
大きな掌は、どこかぎこちない。それは“誰かに触れる”ことに慣れていない証。
「お前は……変わっているな。誰もが恐れていたこの姿を、“好き”だと……」
「変わっているのは、閣下もです。呪われた外見を持ちながらも、人に優しくて、わたしを守ってくれる。」
ノインは照れ笑いを浮かべながら言う。
「――優しすぎるんですよ、公爵閣下は。」
その言葉に、フェルディナンドの表情が崩れた。
「……ノイン、呼び方を変えろ。」
「えっ……?」
「“閣下”ではなく、名前で。……フェルディナンドと。」
ノインは顔を真っ赤にし、慌てて目を泳がせた。
「そ、それは……! し、失礼にあたるのでは……」
「ならば、許可する。婚約者としての特権だ。」
公爵がどこか意地悪く微笑む。ノインは顔を手で覆いながら、かすれ声で呟いた。
「……ふぇ、フェルディナンド様……」
「……悪くないな。」
その低く落ち着いた声に、ノインの鼓動はますます高鳴っていく。
しばらくの沈黙のあと、フェルディナンドがぽつりと呟いた。
「……ノイン、お前の力で、呪いの“核”に触れてみる気はあるか?」
「核……ですか?」
「呪いの中心。その源に触れれば、一時的に呪いが暴走する可能性もある。……だが、お前の力なら、届くかもしれない。」
ノインは迷わず頷いた。
「やってみます。わたしにできることがあるなら――」
こうして、ふたりは“呪いの核”へ挑む覚悟を決める。
それは、単なる解呪ではない。“孤独”と“過去”に向き合う戦い。
そしてその先には、かつて誰も見たことのない――
「呪いの解けた公爵」と、「その隣に立つ少女」の姿があるのだと、まだ誰も知らなかった。
5-2 呪いの核との対峙
その日、屋敷の礼拝堂は静まり返っていた。
普段は人の出入りがほとんどないこの場所に、今夜だけは淡く揺らぐランタンの灯りがともっている。
ノインとフェルディナンド――ただふたりきりの、静かな儀式のために。
礼拝堂の奥には、古の時代から伝わる“解呪の祭壇”が設置されていた。
過去の記録によれば、この場所は魔力の流れが集中する特異点らしく、呪いに関する儀式を行うには最適だとされている。
「……ここが、呪いの“核”と向き合う場所なのですね。」
ノインは慎重に足を踏み入れ、白い祭壇の前で立ち止まった。
背後では、フェルディナンドが静かに見守っている。
「ここでは、わたしの魔力の中心と“核”が最も接近する。お前の力を重ねれば……きっと届くはずだ。」
ノインは頷くと、祭壇の前に進み出て両手を合わせた。
彼女の掌から、ふんわりと金色の光が漏れ始める。それはまるで祈りのように優しく、温かな魔力だった。
「……フェルディナンド様。わたし、やってみます。」
「無理はするな。危険を感じたら、すぐにやめろ。」
「はい……でも、信じてください。きっと、わたしの“気持ち”は届くはずです。」
ノインが目を閉じ、ゆっくりと深く呼吸をした瞬間だった――
ズンッ――!!
祭壇から、何か重たい“気配”が広がった。空気が一変し、温度がぐっと下がる。
ノインの足元には黒い靄のようなものが渦を巻き、まるで触れてはならないものに触れたかのような圧力が押し寄せる。
「っ……!」
呼吸が詰まりそうになるほどの負荷。それでも、ノインは手を離さなかった。
(これは……フェルディナンド様の中にある、もう一つの――心?)
それは“怒り”でもあり、“悲しみ”でもあった。
呪いの核に触れたことで、ノインは断片的な記憶を垣間見る。
――フェルディナンドが少年だった頃。
――人々から石を投げられ、「化け物」と罵られ、逃げ場もなく一人涙をこぼしていた。
――そのたびに、「自分など生まれてこなければよかった」と、心の奥で呟いていた。
(そんな……)
ノインの胸が痛くなる。
彼はずっと、“存在を否定され続けてきた”のだ。
その想いが澱のように積み重なり、呪いの核を強固なものにしていた。
「……わたしは……あなたに、そんな思いをしてほしくなかった……」
目を閉じたまま、ノインの目からぽろりと涙が落ちる。
その涙が、金色の魔力に溶け込んだ瞬間――
パァァァァッ……!
光が広がった。黒い靄が一気にかき消され、代わりに祭壇を中心として温かな光が礼拝堂全体に満ちる。
ノインの魔力が、“核”の中心にたどり着いたのだ。
《……なぜ、泣く?》
突然、頭の中に声が響いた。ノインが目を開くと、そこには――幼い少年の姿をした“もう一人のフェルディナンド”が立っていた。
《ぼくは、誰にも必要とされなかった。怖がられ、避けられ、呪われた。……生きている価値なんて、なかったんだ。》
「違う!」
ノインは思わず叫んだ。
「あなたがいたから……わたしは救われたんです! あなたが優しくしてくれて、手を伸ばしてくれたから……今のわたしがいるの!」
「あなたが“いなければよかった”なんて……そんなの、間違ってる……!!」
ノインは小さな少年の姿に駆け寄り、その手を握った。
――温かい。たしかに、そこには“心”がある。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
「出会ってくれて、ありがとう」
「あなたが、あなたでいてくれて……本当に、ありがとう……」
涙をこぼしながら、ノインは何度もそう繰り返した。
すると、少年の姿がふわりと光に溶け、消えていった。
代わりに、深く沈んでいた“呪いの核”が静かに融けていく。
それは、長い時を経てようやくほどかれる“孤独の鎖”だった。
* * *
「……ノインッ!」
意識が戻ると同時に、フェルディナンドの声が聞こえた。
彼はノインの身体をしっかりと抱きしめ、その頬に手を当てている。
「すまない……危険な目に合わせた。だが……お前のおかげで、わたしの中の“何か”が……確かに変わった。」
その瞬間だった。
フェルディナンドの角が、光の粒となって舞い上がった。
鱗もまた、一枚、また一枚と風にさらわれるように消えていく。
ノインが目を見開いたとき、そこに立っていたのは――
「……フェルディナンド、様……?」
――端正な顔立ち、なめらかな黒髪、透き通るような金の瞳。
かつて誰も見たことのない、本来のフェルディナンドの姿だった。
その姿に、ノインは言葉を失う。
どこか気品をまといながらも、優しげなその瞳は、変わらず彼女を見つめていた。
「……やっと、呪いが……解けたのですね……」
「……ああ。すべて、お前のおかげだ。ノイン……ありがとう。」
フェルディナンドはそっとノインの頬に触れ、微笑んだ。
その指先は、もう冷たくなかった。
「……これからは、もう二度とお前に恐怖を与える姿でいたくない。」
「わたしは、あなたのどんな姿も……好きです。でも……今のあなたも、すごく素敵です……」
照れくさそうに目を伏せながら、ノインは赤く染まった頬を隠す。
フェルディナンドはそんな彼女を愛おしそうに見つめ、そっと囁いた。
「……これからは、わたしの隣で、堂々と笑っていてくれ。」
「はい……!」
その声はまっすぐに礼拝堂に響き、ふたりの未来を照らす光になった。
5-3 甘やかな夜とふたりの誓い
夜の風が、やわらかい香りを運んでくる。
静まり返った屋敷の庭園で、ノインはひとり、月を見上げていた。
礼拝堂での出来事からしばらく時間が経っていたが、まだ胸の奥が熱くて、眠れなかった。
――呪いが、本当に解けた。
フェルディナンドの姿を思い出すだけで、心がざわめく。
あの角も、鱗も、金属のような皮膚も、もうない。代わりに現れたのは、凛とした美しさをまとった青年――
けれど、その瞳の優しさだけは、まったく変わらなかった。
「……ノイン」
その声に、はっと振り返る。
そこには、今の“彼”の姿――呪いが解けたフェルディナンドが、月明かりに照らされて立っていた。
漆黒の髪が夜の風に揺れ、金の瞳がまっすぐにノインを見つめている。
「眠れなかったのか?」
「……はい。なんだか、まだ夢の中にいるような気がして……」
ノインがそう答えると、フェルディナンドは微笑み、彼女の隣に腰を下ろした。
「なら、わたしも夢の中でいい。お前とこうして過ごす時間なら、夢でも悪くない。」
そのささやかな言葉に、ノインの心がまた波打った。
以前の彼なら、こんなに自然に、甘い言葉を口にすることはなかった。
けれど今は――本来の姿を取り戻し、心の呪いまで解かれた彼は、素直な気持ちを隠そうとはしない。
「……綺麗、ですね」
ノインがぽつりと呟いたのは、月のことだったのか、それとも彼のことだったのか。
フェルディナンドは黙ってノインを見つめ、やがてそっと彼女の手を取った。
「ノイン、お前には礼を言わなければならない。呪いを解いてくれたことも、わたしを信じ続けてくれたことも……」
「そんな……お礼なんて、いりません。私は、したかったからしただけで……」
「いや。お前がいなければ、わたしはきっと、自分自身を許すことなどできなかった。」
フェルディナンドの声は低く、しかし確かな熱を帯びていた。
「――だから、これからは、その手を離さない。わたしの隣にいてくれ。もう、誰にも触れさせない。」
「……っ、わたしで、いいんですか?」
ノインの目が潤む。
「……私なんか、孤児で、名前さえなかった子で……何も持っていなくて……」
「名前がなかったからこそ、お前はノインになった。お前の歩いてきた道は、全部――今のお前に、つながっている。」
そう言って、フェルディナンドはノインの頬に手を添える。
「わたしは、お前のすべてを愛している。どんな過去も、どんな不安も。……だから、これからは“幸せ”だけを重ねていこう。」
そのまま、彼はノインの額に、そっと口づけを落とした。
あたたかくて、優しい――まるで夢の中にいるような感覚。
「……ノイン。今すぐにでも、正式な婚姻の手続きを進めたい。反対する者がいれば、すべてわたしが排除する。」
「え……えぇっ!? い、いきなり結婚ですか!?」
ノインが顔を真っ赤にして慌てふためくと、フェルディナンドはふっと笑う。
「……冗談だ。少しは時間をくれてやろう」
「もう……っ、からかわないでください……!」
頬をふくらませて拗ねるノインの姿があまりにも愛らしく、フェルディナンドはつい、彼女を胸に引き寄せてしまう。
「……あぁ、でも、すぐにでも“妻”と呼びたいくらいだ」
「……だ、だめです……! まだ心の準備が……っ」
ノインが小さく抵抗しながらも、胸元に顔をうずめてきた様子に、彼は愛しさを噛みしめるように目を細めた。
風が揺れ、夜の香りがふたりを包む。
もう、孤独ではない。
もう、誰かの身代わりでもない。
ノインは、たしかに“彼にとって唯一の人”として、ここにいる。
「……フェルディナンド様」
「ん?」
「……いえ、なんでもありません。ただ……幸せです」
「それは、わたしの台詞だ。ノイン……」
そう囁いて、今度はそっと唇を重ねる。
彼女は一瞬、驚いたように目を開くが、やがて瞼を閉じて、そっと応えた。
そのキスは、契約でも、呪いでもなく――
ただひとりの女性への、深く、優しい愛の証だった。
5-4 公の場での発表と“ざまぁ”の報い
貴族たちが一堂に会する、春の社交パーティ。
王都の中央、壮麗な白亜の大広間には、煌びやかな衣装に身を包んだ貴族たちが集い、互いに笑顔を交わしていた。
だがその中に、ざわりとした緊張が走ったのは、ひと組の招かれざる――いや、予想外の客人が現れたからだった。
「まさか……」
「うそ……あれが……化け物公爵、フェルディナンド様……?」
振り返った人々の視線の先にいたのは、これまで“呪われた怪物”と噂されていた公爵――だが、そこにいたのはまるで別人。
しなやかな体躯に整った顔立ち、漆黒の髪に金の瞳。
その姿は、見る者すべての息を飲ませるほど美しかった。
その隣を歩く少女は、控えめなドレスに身を包みながらも、はにかんだ笑みを浮かべて彼の腕を取っていた。
「……ノイン……あれが、あの“みそっかす”の……?」
「うそでしょう……あんな美形の公爵と婚約してるなんて……!」
嫉妬と後悔が交錯した囁きが、大広間に満ちていく。
そして、その中でも特に青ざめていたのは――
「ノイン……あの子が……!」
伯爵夫人とその娘、エミリアだった。
二人はこの社交の場で“勝ち組”として振る舞うつもりだった。
あの忌まわしい“化け物”にノインを押し付け、自分たちは上流階級で優雅に過ごす予定だったのだ。
だが、現実はどうだ。
“化け物”などではなく、圧倒的な美貌と威厳を持った公爵が、ノインの手を優しく引いて、堂々と現れたのだ。
「本日はお集まりいただき、感謝いたします」
壇上に立ったフェルディナンドが一礼する。
彼の声は落ち着いていて、だがどこか冷ややかだった。
「先日、長らくわたしの身にかかっていた呪いが、解けました。今日ここで、その報告と、もうひとつ――」
彼はノインの手を取り、やわらかく掲げる。
「――わたしの婚約者である、ノイン・エルゼ・グレイス嬢を正式に、未来の公爵夫人として皆さまに紹介いたします。」
会場が、凍りついたように静まりかえった。
「ノイン……だと? あの孤児の……」
「冗談じゃないわ……身代わりだったはずなのに……!」
「どうして、あの子が……私のほうがずっとふさわしいのに……!」
恨み節のようなささやきがあちこちで聞こえた。
だが、フェルディナンドはそのすべてを無視し、ノインを見下ろすようにやさしく微笑んだ。
「ノイン。顔を上げてくれ。今、お前を誇りに思っているのは、この場でわたしだけではない。」
ノインがそっと顔を上げると、王城の使者や他の高位貴族たちが、口々に賞賛の声をあげていた。
「公爵、呪いを解いたとは……なんという奇跡!」
「そのような能力をお持ちとは、婚約者様はまさに女神のようだ」
「素晴らしいおふたりだ。これからの公爵家が楽しみですな」
会場の空気が一気に変わる。
ノインは戸惑いながらも、そっとフェルディナンドの腕に寄り添った。
その様子を見ていたエミリアが、怒りに震えながら前に出る。
「公爵様……っ、そ、それでも、私は貴族の娘です! ノインなんかより、ずっとあなたにふさわしいはずです……!」
だが、フェルディナンドは冷ややかに返す。
「ふさわしさを決めるのは、血筋でも美貌でもない。――その心だ」
「ノインは、わたしの呪いにも、孤独にも、すべてに寄り添ってくれた。君はそのどれか一つでも、受け止められるか?」
エミリアは何も言い返せず、その場に立ち尽くした。
さらに追い打ちをかけるように、周囲の貴族たちが皮肉混じりに口を開く。
「身代わりに差し出しておいて、いまさら名乗り出るとは、あまりに浅ましい」
「どうやら“本物の宝石”を手放したのは、伯爵家のようですな」
顔を真っ赤にした伯爵夫人とエミリアは、人目もはばからずその場を逃げ出した。
ノインは胸の奥で、少しだけ安堵する。
でも、心のどこかで思っていた。
(……これが“ざまぁ”ってやつ、なんですね)
もちろん、復讐心からではない。
ただ、自分を蔑み、見下していた人々が、自分の幸せを認めざるを得ない――その事実が、ほんの少しだけ、心を軽くしてくれた。
その夜、パーティのあと。
屋敷に戻ったノインは、フェルディナンドの胸の中でそっと微笑んでいた。
「公爵夫人、かぁ……。なんだか、まだ実感がないです」
「では、今のうちに呼び慣れておこう」
「えっ、ちょ、ま――!」
「――わたしの、愛しき公爵夫人」
囁きと共に落ちるキス。
世界で一番優しい“ざまぁ”の物語は、こうしてふたりの愛と共に、静かに幕を閉じた。
---
エピローグ ――それでも、あなたと生きてゆく
王都の外れ、公爵領の広大な庭園に、春の風が吹いていた。
風は若葉の匂いを運び、花々をゆらし、澄みわたる空にやさしく溶けていく。
その風のなかを、小さなリボンがふわりと宙に舞った。
「ママ、まってーっ!」
楽しげに駆ける幼い少女。
薄紅のドレスを着た彼女の名は、レナ。ノインとフェルディナンドの娘だ。
「はいはい、そんなに急いだら転んじゃうわよ」
ノインは、日傘を片手に微笑んで見つめていた。
かつて“九番”と呼ばれていた少女。
今では立派な“公爵夫人”となり、母となった。
「パパにお花届けなきゃなのー!」
レナは両手いっぱいに花束を抱えて、庭園の奥にある東屋を目指して走っていく。
そこでは、読書をしていたフェルディナンドが、顔を上げていた。
「おや。これはまた立派な花束だ」
「えへへ、レナが摘んだの!」
「そうか。ありがとう、レナ」
彼は優しく微笑むと、少女の頭に手を置いた。
呪いが解けてから数年――
フェルディナンドの姿はもう“化け物”などではない。
整った顔立ちと、気品ある所作。けれど彼は、自身の容貌ではなく、“誰かを想う心”こそが大切だと、変わらず信じている。
「……なあ、レナ」
「なぁに?」
「お母様のこと、大好きか?」
「うん! だーいすき!! でもね、パパのことも大好きだよ?」
「うん、それは嬉しい」
「でも一番は……えっと……アイスクリーム!」
「……なるほど。強敵だな」
くすくすと笑うレナに、フェルディナンドも穏やかに笑った。
その様子を遠くから見ていたノインの胸は、じんわりとあたたかさで満ちていく。
「――幸せって、こういうことなんですね」
小さく呟いた声に、自分自身もかつてを思い出す。
孤児院で名前もなく、価値もないと蔑まれた日々。
伯爵家に引き取られても、ただの身代わり、利用される存在。
それでも手を差し伸べてくれた“化け物”と呼ばれた彼だけが、唯一ノインに優しくしてくれた。
――あなたが、あなたでいてくれたから。
――わたしは、ここにいる。
「なあ、ノイン」
東屋から、フェルディナンドが手を振る。
レナはすでに彼の膝にちょこんと座っていて、「ママもはやくー!」と笑っている。
「ふふ……はいはい、今行きます」
ノインは日傘を閉じ、ゆっくりと歩き出す。
隣に並んだフェルディナンドは、自然な仕草で彼女の手を取った。
その手は、かつてのように冷たくも硬くもなく、ただやわらかく、やさしかった。
「こうして手をつなげるのが、嬉しい」
「今さら、何を言ってるんですか」
「毎日言っても足りないくらいだ。……ノイン。ありがとう」
「ふふ。わたしの方こそ。ありがとう、フェルディナンド」
ふたりの指が絡まり、レナの笑い声が響く。
あの日、祭壇で呪いの核に触れたときのことを、ノインはときどき思い出す。
絶望に沈んだ“少年”の心。
あれが彼の心の奥底にずっとあったのだと思うと、今でも胸が痛くなる。
でも、それを包み込めたのは、きっとあのときの“わたし”だけだった。
そして今のわたしは、“彼の妻”として、隣に立てている。
「そういえば、レナ」
「なぁにー?」
「今夜は久しぶりに、パパとママがふたりきりでお食事をするんだけど……レナはシルヴィに預けてもいいか?」
「えー! れなも行きたいー!」
「残念。今夜は“恋人の日”なんだそうだ」
「……こいびと?」
「そう。“大好きな人”と一緒に過ごす、特別な日」
「……じゃあ、レナもこいびとになっていい?」
「ははっ、それはまた大きくなってからな」
ノインはそれを聞いて小さく笑い、レナの頭を撫でた。
「いい夢を見られるように、ママが子守唄、うたってあげる」
「わーい!」
いつも通りの、何気ない一日。
けれど、その一瞬一瞬が、ノインにとっては宝物だった。
大切な人と、大切な日々を積み重ねていく。
呪いも、孤独も、過去の痛みも。すべてを受け入れたからこそ、手にできた未来。
――それでも、あなたと生きてゆく。
それが、ノインの選んだ幸せだった。
-