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偽聖女と断罪された令嬢は、隣国で真の力を覚醒し、最愛の王太子と結ばれる――!
偽聖女と断罪された令嬢は、隣国で真の力を覚醒し、最愛の王太子と結ばれる――!
ゆる
異世界恋愛ロマファン
2025年07月28日
公開日
1.1万字
連載中
公爵令嬢ルミエール・フォン・シュトラールは、“聖女”として神に仕える宿命を持つ少女だった。 だが、婚約者であるグランツ王国の王太子エドワードは、突如として彼女を「偽の聖女」と断じ、神殿から追放。 代わりに“真の聖女”と称する平民出身の令嬢クラリスを迎え入れた。 信じていた婚約者からの裏切り。 家族の名誉は失墜し、何もかもを奪われたルミエール。 しかし、過酷な運命に翻弄される中、彼女を救ったのは――隣国アステリアの王太子アルベルトだった。 「あなたは決して偽者なんかじゃない。ここで自由に生きればいい」 温かな言葉とともに庇護され、徐々に傷ついた心を癒やしていくルミエール。 やがて彼女は、封じられていた**“真の聖女の力”**を覚醒させる。 一方、彼女を追放したグランツ王国では、疫病が蔓延し、民が苦しんでいた。 偽聖女クラリスの力では何も救えず、窮地に陥ったエドワードは、今さらルミエールを連れ戻そうと動き出すが―― 「もう、あなたに従うつもりはありません」 かつての婚約者を拒絶し、ルミエールは新たな愛を手に入れる。 彼女を信じ、支え続けたアルベルトとともに、王妃として輝く未来へ――!

第1話 婚約破棄と追放

 王都グランツ。その中心部に堂々とそびえ立つ王宮は、夜ともなれば灯火が煌々(こうこう)と燃え上がり、遠方からでも眩いばかりの存在感を示していた。今宵も華麗な馬車が幾重にも連なり、王城へと吸い込まれていく。おそらく、いずれの馬車に乗っている貴族も、美しく着飾った衣装に身を包みながら期待と胸の高鳴りを覚えているだろう。

 なぜなら、今夜は年に一度開かれる宮廷舞踏会――しかも、この日は国中が注目する大事な式典が行われる予定だったからだ。王太子であるエドワード・フォン・グランツ殿下が、正式に「次期聖女」として認められた婚約者を内外にお披露目し、その縁組を国民にも広く発表するというのだ。

 式典の始まりを告げる鐘の音が、高く、長く、王都の夜空を震わせる。そして、それからほどなくして宮廷の大広間に続く白亜の回廊を、一際美しく優雅な馬車が通り抜けていった。その車体にはシュトラール公爵家の紋章――翼を持つ銀の獅子が刻まれている。


 ――その馬車の中に座すのは、本日の主役の一人であるルミエール・フォン・シュトラール公爵令嬢だった。

 ルミエールは柔らかなブロンドの髪をゆるやかに結い上げ、胸元には淡い輝きを放つ月光石(ムーンストーン)のネックレスを纏っている。ドレスは純白を基調としたシルク製で、歩くたびに裾が優美に揺れるよう仕立てられていた。まるで、夜空に浮かぶ月の光そのものを纏ったかのような幻想的な装いだ。

 彼女の美しい容姿と気高い雰囲気は、王宮の人々からも尊敬のまなざしを集めてきた。さらに幼少期から「聖女の資質を持つ」とされ、王立神殿の大神官たちもその力を見込んでいたほどだ。実際、ルミエールが幼少期に見せた奇跡――例えば、熱病に倒れた平民の少女を癒やしたり、荒れ狂う雨雲を晴らしたりする不思議な出来事は、確かに彼女が“聖女”たり得る才を持っている証拠だと周囲に認められてきた。

 そして彼女は、将来を約束された王太子エドワードの婚約者として、長らく王宮で公務に携わる日々を送っている。公爵家の令嬢としても隙がなく、内政から外交、礼法に至るまで習熟しているルミエールは、まさに“完璧な聖女候補”と謳われていた。


「ルミエール様、本日はいよいよ正式に殿下と婚約をお披露目されるのですね」


 馬車を降りる直前、侍女のクラリッサが緊張した面持ちで声をかける。

 クラリッサはルミエールに長く仕えてきた侍女で、年は彼女と同い年。気軽に話せる友人とまではいかなくとも、ルミエールにとっては信頼できる人物の一人だ。

 ルミエールは少し上気した頬を緩ませながら、小さく笑みを返す。


「ええ。まだ信じられないけれど、今日、わたくしは公の場でエドワード様の婚約者として紹介されることになるでしょう。きっと……素敵な夜になりますわ」


 彼女の瞳には確かな期待が宿っていた。人々から称えられる将来の聖女である自分と、王太子との婚約は、ある意味“当然”の流れであったかもしれない。しかし、ルミエール自身はこの日を心待ちにしていたのだ。誇りと希望、そしてほんの少しの不安を胸に抱きながら。


 馬車を降りた彼女を迎えるのは、数多の貴族が列を成す広い玄関ホールだ。既に招待客たちは豪奢な衣装に身を包み、舞踏会の始まりを今か今かと待ちわびている。ルミエールが姿を現すと、ホールの入り口にいた数人の貴婦人たちが声をあげて微笑んだ。


「まぁ、なんて美しい……まさにこの国の宝石のようだわ」

「噂には聞いていたけれど、本当に『聖女』という言葉がぴったりね」


 彼女たちは羨望のまなざしを向けつつ、少し離れた位置からルミエールの様子を窺(うかが)っている。公爵令嬢としての名家の威光、そして聖女候補としての神聖さが、彼女の周囲に近寄り難い輝きをもたらしているのだ。

 ルミエールはそんな視線を感じながらも、微笑みを絶やさずに、静かに一礼して歩を進めた。


 やがて、案内係の騎士が声高らかに名を呼ぶ。


「――シュトラール公爵令嬢、ルミエール・フォン・シュトラール様、ご到着です!」


 その声と同時に、扉が開かれる。豪華絢爛なシャンデリアが輝く宮廷の大広間が、ルミエールを迎えるように目の前に広がった。中央には既に多くの貴族が集い、煌びやかな衣装と笑い声が混じり合っている。彼女は一瞬だけ息を飲んだが、すぐに背筋を伸ばして足を踏み入れた。


 そこには、王太子エドワードの姿があるはずだった。彼はいつだって堂々とした態度で、ルミエールの到着を待ち構えていてくれる。それを確信して、彼女は自然と微笑みを深めながら大広間を見回した。

 けれども――彼女の瞳に飛び込んできたのは、いつもとは少し違う光景だった。

 王太子の傍らに、一人の少女が寄り添っている。まだ十代の半ばほどだろうか。どこか素朴な印象を受ける茶髪の娘で、身に纏っているドレスも、王宮の貴族の中ではやや地味めな装飾に留まっている。

 しかし、エドワードはその少女の手を取ってまるで大切に扱うように寄り添っていた。その様子は、まるで“唯一無二の存在”をそっと抱きしめているかのごとく。


(あの方は……どなたかしら?)


 ルミエールは動揺を見せぬよう、微笑みを崩さずにゆっくりと足を進める。周囲の貴族たちがひそひそと囁く声が耳に届いた。


「彼女、平民なのですって? どうして殿下とご一緒に……?」

「いいえ、最近急に“聖女様”だと名乗りを上げた子らしいですわ。聞くところによると神殿が直々に『この娘こそ聖女』だと証明したとか」

「まさか、ルミエール様がいるのに? そんな話は聞いたことがないわ」


 聖女――? そんなはずがない、とルミエールは内心首を傾げた。自分以外に聖女候補として認められた令嬢は数名いたが、貴族出身の子女がほとんどだった。平民の少女が突然名乗り出るなど、かつて前例がないどころか、王家から正式に聖女と承認されることは想像もつかない。

 疑問を抱えながらも、ルミエールは視線を王太子に向ける。そして、エドワードと目が合った瞬間、彼の瞳が冷え切った光を宿していることに気づき、胸の奥がちくりと痛んだ。


「よく来たな、ルミエール。随分とゆったりめの到着だ」


 エドワードの声は、平時の朗らかな響きではなく、どこか冷たさを帯びている。彼は愛しげに隣の少女――クラリスと呼ばれるらしい――に微笑みかける一方で、ルミエールには視線すらほとんど合わせない。

 いつものエドワードなら、ルミエールを見れば温かな笑みを投げかけてくれたはずだ。だが今、彼はルミエールを見ると眉間に皺を寄せ、何か嫌悪の念を抱いているかのようにも見える。そのあからさまな態度に、人々は小さくどよめいた。


「殿下……今宵はわたくしとの婚約をお披露目する日、と伺っておりますが……」


 ルミエールは戸惑いを隠し切れずに問う。周囲の視線が一斉に二人へと注がれ、空気が一気に張りつめるのが分かった。

 エドワードはわざとらしく鼻を鳴らしてから、まるで哀れむような目線をルミエールに向ける。


「お前はまだ気づいていないのか? いや、気づいていないふりをしているだけかもしれないが……」


 彼は腕の中の少女をちらりと見やり、そこでようやくルミエールへ向き直った。


「このクラリスこそが、本当の聖女だ。王家と神殿の審査によって明らかになった真実だよ。お前の力が弱まったのか、あるいは最初から偽物だったのか……どちらにせよ、もうお前が“聖女”を名乗る資格はない」


 突き放すような言葉。そして、ぞくりとするほど冷たい声音。大広間に居合わせた貴族たちは、一瞬にしてささやきを止め、静寂に包まれる。彼らもまた、この発言が何を意味するのか理解できずにいるのだろう。

 ルミエールの顔からは、さっと血の気が引いていった。


「……どういう、こと……ですの……?」


 かろうじて言葉を発したものの、その声は震えている。彼女には、まったく予期せぬ展開だった。自分が聖女候補として王宮で暮らしてきた年月はどうなるのか。王太子の婚約者として将来を嘱望されていたはずなのに、一夜にしてすべてが崩れ去るなど信じられない。


 その様子を見ていた隣国の外交官や周囲の貴族、そして大勢の宮廷関係者たちは、徐々にざわつき始めた。「まさか、偽物だったのか?」「いや、ルミエール様がそんな……」と否定的な声もあれば、「平民上がりの聖女が本物だなんて聞いたことがない」と困惑する声も聞こえる。

 しかし王太子はそんな周囲の反応などお構いなしに、さらに言葉を重ねてきた。


「もうひとつ、お前に告げねばならないことがある。――ルミエール・フォン・シュトラール。お前との婚約は破棄だ」


 その言葉を聞いた瞬間、大広間にいた誰もが息を呑んだ。なかでもルミエールは、頭が真っ白になったかのような衝撃を受ける。もちろん、婚約破棄を言い渡されるなど、夢にも思っていなかったのだから。


「待ってください……。わたくしは、貴方様の婚約者としてこれまで尽くしてまいりました。国のため、王宮のために自分にできることを精一杯努めてきたのです。そんな……理由もなく婚約破棄など……」


 自分の声がかすかに震えていることに気づいたが、なんとか言葉を繋いで訴える。胸が締めつけられるように苦しい。身体から力が抜けそうだった。

 だが、エドワードは薄く笑った。まるで何か“知っている”かのように。


「理由ならあるぞ。お前は“偽聖女”だった。それがどんなに重大な罪か分かるか? 王国を欺き、俺を欺き、神殿を欺いた。その責は重い」


 その発言に反応したように、クラリスという少女がそっとエドワードの腕を掴んで、心配そうに声を上げた。


「エドワード様……あまり責めてさしあげないで。きっと彼女も、本当に自分が聖女だと思っていたのでしょう? その、勘違いだっただけかもしれませんわ」


 どこか気弱そうに見えたクラリスが、唐突に“優しげ”な言葉をかけてきた。だが、そこには淡い侮蔑が混じっているようにも感じる。まるでルミエールを憐れむように、あるいは見下すように。

 エドワードは「クラリスはなんて優しいのだろう」と言わんばかりの顔をして、彼女の手を取り、甲に口づけを落とした。その仕草に、大広間の人々はさらにざわめきを増す。まるで、既に王太子の隣に立つのはクラリスであるかのようだ。


「クラリス、お前はなんと寛大なのだ。だが、嘘をついていた者に相応の罰を与えるのは、国を統べる者として当然の務めだ」


 まるで聖女のような“慈愛”を振りまくクラリスとは対照的に、エドワードの声は冷酷そのものだった。


「ルミエール・フォン・シュトラール。今この場で、偽の聖女であった事実を認め、王太子妃の地位を降りることを了承しろ。そうすれば、処罰についてはある程度配慮してやろう」


 ――処罰。

 その言葉に、ルミエールは思わず息を呑んだ。偽聖女の罪など聞いたこともなかったが、もしそれが本当に重罪だと認定されれば、下手をすれば国家反逆罪に問われる可能性すらあるだろう。公爵家である実家にも多大な迷惑がかかる。

 だが、その前に。自分は本当に偽者なのか? 幼い頃から神殿で学び、実際に奇跡と呼ばれる力を発揮してきたのは紛れもない事実である。近年では何か大きな奇跡を起こしたわけではないが、それが即ち“偽者”である証拠にはならないはずだ。

 しかし、エドワードの言葉は絶対だ。――王太子という地位を持ち、次期国王となるはずの存在。彼が偽者だと断じ、さらに新たな“本物の聖女”を隣に据えた今、この場では誰もルミエールを擁護しようとは動かない。


(なぜ……? エドワード様は、なぜこんなにも急にわたくしを否定するの……?)


 ルミエールの脳裏には、ほんの数日前のことが蘇る。エドワードは柔らかな笑顔で「もうすぐ婚約発表だな。楽しみだよ」と彼女の手を取ってくれていたはずだ。あの穏やかな笑みは嘘だったというのか? あまりにも唐突すぎて、現実がうまく飲み込めない。


 周囲では、「これはどういうことなんだ……」「殿下があまりにも一方的すぎる」「シュトラール公爵家はどう動くのだ?」といったひそひそ声が飛び交っている。

 ルミエールは言葉を失い、震える唇をどうにか開いた。


「……私は、偽者ではありません……。幼い頃に示した奇跡は多くの方がご存知のはずです。それが……なぜ今になって、こんな無茶な扱いを……」


 すると、クラリスが弱々しい仕草を装いながら、しかし妙に聞こえやすい声で口を開いた。


「実は……大神官様から聞いたのです。ルミエール様の奇跡の多くは、たまたま運が良かっただけなのではないか、と。あるいは……公爵家のお力で一部の証拠を誇張した、という可能性もあるそうで……」


「嘘ですわ!」


 ルミエールは思わず声を荒らげた。大神官がそんなことを言うはずがない。自分を長年導いてくれた存在でもあるのだ。だが、当の大神官は今日の舞踏会に招かれていないのか、この場には見当たらない。抗議をしたくとも、直接話すことができない状況だ。

 さらに畳みかけるように、エドワードは冷酷な笑みを浮かべる。


「ルミエール。これまでの奇跡とされてきた事象を詳しく調べさせてみたら、多くが曖昧な証言ばかりだったのだ。報告書によれば、“偶然が重なっただけ”と判断されるものや、“デマ”に近いものも多かったという。お前が王太子妃に相応しくない証拠は山ほどある」


 それが捏造されたものである可能性は大いにある。だが、どれほど叫んでも、ここでエドワードが“真実”と断じてしまえば、ルミエールの否定する言葉は誰にも届かないだろう。

 彼女は胸が張り裂けそうな痛みを覚えながら、必死に訴える。


「わたくしを信じてください、エドワード様。わたくしは本当に国を想い、貴方を――」


「黙れ、偽りの聖女め。お前の言葉など、一文字たりとも聞く価値はない」


 突き放すような一言。それは今までどんな困難に直面してもルミエールを支えてくれた王太子の面影を微塵も感じさせない、冷酷極まりない態度だった。周囲の貴族も青ざめた顔で立ち尽くしている。

 すると、そこへルミエールの父――シュトラール公爵が慌ただしく大広間に駆けつけてきた。既に状況を耳にしたのだろう、その表情は怒りと困惑に満ちている。


「殿下、これはどういったことなのでしょう! ルミエールが偽の聖女などと、あまりに暴論がすぎますぞ! 我が公爵家は王家に忠誠を尽くしてきたのに……それをこうも一方的に踏みにじられるとは!」


 公爵は高らかに声を上げる。さすがに怒りを抑えきれない様子だ。

 しかし、エドワードは微動だにせず、公爵を睨むように視線を投げかけると、まるで“待ってました”とでも言うような調子で言い放った。


「シュトラール公爵よ。お前も知っているはずだろう。数年前、お前の領地で行われた“ある行為”を――」


 その言葉を聞いた公爵の表情が、はっと曇る。ルミエールですら知らないような“弱み”を王太子が握っているというのか。エドワードは続けて、声をひそめるようにした。とはいえ、周囲には十分聞こえる音量だ。


「経済的な不正取引、それから領民への過剰な徴税。あれは見逃せるものではない。お前の犯した過ちは、証拠さえあれば公爵家の地位を剥奪するに十分な理由になる」


「そ、それは……我が家が直接関与したものではなく……家臣の独断でした。すでに当該家臣も罰を与え、修正したはずです!」


 公爵は必死になって弁明するが、既にエドワードは目を伏せて聞き入れない。


「今になって考えてみれば、お前の娘が偽聖女でありながら、さも本物のように国民を欺いたのは公爵家が裏で画策していた可能性もある。――さぁ、どうなのだ? お前は娘の罪を認め、しかるべき処罰を受ける覚悟があるのか?」


「殿下! 何と残酷なお言葉でしょう……」


 公爵が膝をつくように崩れ落ちる。娘を守りたい一心でも、王太子の権威を前にすれば、どんなに訴えても効果がない。そればかりか、下手をすれば公爵家全体の破滅に繋がりかねない。それがこの場の残酷な現実だった。

 ルミエールは父の姿を見つめながら、心が引き裂かれるような痛みを覚える。父は善良な人物で、領地の民を大切にしていた。少なくとも、ルミエールの知る限りはそうだ。だからこそ、娘が偽者などと断罪されれば、公爵家の名誉が傷つくどころか存続すら危うい。


(わたくしが……公爵家を巻き込んでしまった……?)


 もし、今ここで彼女がすべてを認め、王太子の言葉通りに“偽の聖女だった”と受け入れてしまえば、シュトラール公爵家への処罰も多少は軽くなるかもしれない。

 そう頭では理解していても、ルミエールの心は激しく抵抗していた。自分は偽者などではない。しかし、証明する術がここにはない。エドワードが手回しをしている以上、既に神殿の立場も抑えられているかもしれない。

 ――どうすればいいのか。いや、どうしようもないのだろうか。


 すると、クラリスがまた“優しげ”な声をかけてきた。


「ルミエール様、もう大丈夫ですよ。貴女が辛い思いをしなくても、この国には真の聖女であるわたくしがいます。だから、あとはどうか穏やかな場所でお休みください」


 その言葉は表面上こそ優しげだったが、裏には冷ややかな侮蔑が見え隠れする。まるで“用なしだから消えてしまえ”とでも言うかのように。

 ルミエールは唇を噛み、エドワードを見つめた。ほんの一瞬だけでも、彼の目に迷いは映らないのかと期待して。しかし、そこには無慈悲な夜の闇のような冷徹さしかなかった。


 ――ああ、もう全てが終わったのだ。そう痛感した瞬間、ルミエールはこの胸を締め付ける絶望から逃れる術を見失う。

 やがて、エドワードは周囲の貴族に向けて高らかに告げた。


「ここにいるルミエール・フォン・シュトラールは偽の聖女である。よって、私は彼女との婚約を破棄し、新たに真の聖女であるクラリスを迎え入れることを宣言する。各々、これをしかと胸に刻め」


 その宣言は、大広間中を騒然とさせた。だが、多くの貴族たちは王太子の決定に表立って反対はできない。もしかすると、彼らも公爵家と同じように、何か弱みを握られているのかもしれないし、あるいは権力にへつらっているだけかもしれない。

 圧倒的な静寂の中、エドワードは続ける。


「さらに――偽聖女の罪は重い。ルミエール、お前には王都からの追放を言い渡す。今後、この国で“聖女”を名乗ることを一切禁じる。分かったか?」


 それは容赦のない宣告だった。王都からの追放は、実質的にはすべての地位と権利を剥奪されるに等しい。侯爵や伯爵といった貴族階級であれば、その身分のおかげで地方領地へ逃れる選択肢があるかもしれないが、今のシュトラール公爵家はこの場で王家から睨まれた以上、先行きは極めて暗い。

 ルミエールは、それでも最後の一縷の望みに縋(すが)るように声を搾り出した。


「エドワード様……どうか、どうか聞いてください。わたくしは国を愛し、貴方を――」


「その“愛している”という言葉が嘘だと言っているのだ。愛していたなら、なぜ騙した? 俺を偽りの聖女で縛り付けるような真似をした?」


 彼はまるで、ルミエールが最初から彼を利用するために“聖女”を演じていたかのように糾弾する。その容赦のなさに、ルミエールはもう何も言えなくなった。これ以上、何を言っても聞き入れてもらえない。それどころか、その言葉を持ってさらに自分を追いつめる材料にされるだけだろう。


 ふと、大広間の隅から貴婦人たちの小さな悲鳴が聞こえた。そこに目を向ければ、ルミエールの母が友人たちに支えられながら泣いている姿が映る。日頃から娘の将来を誇りに思い、いつの日か王太子妃として国を支える姿を夢見ていた母。だが、その夢は無惨に打ち砕かれようとしている。

 胸の奥がズキリと痛む。

 そして――ルミエールは、ある決意を固めた。ここでどれだけ抗っても、王太子の意志が変わらない以上、周囲の人々を巻き込むだけだ。ならばせめて、自分がすべてを受け入れ、この場を収めることで、父や母、家臣たちがこれ以上の責めを負わずに済むなら。


「……わかりました。わたくしは、偽の聖女として処罰を受け入れます。婚約破棄も……了承いたします」


 彼女は震える声でそう告げると、ひざまずいて頭を垂れた。公爵家の誇り、聖女候補としての名誉――どれも彼女にとって大切なものであったが、今やそれを守る術はない。愛していたエドワードに裏切られたという事実は、心に致命的な痛みを残すものの、同時にそれ以上の争いを避ける道を彼女に選ばせた。

 すると、エドワードは満足げに鼻を鳴らす。


「最初からそう素直に従えばよかったのだ。――衛兵、ルミエールを部屋に連れて行け。今宵の舞踏会が終わるまで、あまり人目に触れない場所に監禁しておけ」


 監禁――。あまりに酷い扱いに、周囲の人々もさすがに息を飲むが、誰も声を上げられない。エドワードは更に続けた。


「明朝になったら、城下の人々の前で“偽の聖女”だったことを公にする。そこで公爵家も責任を表明しろ。その上で、ルミエールには追放刑を科すとしよう」


「……はい」


 ルミエールはただ、かすかに頷くしかない。もはや、すべてを諦めるしかないのか――そう思うと、視界が滲んだ。だが、ここで涙を見せてはいけない。公爵家の令嬢として、最後まで気高くあるべきだと自分に言い聞かせる。

 衛兵が彼女の両腕を掴み、立ち上がらせる。今にも倒れそうな身体を必死に支えながら、ルミエールはかろうじて立ち上がると、最後に父や母を振り返った。父は唇を噛み締め、母は泣き崩れている。

 王太子となるはずだったエドワードは、そんな彼女に目もくれない。その腕の中には、クラリスがしっかりと納まっていた。


(もう、これで終わりなのですね……)


 心の中でそう呟くと、ルミエールの瞳から一筋だけ涙がこぼれ落ちる。それは貴族令嬢としての誇りを保とうとする最後の抵抗だったが、誰も気づいてはくれなかった。


 衛兵に連れられて大広間を後にしたルミエールは、薄暗い石造りの回廊を歩きながら、一歩踏み出すごとに自分の存在が小さく縮んでいくような感覚を味わった。そうして案内されたのは、王宮の隅にある簡素な客室だった。華やかな舞踏会の喧騒が嘘のように遠く、今ここには彼女と衛兵たちの足音だけが響いている。

 扉の中に押し込められ、重々しく鍵をかけられる音がした。


「……おとなしくしていろ。明朝までここからは出られない」


 衛兵はそう短く告げると、扉の外から見張るようだ。ルミエールは薄暗い室内で、壁にもたれかかるようにして崩れ落ちた。


(偽の聖女……追放……エドワード様が、あれほど酷い目でわたくしを見るなんて……)


 結い上げていたブロンドの髪がほどけ、緩やかに肩に落ちる。抱きしめた膝に顔を埋め、震える吐息だけが虚しく響いた。

 このまま夜が明ければ、ルミエールの失墜は確定的になるだろう。形ばかりの“偽聖女”としての謝罪を強制され、追放の刑に処される――そして、公爵家も王宮の権力争いの中でかき乱され、二度と浮上できなくなるかもしれない。


 時折、薄い扉の向こうから聞こえてくるのは、楽しげな音楽と人々の笑い声だ。舞踏会は今まさに最高潮を迎えているのだろう。エドワードとクラリスも、きっと人々の前で優雅に踊っているに違いない。

 ルミエールはそれを思うと、胸が切り裂かれるような痛みを覚えた。と同時に、どこかで怒りに似た感情が沸き起こる。裏切られた悲しみだけではもう対処しきれないほど、胸の内が荒れている。


(わたくしがいつ、嘘をついたと? なぜこんなにも突然、すべてを奪われなければならないの?)


 彼女は王宮に暮らす間、さまざまな陰謀や嫉妬を見聞きしてきたが、自分がその渦中に巻き込まれるなど思ってもいなかった。常に王家と神殿のために自分を律し、将来は王太子妃としてエドワードを支える人生を送ることこそが“正しい道”だと信じてきたのに。

 ふと、頭の中に浮かぶのは幼少期の記憶。高熱で苦しむ少年を前に、祈りをささげた時のこと。確かに、何か温かい光のようなものを感じ、少年の熱がすっと下がった。あれは偶然ではない。自分の手のひらに、確かに力が宿ったと感じたのだ。

 それは今でも忘れられない“奇跡”の感覚。にもかかわらず、いつしか自分のその力ははっきりとした形で表れなくなっていた。何度か祈りを試みたが、昔ほどの確信を得ることができなかったのも事実だ。王宮でも小さな癒やしの奇跡程度は起こせたが、目に見えて大きな力を使えるわけではなかった。


(本当に、わたくしの力は偽物だったのかしら? そんな……そんなはずはないわ)


 だが、自分の感覚だけを頼りに主張しても、今や王太子の「偽者」断罪の前では何の意味も持たない。

 その夜、ルミエールは一睡もできなかった。膝を抱え、瞳から幾度となく涙をこぼしながらも、最後まで声を上げて泣くことは堪えた。心の奥に蟠(わだかま)る様々な感情が渦巻き、やがて朝日が昇り始める頃に、ようやく一つの決意に辿り着く。


 ――少なくとも、ここにいてはダメだ。

 偽の聖女として屈辱を受け、無実の罪をかぶせられたまま処罰されるなど、到底納得できない。王都からの追放を言い渡されたのなら、むしろ自ら望んでこの地を去り、自分が本当に持つ力を確かめる道を探したい――そう思ったのだ。

 ただ、追放されるといっても、どこへ行けばいいのか。宛などない。隣国アステリア王国との国境付近は険しい山脈だと聞くが、噂では人里離れた神殿があるとかないとか……。そこに行けば、自分の力の正体を確かめられるかもしれない。

 そんな淡い希望を抱きながら、ルミエールは震える手をぎゅっと握り締める。何もかも失ったと思えるこの瞬間でも、前を向いて生きねばならないのだ。自分の存在意義を失わないためにも。


 翌朝、エドワードの指示通りに、ルミエールは衛兵に連れられて城下の広場に立たされた。そこには既に多くの市民が集まっており、“偽の聖女”という烙印を押された彼女を好奇の目で見ていた。

 エドワードは高台から、市民たちに向かって高らかに宣言する。


「これまで真の聖女候補として遇されていたルミエール・フォン・シュトラールは、実は偽の聖女だった。国を欺いた責任を取り、彼女は本日より王都を追放される。皆の者、これが王家の決定だ」


 その瞬間、あちこちから「そんな馬鹿な」「ルミエール様は昔、私の病気を治してくれたのに……!」と悲鳴や戸惑いの声が上がる。しかし、王太子が直接“偽者”と断じているため、多くの者は逆らえない。中には「やはり噂通り偽物だったのか」と罵声を浴びせる者まで出てくる始末だ。

 ルミエールはうつむいたまま、彼らの言葉を受け止める。それでも、一部の人々が自分を信じてくれる声を上げていることに、わずかながら救われる思いもあった。だが、今ここで反論してもどうにもならない。


 儀式のように形式的な宣告が終わると、衛兵が彼女の背を押し、「行け」とばかりに突き飛ばした。ルミエールはよろめきながらも倒れずに踏みとどまり、振り返ることなく歩き出す。誰もが道を開け、偽の聖女を遠巻きに見ている。

 その中で、彼女はこらえきれずに一瞬だけ後ろを振り返った。そこには、クラリスを伴って満足げに高笑いするエドワードの姿があった。

 ――あぁ、もうこの人には何も期待できないのだ。かつての優しさはすべて仮面だったのか、それとも誰かに操られているのか。今となっては知るよしもない。


 こうして、ルミエール・フォン・シュトラールは偽聖女の烙印を押され、王太子との婚約を破棄され、王都を――ひいてはこのグランツ王国を追放された。

 わずかな荷物だけを手にした彼女は、雪深い国境の山岳地帯へと足を向ける。生きる手立ても少なく、厳しい道のりになることは覚悟の上だ。しかし、それでもルミエールには前に進むしか選択肢がなかった。

 その胸には、今も微かな光が宿っている。果たして自分は本当に偽者なのか。答えを知るためにも、進むしかない。己を見出すための旅が始まる。


 ――これが、ルミエールにとっての新たな運命の幕開けだった。

 誰もまだ、この先に待ち受ける大いなる逆転劇を知る由もない。ただ、闇夜のように暗い絶望の底に沈みながらも、彼女の心には小さな炎が燃え続けていた。その炎こそが“真の聖女”としての力の片鱗であり、やがて周囲を巻き込み運命を大きく動かしていくことになる――。



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