風の標し
序章
風が髪をくすぐる
髪に桜の 花弁がひとひらふたひらまいおちた
第1章
「令」はそこにいた……また風が「令」の髪をすいていく
……風……暖かいな……澄んでる
花風がまた髪を飾る……
「令」は思った
……またあの社へ行ってみよう
「令」は極たまにだが好んで行く場所があった
辺りに清水の湧き出す 涼やかな木陰の清涼の地……
そこは和の神の力が満ちていた
そこは「令」お気に入りの場所
今日はあの「気」は「居る」だろうか……
社の神様はわからねど「令」には社に感じるものがある
「気」とでも言うのだろうか気配が……満ちている
……逢えたらいい……な
その気配は神聖で厳か でも冷たい刃のような神気とは違う
涼やかな気配
逢いたい……
「令」は思う
「令」は樹木の木漏れ日を潜りながら社へと歩いた
風は仄かに花の香 と草の春を運んでくる
小鳥が枝を渡る音がする
……静か……
「令」は樹々の冠達の隙間から空をながめた
「令」は男の名だ
父が名付けた
なんでも神職の血を引いているからという事で名付けたらしい
別に男の名をつけずともよいだろうに
「令」は思う
神職…………
何でも父の何代か前閉めてしまった神社らしい
神社……
その血のせいなのか 令は神聖な場所が好きだ
修学旅行などで行く寺や神社がすきだと言うのではなく
ただそこかれとある古木や岩
自然の中にある神聖さ……
それがいい……
自然の生み出す霊気 神気厳かさ
それが好きなのだ
……さわっっ……
耳元で風がなった
あの樹々を抜ければ社はある
清水の流れる音が静かに聴こえる
令は自然と駆け出していた
今日は逢えそうな気がしている
あの気配……
少し開けた天然の広場に木漏れ日と木陰の静寂に囲まれ それはあった
古く小さい社
苔がむしている
カツン……足元で小石がなった
いつにも増して静かだった
ただ……清水と風のささやかな声が木の間を揺らすだけ
「こんにちは」
令は囁いた
今日は「居る」……
「気」が辺りに満ちでいる
さわっ……っ
風が令の耳元を揺らした
木の間を渡って清水の泉に舞い降りる……
清水が……静かに水紋を刻んだ
令にはそれが風の返事のような気がした……社にかかる木漏れ日が密やかに揺れている
静かだ……
このまま森にのまれてしまいそうだった
それでも良い令はおもった
…………………………
ふと微かに空気が鳴った……ほんの微かに
でも確かに
そして強かに
しかしそれは 音……ではなく
辺りに満ち満ちている…「神気」がなったようだった令の中の何かが警鐘を鳴らす
「…………………………」
ゆっくりと
でも不安げに令は当たりをみまわす
しかし誰も……風すらもない……
ただ……静かに樹々が揺らぐだけ……
微かに令の喉が鳴った
得体の知れない恐怖が足を這い上がる
いつもと違う……?
でも一体何処が自分に問うてみて
有り得ないはずの答えに 身震いした
何か……目に見えないなにかがいる
さく……っ
「…………!……」
反射的に令は振り返った
……ぞわ……り
突如「それ」は湧きあがっていた
森の樹々の奥深く
そこに「何か」がいる……
「何か」を感じる
凄まじい恐怖の対象
刺すような強い気配……
そして……匂い……
すえたような
そう……まるで獣の臭気……
これは人のものじゃない……!!
令にすらそれは理解できた
ぐおお……おおおっ
何かが咆哮した
そして間を詰めるまもなく
一閃!
何者かが令におそいかかった
――ざんっ……っ
つい転瞬まで令のいたであろう場所に
禍々しく鋭い傷がきざまれる!
爪痕!?
それは地面を激しくえぐりこんでいた
……!……
令が認識する間もなく まるで真空の刃のような第2撃が来る
風がうなった
一閃
しかし今回も令の身体はかわした
否
躱せていたのだ
――え!
常人の速さでは無い!
人間の体では有り得ない速度で身体が反応している
……身体が自分のものじゃないみたい!
まるで誰かに操られているようだった
でもどうして……
令が身震いした
――お……んっ……っ――
令の耳を神気かふるわせた
そして それは見えた
黒い大きな塊……獣?
瞬間
「塊」が裂けた……!
それはまるで弾けたかのようだった
「……!……」
令が衝撃でとばされる
ばしゅっっ……っっっ
塊の姿が静止すると黒く長い毛に覆われた 大きな獣
鬼……の姿がみえた
しかしそれは肩口から大きく裂けている
裂けた断面は鋭利でまるで鉈のような武器でパックリと割られたかのようだった
鬼は赤黒い血を吹き出し生臭い血臭を放ちながら傷口から割れて行った
肉の裂ける音がする
……どさり……
下生えにそれは落ちる
「ひ……!」
令の足が思わず挫けた
「怪我はないか」
令の背後から男の声がかけられる
「だれ!」
跳ね上がるようにして令は振り返った
「……!……」
――天使――
そう思えるほどの美しい男性がそこにはいた
まるで降って湧いたかのようだ
髪が長い……真っ直ぐな髪が肩口をかざっている
ひと房が その肩をさら……りと滑り落ちた
令は声すら飲み込んでいた
「人……?」
否
違う……
気配が人のものでは無い
はりつめたような神域のあの気配だ
まるで時がとまったかのようだった
令が見つめて動けずにいると
「彼」は膝を折って令の瞳を覗き込んだ
「怪我はない……な」
その声は酷く優しく暖かった
安心するあまり涙が溢れてくる
「もう大丈夫だ」
すっっ
「彼」が穏やかに立ち上がった
その動きは全てにおいて優雅で超然としていて
令は圧倒されてしまう
令は涙も拭えぬまま「彼」をみつめた
……私は アラバギ……だ
柔らかく「彼」アラバギはいった
「アラ……バキ」
令がやっと声にする
名の言霊に不思議な響きと力を感じる
彼は振り返った
「この……社の主アラバギ」
「私は……」
令が名乗ろうとする
「令」
アラバギが言った
優しい声音だ
令の名を彼はしっていた
静かにアラバキが令を見つめる
生成の白
彼は白い服をきていた
純粋な白いでは無い天然の白
その白に黒髪が映えて輝いた
「知ってるんですか?」
令が立ち上がろうと身体に力をこめた
先程の超人的な速度の反動か ひどくだるく 身体が重かった
アラバキは自然な態度で手を添えてくれる
彼の髪の匂いが令をくすぐった
清しく爽やかな匂い
植物の匂い?
薄荷だろうか
令は心地良かった
妙に落ち着いてくる
「大和の神の君」
アラバキが静かに呼んだ
大和の神?
令が首を傾げた
天照大神様と須佐ノ男様なら 令も知っている
確か令の家が昔祀っていたのも天照大神様ではなかったか……
「君は神官の血をひくものだ」
アラハギが言った
厳かなキッパリとした口調だった
確かに令の家は神社だった何代も前の事であるが
「令」
アラバキが懐から美しい翡翠を取り出した
深い碧の玉
勾玉の形をしている
本当に吸い込まれそうな碧だった
「君のだ」
令には覚えが無かった
勾玉なら博物館やらお店やらで見た事はある
しかしその勾玉はそれとは違い 少し細身だった
「令の血……君ならばきっと「御霊」を倒しうるだろう……」
――?――
令が小首を傾げる
鬼……?ならば今見た……
アラバキも目の前にいる
彼はどう見ても「神族」だ
そして「御霊」と言った
――御霊?――
令は不安になった
自分は確かに神官の血を継いでいるであろう
しかし……御霊とは
不安が喉元まで込み上げてきた
アラバギは令に勾玉を握らせる
――ひやり……――
冷たい勾玉の感覚が気持ちいい
勾玉は何かを語りかけてくる気がした
――天照大神ありき――
ふと何かが令を呼んだ
令は辺りを見回す
「天照大神 あの美しき御方 あの御方の血を君は遠く引いている」
……天照大神……
血?
家はただの神社ではなかったか?
それに閉めてしまったと聞いた
令が困惑していると アラバキはいった
「神社を守り得るものは 遠く「神」の血をひく」
令の肩を風が吹き抜け 髪を揺らした
「君の血は代々「魔」を封ずる者として存在していた」
アラバキは流れる時を思い起こすように語り始めた
春にしては冷たい風が吹き抜ける
「天照大神の血を宿ししもの「御霊」をほうむる「破の鏡」の守護者とならん……」
彼の声は深くに染入る
風が令を包み流れていく
「その血を持ちし者が「破の鏡」を得し時 遥かなる地にすまいし「御霊」を封ずる」
樹々がうめいた
空間が歪んだ気がする
「「御霊朱雀」帝に仇なし……人を食らった魔物を言う……帝の命により武士らに「鬼」として討たれ
死して世を祟る御霊となった」
令の背を悪寒が走る
翡翠の勾玉が じんわり……と熱を帯びる
「彼の御霊を封ずる石鏡は此の地と彼の地に2つ存在する
天照大神の血の者が封じたとされ その秘は隠されたままだ ひとつ鷹揚の
ひとつは 柳踊の
そのふたつが彼の御霊を封ずる「要」となる
石鏡が砕けし時 彼の御霊は蘇り 人を喰らい世を魔で満たさんとする」
「それを封ずる者が天照大神の姫巫女」
令の手が震えた
勾玉が熱く脈打っている
「最初の鏡「鷹揚の石鏡」は此の森の奥深く
精霊のみが知る「大社」に封ぜられている 大社を 御霊の手の魔鬼に討たれれば石鏡は砕け 封印の要はひとつは解かれてしまう 彼の御霊の力の及ばぬうちに
鷹揚の石鏡を手に入れるのだ!
先ずは大社へ向かう」
アラバキが右の手に風を呼んだ 空気が鳴いて その手に刀が現れる
……一閃……
古舞に似た動きで 一撃 天にはなった
風の刃が天を突く
……がしゅ……っ
黒い塊が血を撒いて落ちた
僅かに痙攣している 鬼に似た異形の鳥だった
――……聞いている……――
森が鳴いた
樹々がきしいでいる気がする
アラバキは刀を手に収めた
鞘があるというのでは無い
風が渦巻いて刀を手が呑み込むのだ
令は鳥から目が離せず凝視していると
小さな虫が這い出した
……乳色の裸虫であった
「ひっ……」
令があとじさる
「闇天の蟲だ」
次々とわいてでる蟲に令は悲鳴をあげそうになる
「――吽」
アラバキが印を組んで手で空を薙ぐと
蟲は一瞬呻いて 1つになり蠢くも 破魔の力で弾けて消えた……
「令」
令の脚がガクガクと震え 吐き気が込み上げてきた
アラバキの腕にすがってしまう
「今のは御霊の力で生きる闇の魔鬼 それすらをも食らう蟲 人に言う蛆ににる」
「私には何かできるんですか?」
アラバキの腕にすがりながら
先程の鬼の屍をみないようにして令はいった
令にとって最大の勇気だった
自分に出来るのは神聖な地の気配を感じるだけ
予言出来なければ人を癒せるのでもない
普通の人間!こんな鬼のような生き物!ましてや御霊となんか戦える筈もない
ただ勾玉だけが令を元気づけるように脈打っている
「天照大神の姫巫女 君に伝わる力は「祈りの力」破の鏡を覚醒させるという その祈りの力が鷹揚の石鏡
そして柳踊の石鏡の力を増強させる」
「そして破の鏡の聖なる力をもって御霊朱雀を滅っせ得る!だから君には力を貸してほしい!鷹揚の石鏡を守るのだ」
アラバギの腕は見た目より遥かに頼もしかった
スラリとした長身なのに筋肉が無駄なくついている
その腕が令の不安を 逆立った思いを癒してくれる
彼に諭されるままに 令は後に続く決心をした
例えそれが危険で長い旅になろうとも 私に出来ることをしよう
そう誓った
小鳥達が令の決心を称えるように木の間を渡って ひとつふたつ声高にないた
第2章 大社
森が泣いている……
風が木の間を渡る度に
――ひゅう……ぅっ――
と……鳴った
風が強い
令は風に散ってしまう髪を押さえながら 先を歩くアラバギに続いた
陽が傾きはじめて 森の そこ ここに闇が産まれつつある
下生えの感触も何となく不安を掻き立てる
令は不安だった
決心はしたものの 闇がふえつつある闇に落ちていく森の中で
嫌でも鬼のことを思い出してしまう……
ふと
――ガサ……リ――
樹の上の方で何かが動いた
――!―――
思わず令はとびあがってしまう
「……何」
樹々の木の間を見つめると
小さな目が2つ令とぶつかった
「……ほっ……」
リスだった
可愛らしい まぁるい目だ 邪気のない動きでクリクリっと目を動かすとリスはサッと木の間に消えた
ふぅ…………
ため息が漏れる
考えている以上に緊張しあせっている自分がいた
――落ち着かなきゃ――
黒く長い髪をジーンズのポケットに入っていたゴム紐で束ねる
不安がってばかりじゃいられない
アラバギの足は速かった
闇に飲まれていく 道すらも不安定な森の中を ズンズンと まるで真昼の森の中を行くようにあるいていく
下生えも小さな薮でさえ アラバギを阻むことは無かった
――ジーンズでよかった
令はおもった
そう出なかったら今頃は脚が擦り傷だらけになっていただろうから……
樹々の冠を最後の茜に染めて遂に陽はおちた……
灯火もない ……
ともすれば見失いそうだ……
アラバギの生成の白は闇に溶けてしまうだろう……
蛍光の白が令には懐かしかった
――パキッ
枝をふんだ
森の深淵に近づく度に土の臭いと樹々の密度がましていく
令は少し小走りでアラバギの背に追いついた
春とはいえ夜はまだ冷える
樹々の放つひんやりとした空気はブラウスにジーンズという軽装の令を冷たく包んで突き放す
令はひとつ身震いをした
ぎゃあぎゃあぎゃあ
夜に住まう鳥が激しく鳴いて2人を威嚇する
樹々は伸びをして2人を飲み込もうとしているかのようだった
「ここだ」
アラバキがその足をとめた
しかしそこには樹々が犇めく鬱蒼とした林があるだけだった
枝達が揺らいで擦れ合い葉ずれのおとがする……
……怖い……
令は思った
アラバギは静かに1本の樹を見定めると 樹に手を押し付けた
アラバギの手が淡く緑色に発光する
その光はまるで葉を落とした水面に宿る水紋のように空気を伝播する
うぉぉぉん
空間が歪んだ
空間が捩れて全てが歪んでみえた
「――!――」
もろもろと辺りの樹々を形成する元素が崩れていき
再形成された時には
目前に道がのびていた
――りーーんっっ――
その道は白かった
白い石畳だ
暗くてもなお浮き出して見えるほどに白い
――りーーんっっ――
鈴の音が辺りに満ちてまた消えた
令は思わず歩き出していた
鈴の音が呼んでいるような気がする
深層に話しかけてくる
そして……また
――りーーんっっ――
鈴がなった
道の周りはどこまでも続く樹々のはやしだった
道中に黒く丸い柱が2本ぬっ……と立っている
近づいてみるとそれは朱かった
「――鳥居――」だった
神様の鳥が羽休めをする止まり木みたいだ
子供の頃 令はそう思った記憶がある
あれは何処の神社だったのか思い出せはしない
ザワ……リ
枝がまだ鳴った
令は鳥居をくぐるとゆっくりと深呼吸する
――りーーんっっ――
ついっ……と光が1条闇を割いた
細く一直線に その色は白く令の胸ポケットにしまった勾玉をめがけているかのようだった
――りーーん――
鳴っていたのは その光の源であるらしい
「光」
令は勾玉にブラウスの布地越しに触れてみる
――りーーんっ
光の源が鳴る度に勾玉も り……んと振動している
微かに ほんの僅かに
令は1歩 また1歩近ずいて行ってみる
光は眩しさを僅かに増した
少しまた少し近づいて令はわかった
社だ
闇の中にひとつ
アラバギの社より2回りは 大きな社がそこにあった
光源の輝きで社の戸の格子がぼんやりと浮かび上がっている
ぱっきんっっっ
空気が割れる音がしたなら こんな音だろうか
辺りがしんっと静まり返った
風の音も梟の声すらも聞こえない
「精霊の大社だ」
アラバギは静かに囁くようにいった
その声は闇に溶けるようで耳に心地よかった
「精霊の大社」
反してから令は勾玉を取り出した
滲んだ気配を感じる
勾玉が微かに脈打っている
――ぽうっっ――
勾玉が内側から輝いた
勾玉は令の手の中で静かに緑の光をあふれさせている
――きぃいぃいぃ……――
社の戸が静かにゆっくりと開いていく
「――!――」
不意に辺りが明るくなった気がした
ほの青い月が雲間から顔をだしたのだ
月光が静かに忍びいる
今まで闇に飲まれていたものが まるで拭われたかのように色彩を取り戻していく
その中でキラリと鈍色はそこにあった
銀に闇をとかし込んだかのような 滑りのある鏡面
周りの縁には細かい彫り込みが成されている
令は その輝きに一瞬にして魅入られてしまった
鷹揚の石鏡……
月光を弾くのでなく まるで飲み込むようにして それは輝いている
令はそれを静かに手に取った
重い……
確かな質量を感じる
ひやりとしていて その光は闇すらもうつしていた
鏡は丸く その周りの縁には鷹と榊 そして龍が線彫りで繊細に彫られている
その文様は石の地の色なのか赤かった
じわり……何かが石を通じて伝わってくる
それは石鏡の力なのだろうか……
令は鏡を見つめる
鈍色の鏡面にくっきりと令がうつりこんでいる
「綺麗」だった……
石鏡にうつった令は鈍色の中でまるで月光でうつしとったかのように 清らかな美しさを放っていた
自分じゃないみたい
まるで月の精のようだ
令が見惚れているとグイッとなにかが令の髪を掴んだ
「……!……」
令は鏡を取り落としそうになる
何?
令の髪を掴んだ腕は鏡の中から伸びていた
――!―――
令は思わずパニックになりアラバギを呼ぼうとした
しかし それは出来なかった
鏡が令の顔を飲み込んだのだ
腕が令を引きずり込む
鈍色 混乱 不安 狂気……
赤い法衣の男
彼は振り返った
「……ぐ……」
令は思わず息がつまる
グチャグチャ男は何かを食んでいた
その口は赤い
赤い……緋色をしていた
血だ……
血
男は人を食んでいたのだった
令の意識が遠のく 吐き気がする
令の頭の中を景色がぐるぐると回った
「姫巫女」
令が意識を失う前に聞いた声
それは地の底を這いずるような重く禍々しい声
そして粘つく血の匂い……
その中で令は意識を完全に失った
「令……」
「令…………」
誰かが呼ばわる
闇の中に令はいた
意識と身体が混沌とした何かに飲み込まれて身動きがとれない
目を閉じていても目が回ったような感覚が令を苛む
頭がパンクしそうな程に血液が集中しているのがわかった
誰か助けて……
令は闇の中で必死に手をのばした
「令」
声だけが令を揺さぶる
そして何かが令の頬に触れた
温かい……何か 手……?
その温もりに縋るように 令の意識は闇をよじ登る
温かい……手
……アラバギ……
長い黒髪の美しい男性が心配そうに令をのぞいていた
優しい瞳だ
包み込みそうな程に優しい
「アラバギ」
ほっとして令は2度彼の名を呼んだ
不思議と気持ちがおちついてくる
「令」
アラバギは心底ほっとしたように微笑んだ
どうやら令は鏡を見たとたんに取り込まれ意識を失ったらしい
社の周りに敷いてある白砂利の上に そうっと寝かされていた
令は静かに起き上がると 頭を緩やかに振った
まだ少しグラグラしている
目が回った後のような 不快な感覚
令は揺らぐ頭で静かに辺りを見回した
鈍色の仄暗い輝き……
鷹揚の石鏡が 令の足元においてあった
「……!……」
手繰りたくなくとも それは強引に溢れ出て来る
記憶……
鈍色の恐怖 めくるめく色と その恐怖に満ちた腕
そして 立ち込めていた異様な殺意と狂気
そして貪欲なまでの血肉への渇き
血
匂い
そして血肉を食むあの音
「!……」
極度の拒絶反応……
身体がガクガクと震える
涙と吐き気が また こみあげてきた
「……忘れろ」
アラバギが静かに令の頭を 抱いてくれる
また髪の匂いがした
薄荷のかおり
――ああそうなのだ……アラバギがいる
令の心を安息が満たした
「ありがとう」
令はアラバギの胸板に手をあてた
――とくん……とくん……
アラバギの心音が 温かく……しっかり……力強く響いてくる
ふとまた涙腺がゆるんだ
でも あの映像 否 実感 あれはなんだったのだろう
匂い そして音 気配まで感じた
「アラバギ……あれは何?」
令はしっかりとアラバキの服を掴みながら聞いた
そうしていないと また拒絶反応が起きて 自分がどうなるか不安だったのだ
……あれは……
アラバギは優しく令の背を撫でながら静かに口を開く
「鷹揚の石鏡に封じられた 御霊朱雀の怨念だ」
令は顔を上げた
御霊朱雀あれが……
………………令が思いをめぐらせた時
静かに「それ」はふってわいた
空気を濁し 闇から生まれたような
その気配
……!……
ひゅおっ!
アラバギが その手に刀を呼んだ
そして斜めに構える
……ぎぃいぃん
刀身と硬質の何物かが激突して火花を散らした
――!
「気配」は反転して宙に逃げ 2人と しばしの間をおいて着地する
ひた……り
アラバギは令を その背にかばうと
刀を握り直し正面に構えた
ぬらりと刀身が月光に煌めく
うぉるるる
月光の影にいて「それ」は何者なのか分からない
野犬のような
それにしては大きすぎる
……たしっ……
それは地を蹴った
獣の匂い 令は昼間のあの鬼を思い出していた
第3章 瘴鬼
一瞬……白いてらてらと光る牙が見えた気がした
黒い疾風
早すぎる……
令には見定めることすら出来ない
獣は涎の糸をひいて アラバギの懐へと躍り込んだ
アラバギは刀を立てて防戦する
一瞬……二瞬……三瞬
がぎりがぎりと刃が合わさる様な音が聞こえる
黒い疾風の間に時折 白く長い反射光がみえる
何物かが月光を反射しているらしい
金属と金属がぶつかる音が数撃聞こえる
そして一撃
疾風は その白い物体を振り下ろした
アラバギが刀身で受けると 青い火花が散った
「あ……」
一瞬だが動きを止めた それは やはり昼間の鬼……だった
しかし死に至る傷を負った 昼の鬼と違い 目前の鬼は
凄まじい生気を放っていた
眼が金紅色に光を放ち 殺意と血肉への渇望を宿している
鬼は振り下ろした腕に力をこめ……
アラバギを力押しに潰そうとした
アラバギの刀身が鬼の長い爪を受けて 僅かにきしぐ
がぎん……
鬼は宙で一回転すると アラバギから数瞬 離れた
そしてまた一撃……!
鎌鼬のそれだった
風圧で空間すら裂けた気がする
青白い刃跡の三日月
アラバギの衣を風圧が軽く裂いた
アラバギは鬼のもう一撃を 払い流して 一歩踏み出す
鬼の黒い腕が アラバギの頭部を目掛けて落ちてきた
瞬歩……アラバギは身を深く沈めると 刀で鬼を突いた
ざしっ……
黒い毛が舞う
中に血色の飛沫が混じっていた
突きは躱されてしまったが 僅かに鬼の皮膚を裂いた様だった
鬼は怯むことなくうちにかかる
アラバギの刃は鬼の爪を受け流すが
――!――
僅かに頬を爪が掠めた
赤い滴が端正な頬を伝う
鬼は軸足をバネにして弾丸のように アラバギに突きかかる
ガシッ
腕を上げてアラバギは鬼の一撃を受けた
腕が痺れる
ジワジワと衝撃が体を伝った
このままでは押し負ける……!
アラバギは沈むと見せて下から回し蹴りを見舞った
鬼は脚を狙われて一瞬怯むが 倒れはしなかった
しっかりと衝撃をこらえると 上から鋭い突きをくれる
アラバギの刃が煌めいて突きと交わる
ガシュ……
鬼の突いた腕を刀は裂いていた
黒い剛腕が肩に向かってふたつに裂け 血を迸らせている
肉色の刃跡から白く仄かに緋い骨が見えている
――ぎゃああ……ああ
鬼は耳を破らんばかりの 悲鳴を上げた
鉄の匂いが鼻をつく 鬼は僅かに飛び退ると 腕を抑え咆哮した
――うぉぉおおぉお……
その吠え声は まるで狼のそれであった
令は粟立つものを感じて思わず耳を覆った
月が白々と照らす中で鬼は首を伸ばして更に吼えた
アラバギがじりっと一歩間合いを詰め
刀の血糊を払い捨てた
そして構え 打ちこむ
気を練り込んでの一撃
しかしそれは横合いからの猛烈な衝撃に打ち消された
アラバギの身体が吹き飛ばされる
美しい黒髪が月光に舞い散った
ずさっ……っ
アラバギの身体が砂利の上を横に滑る
「――!――」
令は思わず駆け寄ろうとした
しかし横合いから のそりと出現したその影に
令の足は止まってしまう
鈍く光る金紅色
そして月光に光る白い糸
それはもう一体の鬼だった
令は悲鳴をあげることすら出来なかった
間近で見る鬼の威圧感
貪欲で 凄まじいまでの生命力の塊
黒く長い毛を月光にぬめらせて それはいた
涎が月光に白く糸を引いている
――るぉう――
軽く鬼は唸ると下から抉りあげるように令に打ち込む
しかし令の体は跳んでいた
「――!――」
背中に温かい気配を感じる
令が振り返るより先に2人は着地していた
「アラバギ」
令は彼に飛びすがった
「令」
アラバギは優しく抱きとめると令を背後へと押しやる
令の足元には鷹揚の石鏡が白砂利に埋もれて鈍く耀いていた
令は鏡を抱きしめるとアラバギの邪魔をしないように
数歩離れる
アラバギ怪我をしないで……
令は胸元に手を当てると そっと祈った
アラバギが疾駆する
刃が月光を弾いて 光が刀を滑った
跳躍
腕を裂いた鬼の元へ降り立つと同時に斜めに切り上げる
ザ……ッ
鮮血が吹き上がった
鬼は腹から胸にかけてを切り裂かれ たたらを踏んで倒れ込んだ
みるみる白砂利に鮮血が広がっていく
砂利は鬼の血を浴びて真紅に染った
しかしアラバギは返り血すら浴びていない
周りに透明な幕でもあるようだった
と……背後からもう一体の鬼の腕が宙を薙ぐ
アラバギは鬼の肩に手をつくと 綺麗に反転して背後に着地した
そして一撃 刀を伸ばす
「――!――」
しかし転瞬にして回転した鬼の振るう剛腕に阻まれ
アラバギは体勢を崩す
令は思わず鏡の縁にきつく指をたてた
がしゅ……
鬼の頭上からの一撃
重いまるで岩を落としたかのような一撃であった
アラバギの後頭部に鬼の拳が埋まる
「ぐぁっ!」
アラバギは大きく海老反りに反ると砂利の上に崩れた
……うう……う
まだ意識はあるようだ
しかし鬼は容赦ない二撃 三撃を加えてくる
アラバギの髪を鷲掴みにすると鬼は一撃
腹に拳を打ちこんだ
「ぐはっ」
アラバギ!
令は思わず駆け寄る
そして鬼の長い毛をむしり上げた
……しっ!鬼の黒い腕が振るわれる
「――!――」
令は顔面から肩口にかけての衝撃を受け跳ねとんだ
腕から石鏡が跳ぶ
「――……――」
令は砂利の上を滑った
首筋と頬がジンジンと熱く脈打って熱い涙が込み上げてくる
顔が真っ赤になって腫れ上がってゆくような感覚に襲われ令は悶絶する
――バキンっ――
鈍く石が割れる音
令は動けなかった
淡い光の螺旋が石鏡から立ち上がる
そしてそれはやがて光の渦になって月にかけ登った
――!――
令はアラバギを探す
アラバギ
――!!――
羅刹!?
アラバギの目は紅く染まっていた
仁王立ちに天空の月を見上げている
長い黒髪が月光に妖しく躍った
「アラバギ」
鬼がアラバギの心臓を狙って爪を打ちこむ
しかしアラバギは 辺りを照らす月光を竜巻にして鬼を包み込んだ
十文字に伸びる銀の風
――ばしゅうっ――
鬼の胸が弾けた
むね肉がごっそりとえぐれ 大きな傷が 心臓を裂いている
ぐぶぁ
鬼はうめくと血の泡を口から溢れさせ身体を傾がせた
しかしまだ倒れない
鮮血でその黒い毛を重く濡らしながら
まだ何かを訴えるように手を伸ばす
バキンっ
更に石鏡が割れた
もはや砕けたと言うに等しいだろう
「――!――」
鬼の傷が塞がっていく!
令は身じろいだ
そんな馬鹿な!確かにアラバギの刀は心臓を裂いたはずだった
――がる……ぐごぁ……――
鬼が 空を掴み取るようにして手を戦慄かせる
そして眼がくるりと翻り 令を捉えた
怨執……憎悪……殺意!
鬼はその腕を振るうと令に飛びかかってきた
「きゃ……」
令はあとじさる
ズドン
突如朱い柱が上がった
――ぐぎゃああああっ――
鬼がやかれていく
毛の先からそして皮膚をゆっくりと炙り上げていく
「ひっ……」
令は砂利の上にペタリと座り込んだ
足に力が入らない
立って居られなかった
焦げる臭いが鼻腔を刺激する
眼窩からトロリと鬼の眼が落ちた
「…………」
意識を失いそうになりながらも何とか令は踏とどまる
やがて鬼は消し炭になりもろもろと風に乗って消えていった
朱い柱が消えていく
その向こうにはアラバギがいた
眼が赤い
髪が紅いオーラを纏って月光に踊っている
令は怖かった
涙が溜まった瞳でアラバギを見つめると令は唇を噛む
アラバギは その令の瞳を見つめた
そして静かに紅いその瞳を閉じる
「…………」
開いた時にはアラバギの瞳は黒曜の黒にもどっていた
第4章 旅立ち
「令……」
アラバギは穏やかに言った
声が少し掠れている
紅いオーラもじわり じわりと収まって行った
後は滲むように体表を覆う 薄い膜のような光だけ……
「アラバギ」
令は駆け寄った
アラバギが駆け寄る令を掻き抱く
「もう……大丈夫だ」
令はアラバギの胸に顔をうずめた
ずうっとこうしていたいような そんな穏やかな温もりだった
「ごめんなさい」
令は溢れてくる涙を堪えきれずに
アラバギの服を握り締めた
――鷹揚の石鏡わっちゃった――
堪えられない アラバギの優しい抱擁を受けてしまうと 令の心は軋んだ
「――ごめんなさい――」
アラバギは優しく令の頭を撫でてくれた
慈しむように柔らかく……
令は涙がとまらなかった
「大丈夫だ……」
アラバギの形の良い唇が何度も繰り返す
令はあやされるように アラバギの胸で泣いた
一頻り泣いて令は頭をあげた
アラバギが静かに見下ろしている
頬の薄い傷が痛々しかった
「鷹揚の石鏡は割れた しかし我々には柳踊の石鏡がある そして令……君がいる」
アラバギの大きな手が令の頬を包んだ
「ついてきてくれるな」
令は1つ頷く
「行きます」
柔らかくアラバギは微笑んだ
美しすぎる容貌は 時として冷たさを招くが アラバギの笑顔には朝日の柔らかさがあった
彼の笑顔を見たなら 氷の中の花でも咲きそうだ
令は赤い目を擦りながらクスリと笑った
森の1片を暁の光が撫でていく
朝が2人のその姿を迎えた
美しい朝 オレンジ色の光が 空を森を照らしていく
アラバギの美しいおもてを柔な朝の光がてらしだした
「これから この森を出て 夕霧の山へとむかう そこに柳踊の石鏡と 我が「兄弟」が眠っている」
「兄弟?」
令はかえした
「ラキ……水の者だ ちょっと変わったヤツだが」
アラバギは何かを思い返しているようだった
水……水……アラバギが風を使ったように ラキは水を繰るのだろうか……
令は思いを巡らせた
風に水…… 御霊を封じた鏡……
あの鏡に宿った邪悪さは一体…
あれは 令を呪い殺そうとしていた
あの渦巻く憎悪と 血の匂いは一生忘れられはしない……
令はあの法衣の男の顔を思い出して 身震いした
痩せていて 眼が落ち窪みどす黒い隈がある
そして爬虫類の様な眼
人間でありながら 人間の歯をもちながら 人肉を 生肉を食んでいた
その口を人間の血で染めて……
「石鏡……あれに封じられていたのが 御霊朱雀だとするなら もう1つは封印が解けてしまったということ?」
令が不安そうに目をふせた
「復活したら……」
令は自らの身体を抱くようにして身を竦めた
「いや……まだ封印は解けない……
鷹揚の石鏡には御霊朱雀の「頭」が封じられていた」
「頭?」
「そうだ柳踊の石鏡には「身体」が封じられている 朱雀は首と身体 魂を分けて封印されているのだ
その封印は三角を成している
その真ん中に荒魂神社が配されて 完全な封印と化していた
しかし人間が その禁を破ったのだ
荒魂神社を開発の為にこわしてしまった……
動かしてはならなかったんだ
そして魂を封じた石碑のある大社すら行方がしれない
感知ができないのだ」
アラバギが静かに瞑目する
「朱雀は ある大きな寺の僧侶だった
皆から慕われ 徳の人と敬われていた
神将までも呼び出せるとされ帝からもたよられていた」
「しかし朱雀は堕ちてしまった」
「女を 人の妻を愛してしまったのだ
その女人は さる高貴な方で 千尋の髪と麗しい美貌の人だった」
「身を清め誓願をたてていた朱雀は 愛してはいけない人を愛し情欲にその身をおとした」
「しかしその女人は人の妻
朱雀は煩悩に悩み狂った挙句……ついにその人を手にかけてしまう
しかし殺めただけでは済まなかった
女人の腹を裂き内臓を……そして骨にいたるまで
しゃぶり尽くしてしまったのだ」
令は己の腕に爪をたて眉をしかめた鳥肌が全身を駆け回る
「その後も朱雀は堕ちて行く 寺におさめられ埋葬を依頼された屍を夜中に喰らうようになっていったのだ」
「埋葬された桶を掘ったところ骨と死肉が僅かにのこるだけだった」
令はかぶりを振る
「それが帝の耳にはいり朱雀は追われる身になった
生きた人間を そして屍を食料にして朱雀は生き延びた」
「しかし人間であった朱雀は 帝の近衛の武士 そして僧侶達に追い詰められ」
「ついに その首を狩られた 」
「朱雀の法衣は喰らわれた人間達の血で どす黒く変色していたという」
「朱雀の首は帝のもとへ持ち帰られ
朱雀復活を恐れた帝によって首と身体を分けて埋葬された」
「しかし朱雀は甦った……首だけになって……」
アラバギは一呼吸置くと再びかたりはじめる
「朱雀の首は先ず帝の寝所に現れた
そして凄まじい呪詛を吐いたという
そして帝に仕える女房達の喉笛に食らいつき 噛み殺していった
後に残るは喉笛を食い破られた屍の山……」
「朱雀の身体は何時までも薄まらぬ毒素を放ち
周囲の村々を悉く滅ぼした」
「陰陽師は手を尽くしたが朱雀を封じるには至らず……何人もの陰陽師が殺され打つ手はなしとまで嘆かれた」
「しかし天啓は下った
天照大神は巫女を下されたのだ 聡明で美しく露のような人だった」
「名を静という
清らかな処女で高僧をも凌ぐ神通力をさずかっていた」
「そして朱雀と姫巫女の壮絶な戦いは始まった
朱雀は邪気より生んだ鬼
魑魅魍魎 百鬼夜行 そして闇より暗きものを従えて
戦いを挑んだ
その軍勢は闇夜を更に暗く染めたという
対する姫巫女は 神々の水が流れる川で禊をし
聖なる鏡と天照大神よりつかわされた四精霊を伴い
その軍勢を迎え撃った」
「雲が澱み 霧が立ち込め 月が紅く染まった
堀には悪鬼の屍が満ち その呪いが近隣の村々にいたるまでを満たし 赤子を病人を殺した」
「しかし姫巫女は 高天の光と祈りをもって朱雀を討ち取る」
「聖なる鏡の破魔の力により朱雀は抑えられ
2つの石鏡と石碑にその身体をふうじられた
そして姫巫女は都の周囲3点を選び結界を張り各自に精霊と 封印体である鏡を奉って その管理を精霊に託した そうそれが私達だ」
アラバギの瞳が 艶やかに黒曜に潤んだ
姫巫女を 静を思い出しているのだろうか?
令はもしかしたら……と思った
もしかしたらアラバギは静がすきだったのでは
美しい美貌に強い意思を湛えた瞳
彫りの深い顔立ちが考え深げに俯いている
令は思わず見とれてしまう
アラバギみたいな人に愛されたら そして護られたら
女性として幸せだろうな
令は静にちょっとやきもちをやいた
それでも今は側にいる
それでいい そう思った
木漏れ日が静かに令の手に肩に面差しに 光の粒を撒き始める
令は瞳を細めて木の間を見やった
朝が鳥の姿を運んでいる
じゃり……
靴底を伝わって砂利の粒が足裏に痛い
令は 再びアラバギを見つめた
アラバギは柔らかく微笑んでくれる
「いこう……夕霧の山までは3日はかかる」
令は1つ頷くと 歩き出したアラバギに続き
光の粒の波を掻き分けるように歩き出した
白い道が目に痛い
朱い鳥居が青空を裂く様にして建っている
鳥居の上部は直線的な造りになっている
神明系と言うらしい
令は鳥居の笠木を眺めた
白い……目に痛い程に白い鳥がいる
ふぅ……鳥と目が合った気がした
しかし そんなはずは無いのだ
笠木はかなり高い所にあるのだし
まさか目があおう筈もない
令は視線から逃れるようにそそくさと駆けだした
しかし鳥はみていた
赤い紅珊瑚の瞳を令の後ろ姿に据えると静かに身じろぐ 白い羽根が白光を帯びて陽光に煌めいた
ぱささささ……
乾いた羽音をたてて鳥は空高く舞い去っていった
その空はどこまでも抜けるように青かった
第5章 珍……道中?
2人は 朝の光に輝く森を抜けて 舗装された道へとでた
所々ひび割れたアスファルトが雑草をはえださせている
「ん――――っ」
令は1つ伸びをした
人の手が入った空気に触れる
不思議だ
人はいつからだろうか?
自然の中に安らぎを 見出しながら 都会のアスファルトに安堵する
色褪せ 赤錆びたガードレールが途切れ途切れにつづいていく
風が 背後の森の香りを運んで 2人の首筋をなぶっていった
2人は そんな道をポツリポツリと行く
小さな店が寂れながらも1つ道の右側にあった
トタン屋根
本当に小さな店で いつもお婆さんが1人 店番をしている
そこは令が森へ行く道すがら いつも立ち寄るみせだった
まあるいお婆さんが いつも丁寧に アイスクリームの冷蔵庫のガラスを磨いている
今日も お婆さんは 穏やかな笑顔で 迎えてくれた
「こんにちは」
満面の笑顔だ
笑うと目の端に笑いじわがよる
令は不思議と穏やかな気持ちになった
「こんにちは」
令が丁寧に会釈する
アラバギも令に習った
白装束に長髪の男性 普通ならちょっとは驚きそうなものだが お婆さんは驚かなかった
いつもと変わらぬ笑顔を くれる
令はいつもここで 瓶の牛乳を飲むのが日課だった
今日はアイスクリームにしよう
小さな冷蔵庫の引き戸を ちょっと力を入れて開けると 中には氷の霜に隠れて 紙カップのアイスクリームが
チラホラとある
令はテレビで宣伝している バニラのアイスクリームを2つ取り出した
「200円ね」
きっちりその値段だ
お婆さんは 消費税というものをつけたことがなかった
青いパッケージのアイスクリームに 紙袋に入ったヘラをくれる
令は1つをアラバギに渡す
「……………………」
「――?――」
何故だろう アラバギが 僅かに戸惑ったような顔をしている
両手で 丸い紙カップを しっかり丁寧に包み込んで じっくりと眺めている
冷たいだろうに……
令は暫く考えて ようやく合点がいった
そうだ そうなのだ
アラバギはアイスクリームというものを初めて見たに違いない
令はにっこりわらった
何だか戸惑っているアラバギが 妙に新鮮だった
親近感を感じて 頬が自然と弛んでしまう
「これは……」
アラバギがアイスクリームから顔を上げると当惑気味に訊ねる
ちょっとかわいい
神様に失礼かな
令はアラバギの傍に寄ると そっと蓋を開けてあげた
白い……バニラの色 甘い香りがする
アラバギの手の熱で アイスの縁が ほんのりと溶けだしている
令はヘラを剥いてあげると 柔らかく 1すくい
アラバギの口に入れてあげた
令より頭2つは背が高い
ちょっと伸びをした
シャリ……
アラバギは少し戸惑いながら 口に含んで 目を瞬いた
「甘い」
ほんのりと甘くて 濃厚で それでいてしつこくない
とろける様な爽やかな味がした
令は 小さく笑うとヘラを手に持たせ
自分のアイスクリームの蓋を開けた
溶けていない かたいくらいのアイスクリームもいいが ちょっと熔けたアイスクリームも令の好みだ
口に入れて ニッコリ 令は微笑んでしまう
「――!―――」
アラバギと はたと目があって 令はちょっと赤面した
アラバギは本当に嬉しそうに目を細めて笑うと
2口 3口と口に運ぶ
その笑顔があまりにも純粋で 嬉しそうで……
令は アイスを口に入れるのも忘れて魅入ってしまった
「美味しいな」
アラバギは弾ける程嬉しそうだ
こんな神様を知っているのなんて令ぐらいだろう
令は最後の1口を食べ終えると カップを2つ お店の前のポリ容器に入れた
清々しい感じがする
体温が少し下がって 気合いが入った
「行こう」
令が先頭を切る
この道は通い慣れた道だった
少し行けば車通りもある
駅のある繁華街までは徒歩30分の道程
令は いつもこの道をぶらりぶらりと草花を愛でながら歩いていた
白いマムの一種が道端にある
白い蝶が花にまとわっていた
ふいっ
暫く花をくすぐって蝶は風に消える
のどかだった
今 鬼とあってきた
神様が側にいる
到底起こりっこない そんな気さえする
と……後ろから車が走ってくる音がした
白い ちょっとくたびれた軽トラックが1台
令達を見掛けてかスピードを弛める
「なんだいお兄さん何かの撮影かい?」
声をかけてきたのは 良く日に焼けた中年くらいの男性だった
人懐っこそうに笑ってドアを開ける
飾らない 明け透けな 気持ちの良さそうな人だった
ふと見ると荷台に農作業用の肥料が積んである
どうやら農家の人らしい
令はちょっと面食らったが とにかくアラバギを撮影会のモデルだということにして切り抜けにかかった
「いやあ……お兄さん いい男だねぇ……お姉さんも 惚れ惚れするよ」
じっくり眺められて声も出ない
「おじさんね 真昼のメロドラマが好きなんだけど
お姉さん女優さんなら藍野智子しってるかな
可愛くってほら女子高生役の」
まったくわからなかった
令はメロドラマ系はあまり見ないし アラバギはきょとんとしている
令はますます困ってしまった
「智子ちゃんがねーまた良い演技でね こうお茶の間の心を鷲掴みってゆーかねー
お姉さん名前 芸名なんて言うの可愛よねー
でも智子ちゃんのぱっちりお目々には負けるかなー
お兄さんは何かの役?」
取り付く島がなかった
汗がたらたらと吹き出してくる
「あ……あの」
「なんだったら乗ってく?どこまで行くの?」
何だか押し切られそうだ
令は溜め息をついてアラバギの横顔をチラリと見る
アラバギは なんだか気を取り直したようで しきりに
トラックを眺めている
「鉄の車だ……牛車ではないのか……」
ぽそり
アラバギが呟いた
「…………!…………」
もしかして
令は眉間に手を当てる
ちょっと頭痛がしてきた
アラバギの頭の中は今 未知なる物でいっぱいなのだろう
この場合アラバギは当てにならないとみていい
ちょっと かぶりを振る
「乗っていきな……駅前のスーパーによる用事があるから街までならのっけてやれるよ」
満面の笑顔……限りなく純粋な好意だ
「あ……」
断りづらくなって令は顔をふせた
「乗っていこう」
おもむろに連れであるアラバギが動いて令は慌てた
さっさと乗り込もうとしている
だって私たちどう見たって普通じゃない……
オマケに鬼にあわないとも限らないのに……
令は叫びたかった
しかし無駄だと悟った
アラバギの目が克明に示している
「乗りたい」のだ……
多分……
令はカックリ項垂れた
アラバギは好奇心剥き出しの子供のような瞳でどこにでもある普通の 一般的な軽トラックを
まるで宝でも見るように眺め回し触れたくてうずうずしているようだった
はぁ
令は先が思いやられた
大丈夫なのー!
令の心の叫びを笑うようにトラックのエンジンがふかされる
ちょっと減ったタイヤがアスファルトを噛んでトラックは行く
嗚呼……珍道中……
きっと このままでは終わらないだろう
そう令の心配はすぐに現実のものになったのだった
トラックの荷台を2人で占拠して 令は青空を眺めた
青い空
まるで空に天国の泉を浮かべたかのようだ
ガタタン
アスファルトがひび割れている為に 時々大きく揺れる
アラバギは髪をなびかせながら 膝を引き寄せ 体育座りのような格好で過ぎ行く景色を その黒曜に写していた
ガードレールが次第に手の入った白いものにかわってくる
街路樹が その影をアスファルトに落とし 僅かな光の粒をおとしている
「ふぅ……」
令は体育座りの自分の膝に顎をのせた
なんだかどっと疲れた気がする
あの時はどうなる事かと思ったのだ
白い装束
それがいけない
人の目をひいてしまうのだ
また好奇の目で見られてしまうというのも ちょっと
否 かなりいやだった
街に着いたら服を調達しなくちゃ
しかし令は5000円しかもってなかった
昨日 母親がお小遣いにとくれたものだ
令は月始めに1回5000円を貰っている
それが全額飛ぶかもしれない
令は ちょっとしんみりした
「いや……すごい速さだな……」
アラバギはちっともわかってない……
いや 悪気は無いのだろう
令は無理に納得する
すれ違っていく車が徐々に増えていく
赤い車がすり抜けて行き
可愛いレトリバーが車窓から身をのりだした
令達をみて首をかしげ ワンっと1回 大きく吠える
令はちょっと笑って アイボリーの観察者に手を振った
令は犬や猫 動物が大好きだった
散歩中の犬に行きあうとついつい撫で回してしまう
さすられて喜んでくれる犬が飛びついてくれるのが 何より嬉しい
クスッ
プーちゃんはどうしているだろう
令は我が家のプリンス君の事を思い出して ふんわり笑った
そうこうしているうちにトラックは街に入っていく
ちょっと外れにある古いシネマ
そしてひさしが日に焼けた 令 御用達の駄菓子屋
トラックは ちょっとスピードを落とした
流行りの曲が かなりの音量で流されているCD屋
そして隣にあるのが薬局
次々と 目の前を過ぎていく 令にとっては見慣れた景色……なんだか妙に切ない
令は目を細めると自分の身体を抱いた
なんだかノスタルジーを強く感じる
育った街なのに まったくしらないような
それでいて胸が痛い程に懐かしい
目がうるんで そっと袖で拭う
ふわり……暖かい気配が背中を包んでくれる
アラバギの暖かい手が 令の背中に触れていた
「大丈夫だ私が護る」
強い……包み込むような穏やかな声……
令は目を閉じる
涙が1粒 頬を伝った
「ありがとう」
アラバギの その心根が嬉しい
令は不覚にも溢れはじめた涙を手で払いながら
クチャクチャな笑顔を浮かべた
「どうした」
アラバギが問う
「だって……だって……さっきとは別人みたいなんだもん」
令は泣きながら笑った
可笑しい
「…………」
ちょっとアラバギの顔に朱が差す
猛烈に恥ずかしかったのかもしれない…………
令は 吹き出してしまった
「あはは」
「令!」
コンっ!
と アラバギが令を小突く
令は笑い泣きをしながら思った
大好き
人間として好き
私は貴方が好きです
アラバギは紅く染まった顔を 更に紅くして 髪をかきあげ 頭をかいた
トラックは静かに ロータリーに滑り込む
小さなロータリーをクルリとまわり込むと ちょっと揺れて止まった
街と言うには少し寂しいが 駅の近くには スーパーも
商店街もある
百貨店とかビルが林立する都市よりは ずっと素敵だ
令は思った
「ここで大丈夫かい」
おじさんが トラックを降りて荷台の方へ駆けてくる
「はい!ありがとうございます」
令はお礼を述べて にっこり笑う
さっきとはうってかわった 明るいハキハキとした笑顔 憑き物が落ちたような 不思議な感覚だった
おじさんはニッカリと歯を見せて笑うと親指を突き出して見せる
「なんのなんの 別にテレビで宣伝なんてせんでいいから」
くれぐれも悪気はない
「…………」
令は顔を伝う汗をちょっと拭った
「なはは……智子ちゃんによろしくな」
だから違うんです……
おじさんは豪快に笑って エンジンをかける
「スキャンダルは ダメだよーお姉ちゃん」
違・い・ま・す!
令は真っ赤になった
そんな令達を置いて トラックは静かにロータリーを出ていく
ロータリーの中央に植わった欅が 風に光を映してゆれる
令は力を入れていた肩を緩めると大きく溜め息をついた
「もう!」
錆の浮いたバスの時刻表でも殴ってやりたい気分だ
アラバギは そんな令を不思議そうに眺めている
スキャンダルってなんだろう
令は 気を取り直すと靴紐を締め直した
「アラバギ……服を調達しなくちゃ」
事は切実なのだった
人通りが少ないとはいえ スーパーの買い物帰りのおばさん達が目立つ
すらりとした美丈夫がくっきりとした白を着て立っているのだ
目立たない はずがない
令はとりあえず 近くの商店街を覗いて見ることにした
大きなお店などは一先ず避けたかった
駅のロータリーから少し歩いた所に あさひな商店街がある
小さなこじんまりとした良店が並ぶ 細い商店街ロード
ちょっと薄暗い
令は周りを見渡しながら 商店街の門をくぐった
ひさしとひさしが上でぶつかりそうな程の狭い道
路地と言った方が似つかわしいかもしれない
まずは紳士服
入ってすぐに洋服屋があったはずだ
令はビニールに入った服の並んだ店の軒をくぐる
「こんにちは」
明るい声が商店街の薄暗さを震わせた
「はいはい」
人の良さそうなおばさんが 薄い青の割烹着を着て出てくる
「あの紳士服はありますか?」
おばさんは ちょっと考えて
「そうねぇ……お父さんにあげるの?それともお爺ちゃん?」
からからと笑う
笑うと目がほそまって まるで糸みたいだ
「春とはいえまだ冷えるから そうねぇ」
次から次へと 腹巻からラクダの股引に至るまで出してくれる
「あのう……この人になんですけど」
令が申し訳無さそうにアラバギを紹介すると おばさんは糸のような目を まん丸に見開いて
「そうなのー」
と言って 慌てて奥へ引っ込んで行った
「?」
店の奥に座敷が見え ガサガサと音がしている
「そーねー」
おばさんは何かを探しているようだ
「あのー」
「これなんてどうかしら?」
再び奥から出てきた時には ちょっと古い パリパリのビニールに入ったスウェットスーツを持っていた
「………………」
色がピンク……
令は冷や汗が流れるのを感じた
目立つ事この上ないかもしれない
「他に色はないですか?」
これ以上目立つのは避けたい
おばさんは細い目を更に細くすると
「あら……困ったわねーこれしかないのよー 後は恐竜の柄とかならあるけど……そっちでもいい?」
と奥へとって返そうとする
「きょ……恐竜」
「あ……いーえ いーえ あの それでいいです」
令は慌てて おばさんを 呼び止めた
なんだか とんでもない方へ 転がって行っている気がする
令は泣く泣く 1980円を払ってスウェットを購入した
「ありがとうね」
おばさんは明るく笑いながら白いビニールの手さげにいれてくれる
「あ……そうだ これオマケね」
藍色のソックスをササッと入れてくれた
「あ……ありがとうございます」
そういう所が商売なのだ
商店街の心意気
令は感謝して1つ頭を下げる
「……だってねぇ……貴女みたいに若い子珍しいのよー おばさん嬉しくって」
にこやかにお釣りを令の手に握らせてくれた
令はお礼を言って店を出ると 3軒先の靴屋に向かう
名を「あざみ野靴店」という
緑と赤の縞模様のひさしが 薄暗い中にも鮮やかだ
「いらっしゃい」
おじさんが野太い声で迎えてくれた
「あの……男性用のスニーカーか何かありますか?」
お金がない
切実なのだ
1500円くらいの靴は無いだろうか?
令はキョロキョロと辺りを見回す
棚にあるのは 10000円位する 高級バッシュや 一流メーカーのスニーカーばかり
令はため息をついた
「スニーカーねー ここに出てるのと そうだねー
無地ので安いので良ければ あのワゴンにでてるよ」
ちょっと錆の浮いた 金属製のワゴンに 白いスニーカーの山が出来ている
令は そこへかけていくと 目を皿のようにして探しはじめた
「えっと……」
しばらく見繕って気づいた
アラバギのサイズを知らない
令はアラバギを引っ張って来ると片っ端からならべてみる
26cm……ちょっと いや かなりきついみたいだ
令は27cmを引っ張り出した
アラバギはあわせてみる
ちょうど良さそうかな?
令はある程度の緩みがあるかどうかしらべてみる
ぴったりだが ピッタリすぎる気がする
27.5cmを探し出しアラバギの足にあわせてみた
ぴったりだ
緩みも少しあるし
満足してふんぞり返ってみて令は気づいた
まるで主婦みたい!
考えて 少し赤くなった
値段が780円
「……!……780円」
願ったり叶ったりだった
令はお会計を済ませると 再び洋服屋のおばさんの所へもどった
「すみません ちょっと着替えさせて下さい」
おばさんは 令をみて嬉しそうに笑うと快諾してくれる
「奥の座敷を使ってちょうだい」
2人を店の奥の座敷にあげてくれた
「それにしても変わった服をきてるわねー
なんて言うのかしら そう古事記の人がきているみたいな!これじゃあ目立ったでしょうに」
そうなのだ
農家のおじさんには何かの撮影だと言われるし
令は嘆息すると アラバギだけを座敷にのこしてでてきた
着替えを覗く訳には行かない
令はアラバギのスウェット姿を想像してくすくす笑った
案外似合うかもしれない
スウェットの色も確かにピンクだが ショッキングというふうでは無いので 少し安心した
上品な桃色
胸元にはJ.Kとぬいとりが入っていた
「はい」
おばさんが暖かいお茶を差し出してくれる
レジ脇のポットのお湯で淹れてくれたらしかった
令は感謝して受け取る
ほの甘い玉露の味がした
一口飲んで大きく息をつく 結構気を張っていたのか 肩の辺りが重かった
「ねぇ……2人は恋人なの?」
思わずのめってしまう
「違いますよ……だったら嬉しいですけど……あのですね……」
しどろもどろになった
「あらあら」
真っ赤になって否定する令をおばさんは楽しそうに見ている
「彼は……雲の上の存在です」
令は ちょっと寂しげに呟いた
アラバギは精霊 天照によって姫巫女につかわされた神族なのだ
到底 恋愛対象としてみていい人物ではない
令は哀しげに微笑んだ
「かっこいい人よね ちょっと抜けている所もありそうだけど」
おばさんがコロコロ笑う
「そうですね」
令もつられてクスリと笑った
「令」
座敷からアラバギが呼ばわる
ちょっと上擦った 恥ずかしそうな声だ
令はぴょこっと顔を差し入れてみる
「…………わ」
「どうだ?」
恥ずかしげに顔を赤くしてアラバギは立っていた
上品な桃色がアラバギの気品を引き立てている
令は目を見開いた
似合う
只のスウェットなのにまるで 誂えたかのようだ
「綺麗」
令は思ったことを そのまま口にしていた
「華」がある
人目をひいてしまうのは確実だろう
アラバギが軽く頭をかいた
「凄く似合ってる」
更にアラバギが顔を赤くした
「「桃花」の色などあるのだな」
柔らかく笑う
満更でも無さそうだ
令はクスリと笑った
「あら……まあ……似合うじゃない」
おばさんも顔を出す
アラバギは顔をちょっとふせながら 座敷を出てきた
何だか まだちょっと気恥しそうだ
令は買ったスニーカーを揃えてやる
アラバギは静かに藍色の足をスニーカーに下ろした
爪先を入れて確かめて見る よさそうだ
令は紐を整えてやる
とんとん
爪先で石床を叩いて アラバギは満足気に笑った
「気に入った」
令も思わずニッコリする
「行けそうだ」
2人は おばさんにお礼を言うと店をでた
「気をつけていくのよ」
おばさんが見送ってくれる
令はちょっと鼻が高かった
薄暗い中でも引き立つ程の美しい男性が連れなのだ
自然と顔が緩んでしまう
駅前ロータリーにでると 明るい日射しが一気に2人を染め抜いた
スーパー帰りのおばさんや おぱあちゃん おじいちゃんが ちらりほらりとあるいている
令は煉瓦色の駅前通りを駆け出した
「令」
アラバギも当然それに習う
切符の販売機の前で立ち止まって 令は運賃表を見上げた
「夕霧の山……地名さえわかるなら電車の方がはやいんだけど」
浮き立つような冒険に出かけるような不思議な感覚がする
不謹慎かもしれない
「
令は目線で日に焼けた路線図を辿ってみた
金ヶ
とばしとばしによんでいってみる
「
「あ…」
「雪景」
色褪せて黄ばんだ路線図の1番終点にそれはあった
いい響きだ
令は目を閉じた
白い雪が しんしんと降る息すら凍りそうな景色
その中で樹氷が煌めいている
「あまりの雪景色の美しさに帝の姫君が賜われた名だそうだ」
アラバギが傍に寄り添う
令はこの街の出身でありながら 終点まで行ったことはなかった
秘境の様な感じがする
運賃は680円
片道なら何とかなりそうだ
令は 白い財布からお金を取り出して切符の販売機に投入する
カチリカチリ……
小銭が通って行く音がする
「雪景」
大人2枚を押して680のボタンを押した
ピッ
橙色の切符が2枚すべり出てくる
「いこう」
令はそれを掴み取るとアラバギの手を引いた
「ああ」
アラバギは促されるままに令に続く
やっと馴染んできた自動改札を抜けると下り線への階段をおりる
「こんにちは」
階段を掃除しているおばさんとすれ違った
「こんにちは」
おばさんは腰を伸ばしながら見おくってくれる
令は駅が好きだった
無限の可能性を感じる
何処へでもつながっている
そう感じた
それに今は彼がいる
令はアラバギの手を握りなおした
こうしていると不思議と不安がけしとぶ
自然と浮かぶ微笑みを浮かべて令は凛と前を見据えた
やれることはやってみせる
令は決意を新たにした
第6章 夕霧の山
オレンジの車体に緑の1本線の電車が ホームに滑り込んでくる
行き先は雪景とある
普通列車だ
中のシートは紺色で まばらに人の姿が見える
令はアラバギの手を引いて乗り込むと
すぐ脇のシートに腰をおろす
暖かい春の日差しが背中を暖めてくれる
少し前の席で行商のおばさんが こっくりこっくりと舟を漕いでいるのが見えた
令はアラバギの手を握ったまま目を細める
暖かい
眠ってしまいそうだった
ガックン
大きく揺れて列車は動き出す
令は目を瞬いて空いている方の手で目を擦った
一気に緊張が和らぐ
コツン
頭が横に傾いでアラバギの肩にあたる
「あ……」
令は慌てて体勢を立て直す
すると再び こつん…睡魔が襲った
「令……寝てていいから」
アラバギが そっと令の頭を引き寄せる
「ん……」
令は 微かに頷くと アラバギのしっかりとした肩に
頭を預けた
「ありがとう」
アラバギの声がひどく遠く聞こえる
令は目を閉じた
「ありがとう……」
それは令の言いたい言葉の筈なのに
アラバギは何度もその言葉を繰り返す
令は緩く首を振って 睡魔の微睡みに落ちていった
「ありがとう……」
令は心地好い微睡みにたゆたっていた
暖かい日差しと アラバギの匂い
体が痺れたような安息があった
かたん……かたん……
電車の振動が心地いい
令は夢を見た
うっすらと立ち込める光の靄の中に落ちて行く夢
その靄の中には深い緑に囲まれた
鏡面の湖があった
水面を靄が走っている
ぱちゃん
小魚が小さく跳ねた
「綺麗」
鏡面に緑の樹木が映り込んでいる
とても広い湖だった
しかしはじめて来たにも関わらず 令は湖の名前をしっていた
令は辺りを見回した
さや
風が木立を渡る
風が湖面を揺らす度に 細波が令の足元に寄る
令は水をすくおうと静かに膝をおった
手を浸してみる
冷たい
素晴らしい透明度だ
微かに手に痛い程に美しかった
……令……
令はそっと水を口元に運ぶ
甘い水の味がした
……令……
冷たい甘さが喉を滑っていく
令は癒された気がして目を閉じた
……令……………………
再び 目を開けると 湖面に写る令の背後に美しい
その「人」がいた
美しい白椿
面が白く 淡い紅がひかれている 髪は黒絹糸
瞳はあくまでも透き通った茶水晶
「令」
ゆるく首を傾げて彼女は呼んだ
やわらかい土鈴の音色
令は吸い寄せられてしまう
「姫巫女」
やわらく儚く 彼女は微笑んだ
天照
薄桃色の薄絹 薄蓬の羽衣
長い黒絹糸が肩から足元に至るまでを飾っていた
天照
彼女だ
サギゴケの花が風に揺れている
淡い薄桃と紫の花
「令」
彼女は呼んだ
そして茶水晶の深い瞳にわずかに悲しみを湛える
「令」
天照は白い御手を令に差し伸べた
「あなたは耐えられますか」
深い深い悲しみ
彼女の辛い気持ちが深く染み入ってくる
なんで……ですか……
思わず涙が伝ってくる
別に悲しくなんかないのに
涙を拭うと 手が痛い程 深い涙だった
頬が熱い
ふぅ……
天照は消えた
じわり……勾玉が熱を帯びる
「アマテラス」
風が足元から渦巻いた
「う…………」
儚い花たちが花弁を吹雪かせる
「令」
目を開けると 電車の窓が目にはいった
「あ……」
暫し瞬いて 令は顔を上げる
アラバギの肩が僅かに濡れていた
「あ……」
頬が熱い
令は頬に触れてみる
…………濡れていた
涙……
泣いてなどいないはずなのに……
令は慌ててハンカチで拭った
「どうした?」
アラバギが手を伸ばして令の頭にふれる
そして軽く髪をかき混ぜた
「大丈夫」
悲しくなどない ただ胸の奥に棘がささったような……
そんな感じがする
「……天照にあったの」
1つ深呼吸する
「天照に……」
アラバギの黒曜が感慨深げに潤む
「なにか……何か言いたそうだった」
令は天照の眼差しをおもいだした
茶水晶の揺らめき 悲しみにくすんでいた
憂いを湛えた瞳……深い沈黙の慟哭
何が言いたかったのだろう
令は唇を噛んだ
「次は野洲里……野洲里お降りのお客様はお忘れ物ののございませんよう」
若い車掌のアナウンスが聞こえてくる
令は ハッと顔をあげた
確か雪景は次の駅である
つい先刻寝込んだ筈なのに もう着いている
令は大分寝込んでいたらしかった
オレンジ色の電車は人気のない駅のホームに滑り込む
屋根がスレートで 色あせた青の腰掛けが並んでいた
屋根と形ばかりの雨避けがあるだけの吹き晒しの駅
駅名が雨風に晒されて 微かに「やすさと」と読める
「やすさと」の「さ」の下の部分が掠れていた
降りる人もなく電車は再び滑り出す
辺りの風景も 緑が目立ち 窓から入る空気も土と木の香りを纏っていた
車窓の外を淡紅の花をつけた木々が過ぎる
「雪景はつぎよ」
令はシートに腰をすえた
とにかく今考えても仕方ないのだ
そう……ただの夢かもしれない
野洲里から雪景まではかなりの距離があった
10分くらいか
アラバギの斜め横の開いた窓から風が吹き込みアラバギの髪をなぶって行った
「いよいよだな」
アラバギの端正な面が引き締まる
「ラキ……相変わらずでは無ければいいが」
彼の声に 懐かしさと嘆息にも似たものを令は見出して首を傾げた
どんな人なんだろう
「ラキ」
2人を乗せて電車は山間の終着点「雪景」へとすべりこんだ
鳥達の声が 緑と青の切り抜いたかのような 世界に響き渡る
駅のホームの屋根近くにまでネムの木が枝をのばしていた
もうひと月 ふた月すれば あの繊細な花が咲くのだろう
令は晒されて荒くなったコンクリートに足を下ろした
木々と山々の気配
スレート屋根と雨避けのあるベンチ
それらが山からの緑の吹きおろしを受けて見事に溶け込んでいた
雀がさえずってベンチの足元に降りる
ツンツンとコンクリートをつついて 何かを拾っているようだった
ベンチの背後の雨避けの壁には「ヤマダ産婦人科」
と 看板がある
そして1つ文明の利器
自動販売機が僅かに蛍光灯を揺らして立っていた
「やっぱり飲むなら」
赤と黄色のゴシック体が踊っていて
「スプラッシュサイダー」とある
CM等でお馴染みだ
令はちらっと横目で見てゴクリと唾を飲む
喉が乾いた
しかしここは……
心を奮い立たせて我慢する
自動販売機の前を肩をいからせて通り過ぎると
改札をくぐった
今となっては珍しい有人改札
「はい……お疲れ様」
いつも誰にでもそうなのだろう 初老の眼鏡をかけた駅員は丁寧に切符を受け取った
「あの……この辺に夕霧の山は?」
夕霧の山 正式名称ではないのかもしれない
令は思いをめぐらせた
「ああ……音羽山ねぇ」
駅員は合点がいったように1つ頷く
「あの山だよ」
小さなワゴン車1台が回れる程の広場の先に
小高い丘があり……その先に緑の麓はあった
駅員はその山を指差して笑う
「音羽山」
「夕方になるとね霧がいっつもかかるんだよ
だからねぇ通り名が夕霧の山」
令は緑の山を眺めた
山の輪郭がくっきりと浮き出して見える
しかし頂上の部分は僅かに雲にかかって霞んでいた
鳥が山の中腹を渡っていく
「夕霧はそりゃあ幻想的だけどねぇ……やっぱり地元者でも迷うからねぇ」
駅員は目を細めながら山を見やる
「行くんだったら昼間かな」
「はい」
「装備はしていった方がいいかもねぇ……」
駅員は軽く頷いて地元のパンフレットをくれた
「地図ね……くれぐれも夕方のぼっちゃだめだよ」
令達は会釈をすると にこやかに改札を離れた
駅の周りを見渡すと 古い平屋の待合所と観光案内所がみえる
近くに少し大きな土産屋があった
店の入口のワゴンにストラップやらマスコットやらが出ている
「あらいらっしゃい」
店員のおばさんが入口まで来てわらってくれた
「観光?登山って格好じゃないもんね」
やわらかい笑顔で令達を迎える
まるで山の空気のようなおおらかな人だ
「これから山に行くの?」
「ちょっと麓の辺りに」
令が笑う
「そうね……登るのはよした方がいいわね……
ああ見えて奥深いから」
紙コップにお茶をくれた
「あの山ね 水晶が昔は採れたんだけど最近はめっきりなのよ」
レジ脇の白い格子の金網に水晶のストラップやら根付が下がっている
「開運 」「魔除け」とうたってあって 亀の形をしていた
「水晶の塊でも採れたら嬉しいのにね」
おばさんは悪戯っぽく 肩を竦めて笑う
「ふふ」
令もつられて笑うとひとつお礼を言って店を出た
「気をつけて行くのよ」
おばさんが手を振ってくれる
「はぁい」
令は手を振り返すとアラバギに並んだ
「良さそうな人だな」
アラバギが笑う
「うん」
アラバギは微笑むと
「帰りに1つ贈り物が出来ると思うぞ」
と囁いた
「贈り物?」
令が首を傾げる
「内緒だ」
アラバギは悪戯っぽく すごく楽しそうに笑っていた
「内緒」
令はアラバギの傍らに走りよると その横顔を眺める
なんだか少年のような……明るい面差し
出会った頃の超然とした 霞み月のような美しい青年とは違った
なんだかうきうきしているみたい
ラキに会うからなのかな?
令は少し嬉しく思った
アラバギは重責を背負い込んでいるような
張り詰めた琴糸みたいな所があったからだ
少し解き放たれてくれるといい……
根が真面目過ぎるのだろう
時々……思いっきり突飛だけど
アラバギの横顔は 天頂にのぼり……
過ぎた太陽を受けて美しく精悍に輝いていた
「音羽山登山道」
アラバギは足を止めて 白地に黒のペンキで書かれた
看板を眺める
字の下に赤いペンキで矢印が書かれてあった
「山は自然の宝庫です大切にしましょう……
各自ゴミは持ち帰りましょう」
云々の但し書きも傍らに立っている
「熊注意」ともなっていた
令は肩を竦めるとアラバギの指示をあおぐ
「行こう」
美しい黒曜の眼差しを返して アラバギは矢印の先を見据える
先には 草花の彩る舗装されていない道と 山から伸びた木々の枝のトンネルが待ち構えていた
令はひとつ頷いて姿勢を正す
今度こそ守りきらなくちゃ
登山道に踏み入ると 素朴で可憐な花々が令達を招いていた
令は薄紅色や 白 淡露色の小花達に目を吸い寄せられ
密かに微笑む
小さくて まあるい小鳥達が さえずりながら木々を渡っていた
トンネルの枝から蔦が下がり彩っている
ピチチチ
令達に気付いてか近くの枝から2羽が飛び立った
足元は乾いた土でトンネルに入るに従って
僅かに湿り気を帯びてくる
小石が所々あった
アラバギは その道を まるで見知ったかのように歩いていく
木々の重なりの隙間から 木漏れ日がアラバギの黒髪を撫でた
分かれ道
細いけもの道と 乾いた下生えに覆われた脇道
アラバギは躊躇うことなくけもの道をいった
人には狭すぎる道が パキリ パキリと細枝を折って 道を開ける
木々が犇めいて 涼やかな影と 湿った土の匂いがした
腐葉土が靴裏にやわらかい
ガサガサ……
脇の下生えをさざめかせて 何かが 跳ね出ていった
茶色
やわらかそうな茶色が 振り返って きょとんと令を見つめる
野うさぎだ
くりっとした眼が 令とアラバギを見て 1つ瞬く
チョンチョン耳を動かし 鼻をひくつかせて うさぎは踵を返す
ザッ
そして今来た道の脇の下生えに踊り込んだ
「かわいい」
令は仄かに癒されて野うさぎを見送る
「行こう」
そして令も踵をかえした
野生のアセビが逞しく花をつけている
白くて壺型の花が房をしならせていた
美しいがアセビには毒がある
パキリ……
しばらく けもの道を行って アラバギは足を止めた
クルリと辺りを見回す
辺りは静かで けもの道が いきどまっていた
木々の幹を蔦が伝って 緑の壁を織り成している
けもの道の 行き止まりの そこだけが 僅かにまあるく
木々が避けていた
「ラキ……」
アラバギは中空を呼ぶ
しかし辺りに広がるのは 木々の壁
………ラキ……
……居るのだろ……
とばかりにアラバギは呼ばわっている
ざざざ……
瞬間 空が回った気がした 木々の壁が筒に見える
「やぁ」
途端 令は抱き竦められていた
やわらかい しかし しっかりとした筋肉を感じる身体
そして華奢だが 大きな手が 令の髪に滑り込む
くいっ
ちょっと強引に令は上向けられた
そして赤くサラリとした唇が令に迫る
げしっ
しかし その やわらかく甘い唇は 令に触れる寸前に 蹴りに止まった
「…………っく……」
白い靴の下で 顔が呻いている
「油断も隙もないな……ラキ」
痛烈な鼻の痛みに耐えながら しかし令を抱き締める腕はゆるまない
「は・な・せ……と言っている」
ぐいぐい アラバギの靴が 彼の顔を押した
「うっひゃ……ひゃ……うつくひぃ 姫巫女 ご挨拶くらひ……」
「しぶとい」
アラバギは足を下ろすと 襟首を掴みにかかった
しかし 彼は それをさらり……とかわす
「こんにちは 姫巫女 私はラキと申します」
キザに腰を屈めるが 赤い靴の跡が痛々しい……
美しい 好男子だった
ちょっと 鼻血が出てるけど
ラキは 美しい瞳に淡く影を落とすと さらりと 衣擦れをたてて 片膝をついた
そして ふわり やわらかいマシュマロみたいな唇を
令の右手に押し当てる
令は一瞬 ドキリとした
ラキは そのままの姿勢で 上目をもって 令をみる
その瞳は 薄く緑がかり 僅かに青くもあった
まるで玉虫のようだ
令は思わず とらわれる
「麗しい姫巫女 私は貴女にお仕えし お守りさせていただきます」
彼は 唇を動かして 静かに 囁く
それは 甘い 呪のようだ
「どうか……ラキとお呼び下さい」
細い やわらかい 髪が まるで天上の 生糸のようで
思わず手繰りたくなる
「令」
アラバギのその声に 令は まるで電流に撃ち抜かれたかのように ぴくりとした
ラキの 眼力に とらわれている
ふるふる……
令は かぶりをふった
「しかし」
ラキは満足気に 微笑んだ後で 視線を かえして 立ち上がる
「何なんだ アラバギ!その姿は!」
「え……」
上から 下まで ラキは じっくりと アラバギを観察して 嘆息した
ピンク……その色を言いたいのだろう
「桃花は 女が纏う色だ……お前 女形か?」
冷ややかに 指摘されて アラバギは 明らかに 動揺した
「い……いや これはだな……仕方なくだな」
しどろもどろに 弁解する
「そっちの趣味でもあるのか?」
「ちがーう!」
アラバギは肩をいからせて 断言した
「何だったら お相手しても いいんだが?」
明らかに からかっている ラキが 流し目をくれる
がんっ!
アラバギの拳が ラキの 頭に落ちた
「あいでっ!」
ラキは 当たった部分をおさえて うずくまる
しかし アラバギの 拳を 全力で 受けた 様子は なかった
明らかに 膝をバネにして 威力を 殺している
「私はだな!正常な お・と・こ……だ!」
アラバギの 真っ赤な表情から かなりの 怒りを 見てとれる
「なら……遊女でも 紹介してやろうか?」
すかさず ラキの トドメ!
「いらん!」
このままでは 蹴りでも 入りそうだ
「あの……ラキ? もう その辺で ねぇ……アラバギも……」
令は 気が気ではない
「ああ……姫巫女!お見苦しいところを アラバギは昔から こうゆう」
「お前がいうな!」
げしっ!
再び 蹴りあげられた足を ラキは 片腕で 易々と受ける
見事な 体重移動だった
ザッ
足元で 小石と土が鳴る
ラキは 流し目のように 目を滑らせると 光る珠を 手に呼んだ
「えっ!」
空気中の水分を 凝縮した珠は 高速で 回転を 始める
「……!……」
アラバギも 手に 刀を 喚んでいる
令は 冷や汗が 滑るのを感じた
まさか!
本気で 激突する気じゃ!
令があとじさる
しかし 令の背後を裂いて 何かが 跳ね上がった
「きゃ……」
残り3方から 後3体が 躍り出る!
黒い 闇を うつした毛色!
それは鬼だった!
「
計4体!
空気が 一瞬にして 淀むのを 感じた
臭いが まるで濡れた獣のようで 貪欲な その気配が 山を震わせている!
令は 息をのむと じりり と下がった
ラキとアラバギが交差して飛び出す
ラキの 美しい手指から 光の珠が 放たれ 鬼 1体の 胸を 直撃した!
ざりざり
高速に 回転する珠が 回転圧をもって 鬼の毛を 皮を
血肉を削る
ぎゃおう……
鬼は 珠を抱え込むようにして 悲鳴をあげ そのままの勢いにおされて たたらをふむ
ぎしゅううっ!
黄色く 太い犬歯と荒い歯並びの あいだから 深い息がもれた
だしっ
1体の強靭な腕が ラキの頬を掠めていき
右の樹木にめり込む
ミリミリ
鬼が腕を引き抜くと 木は 穿たれた穴から後ろへかしいだ
そして背後の 木に寄りかかり 弱い枝を巻き込む
ザッ
アラバギは 深く身を沈めると 刀をはらう!
真空の刃が 空を滑り 鬼の足を裂いた
しかし
厚い毛と 鞣した革のような その皮膚は 易々と 深手はおわせない
「きゃ」
令を 黒い怒涛が襲う
ざしっ
体当たりを見事に食らって 令は土を滑った
「……!」
あわや木に激突というところで 柔らかな風に抱きとめられる
ざざ
空気が 渦巻くのを感じた
やわらかなひと房が令の顔に落ちる
「ラキ」
にっかりとラキは笑った
「大丈夫ですか?姫巫女」
やわらかく礼儀正しいのにもかかわらず ラキの手は
令のうなじを擦るのを忘れない
ドキンとした
「あ……アラバギが」
令は真っ赤に染まる顔を背けると 脈打つ心臓を抑えて アラバギを振り返った
「大丈夫……大丈夫……あいつは ああ見えて熱血ですから……姫巫女を狙われて黙ってませんよ」
ラキは 少々 もったいなさそうに 令を離すと すいっと
指さした
うぉ……っ!
空気が真空を帯びている
風がアラバギの周囲を巡って 刃を纏って竜巻となった
周囲の木々が枝を巻き込んで 妖しくうねる
葉が渦を巻いて天上へ飛ぶ
ざしゅ!
竜巻の中央
それを縦に裂くようにして 青い刃が走った
風が裂けてアラバギの 刀が滑る!
刀身に青い風を纏っていた!
がぎん
鬼は白い爪で刃を受けるが
爪は容易く 砕かれ 鬼は背後へ吹き飛んだ
秒後をおいて 赤い三日月が 鬼の胸を縦断する
……!
赤黒い飛沫が 吹雪をもってたちあがった
「……!」
令は思わず目を覆う
ざしっざしっ!
連撃が鬼の身体に刻まれ 紅い谷をきづいていく
血の鉄錆びた臭いが 鼻をついた
ミリミリ……
何かが裂けて びちゃりとおちる
令は背が粟立つのを感じた
「もう……それくらいにしておけよバギ……姫巫女が怯えてる」
ラキが飄として言った
「大丈夫ですよ姫巫女」
さりげなく背を撫でてくれる
令は目を開けた
そして息を飲む
そこにあったものは 血肉の塊だった
辺りには多数の血溜まりが出来ている
肉塊に黒くて厚い皮膚がへばりついていた
令は数歩後じさる
「う……」
胸につまるものを感じた
ラキは令の頭を軽く撫でると
……いねよ
と言霊を鬼の残骸に向けた
うぉん
言霊の波長に不可視の光の螺旋がまといつく
……地の穢れ……山の穢れ
もろもろと言霊の触れた場所が解れて風に解れていった
第7章 虹華
「すまない……令」
アラバギが 悲しげに 黒曜を潤ませる
「おまえが 傷つけられると……加減が出来ない」
大きな手が 令の顔を滑る
「すまなかった」
僅かに 恐怖で身を竦めた令を アラバギが掻き抱いた
「怖い思いをさせた」
身に痛い……自分を鞭打ったような 苦しげな謝罪
令はアラバギの胸に頬を埋めると 小さく頭を振った
「ううん」
きゅ……アラバギのスウェットを握り込む
「嬉しかった…… 怖かったけど……」
涙が 瞳を揺らして滑り落ちる
いちいち動揺してしまう 自分が嫌だ
込み上げてくるものを感じて 令は顔を アラバギの胸に押し付けた
「令は……それでいい……私達が護るから」
アラバギの大きな手が 令の髪を愛おしげに撫でる
「私も……戦いたい」
しゃくりが漏れて 令は顔を歪めた
「君が覚醒る《めざめる》まで 護らせてくれ」
アラバギの気持ちが 令を包み込んで 安息で満たす
令はいやいやをするように 首を振ったが やがて頷いた
「何かできるなら」
それでいい
「そろそろ行こう」
ラキが1つ令の肩を叩く
陽が空の 頂きを過ぎて 昼下がりの光が 3人の背を 暖め始めていた
令は涙を払うと アラバギのスウェットの背に続く
背後に飄々とラキがいた
さわり……微風が令達を擽っていく
「柳踊の石鏡の御元に案内しよう」
ラキは 青い光を右手に集めると 1つ 2つと放った
「先導の灯火」
ラキの瞳が ふせられ 青い光が 空間にゆらり……と吸い込まれていく
じんわりと空間に波が出来 水紋を刻む
くらり……天と地が 入かわるような感覚がした
令は 血が下がるような 浮遊感を覚えて 足に力を入れる
ザッ
空を目掛けて 鳥が駆け抜けていった
それは 光を透過して キラキラと輝く 透明な鳥だった
「綺麗」
水で出来ているかのように 時々 揺らいでいる
令は 目で追って 空を仰いだ
カサカサ
葉を揺らして 風が令の髪を くしけずる
「水霊だ」
ラキが やわらかな髪をかきあげながら 囁いた
「来いといってる」
青い空に 美しい水霊が 旋回する
光を反射して虹に 光った
「行こう」
足元には エンレイソウが 茶色の花を咲かせている
令は 1歩踏み出した
さく……
下生えが 足を包み込んで 露で濡らす
「我……巫女の使いなり 空高くとも 水深からず……山はるけきとも 夢遠からじ」
ラキが 言の葉を唱えながら 令の先をいった
「我求むる者なり……天照大御神……」
さっ
膝丈程ある 下生えが 風に分けられて揺らぐ
まるで 波のようだった
緑の海原……
それを囲うように木々が葉を伸ばしている
先に岩が目立つ 登りがあった
ラキは 低音の その声で言霊を紡ぎながら 1歩 1歩と足を出す
令も静かに 後に続く
アラバギは 周囲を警戒するように見回しながら しんがりを務めた
気づくと 鳥の声が無い
さわさわと鳴る 木々の音だけが 耳をくすぐった
令は 登りに足をかけて ふわり……と何かが纏いつくのを感じた
空間に不可視の虹の膜がある
手を通すと 通した腕の周りに 虹の環が出来た
「彼の地へと導かん」
令が押し通ると 虹が生まれる
リーーーーンッ
耳を鈴の音がくすぐった
「姫巫女 此処に来たりて 彼の地への戸を開かん」
ラキの 言の葉を受けて 虹の華を散らす
リーーーーンッ
金属質の 鈴の音
虹の柱が立ち上る
ラキは 躊躇う事無く 手を差し入れた
ザッ……ドドドド……
空間が裂けた
涼やかな空気と 瀑布の音が聞こえてくる
薄ら寒い 霞むような空気が忍んできた
1歩踏み出すと 足元が 滝の水煙に濡れた岩に変わっていた
所々に咲く 小さくて可憐な花が 水煙に打たれて 揺れている
目を上げると 岩を逆さ団扇に流れる 白い瀑布が現れていた
「封印の逆さ団扇」
ラキが白い指を伸ばして つっと指し示した
滝壺に目掛けて 白く美しい水流が 流れ下る
うっすらと 白く霞んだ 水煙が 肌に気持ち良かった
辺りを見回すと 滝を囲むように崖があり 自然の城塞のようになっている
令達がいるのは 滝を右斜め正面に眺めることの出来る 岩のトンネルの中だった
どうやら自然が穿った トンネルであるらしい
所々に苔と 野草が 生えでている
足場は 水煙の影響で かなり悪かった
ざざざ
瀑布の 下る音が 渦巻いている
鳥が頭上を 渡った
そして近くの木の側に滞空する
カツン
くいっ
喉を伸ばして丸呑みにした
と 一際 強い風が吹き抜けて ごぉと トンネルを鳴らした
水煙が さかまいて トンネルに 吹き込む
水煙が 令達の身体を うっすらと湿らせた
水霊が 滝に滑空する
透明な その姿が 水煙と 瀑布の 白さに 相まって 強く輝いた
「この滝壺に柳踊の石鏡の 大社はある」
ラキの瞳が太陽光に 閃いて 青く揺らぐ
令は 1つ唾を飲んだ
ラキの姿は トンネルの中でも うっすらと 光り輝いてみえる
まるで水煙を 纏って尚 それすらも 発光させているかのようだ
「滝壺」
令は 逆さ団扇が 落ちる滝壺を 見やる
落ちて助かる深さでは無さそうに 見えた
しかし 水霊が 舞い降りると ぼぅ……と 薄く揺らいで見える
「飛び込むの?」
令は 震えが くる 身を竦めると ラキにとうた
アラバギば 静かに 目をふせている
「お任せ下さい 姫巫女 私はかくあろう 水の精霊ですよ」
ラキは 白い装束の 胸元に 華奢だが 長い手指の 右手を 押し当てた
「……え……!あ……はい」
深い諭すような 自信に溢れた ラキの言葉に 令が 跳ねる
ざざざ
水煙と 瀑布の 下る音が 絡まりあう
ラキは 静かに 滝壺に向かって立った
「
手印が 光の残影を 残しながら 2つ組まれる
ざど……どどど
最後の印を 組もうとした時 突如 それはきた
ぎぃあ……ぎぃあ
金属の 軋りが 鋭く滑空する
ぎ……
ばしゅ
アラバギの右肩を鋭い鉤爪が 抉る
「……!…… 」
黒く 大きな羽ばたきが する
黄土の 巨大な嘴が アラバギの 黒曜を狙った
「アラバギっ」
令の悲鳴が漏れる
「それ」は巨大で 黒い獣毛を持つ 怪鳥であった
嘴にびっしりと 針のような 歯が見える
がしゅ
脚に 鋭く曲がり込んだ 骨色の 鉤爪をもっていて
その片方を アラバギの 肩に食い込ませていた
あの爪の長さでは 骨に達しているに違いない
「くぅ……う」
アラバギの 唇から 苦鳴がもれた
ごりり
爪が容赦なく 抉り込まれる
骨に擦る音がして じんわり と 血が広がり始めた
本格的に 出血するとしたら 爪が抜けてからだ
令は 怪鳥を 払い除けようと 手を振り回し 手近の 石を握り込む
そして鳥に振り下ろす
ぎぃいい……
ばすっ
令の拳は 怪鳥の羽の付け根に 落ちた
ばさっばさっばさっ
盛大に 羽ばたきをして 怪鳥は仰け反る
ぎぃいぃぎぃいっ
赤鋼色の目が ぎろりと 令を とらえた
そして 1つ瞬きをする
怪鳥の目には 薄い瞼が あるらしく とじると くるり 反転した
ぎぃぃぃ
ざざざ
黒い 一陣が 突風の様に 降り注いだ
「……!」
他にも 仲間がいたらしい
令に飛びついて来た 怪鳥の 集団に アラバギは きつく視線を投げた
「ラキ!」
悲痛な叫び
アラバギは ラキを呼ばわる
しかし 黒い集団が 群れ着いていて 令も ラキも 見当たらなかった
ざ……
令は 突然 胸を突き飛ばされた
「……!」
怪鳥の襲撃で 前が見えない
足元すら分からない そんな中での 一撃
「ひゃ」
ぐら……
いきなりバランスを失って 宙に もんどりうった
異様な落下感
血が 落下して行くスピードに 追い付けなくて 残像として残るような 感覚がする
気持ち悪い
ずざ
令は 身体を自然に丸めていた
背中から足にかけて
水に包まれる
令は くぐもった 水音を 聞いた
そして 自分が 滝壺に落ちたのだと悟る
春とはいえ 冷たい真水が 令を つつんで 身体の 自由を 奪った
きんっ
耳鳴りがする
目を開けると 水面がぼんやり光って見えた
ぼぼぼぼ
滝が落ちる音が 水を震わせる
がぽっ
令は身体をたてなおすと 水面を目指した
ぼぼぼぼ
滝が落ちる水圧が 令を邪魔する
しかし あと少し
ぷはぁ
令は 思い切り息を吸った
そしてせきこむ
上を見あげて 令は黒い嵐をみた
怪鳥が 群がっている
「アラバギ……!ラキ……!」
令が叫んだ
黒い塊の中に 白い腕が見える
ラキだ
令ば 縁の 辺りまで行って 手頃な岩に掴まった
「ラキ」
令がよばわる
ざっ
黒い群れが 左右に蠢いて ラキの その腕を 飲み込んだ
「……!」
助けに行きたくても のぼるところがない
令は 歯噛みした
青い閃光が走る
多分 あれは アラバギだろうか?
しかし 如何せん 数が多すぎる
令は 自分の無力さに 憤りを感じた
ああ……何も出来なくても 側にいることくらいできたらよかったのに
手指を握り込む
白い手が 赤く色づいた
「アラバギ……ラキ」
令は 目を閉じ 念を込める
「神様」
ばっ
何かが弾けた気がした
令の 身体の周り 身体の縁を覆っているなにか
「……?」
手をひろげてみる
変化はない
肩をみてみる……しかし 変化はなかった
ざしゅ
ぎぃぃぃ
1羽が 切り捨てられたのか きりもみになりながら 落ちてくる
令は 身を縮めて 岩に縋った
ばしゃん
派手な水音がして
ズブズブと 怪鳥は滝壺にのまれていく
アラバギだ
どうやら 無事であるらしい
「アラバギ!」
令は 声を限りに 名をよんだ
一閃
刀が 黒い群れを引き裂いて 群れの外側へと 突き出した
そして 見覚えのある 美貌があらわれる
長い黒髪が 薄く乱れて 肩にかかっていた
しかし その肩は
「……!」
紅く……重く濡れそぼっていた
血だ
爪が抜けて 出血したのだろう
令は 涙が 溢れて来るのをおさえられなかった
どうしよう
アラバギ……
ざざざざ
血の臭いに猛り狂った猛禽達が 一斉にアラバギに群がる
「嫌っ」
令が 弾けた
淡い虹が 溢れて ほとばしる
滝壺が 光に反応して 金色の光を放った
ざぁああ
虹の蓮が流れる
令の手がのばされる 先に 大輪の虹の蓮が咲きほこった
突如 巻き起こった虹の渦に 怪鳥は 慌てふためいて
飛び交う
がしっ
互いにぶつかり合って 数羽落ちてくる
しかし
その怪鳥は 金色の光に 触れて 消え去った
「令」
アラバギが光の渦に飲み込まれて 顔を覆う
うぉおおっ
揺らめく 白光と 虹の渦
令は 光の渦に とらわれて 虹の蓮をみつめていた
光が弾ける
蓮の虹の花弁につっと触れると 淡露が1つ流れた
「天照」
令がつぶやく
ぱしっ
蓮の華の中央から 緑の礫が 飛び出した
ザッ
光の渦を 直線に裂いて アラバギの元へ とかけ上る
「勾玉」
アラバギは 静かに 呟いた
乾いた唇が 生気を帯びる
静かに傷ついた腕を伸ばした
ぱしっ
触れると勾玉は 弾けるように霧散する
しかし緑の光の粒は 静かに降り注いだ
ぎぃぃぃ!ぎぃぃぃ
怪鳥達は まるで目標を失ったかのように 飛び交っている
中には仲間の怪鳥の喉笛に 食らいつくものもあった
「我……願ひたまふ……八百万の神々」
令の周りを虹の珠が回っていた
ザッ
アラバギは その身を踊らせる
ぱぁん
水音が鳴った
「令……いや……姫巫女」
アラバギは 静かに 令の手を取った
白い 細い手と指だ
そしてつっと 額に押し当てる
「忠誠を」
アラバギの身体を覆う 神気が強まって 淡蓬生の光を 放った
「アラバギ」
令がアラバギの目をみつめる
波打つ光が 令を中心に 静かに広がった
パシャン
滝壺の水が 波打ちはじめる
「開限」
ラキの声が 令の耳元でした
ざ
滝壺の清らかな水は 静かに 湧き上がり
3人をのみこむ
令は 優しく しっかりとした腕の中 ゆったりと 目を閉じた
気がとおくなる
最後に 意識下に声を聞いた
「あなたは……たえられますか……」
あま……てらす
令の淡紅色の唇が 静かに動いた
しかし それは言葉にならない
滝壺の冷たい水が 3人を包んで 運び去っていった
第8章 反目の水晶宮
たーーん
たーーん
透明な滴が 暗い岩天井を這い落ちる
高い……高い調べ
ピチョン
ピタン
その調べは 洞窟の 中に広がる
地底湖に微かな波紋をひろげていた
「あ……」
令は うっすらと吐息をもらす
そして しどけなく寝返る
「う」
身体に濡れた衣服が 張り付いて 気持ちが悪い……
私……どうしたんだっけ……
意識だけが先に戻ってくる
しかし身体は まだ目覚めを拒否していた
「令」
冷たい手が 令の額を サラリと撫でる
令は 薄く唇を開けて吐息をもらした
あたりは全くの闇ではない
地底だというのに うっすらと明るかった
しかし それは 互いを確認出来る程度のもので
奥まで見通せる訳ではない
「う……」
令は眉根を寄せると みじろいだ
濡れたブラウスが すべらかな肌に 張り付いて 形の良い胸が腰にかけてのラインが浮き出して見える
うっすらと 下着が透けて 甘く香った
アラバギは 僅かに 耳を赤らめると 令の肢体から 目を反らす
どうにも誘われてしまっていた
「アラバギ……何考えてる?」
ラキが 肘でアラバギの脇腹を小突く
どうにも 免疫がない
「ほら」
ラキが脱いだ上着をほおってよこす
これも どうしようも無く濡れていたが 羽織らせれば目隠しにはなった
「すまない」
「なんの」
目をあげると ラキの半裸の上半身が目に入る
白い
陶器のようだが しなやかな筋肉を纏っている
まるでツクヨミの裸身のようだ
ツイ
と滴が その筋肉の線を伝い這う
「お前 わざとやったろ?」
アラバギの横顔がぴくりとした
白く 強ばった唇が くっとしまる
「あの時さ」
「……………………」
「わざと……突き落としたろ」
ラキが低音のその声で囁く
「まもりたかったんだろ」
「…………ああ」
重く アラバギは頷いた
「おまえらしいな……何でも背負っちまいやがって」
ラキの瞳が緑に翳る
「令を……令を傷つけたくない」
心がつまったような心地がした
「まぁ……しかし 覚醒されたからよかったが……
あのままでは 正直 危なかったな」
ラキが自嘲する
柔らかい髪が 濡れて癖が強く出ていた
令の覚醒……
「あれ」は凄まじかった
虹の蓮を咲かせることが出来るのは鍛錬した巫女だけのはずである
令は それを覚醒と同時にやってのけたのだ
たーーーん
高い 岩天井から 一際大きな滴が這い落ちる
「素晴らしい資質の持ち主だ」
ラキは長い睫毛を伏せて目を流した
「それが……重荷にならないとも限らない」
アラバギが唇を噛み締める
「令……」
辛い 喉が熱くなるようなさけびだった
あの方のようには絶対……!
ラキはふっと唇に微笑みをうかべる
「また 背負い込んでやがるな……
だから我々がいるのではないか「静さまのよう」にはさせないさ」
力強い手が アラバギの肩に触れる
ぽぅっ
ラキの手指が 緑に発光する
その燐光は手指の隙間を通して 岩肌を揺らがせた
「回」
するり……言霊がラキの唇をすべる
サァ
アラバギの傷口に 緑の光が浸透する
「く……」
わずかに アラバギが眉をよせた
メリ
血肉が盛り上がる
小指先程の穴が4つ穿たれて肩を 静かに燐光が撫でていく
傷口に新しい 赤い肉が形成され
じわり……じわりと塞がっていく
そして針穴程になって 傷は消え去った
「すまない」
「よっく泣かなかったな」
コイン……とラキがアラバギを小突く
ラキは傷を癒すことが出来る
しかし それには かなりの痛みを伴うのだ
傷に 強い酒をかけたような痛み
いかな強者でも涙を溜めるくらいは しそうである
「偉いぞ……バギ」
ラキは ヒラヒラと手を振って アラバギを揶揄った
「もう……慣れた それに 子供扱いするな!」
からかいに応じふでもなく アラバギは立ち上がる
「柳踊を守護しよう 死守しなければ」
そっと令を その背に背負いあげる
今暫し 寝かせてやりたかった
細いが しなやかな腕が アラバギの肩に滑る
……令……
2人は僅かな仄明るさを頼りに 足場を確かめながら進んだ
地下水が 所々に貯まって 静謐な気配を波立たせている
たーーーん
水滴が 水晶の琴を 鳴らすように 響きつづける
しゃり……
砕けた石を踏んで アラバギは目を上げた
薄く 青い光が 美しい 結晶を透かしてあたりを 染めている
そこかしこに 透明な その結晶はあった
龍神水晶……
静謐な輝きをもって 龍を宿す様に 時は結晶を育てる
さら
小さな結晶が ひとつ落ちていた
途中で折れたのであろう
アラバギは 指で 1つ結晶を掴む
水
龍の雫
そして 中和の光……
目の前に翳して 傾けてみる
美しい虹が ちかりと揺れた
虹水晶だ
アラバギは 何か ひかれるものをかんじて
スウェットのポケットに入れる
ぽっ
身体があたたまるきがした
たーーん
1滴が 令の襟足に 落ちて 令が身じろぐ
「ん………………」
アラバギ……
背中で 令の身体が揺れる
「目が覚めたのか?」
令……
アラバギ……
令は アラバギの 頼もしい背に 頬を 擦り付けた
安らぐ……
あたたかかった
「うん」
もう……もう 暫くこうしていたいが アラバギは 怪我をしていたはずなのだ
令は 静かに礼を 言って足をおろす
その時 アラバギの肩に ふと 目をとめる
「……!」
スウェットに小指の先程の穴が4つ
しかし 血がない
血の跡が無いのである
「?」
思わずまじまじとみてしまう
あれ……
アラバギは令の視線を感じとったらしく振り返る
令は 目を ぱちくりとして アラバギの顔を見つめた
「傷は?」
アラバギは 切れ長の 黒曜を 細めて 微笑む
「ラキが癒した」
優しい……やわらかな口調
令は 突然溢れ出てきた感情に涙した
「アラバギ……怪我してて……それに……
助けられなくて 私 下に落ちちゃって」
パニックになりかける
「突き落とされたの」
強く 細い指を握り込む
辛かった
側にいたかったのに
「どんな理由があるにせよ……突き落とすなんて酷い」
令は頭を強く振って
激情を露わにした
「側に……いたかったのに アラバギをたすけたかったのに」
感情のままに 駄々をこねる
アラバギは傷ついたような 胸を 突かれたような顔をして 目線を さげた
痛い
「すまない」
しゃくりを 上げている 令を そっと見る
「あれは私なんだ」
令はキッと目をあげた
視線がまともにぶつかる 怒りのままの視線
そして 哀しげな 狂おしいまでの視線
「アラバギが?」
令の肩から力が抜けた
「なんで」
ワナワナと震える
「なんで頼ってくれないの……」
握りこんだ手を振り上げる
「なんで……なんで……背負い込もうとするの」
アラバギの頬を打とうとして躊躇い 再び下ろす
力が抜けた
「ずるいよ……」
令が震え始める
「アラバギ」
ザッ
遮二無二 令は アラバギの身体にかきついた
「あんまり……だ」
本当に……死ぬかと思った
なんで……
「あのままでは 令が 君が
アラバギは まるで 噛みきらんばかりに唇をかんでいた
腕を 令の背に回そうとして 弾かれたようにおろす
令……
姫巫女
もう……抱けない……
私は……駄目だ
アラバギは 令の肩をグッと掴むと強めに引き剥がした
「「姫巫女」あなたを失う訳には行かない……理解して欲しい」
目線を逸らして 強く気持ちを飲み込んだ
好きだ……
しかし……令
「これからは「令様」と呼ばせて頂きます」
心が血の涙をながしている
令は 大きく茶水晶の瞳を見開いた
つーーーーーーーっと 一筋 痛い涙が伝い落ちる
頬を滑って顎を這う
「アラバギ」
令の震わせた睫毛を涙が濡らした
どうして……
アラバギ
側にいたい……守りたい……ただそれだけなのに
「「令様」柳踊の石鏡までは後僅かです まいりましょう」
背中から 腰にかけて 細い針に 射抜かれた気がした
ふるる
首筋を震えが走る
嘘だ!
「覚醒された今……貴女様が我等が君主です」
アラバギ
令は 爪を握りこんだ 指に 食い込ませる
きつく痛みがはしって 僅かに 血が滲む
覚醒なんて…覚醒なんてするんじゃなかった
きりっ
令が眉を寄せる
「参りましょう令様 柳踊の石鏡を守れるのは 貴女様だけです」
残酷なまでの 言葉の礫が 令の胸に つきささる
令はきつく 目を 閉じた
アラバギ……
令は涙を飲み込むようにして 前をみる
そして アラバギの黒曜を真っ向からとらえた
静かに 影が 揺れている
まるで梁霧の水面のように 揺らいで 今にも 溢れだしそうだった
しかし アラバギの意思は見とれない
悲しみが……悲しみが 僅かでも あってほしかった
しかしアラバギは確固として 令を 受け止める
強く揺らいだ 黒曜が キラリと輝く
「来てくださいますか」
忍びやかに心に滑り込んで 令に鎖を巻いた
令は静かに首を振ったが やがてガクンと頷く
私はそれでも貴方といたい
柳踊の石鏡をまもることが それにつながるというのなら……例え不謹慎だと 罵られても 貴方といたい
ラキが静かに令のせを抱いた
「行こうバギ」
アラバギに先をうながすように顎でしゃくって見せる
令は 顔を うつむかせたまま 静かに 1歩ふみだした
嫌だ……こんなの嫌だけど……
負けたくない
令は顔を上げた
迷うなんて 自分らしくない
アラバギは 間違ってない
心の痛みを下しながら 前を アラバギの顔を見る
そして強く頷く
「行こう」
声音に震えはなかった
アラバギは感慨深げに 瞑目したあと 深く一礼する
「はい」
静かに アラバギの悟りが闇をゆらした
「ここからは……わたしが先頭をいきます」
ラキが ポボンと令の肩を 2回叩いて先にたつ
アラバギと すれ違いざま 小さく 何か囁いたように見えたのは 令の気のせいだろうか
アラバギが静かに 令を素通りして しんがりの 位置についた
「行きます」
ラキは 令の瞳をサラリと見て 前を向き直る
「………………」
ラキは ちょっとだけ ちょっとだけ悪戯っぽくウインクしていた
令の心に 少しだけ 暖かいものが満ちる
ラキ……
本当は優しいんだ
令は 羽織らされている上衣をそっと撫でた
生成の麻衣
目の荒さが手に心地いい
「あの……ラキ……?」
「?」
令は顔を赤らめた
あのね……
俯いてしまう
「どうされました」
「ええっと」
モゴモゴと言葉にならない
そして上衣を差し出した
「あの裸なの」
耳まで ほんのりと色づいて 令は下を向く
令にとってラキの半裸は眩しすぎた
しなやかな筋肉が 動く様や 時々 香る 男らしい色香にどきどきする
「着て」
ラキは その瞳を ぱちぱちと瞬いて 令をみる
「目の……やり場に困る」
ちょっと 困ったふうの令に ラキは 少しからかいたくなったらしい
そっと耳元に唇をよせた
「失礼……姫巫女……貴女様の方が罪です 濡れて透けておられます 意味おわかりですね?」
ぴくん
令の背を電流が走った
ラキの低音で囁かれるとゾクゾクする
しかし はたと 気付く
「透ける?」
反してみて自分を見下ろした
「!」
白いブラウスが肌に張り付いて お気に入りのピンクのブラがくっきりと透けてしまっている
その様が 透けた白い柔肌と 相まって 限りなく色を誘う
「……………………」
令は慌てて ラキの上衣をかきこんだ
「あ……あの」
汗が限りなく吹き出してくる
「しばらく……おかししましょうか」
クスクスと人が悪いくらいにラキが笑った
「お…………お…………お願いします」
令は耳まで真っ赤になる
「あまりからかうな ラキ」
アラバギが少々呆れて助け舟をくれた
令はアラバギの声にびくりとふるえる
なんだか瞳があつかった
「あんまり可愛らしい方だから」
まだ つつき足りないのか くっと令の顎をしゃくる
「あまり……そんな瞳をなさらないでください……
おわかりですね?
たべてしまいたくなる」
手をはなしざまに 令の涙を払っていく
ラキは分かっていたのかもしれない
私がアラバギを好きだって
令が己の腕を抱いた
第9章 割れる地底湖
3人は 水晶の結晶の青い光彩の中 静かに歩をすすめた
たーーーん
響き会いながら 虚ろいながら 水滴はしたたる
しゃり……しゃり……
足元で 硬質の砂が鳴った
水晶質のなにかが 砂に混じっているのかもしれない
「見事な水晶窟だな」
アラバギが 感嘆の声をもらす
「ああ……ここまでは誰も入ってこないからな……」
ラキが 結晶の1つを打ち欠いた
そして令の手にくれる
「龍神の涙 特に力が強いと言われている水晶です」
そして そっと指先で触れた
ぽぉぅっ
じんわりと 令の掌で 水晶が輝きを放つ
結晶達が 共鳴したかのように 輝き始めた
さらさら
砂埃が静かに降り積もる
パッキィイン……
どこかで空気が割れるような音がした
令は 掌の水晶を握りしめ 先の暗闇を見つめる
確か音は 彼方からしたようだ
「おわかりになられますか?」
ラキが微笑む
そして令の握る水晶に 1つ 言霊をとなえて印を宿す
ざざざ
見つめる先から 水音がする
令は妙に浮き立つものを感じた
全身が総毛立つ
たぱんっ
水槽の水が 縁に当たって波立つような そんな音
「柳踊の大社への道を開きました
どうぞ姫巫女 進まれてください」
ラキが 令の背を促す
令は握りしめた水晶を 胸に押し当てると深呼吸した
「…………っ……」
そして踏み出して行く
先はうっすらと湿った岩肌が続いた
ぴちゃん
足元で水溜まりが弾ける
「……!……」
「わっ」
突如 先がひらけて 見事な光景がひろがった
それは巨大な地底湖
湖底から うっすらと発光しているのか 水面がにびやかに 滞光している
「割れてる」
令が 生唾をのむ
輝く地底湖は 中程にある 浮島目掛けて パッキリと割れていた
道が中央を島に目掛けて走る
道の双璧は 滝のように流れる湖水だった
パシャン……
背後にラキが来る
「これが 柳踊の大社への道です」
道の目指す先に 洞窟のような入口が見えた
それは 浮島の側面に 穿たれているようで 地底湖が 割れた時にのみ現れるらしかった
ぽうっ
光の点が 無数に舞い上がる
それはまるで 白い蛍のようだ
揺らいで……舞駆け 滞空する
令は手を伸ばして 光点に触れた
熱くは……ない
冷たくも……ない
しかし ポワッとした 毬藻のような感触はあった
なんだか可愛い……
手に慕わしい
令は 水晶を握っている手を ゆっくりとひろげる
きぃいい
光点はまるで啼くように 舞い降りて 水晶の中点に吸い込まれていく
きぃいい
水晶の中心で 光の毬藻は仄かに明滅した
「結界蟲の幼生ですね」
ラキが 可愛らしいものを 愛でるように 指でつついて破顔する
「「結界蟲」」
「結界の張られた力場を好む 可愛いい幼生です
人に害なす事はありません 我々精霊には 愛玩動物だったりもするくらいです」
ラキは 1匹を そうっと捕まえて 両手で囲うようにした
「あ……」
よく見ると光点は 和毛の生えた 小さな生物だった
まあるくて 小さな 淡緑の目が 2つ 令をみている
「か……かわいい!」
令は思わず 身を 乗り出す
きゅいきゅい……
幼生が ラキの指の間をくりくりと回った
「喜んでますね」
ラキは心底嬉しそうだ
きゅきゅきゅきゅ
2・3匹が令の髪にまとい付き 髪を飾る
きゅいきゅい
くりん くりんと 他の幼生達も まわった
まるで 蛍の 求愛ダンスの ようだ
令は 嬉しくて 愛おしくて 抱きしめんばかりの勢いで幼生達を眺める
「なんだか嬉しい」
漫画だったなら ハートマークがつきそうだ
「誘ってます いきましょうって」
令は そっと 1歩踏み出した
ぱしゃ
足元で僅かに水が鳴る
地底湖の 道までは 傾斜になっており
湖水の 双璧に 辿りつくには あと少しくだらねばならない
所々に 葉緑素を持たない 花が咲いていた
そして あれは キノコだろうか
令は 見回しながら 双璧の道へとおりる
ぱし
双璧の 水に 触れてみる やはり水である
しかし滝のように不可視の壁を下り降り 落ちるが 落ちた先はわからなかった
ぱしゃぱしゃ
令は 地底湖の湖底の 岩場を 歩きながら ふいと先をみる
ぱきっぱきっ
白い ひびのようなものが 時折 横に走る
ぱしっ
神気が まるで 帯電しているかのようだ
た……
浮島の入口に さしかかって 令は 引かれるように手を伸ばす
きぃぃぃいい
神気が 胎動する
虹の膜が じんわりとひろがった
膜は まるで しゃぼんのようだ
水晶が強く輝く
その光は 令の手指の 隙間から 白く 溢れ出る
「「開」」
どこからとも……自らとも知れず 声が聞こえた
それは ひどく 落ち着いた 安定した言霊
令が目を見開く
感情が欠落した
なんだろう?
操られているように するりと 令は虹の膜を抜ける
ぱっきぃいん
結界の糸がきれた
アラバギ……
令が 結界に入った 刹那 令の呼ぶ声が 強く 強くした
「……!」
アラバギは胸を突かれる
「令」
駆け出して 道を滑った
ごごごご
「待て……バギ」
ラキの強い手が アラバギの襟首を掴み上げる
ばしゃあああん
堰を切ったように 双璧が崩れ 消滅する
だぱ
強く強く……
水面が波だった
「れーーーい」
アラバギが絶叫する
ちゃぱん
水面が 信じられぬ程に ゆったりと 鎮まった
後には静寂だけ……
恐ろしい程の無音
アラバギは膝を折って かがみ込んだ
「こんな……ばかな」
背が 小刻みに震える
結界に 何か 異常がおきていたのだ
「朱雀の力が強まってきたせいだ」
ラキが きゅ……と手を握りしめる
瞬間
アラバギの黒髪が 踊って ラキの 上体が のけぞった
そして アラバギの 苦痛に満ちた呻き
「何故……何故とめた」
アラバギは何としても 側に 側にいてやりたかった
ぎりり
肩を 落としながら 砕けた石をしだく
あのままでは アラバギも飲み込まれていた……
それは わかっている
しかし……
アラバギの黒曜が 狂おしげに細められ 落涙が 手を濡らした
許せない……
私は絶対 自分を許せはしない
握りこまれた 手が 血に濡れた
爪が 皮膚を食い破ったらしい
「バギ……」
触れようと手を伸ばす ラキを アラバギの 腕がはらう
「令」
狂おしいまでの切ない叫びだった
たーーーーーんっつ
たーーーーーんっつ
令の 滑らかな頬を 水滴が打った
「あ……」
どうやら結界が切れた途端に 圧力でとばされたらしい 令は身じろぐと 身体を起こした
「あっ……うっ」
肩が鈍く痛む
たーーーーーーん
辺りは 仄白くかがやいている
影が揺らいだ
「ここは」
辺りを見回して 肩を押さえる
岩壁にでも うったらしかった
さり……
立ち上がって 岩壁を伝う
暫く歩いて 白い光源に行き当たった
水晶だ
令が握っていたものであるらしい
令は 細い指で 水晶を拾いあげると 再び辺りを見回した
手元の水晶が更に 強く辺りを照らしだしている
影が 長く伸びた
令は 静かに 1歩 1歩と前進する
浮島の大きさを考えるなら すぐ行きどまる筈だ
たしっ……
行き当たりに 小さな祠があった
祠の両脇に 岩が2つあり しめ縄が巻かれている
祠は 丁度 鏡が入る大きさだろうか……
祠の石戸には天照大御神の札が貼られている
令は そうっと 石戸を開ける
ぴっ
札が 静かに破れた
さりさりさり
石擦れの音がして 戸は開く
白い光に にび色の月
光を石鏡が反射している
にび色が 手を伸ばす令を写し取っていた
ぱしっ
結界の 火花が 僅かに 手を弾く
そっと指で触れて 弾かれたように放す
にわかに 不安が立ち上がった
あの にび色の悪魔…………
鷹揚の石鏡に 籠っていた 朱雀の怨念
令は静かに 鏡の縁をなぜた
でも ひかれる
ひきこまれてしまう
魔性の力
令は水晶をジーンズのポケットにいれると 両手を伸ばした
かた……
石鏡を支えていた 木の台が乾いた音をたてる
ごと……
令は石鏡を取り上げて 鏡面を反して 裏面を己に向けた
「…………………………」
裏面には柳と龍 そして 鯉が線彫りで彫られてある
繊細に 薄紅く……
それは まるで 血が辿った跡のようだ
きぃいいいぃいいっ
令の背を なにかが這い上がった
悪寒にも似た 何か……
令が鏡の縁を握り込む
行かなくちゃ……いけない……
静かに 踵を返した
きっと……アラバギが心配してる
ちくり
胸に痛みが走る……
ううん……もう……してないよ……
してるとしたら……巫女がいない……それだけだよ
胸が締まった
嫌だよ……
岩壁に 令の左手が這う……
会いたく……ないや……
令は静かに しゃがみ込んだ
こんなの……嫌だ
不安が 哀しみが押し寄せてきて 胸が裂かれそうだ
ごと……
手から柳踊の石鏡が 滑り落ちる
鏡は静かに表を向いて 令を照らした
アラバギ……
涙が痛い
目尻が焼けるみたいだ
令の指が 洞窟の岩肌を掻いた
「う……」
嗚咽が漏れて 令は鏡に突っ伏した
嫌だ……
嫌だ……
嫌だよ……
ナラバ シタガワヌカ
令が弾かれる
地の底を擦るような
風鳴きのような 不気味な声
シタガワヌカ ヒメミコ ヨ
令はザザと後じさる
ワレ ニ チカラ ヲ カサヌカ
イヤ ナノデアロ クルシイ ノデアロ
声は 的確に 令の 悲しみを 撫でてくる
令は 首を激しく振った
幻聴だ……
ヒテイスルナ ミコ ヨ
ワタシハ オマエヲ ナグサメテヤレル
鏡から 青白い 水死体の様な腕が出た
違う……
アノ セイレイ ト カワシタイ ノデ アロウガ……
腕が 洞窟の地面を喰うように にじり寄る
アイシテル ノデ アロ
蒼い 頭が ゆらりと見えた
「ひっ……」
きゃあああああっ
令の 喉から 絶叫が走る
ヒテイ デキヌ……ナ
腕が令の足を鷲掴む
びくんっ
脚から腰 背中の中央に掛けて ザラザラと何かが 撫で駆けていく
「いっ……いや」
令が 自由な右足で朱雀の腕を蹴り払った
ソナタ モ クルオシカロウ
背を向けて 奥へ駆け込もうとした 令の髪を 凄まじい勢いで 伸び上がった朱雀の手が 掻き掴む
ウルワシイ ミコ ヨ
ウツクシイ スイレン ヨ
ソレ ヲ チラス ノモ ワルクナイ
ぐっ!
あ……!
令は 凶暴なまでの 朱雀の力に 引き寄せられる
生臭い 沼の底の抱擁
令の唇に 朱雀の唇がヌルリと重なった
「……!」
令が戦慄いて 手指を握る
しかし 抗うことは出来なかった
生魚の滑りと 死んだ魚の腐臭
令は 吐き気がするのを 我慢するのがやっとだった
頭が ぐらぐらと回る
くっ
朱雀の 吸盤を思わせる指が 令の首筋を這った
「ぐっ……」
令は がっちり抱え込まれた上半身にギリと力を込めた
アラガウ……カ
令は床に押し倒される
ソナタ ノ ゼンニン ノ シズカ モ
ウマソウ ナ タマシイ ヲ シテイタ
ぴっ
ブラウスのボタンが 1つとんだ
ぎりっ
令は きつく目を閉じる
アラバギ
朱雀は 滑りのある その身体を令に重ねる
コワイ ノカ コトリ ノ ヨウダ
再び唇が降りてくる
ボッ……っ
瞬間に 朱雀の身体が 内側から 発光して 仰け反った
がっ!
凄まじい 光の束が朱雀を薙いだ
「……!」
令が 右腕を上げて 光を防ぐ
「がぁ……」
朱雀の 大きく開いた 口腔から 白光が溢れた
「ぼぅう」
朱雀の表皮が ボコボコと沸騰する
バシュ
腐臭を帯びた 透明な液体を撒いて 朱雀が 爆発する
「あう」
令が 身体を丸めた
パシパシ
帯電する光が 空気を走っている
ざり……
何者かが 砕けた小石を しだく音が聞こえた
「あ……」
令は ゆら と半身を起こす
「だ……だれ」
白光に 逆光になった黒い影
髪がゆらゆらと踊る
懐かしい
見知った姿の筈だった
左腕で 漸く支えた 半身が くらりと 崩れ落ちる
ねぇ……アラ……バギ……
遠く……遠く
意識が遠のく
瞼をとじれば 滲む白光
「アラバ……ギ」
令は 愛しい人の名を囁いた
渇いた唇が 静かに戦慄く
令の手が パタリと落ちた
逆光の青年は 長い髪を 肩に滑らせて 静かに屈んだ
そして 長い手指が 令の肩を包む
密やかに そっと起こして 令の背に手を回す
グッ
力を込めると しなやかな 筋肉が浮き上がる
彼は令を抱きあげると 静かに目線で 令の唇をなぞった
はぁ
令の 吐息が 漏れるたびに たまらない誘惑が 彼を誘う
…………っ……
静かに サラリとした唇を令に重ねる
もう……離さない……
例え 許されずとも 愛されなくても 護って見せる
私には それが出来る
まだ それが 出来るはずだ
狂おしげに 唇を擦り合わせると きゅっと 令の肩を指で抱く
絶対に……
私は……私はまだ戦える
薄荷の髪が滑り降りて 令と 彼の 長い接吻を覆った
「愛して……る」
己が 心から漏らした囁きを 彼は噛み締める
2度と……離しはしない
例え お前が誰を愛そうとも……
アラバギの強かな決意は 令を包む 腕を震わせて
闇を祓った
第10章 戦いの糸
水が 恐ろしい程に澄んでいる
くんっ
アラバギは 水をひとかきして 更に 潜った
「令」
胸が締め付けられるように痛い
令……あの……笑顔
そして困った時の あの瞳
アラバギの足が 水をかく度に 湖水が くんっ と揺らいだ
湖底には 小さな結晶が ポツリ ポツリとある
それは 淡く白色に滲んでいた
きぃりぃ……
1つ 1つに 小さく 結界蟲が宿っている
結界蟲の巣だ
かぽ
アラバギの唇から 2つ 3つ……気泡が漏れる
浮島までは 後僅かな筈だ
「令」
アラバギはきつく目を細める
「…………!」
浮島の 結界の入口の辺りに 黒い帯が流れていた
それは 細い黒糸をさっくりと編んだような 照りのない黒帯
人には目視すら出来ない筈だ
それは 水が くんっと揺らぐ度に サラと揺れる
アラバギは ぐっ と帯を掴んだ
この帯が結界を 破ったものであるはずだ
ぶぁ……
アラバギの腕を 静電気を 帯電させたような感覚が襲う
「……!」
アラバギは 唇に力を入れると 構わずに引き寄せる
ぶぁん……
帯は あまりにも 細い つや消し糸で編まれたようで
向こうが透けていた
手にサラリと まとわり いやらしくからむ
アラバギは 手に 1絡みすると 力いっぱいに 引き絞る
ぐぅええぇっ
喉を絞った 鵜のような呻きが 水を伝播した
がぁぁあ
湖水を腐敗で満たして
女の
オノ ハ セイレイ ノ ミコト カ……
口には 黒い歯が まばらにあった
その眼は 腐れ濁った 白眼
鼻は片側が腐れかけ 骨が 覗いている
クロウ タラ ウマソウ ジャ
首は きゃた きゃた と 笑って 湖水を腐水で満たす
鼻の穴から 細い蟲がするりと はい出た
クライタイ モノ ヨノ
元は美しい 女御であろう
欠いた歯に 塗られた お歯黒が 痛々しい
マズ ハ クチノハ ガ ヨイカ ウマソウ ナ
首は 腐れ髪を たゆたわせると アラバギの顔を目掛けた
がはっ
湖水が 腐れた 皮膚を揺らす
アラバギは 左に風を喚ぶと 一撃
首の横っ面に見舞う
腐汁が 湖水に滲んで 首はきりもんで 回る
ウヌ ハ オナゴ ノ ツカイ ヲ シラン ノ
黒い歯を かかっと打ち合わせると 首は目を剥いた
てらり
長い舌で 上唇を舐める
オノコ ヲ クラウ ハ ヒサシ ブリ ジャ
きしぃっ
首は 黒い歯を剥いて アラバギに笑いかけた
そして ガバと水を喰らって 飛びかかる
があああぁっ
鼻柱と眉間に 皺を寄せながら 黒い歯が 照りを放つ
がしっ
首はアラバギの 右の腕に ガッチリと 歯を立てる
しかし 厚手のスウェットの為に 歯が通る事は無かった
しかし 尋常ならぬ力の事 ぎりぎりと噛み締められて
きつく痛む
が……
アラバギは態勢を立てると 膝を 女首の顎に見舞う
バツン
腕に響くが 顎は外れた
がばばば
首が 勢いよく回る
ウヌラ……
鼻の皮膚が 衝撃で剥がれかけ てらっと めくれた
ざっ
アラバギの 足のひとかきが アラバギを浮島の入口へと運ぶ
ヌシ ヌシ ワラワ ヲ オトシム キ カエ
オナゴ ニ ハジ ヲ カカス キ カエ
腐れ髪が ずら と伸びて アラバギの 首に纏わった
クビレ シネ ワラワ ノ ヨイ ノ アイテ ニ ナルノ
ジャ
ぎしぃっ
艶のない 滑った髪は しかし 強靱だった
指で隙間を作ろうと もがけば もがいただけ ぎちりと
締まる
けけけけけけ
頭が爆発しそうだ
アラバギの面は どす赤く染まった
ぐぼっ
気泡が 一気に溢れ出る
ガバボ
鼻から 真水が入ってきた
「ラキ」
アラバギの腕が 滑り落ちる
ごっつ
水の弾丸が 渦を纏って 女首を弾いた
ぎぃいいいあ
女首の 皮が てらてらと 剥がれて 頭蓋骨が 露になる
てらっと 白目が 眼窩を滑った
アア…スザク サマ
女首は 魂を遺すように 呻いて 骨を晒す
白く 薄赤い骨
女の情念が 揺らぎ舞う髪に 込められている
ばすっ
無数の水弾が それを 分断し 散った切れ端が 湖水に
漂う
白い手刀が女首の頭蓋骨を 貫いた
ラキは流れるように 手を引き抜くと アラバギに泳ぎよる
アラバギの黒髪は 美しく 放射状に漂っていた
……っ……
ラキが そっと唇を 寄せる
アラバギは 意識を失っているようで
顔はもはや 赤くはなかった
コポ
白い唇に ラキの唇が 重なる
こぽぽ
気泡が しずかにもれた
「…………っ」
アラバギの黒曜が うっすらと開く
ラキが アラバギの鼻をつまんだ
「くっ」
ぽっ
小さな気泡が 静かに立ち上がる
ざっ
アラバギが 大きく 身じろぎした
くんっ
空気が僅かだが 肺に満ちる
ラキが静かに ウインクすると 親指を突き出して見せた
自分は 浮上する と 言いたいらしい
ザンっ
深く 水魚のヒレのように 両足で 水を蹴る
素晴らしい 速度で 浮上し 最後にひらひらと ラキは手を振った
行け
声は無くとも そう 伝わる
アラバギは ぐんと加速すると 結界に拳を撃ち込んだ
バシっ
アラバギの 拳から 放射状に ひびが走る
白い さざめきのような 細かい糸
糸状の 薄いひびは さりさりとひろがった
ぱらり
白い破片が 1欠片 2欠片
舞い落ちる
ぶんっ
アラバギは腕を伝って 拳へと 神気を流す
ぱりーん
さりさりと結界は崩れ落ちた
ザウッ
水が逆巻いて 左右に割れる
再び 地底湖を割って 道が姿を現した
ざぱ
アラバギのスウェットが重く たれさがる
小さな滝が スウェットから現れていた
ざっ
アラバギは手早く スウェットを脱ぐと きつく絞った
ざっ
滝のように 水が落ちる
下も脱いでしまうと 引き絞る
ざざ
絞ってしまうと かなり軽くなった
髪は 手早く 手すきにして 右側に垂らす
はぁ
深く 息をつく
令……
きゃあああああっ
アラバギの背を 戦慄が走る
「令!」
きりと アラバギは 手を 握りこんだ
全身が バネのように アラバギは飛び出す
なにか なにかあったのだ
浮島の入口に駆け込んで 勢いよく弾かれる
虹の膜
封印が発動している
柳踊の石鏡が放たれた
アラバギは 1歩退がると 全身の神気を右腕に集めた
ぱしり……ぱしり
白い電流が 肩から腕を流れる
「令っ」
気合いを込めて 全神気をのせる
がしっ
虹の膜は にわかに沸き立って
アラバギの神気を飲み込む
うぉぉおぉお
封印と神気が 振動して かきまざる
虹が 白い光と共鳴して ヴヴと震える
そして 蓮の蕾が綻ぶように 封印が開いた
「……!」
結界の奥に なにかがいる
存在すら許されない何か
爬虫類の気配
アラバギの身体が 総毛立つ
令……
アラバギはしっかりと1歩を踏む
じわり……
岩壁を裸虫が蠢いているような 醜悪な力が 満ちていた
ギリ
アラバギは 歯噛みする
ざっ
足元で 砕けた石が鳴る
「……!」
白く 先に ぼんやりと滲んだ 光の片鱗が見える
「……」
アラバギは 肩に力を溜めると 静かに1つ息をついた
うぞり
欲望が蠢いている
肉に対する 限りない欲望……
そして爬虫類の息遣い
その内に 白い蓮の震えを感じとって
アラバギは一気に逆流した
髪がじわりと舞い上がる
指先に目掛けて 神気が暴走した
指が 白い電流を帯びる
「くっ……」
令の震えた 息遣い
アラバギは 全身が戦慄くのを感じた
白い光の膜が そわり そわり と広がる
ヴォ
全身を すっぽり覆った 輝きは 放射に 広がる 帯を 揺らめかせて 7色の光彩に 滲む
うぉ
我を 我をなくしそうだ
神気に当てられて 「それ」の身体が 仰け反る
アラバギは拳をきつく握り締めた
右手には 抜き身の刀が握られる
神気が 実体化した
止められない
アラバギは 大きく 確かに踏み込み 切り払う
光の刃跡が「それ」を直撃する
ヴゥボッ
刃跡は「それ」の背を切り払い 中芯に達し 口腔から
伸びた
神気に 拒絶反応を起こして「それ」の全身が 体表が沸騰する
がっ
絶叫に似た 震えが 空気を満たす
おっ……っ
「それ」は 免疫細胞の反応の 加速によって 高温になり
破裂する
腐臭に満ちた体液が舞う
「あうっ」
令は身体を竦めて かわした
アラバギの体表から 白い放電が 空気を走る
足元で 砕けた石が しだかれる
「あ……」
愛しい……愛しい人が ゆらりと身体を起こす
傷ついて羽を 1枚 1枚 むしられた小鳥のようだ
令……
「だ……だれ」
アラバギは 今にも衝動のままに 駆け出してしまいたかった
しかし 動けない
令……
令…………
令………………
「愛している」
抱きしめたい
しかし出来ない
姫巫女の姫巫女の純潔は絶対だ
男として触れたい
抱き締めたい
奪ってしまいたい
指を 令の胸元に這わせたなら……
くっ
アラバギは 危ういものを掴んだように 手を握り直す
ああ……
貴女が 巫女でなかったなら……
「……………………」
令の身体が くらりと崩れる
意識を 意識を失う
私を見つめる
アラバギは ぎり と手を握りしめた
親指が変色するまで 握り締め
アラバギは目を伏せた
「令……私は 貴女を愛せない」
アラバギは静かに しっかりと 岩肌を踏むと
令に近づいた
令の肩を抱き寄せる
抱きしめてやりたい
愛に……愛に答えられないとしても……
私が 私が 答えてしまったなら
止まらなくなってしまうだろう
衝動を抑える自信が無い
令に 愛してると 口に されたなら 私は 男になってしまう
触れたい
その唇に……
いつの間にか 令の唇が 後僅かにある
ふっくらと 艶のある
甘い唇
アラバギは吸い寄せられる
嗚呼
柔らかな 柔らかかな絹のような 感触
しっとりと アラバギの唇が 滑る
アラバギの唇によって濡れた唇が 小さく吐息をはく
「駄目だ」
アラバギは 令のうなじに 手を回すと きつく引き寄せた
甘い……甘い 令の味がする
指が 令の髪を滑って 緩く解く……
私は お前を愛している……
令……
例え
例えお前が 私を忘れようとも
別人を愛そうとも……
愛している……
護れる……
守れるはずだ
薄い涙が 目尻を伝う
肩にまとめた髪が ゆるく滑った
髪が アラバギの 横顔を 令の 横顔を 覆う
アラバギの指に 強く 愛が走った
愛している
静かな涙が 頬を一筋 滑り落ちた
第11章 記憶……
目を開ければ 岩天井だった
令は 薄く目を開くと 静かに 唇を震わせる
目が 渇いたように 重い
肩が 全身が 背中が痛みにズグンと震えた
痛い……
頭が 靄がかかったみたいで 手指に力が 入らない
末端にまで 痺れがある
令は 静かに目線を巡らせた
しなる筋肉を持つ 黒髪
ストレートの髪が 肩を滑って 半裸の上半身を サラリと彩っている
ふと 横顔が見えた
なんだろう
酷く悲しそうだ
アラ……バギ
どうしたの?
身じろぐと スウェットが パサリと滑った
ピンクのJ・K
彼のだ
「アラバギ」
令は スウェットの裾を握り込む
なんで なんで悲しそうなの?
「なにか……あった……の」
声が 掠れていて 渇きにはりつきそうだ
令は 白い手をアラバギの 頬に滑らせた
どう……したんだろう
起き上がって アラバギの背に寄り添う
「大丈夫……?」
泣いてるの……
思わず 下から黒曜を 覗き込んでしまう
目線が しっかりと合わさった
潤んだ黒曜
令は 手をアラバギの手に 重ねた
大丈夫……?
変だ
ねぇ……
「大丈夫だ」
大きな手が 令の肩を撫でる
「心配しなくていい」
その……声は あまりにも穏やかで 優しくて
令は目を閉じた
もう……もう一度聞きたい
しばらく そんな彼の声を聞いていない気がした
「アラバギ……!姫巫女!」
交わりを遮られて 令は びくっと震える
ラキだ
足音を 岩肌に響かせて 歩み寄ってくる
「ラキ……」
令は 静かに微笑みを浮かべる
「無事か」
アラバギの手元を見ると 石鏡があった
しかし
「………………」
変だ
覚えていない
何故?
滝壺に落ちた
そこからの記憶が 抜け落ちていた
アラバギ
助けを求めるように 彼を見る
なんで
時はたっている
認識はあるのに……記憶がない
「アラバギ!」
アラバギの手が 令の頬に触れた
「大丈夫だ……令」
不思議だ
その一言と 温もりで納得してしまう
すんなりと 飲めてしまう
令は1つ 頷いた
うん……
安心感に 満たされて 令は 目を閉じる
辺りの滴る 滴だけが 大きく 聞こえた
大丈夫
きっと 大丈夫
「石鏡……無事だったね」
令は目を開けると アラバギを見上げた
石鏡は アラバギの手に覆われて 鈍く 輝いている
長い指が にび色の鏡面に 写り込む
まるで 魂の世界から もう1人の自分が 魂呼びをしているようだ
令は アラバギの手の内の石鏡に 静かに触れた
美しい
にび色の令が こちらを窺ってくる
裏を見て 令は 感嘆した
こんなに ゆっくり見るのは きっと初めてだ
本当に 細工が細かい
髪の毛より 蜘蛛の糸よりも細い線で 龍がほりこんである
下に柳の揺れる様と 泳ぐ鯉が 彫られてあった
柳……
裏側の 柳をなぞってみる
指先に さらりと気持ちいい
ぱしっ……
今 微かに 気配が鳴った
「へっ……」
令は 首を巡らせた
何かがいる……
暗闇 水の中だ
令の 気が 研ぎ澄まされる
うぞ……
黒い 滑りが 揺らめいた
金紅色の眼
ばしゅ
空間を 裂くようにして 水底から 黒い塊が 現れた
「……!」
令は 背に緊張を走らせて ざ……と後じさる
ラキは 右手を 腰だめに引き寄せると 体重を 低く 腰に落とした
うおぉ
空気中の 水が 凝縮されて 虹の珠になる
ラキの身体は素早く令を隠していた
とん……
令の背に アラバギの背がぶつかる
うぉるぅうぅ
もう一体の黒い鬼
「瘴鬼」が 背後に現れていたのだ
アラバギが 抜き身の刀を握り込む
瘴鬼の 鈍く輝く牙が てらりと光る
さしっ……
間合い……数歩……
アラバギは 刀の切っ先を下げたまま じりりと 足で 岩を噛む
だしっ……!
瘴鬼が 先に跳んだ
黒い 長い毛を持つ 巨大な足……
まるで 全身が筋肉で あます肉など無いような跳躍だった
ぶおっ……
爪の長い腕の 1振り
アラバギは 上半身で軽くかわす
しかし 風圧に 髪が 幾条持っていかれた
深く 身を下げると アラバギは 刀を立てる
ぎいっ……
耳が痛むような 金属質の音
刀と 爪が がぎりと噛み合う
ざし……!
力押しに 互いを押し合う
アラバギが 一瞬 沈んだ
重い
ぐっ
支える足の筋肉が うぞり と 動いた
ガッ!
刀で横にかわして 反対から切り払う
…………っ!……
しかし 長く硬い毛と 粘りのある 筋肉の為に 傷一筋すらつかない
ざりっ!
アラバギは 体勢を下げ 刀で突きをとる
ガスっ!
しかし 瘴鬼の右手が 刀を 軽く いなした
格段に強くなっている
令は 息をのんだ
アラバギが 圧されている
いつも あんなに 強かったのに……
きゅ……
令は布地越しに 勾玉を握りしめた
暖かい
私には なにも出来ないの?
ざ……
令の背を押し退けて ラキが 身を下げた
「……!……」
肩が薄く裂けている
「ラキ!」
「さがって!」
美しい 蝶の羽を思わせる瞳が ぎりと 令を 睨み据えた
ズドン
両腕で 全身で ラキは 上からの 瘴鬼の殴打を溜める
ざりっ!
脚が 堪え切れずにじりりと下がる
「あっ」
ブラウスの胸元に 手を当てると 令は1歩下がる
どうしよう……
きょきょきょ……
きゃあ……!
突如 岩天井から 巨大な蜘蛛が 糸を滑ってきた
「あっ」
令が 弾かれて 尻餅をつく
長い爪を持つ 巨大な女郎蜘蛛!
じゃっ!
蜘蛛は牙を持つ口から 白霞の糸を吐いた
「ぅっあ……」
令が 脚から絡み捕られる
「きゃああっ」
ぎちり……
全身が 締め上げられる
令が 喉を上げて くっと堪える
ざららっ
糸に引き摺られて 令は岩を滑った
がうぅ
鋭い鉤爪を持つ 脚が 令の 喉を狙う
「………………!」
アラバギが 振り向きざまに凍りつく
がづんっ!
腕に一撃
令のブラウスが裂けた
腹筋で僅かに 反らせはしたが 薄く 白い腕が裂けている
動くと サクリと傷が痛んだ
ずが!
女郎蜘蛛は 1撃をかわされて 連撃を見舞う
ざどど
令は 身体を 丸めた
爪が 背中 腕 脚といわず 掠めて行く
ざっ!
令は 拳を握りこんで 蜘蛛の脚に叩き込む
じわ
拳は 足の関節に 当たったが 鋼鉄のような甲が 拳を弾いた
硬い
太い針のような 剛毛が 手の甲を裂く
「つっ……!」
令は 手を引き寄せると 締めあげられた胸に押し当てた
痛い
ぎちゃり
牙が 打ち合わされる
牙の根から 先に向かって 透明な 恐ろしい程に美しい 死の毒が すべりおちた
毒は つらり と 牙先に溜まる
がきん!
令の 胸を目掛けて 女郎蜘蛛は その牙を 撃ち込む
「きゃ……」
「……!」
ざさっ
突然 令の眼前を肌が覆った
「あ……」
令が 身を捩る
毒の牙は 裸の肩に 深々とつきたっていた
「ラキっ……!」
やわらかい美しい髪が 令の頬を撫でる
令はラキに 組み敷かれていた
肩には毒牙が がっちりくい込んでいる
はたり
くい込んだ牙から 死の毒が滴り落ちた
ラキ……
令の目から涙が 溢れる
やだ……
出血はしない
しかし 傷口の まわりの皮膚が じわりじわりと 黒ずんでいった
いけない……
令は必死で身もだえた
辺り構わず 岩に 糸を擦り付ける
切れて
切れてお願い!
ざっ
「……!」
ラキが震える右手に 水の珠を喚んだ
そして 静かに 令の傍らに倒れる
「ラキッ!ラキ!」
令が 身を くの字に曲げて横にむく
「大丈夫?」
自由な方の手で ラキの肩を 探った
冷たい
傷のまわりが 黒く壊死している
このままでは 全身にひろがる
令が跳ね起きた
何か……何か無い?
辺りを見回して 勾玉に 気付いた
あれは確かポケットに……!
しかし 動けない
自由な右手も ポケットを 探る事は出来なかった
ガザッ
「きゃっ」
令が弾けた
締めあげていた糸が ばつん と切断される
「あ……アラバギ!」
肩で息をしながら 両足を踏ん張って アラバギは 刀を振るっていた
令を背にかばい込むと 光る礫を 投げてよこす
硬い 透明な何か
慌てて両手で受け止めて 握った手を開く
美しい……虹を抱く水晶
令は静かに翳してみた
透明な 限りなく透明な中に 小さな虹がはいっている
令が 握ると 清らかな気が 溢れる気がした
「あ……」
僅かに 苦しげに ラキが喘ぐ
令は 静かに ラキの肩に 水晶をあてた
さら……
水……!
清らかな 水の気が 握った水晶から溢れた
令は 霊的な水を 幻視する
「あ……ああ」
ラキが 苦しげに仰け反る
水が さらさらと 傷口に触れて 黒い傷を洗った
「その毒は 触れる生物の細胞を壊死させる猛毒だ
決して触るな」
アラバギが女郎蜘蛛の前肢に刀を見舞う
があっ
後ろの脚で立ち上がった蜘蛛は 勢いに乗せて 前の脚を落とした
アラバギは 跳んで寸ででかわし 横に滑った
砕けた岩の礫が 令の頬を掠める
「……っ」
少し裂けた
しかし解毒は 止めない
令が 力を腕に流すと 水晶が白光を放つ
ざ……
手が濡れる
手から清水が溢れた
「つっ……」
ラキが 目を開ける
「ラキ」
令が ラキの顔を覗く
「姫……巫女」
ひどく 乾いて 掠れた声……
令は水晶を ラキの唇にあてた
……!……
美しい 形の良い唇が 令の指に触れて清水を 貪る
ラキは 令の手を唇に押し当てるように 手で抱いた
こくん……こくん……
令が ぞくりと 身を震わせる
背を何かが走った
ズド
再び女郎蜘蛛の 前肢が落ちる
令とラキは その中心だった
砂塵が舞い
砂礫が弾ける
「……!……」
令の身体は 横抱きにされていた
ラキの素肌
息ずく 艶めかしい程の 艶肌が 令の 肌を包み込む
弾力と 男らしい体臭
目が眩みそうな程の「男」
令が きゅとラキの首に手を回した
スタ……
ラキは 令を抱いたまま 着地すると 水の珠を喚ぶ
「姫巫女 下がって」
静かに 令を降ろす
令は左脚から岩肌を踏むと 小さく頷いた
グァドンっ……
そこに上空からの瘴鬼の一撃
令は たたらを踏んでじりりと下がる
「……!」
ラキは 全身を バネに 瘴鬼の 一撃を 受け流した
ズガン
2撃
横から 殴打がくる
重い
黒い圧力の 塊
ラキは静かに 身を低めると 瘴鬼の腕を 右手で反らし様に くんっと引いた
がっ
柳の跳躍
ラキは 鬼の腕に脚をかけると 高く舞った
ざっ
半月
ラキはひらりと身を翻すと 一回転した
ががんっ
瘴鬼が 仰け反る
ラキの半月蹴りは 見事に 瘴鬼の 顎に 炸裂した
スタン
着地しての 下段回し蹴り
瘴鬼はぐらりと揺らいだ
「……!」
ラキの 掌底
瘴鬼の顎が 伸びた
ずざざ……
後ろへ 僅かに滑って 瘴鬼は たたらを踏み 身を崩した「……!」
ラキが 踵を落とす
しかし 瘴鬼は 身を下げてかわした
丸太の1振り 瘴鬼の 太い腕が ラキの肩から胸を捕らえた
「が……!」
ラキが 喉を上げて吹き飛ぶ
「ラキ!」
令が叫んだ
ぎりっ……っ
ブラウスを握りこんで 令が 唇を噛む
手には まだ 水晶を握ったままだった
ガ……ドン!
真上から 瘴鬼の一撃
ラキの体が 深く沈んだ
「……っ」
令は 遮二無二 石を投げつける
ラキに加勢したかった
「令!」
背後からの アラバギの叫び
令は ビクッと振り返った
そこへ 黒い塊が 着弾する
令は 息を飲み込むと ざっと尻餅をついた
瘴鬼だ
アラバギは女郎蜘蛛の胴に 刀を突き立てていた
「きゃ」
じわり…… 瘴鬼が 起き上がる
金紅色の瞳が 令をとらえて 睨み据えた
からら
砂礫が 瘴鬼の背を 滑り落ちる
ぐろぉう
瘴鬼は 喉を鳴らすと 大きく口腔を開けて 吼えた
太い腕が ふりあがる
令は 息を飲んで 瘴鬼の目を見上げた
逸らせない
金紅色が 令を捕らえて 背を金縛る
瘴鬼の下顎を 涎が伝う
ガ……ドンッ
腕が落ちる
風圧で 空気が裂けた
砂塵が 舞い上がる
「令!」
アラバギは 蜘蛛から 刀を引き抜くと叫んだ
駆け出そうと 女郎蜘蛛に背を向ける
……!……
影……
アラバギの背後に 蜘蛛が 大きく前肢を振り被るのが見えた
ざっ
アラバギは 刃跡をのこして 回転すると軸方向に 切り払う
ぎゃあああ……
蜘蛛が 仰け反った
八つ目がある頭を 真っ二つに 横に切り裂かれ のたうつ 黄土の粘液が じわじわと広がった
すえた 虫の匂い
アラバギは 刀に付いた 蜘蛛の体液を はらうと 令を探す
砂塵の舞う中に 僅かに 光の殻が見えた
「令!」
駆け寄って アラバギは 叫ぶ
うっすらと 輝く殻の中に 倒れ込んだ令がいた
アラバギは 令を抱き込むと 刀を横にして 瘴鬼との間合いをはかる
じりり
1メートルあるかないか……
ぐぉっ
瘴鬼が 残像を残して 切り込んでくる
アラバギは 令を庇い 片膝をついて 刃を立てる
ずおっ!
瘴鬼の 爪先が アラバギの刀に触れる
しかし その瞬前で 光に遮られた
瘴鬼の 蹴りの部分に 光の殻は 収束し 蹴りを防ぐ
ざしっ……ざしっ……ざしっ!
連撃も 殻の前には空しかった
……!……
瘴鬼の蹴りと 光の収束の間合いを突いて アラバギは刀を滑らせる
ばつ……ん
ぎゃあああぁああっ
神気の白刃が 瘴鬼の左を二の腕から切断する
血が 吹き出して 岩肌を染めた
ぐるぅぅ
鬼は左を庇いながら ヒタリと 岩を踏む
まるで 痛覚が無いかのような 身ごなしで 蹴りが来る
がっ
アラバギは 刃を立てると 宙で翻り 刃跡を浮かせながら ざっと 払った
ゴツ……リ
確かな手応え
首の皮膚を裂いて 骨に触れ 切断する
静かに 片膝をついて着地すると 下段に切り払う
ゴツッ……ゴツッ
瘴鬼の両足の骨が 斬破される
アラバギは しっと 息を吐きながら 立ち上がると 刃紋を濡らす 血糊を 払った
どさ……っ
瘴鬼は 切られた首から 噴水のように血を 噴き出させながら 切断されて 支えるものも無く 崩れ落ちる
それでも なお 蠢く 切断された部位に アラバギは刀を突き立てていった
ごっ
骨を貫く手応えがある
抜き出して払う
刃こぼれは しない
ざわっ
瘴鬼の 眼球が蠢いた
「……………………」
生きている……のではない
喰らわれているのだ
ぽろっ
眼球が 落窪んでいく
すぽん……と消え去って うぞり と 乳色の蟲が大量に這い出た
背筋が 粟立つ
アラバギでも 直視を躊躇う現状なのだ
これを 令が見たならば 卒倒位では済まないだろう
うぞ……うぞ……と
瘴鬼の屍に蠢く「闇天の蟲」人の屍を食らう蛆のようだ
蟲は 瞬く間に 瘴鬼の骸を 薄赤い骨にしてしまう
骨にすらもたかって 筋も筋肉も 食らいつくした
そして ぶあっと 一塊になると 黒く色を変える
羽化だ
黒く てらりと光る 甲虫
その背を裂いて 虹色の羽が現れた
油膜の色
ずじ……じじじじじ……
羽を震わせて1匹が 舞い上がる
ぶあん……んっ
羽化した闇天の蟲は アラバギを 目掛けて飛び
ざお……と 黒嵐を巻き起こして 出口を目指した
ず……じじじじじ……
羽音が 蝉の羽音を 束ねたようだ
ざっ
アラバギは目を覆うと 令を庇った
「砕」
青い言霊が 辺りを満たす
ぼうっ
闇天の蟲は 青い炎に包まれた
ざ……
ぱら……ぱら……ぱら
闇天の蟲は 燃え落ちる
アラバギの 左掌底から 青い光の 残影が 立ち上がっていた
ごっ
ラキも 瘴鬼の首筋に蹴りを見舞う
そして 深く身を下げ 回し蹴る
ズガン……ンっ
瘴鬼は 頭部を 強く打ち付けると びくりと 痙攣した
かっ!
金紅色が 見開かれる
ざっ!
手刀を 瘴鬼の 頸動脈に 滑りこませた
びく……んっ!びく……んっ!
瘴鬼が 仰け反ってのたうつ
手刀を 真上に すらりと抜くと ラキは立ち上がった
ぶっ
瘴鬼の 血が噴き出す
ラキは 印を 手早く組むと 「砕」と 唇にのせた
ぼっ
瘴鬼が 蒼炎に燃え上がる
がぱぁ
口腔を 大きく開いて 瘴鬼は 反った
がかぁ……
断末魔の呼吸
ピクリ……ピクリと 手指 爪先を引き攣らせながら
瘴鬼は 灰になっていった
第12章 朱の末路……
痛い……
痛い……
痛い……
むしられる
ちぎられる
私は……喰らわれる
…………………………
ぎゃあああああぁああっ
回転する 空間
そこで 令の意識は 見た
感じた
感応したという方が良いだろうか
令が 意識下で 身を捩る
岩肌
茶色い 地面
白い 白い 薄黄緑の花
葉緑素を持たない 全てが白緑の花
そこに その根元に 土と 血で汚れた手が
ぱとり……と落ちる
ぎりり
手で 土を食んで 爪が 1枚剥がれた
がああああぁっっ
赤い……赤い血が 舞う
ばっ……
血は 葉緑素を持たない 花を 赤く染めた
シャクジョウ……ソウ……
ひどく 遅く ごろりと 首が 転がる
剃髪の 生首
目は 深く 血走っていた
口には肉
慚愧の念が 残るでもない
首は 生肉を 咥えたまま
にちゃり……と 笑っていた
「きゃああああっ」
スザク ウチトッタリ……
ぐら……
目が 回る
世界が回っているのか 己が回っているのか
吐き気が 喉元に込み上げた
あっ……
跳ね起きて 両腕で 自分を抱く
がたがたがた……
震えが とまらない
令は きつく目を閉じた
痛い 痛いほどに ひきつる程に濃い涙が 目尻を焼く
うえ……
胃液が 逆流する
きもち……悪い……
令は 己の膝に突っ伏して 吐き気を 堪えた
「令……」
滑らかな 髪が さらりと目の前を 滑った
爽やかな薄荷
令が 僅かに 顔をもたげる
「っく……うっ!」
大丈夫か……
暖かい手が 肩を背を撫でた
「生首」
令は自分の 二の腕に 指を食い込ませる
わらって……た……
ぐっ
再び 込み上げて 目を閉じる
口の中に 酸の匂いが満ちた
「のむといい」
長い手指を コップにして すくった水をくれる
「精神安定にいい」
水の中に 翡翠が1つはいっていた
くっ
令は やわらかな唇を アラバギの指に あてると
こくり……と飲む
あたたかな 癒しが 駆け抜けた
植物の 生命
輝き
安定の力
令は 目を閉じると くくっと 飲み干した
ぴしっ
こめかみを 電流が 走るような 辛さも和らいだ
「ああ……」
令は 胸を撫で下ろして 周りを見回す
浮島のある洞窟の岩肌に 令は寝かされていた
下には アラバギのスウェットがひかれている
すぐ脇に あの植物があった
シャクジョウ……ソウ……
白黄緑の釣り鐘が 幾つもついている
花も 茎も まるで脱色されたかのような白
「あ……」
令は アラバギの肩に すがった
「この花……」
蒼い
死人の顔色を思わせる
ごろり……
令は アラバギの裸の肩に顔を埋めた
「シャクジョウソウだ」
ラキが 令の背を労る
「修験者の錫杖に似ている」
アラバギが 令の髪に唇を 寄せた
「怖がらなくていい……我々がいる 花は害なさないよ」
ざっ……
ラキは 地底湖の水で 柳踊の石鏡を 清めると 上衣で包んだ
「戻ろう……結界を張って 石鏡を 安置したい」
邪気が 溢れ出ないように 印を組んで きつく 封印してしまう
きぃん……ん
空気が 僅かに 金属音を帯びた
令は 自分の腕をさすると コクと頷く
兎に角も 邪気の塊を 呑んだような 鏡を 何とかしたかった
アラバギは スウェットを 拾いあげると 令の肩に 袖をまわして 結んでやる
令が 改めて 己を見返すと ブラウスが 所々 裂かれて 白い肌が のぞいていた
「…………」
もうちょっと 戦えるようになれたら……
令が 耳を染めた
アラバギの スウェットを 喜んで借りる事にして 令は ラキの 背を追う
後ろに 髪を引くように 浮島の洞窟が見送る
令は ちら とだけ振り返った
ツキン
甘い疼き
唇が 何かを覚えていた
「ラキ…… 龍神水晶を少しばかり 貰ってもいいか?」
アラバギが 先を行くラキの背に 言葉を投げた
令は 振り返る ラキの 肩越しに 結晶をみる
「わ……」
まるで 星空
散り散りに 輝く 小さな結晶
そして 青い光彩の柱を宿す 大きな結晶
令は 感嘆の息を もらすと くるり 首を巡らせる
綺麗
水晶の 柱の内に 虹が揺らめいていた
駆け寄って 結晶のひとつに触れてみる
きぃん……ん
金属質の 琴の音色
令は 触れて耳を澄ませた
きぃん……
きぃぃん……っ
水を通すような 清い響き
引き寄せられて魅入ってしまう
「綺麗」
龍神水晶っていうんだ
触れていると ぽうと明るくなった
「気に入られましたか……」
ラキが 微笑む
カツン
打ち欠いて 手にのせてくれた
「きっと喜びますよ」
言いながら 手頃な大きさの 純度の 高い水晶を 打ち欠く
「持って行け」
アラバギに 持たせて ラキは 浮島への道を 封印した
「封陣」
ききんっ!
金の糸が 張り巡らされる
アラバギは 令に ちらりと 笑みを 投げて寄越した
「?」
「土産屋の 人に渡そう」
ああ……
令は ぽんと 手を打つ
そうか そうだったのだ
お土産って……
それだったのね
にっこり……思わず笑ってしまう
「きっと きっと……喜ぶわ」
金の仄霧……
3人は 道を下って 少し開けたところに 出た
日差しに 煌めく 町が 一望出来る場所
しかし 今は 夕焼けに うっすらと 煌めく 霧に覆われていた
流れる 金の霧……
霧の 1粒 1粒が 煌めいて 夢のようだ
しかし
この神秘にのまれて 行方不明が 続発するという
令は 金の霧を 纏わせながら ラキの 手をしっかり握った
左手には アラバギがいる
手が しっかりしていて 頼もしい
きゅ……
振り返る令を 安心させようとしてか アラバギが 優しく 手を握り込む
「あ……」
令も きゅ……と握り返した
さら……
風に 金の霧が 流されて 紋が 揺れた
「綺麗」
写真を撮りたいくらいだ
令は 目を細める
「段差があります」
ラキに手を引かれて 段差を 降りる
さすがに ラキは 山に詳しかった
風が流れて 昼間 登った 道が現れる
「登山道ね」
令が 明るく 振り返る
アラバギの 口元が うっすらと ゆるむのが 霧越しに 見えた
昼に通った 木々の トンネル
令は パタパタと かけ下る
「意外に 子供っぽい」
ラキが くすと笑った
「素直で良い」
微笑んで見送る アラバギをラキが 軽く 肘打つ
判っているな……
流された目線が それを告げる
「ああ」
ため息を 吐くように アラバギは つぶやく
「勿論だ…… 令を 静様の 二の舞には させない」
血を 飲み込むような 囁きだった
土産屋につくと おばさんが 店のワゴンの 片付けをしている所だった
「ただいま帰りました」
令は にっこりと 一礼する
「あ……あら……まあまあ!」
おばさんは 半裸の男2人と 裂けたブラウスの令をみて
目を見開いた
何かあったのっ!
令の 腕を さすって 慌てて タオルハンカチで 傷をおさえてくれる
「あら!まあ……こんなに 傷だらけでぇ……」
心配のあまり 腕を強く引く
「いらっしゃい!着替え出してあげるから」
グイグイと店内に 引き込んで行く
おばさんは 店の入口手前の ワゴンを 派手にかきこんで Tシャツを 引っ張り出した
「夕霧の山IN雪景」
赤い字で うってあって 胸に 黄色いライオンが プリントされている
何故ライオン……?
深くは 問うまい
「はい これと これと これね」
てきぱきと 令の手に 品物を 置いて行く
しかし お金が……
「あとは……ねぇ……ちょっといらっしゃい」
令だけを ぐいと 引っ張って 奥へ向かう
「はい 座って」
救急箱を 引き出して 派手にガバリと開ける
脱脂綿と しみない消毒薬を 取り出すと 令の 顔を 拭った
「女の子が……顔に怪我するなんて……!」
きつく頬の傷を拭う
「あ……あの 足を滑らせちゃって……」
下手をすると 心配のあまり 警察を呼ばれかねなかった
おばさんは 店内のアラバギ達を見やると
「なにか されたんじゃないの」
と 眉を 上げる
「い……いえ……夕霧にみとれて……足を滑らせたんです」
令は 肩を竦めて見せた
「本当に?」
ずいっ おばさんが 身を乗り出す
「はい 2人が裸なのは 服をこうしてかりたからで」
にっこり……令は おばさんの手に 手を置いた
「本当ね…… なら いいけど もし もし何かあったら言いなさいね」
真剣に 令の目を見つめると パタンと 救急箱を 閉じた
「着替え ここに置きますから……救急箱使ってね」
気さくに ウインクをして おばさんは 店内に降りていった
「さあ……貴方達も……」
おばさんの指示が てきぱきと 飛ぶ
令は Tシャツのビニールを開けながら クスリと笑ってしまった
蛍光の 白と 糊の効いたTシャツ
令は 広げて ふっと 唇をゆるめる
ああ……「
令は Tシャツに 腕を通すと 頭から被った
ずきん……
肩が 重く痛む
「……?」
何処かで 打ったのかもしれない……
さらりと撫で下ろす
「ふぅ」
Tシャツを着ると 少し和んで ため息と 欠伸が 出た
「ああ」
疲れているのかもしれない……
立ち上がると 足が重かった
「すみません」
ラキの 低音が聞こえる
顔を 店内に向けると 2人がTシャツに着替えた所だった
闘魂……
令は ラキのTシャツのプリントを見て唖然となる
へっ……
アラバギは アラバギで 日の丸……だし……
目が 目が点になる
おまけに 色が……
アラバギが 赤地に 白の プリント
ラキが黄色に黒のプリント
「ううん」
令の肩から力が抜けた
「似合うか…………?」
「………………」
アラバギの微笑みに ラキの 期待に 満ちた顔……
に……似合う……よ
令は つぶやくしかなかった
お土産屋さんって……不思議……
だって……
いろんなものがあるもの
令は かくんと首をおとした
第13章 街へ……
「あの……お金……どうすれば……」
とりあえずは本題だ
令は いずまいをただすと おばさんに問う
唐突過ぎるきもするが 肝心なのはそこなのだ
令は 不安そうに ジーンズを爪でかいた
「お金?」
おばさんが返して ふんわり笑う
「気にしないの 若い子が……私も見るにみかねたんだしね」
バチン……音がしそうな程のウインクを くれて おばさんが自分の膝を叩く
そして からからと豪快に笑った
「で……でも」
令は 下を向いてしまう
「だってね……ここって田舎でしょう……Tシャツ売れなくて 在庫いっぱーいあるのよ」
いっぱーい……で力をこめて ぽんと令の肩を叩いた
「気にしないの……ねぇ」
令は なぜだか……涙が溢てきてとまらず 下を向く
「困った時はお互い様よね」
柔らかく言って おばさんはお茶をすすめる
「大変だったわね」
紙コップに 3つ お茶が 湯気をたてていた
アラバギは 優しく令を押しやると ズボンから 拳大の包みを取り出す
「あの……お礼になるか……わからないのですが」
布の包みを ゆるく開いて 静かに中身を提示する
「……!」
おばさんが息を飲むのがわかった
「龍神水晶です」
透明で 硬質な輝きが 硝子ケースの上に輝く
「……龍神水晶って こんなにおおきなの」
おばさんの声が震えている
「受け取っていただけますか」
拳大の結晶が じんわりと光った
「でもね これだけの水晶なら 2万円はすると思うのよ」
おばさんは やわらかく 毅然と 手で返す
「受け取れないわ」
「そんな」
令が すがった
「受け取って下さい」
「受け取れません……」
毅然とした否定
「しかし」
アラバギの瞳が すいと水晶を 差し出すように動く
そして おばさんの目を見つめた
受け取って下さい
満身の誠意を込めて 両手で差し出す
「………………」
おばさんは 無言で目を下ろすと 肩を竦めた
「じやあ……こうしましょ……」
「?」
令が 首を傾げる
「水晶は いただきます だけどね 1万円だけ払わせてちょうだいね」
にっこり
否定を許さない 強靭な笑顔
「いいわね……」
令の顔を じっと見つめる
「……はい」
令の 呟きに アラバギが 穏やかに頷く
「そうしてください」
令は胸を撫で下ろした
良かった……受け取って貰えた
ラキが 令の肩を叩く
安心しましたね
蝶の羽色に似た 青い光彩が 碧を宿す
「うん」
3人は 水晶を渡し終え 精算された 1万円を持って 店をあとにした
夕日が 山に落ちて 赤い光の帯が 放射に広がっている
赤い裾野
丘陵
小さなロータリー
古ぼけた案内所が 暗く影をおとしていた
硝子の色が 茜に染まって金に輝く
ざぁ……
なんともいえない……懐かしい風が 辺りを吹き抜けて
心を締め付ける
「こんばんわ」
駅員が 帽子を軽くあげて会釈した
柔らかい茜色
蛍光灯の下に 入ってしまうのは忍びない
年期の入った滲んだ蛍光灯が ブブとゆらぐ
令は 心残りでもあるかのように 振り返った
そして目の奥に焼き付ける
忘れたくない景色……
ふわ……
唇に 甘い風を 微かに感じて 令は 目を瞬いた
なにか……なにか……思い出が袖を引く
きっと……
きっと……思い出さなくてはならないなにか……
唇の……感情
やわらかい……なにか……
プワァン……
雪景発の 最終列車が 待っていた
令は 駆け乗ろうとしてして
「あ」
と とって返す
ジュース……
きっと 2人とも 喉がかわいてる
蛍光灯の揺れる販売機に 100円をいれる
しゃり……
もう 20円を入れようとして 小銭をさらった
「ああ……」
端のすり減った10円玉が 財布の奥にかくれている
ガタタン……
令は 屈んで冷たく汗をかいた アルミ缶をとりだした
緑に黄色い斜めのライン
お馴染みの 令の好きなあの味
スプラッシュサイダー
令は あと2つを 1000円札で買うと 釣り銭を掴み取る
ぱるるるるるる……
令は だっと身をかえした
乗らないと……
「アラバギ…… ラキ……乗って」
2人を どやしつけて 令は駆け込む
ぷっしゅう……
令が 滑り込むのと扉が ガタタンとしまるのがどうじだった
たたんたたん……
小気味よいリズムで 電車が走る
車窓から見える景色は 赤い太陽が落ちきって すみれ色が占めていた
ぷしっ
令は アルミ缶のプルタブを起こす
そして くぅ……と喉に流した
シュワ……
ぴりぴりと炭酸が喉を焼く
僅かにシトラスの香り
「……んっ」
令は 2口をあおる
アラバギは 手渡されたアルミ缶を眺めすがめして ひっくり返してみていた
ラキは さっさと令に習い プルタブを上げている
まったく要領がいい
ん……
おっかなびっくりで 口をつける
「……!……」
ちびりと 1口 吸い上げて ラキが顔を上げた
じっと 見つめていた令と はたと目があう
ぱちん
令がウインクした
再び ラキは 顔をアルミ缶にもどして ぐいっと口にサイダーを含む
ラキは 何ともいえない顔をして 己の大腿に肘をついた
そして 頭を抱える
サイダーって そうして味わうものだっけ……
令がゴクリと飲んだ
すると ラキもゴクリと飲む
「おいしい……でしょ」
不安げに令が 尋ねる
ラキは しばらく決めかねてから こくと頷いた
ラキの味覚をもってして 美味しい部類にサイダーは入るようだ
アラバギは とっくりかえし ひっくりかえししていて
ようやく プルタブを開ける気になったらしい
点字が刻印してある 上面を見て 指をかける
ぷしっ
しゅぅわわわわわっ
「………………!」
令が 飛び上がった
拭かなきゃ
吹き出したサイダーは アラバギの手を濡らして 床にひろがった
「あーあ」
ちょっとむくれながら しかし破顔しながら ポケットティッシュをとりだした
ずいぶん前 駅前で スーツの女の人が チラシと一緒にくれたものだ
「英会話のエルモ」
青いビニールをさっさとやぶると 床に敷く
みるみるティッシュ は炭酸を吸ってぬれていった
「すまない」
アラバギは 慌てた風で 耳を染める
「気にしない……気にしない飲んで」
令の笑顔に アラバギはくいとあおった
ぐ……
「……!」
口元に手を当てて アラバギは目を瞬く
口の中に 弾ける炭酸……
目を白黒している
「これは……?」
飲み下して アラバギは 令に問う
「炭酸よ サイダーっていうの……」
令に にっこりとと 満面の笑顔をむけられてしまうと
アラバギは 黙って飲むしかない
「おいしいでしょ」
問われて こくと頷く
甘い……
車窓を 電車の灯りで 仄かに揺れる木々が 走り抜けていった
たたんたたん……
もうすぐ 民家がチラホラ見えて来る
小さな住宅地
家々の生活を示す 無数の蛍光灯の灯り
令が 肩越しに振り返る
「もうすぐだわ……」
橋が 欄干を煌めかせて過ぎる
矢崎……
令は 身を乗り出した
「おりなきゃ」
2人の手をぐいっととると立ち上がる
「家にきて」
雨が降ったのだろうか 濡れた土と 雨の匂いがした
馴染みかけの自動改札を 令がくぐる
アラバギも 難なく 通り過ぎた
が……しかし……
ピンポーン
改札にとうせんぼされて ラキが立ち止まる
「あ」
そうだラキは 有人改札しか知らなかった
令が 駅員の前を駆け抜けて ラキの手を取る
切符を入れてやって 通してやった
「ありがとう」
ラキが はんだように笑う
改札を抜けて 街に降りると すっかり夜で地面は しっとりと濡れていた
辺りを見渡すと 店の灯りが 点々とある
CD屋が いつもの様に 流行りの曲を大音量でながしていた
たしか かわいいガールズユニットで シャンパリーズとかいったか……
その新曲のはずだ
かわいい見かけに関わらず 意外にソウルフルな歌い方をする
令は 2人を導きながら 公衆電話BOXに駆け込んだ
滲む オレンジの灯りの下に 黄緑の電話がある
家の番号を 手早くプッシュした
令は 2人に 待っていてと目配せをする
ぷるるるるるるる ぷるるるるるる
呼び出すこと数回
噛み付くように 相手方の受話器があがった
「令!令なんでしょう…」
お母さんだ
令は 受話器を握り直した
「うん……」
頷くと すすり泣きが聞こえる
「どれだけ心配したと思ってるのぉ……連絡も入れないで……」
母の嗚咽は 令の胸に痛くしみた
「ごめんなさい」
母は 1つ喉をはらうと 鼻をかんだ
「お父さんがねぇ……部屋にこもっちゃってね…ぷーちゃんもご飯食べないし……本当にもう」
令の頬が 熱くなる
鼻がツンツンしてきた
「帰ったら全部話します」
涙が伝って Tシャツの襟を濡らす
令は 受話器をにぎりしめたまま うん……うんと頷く
「帰ってらっしゃい……いいわね」
母が 涙声で令を包んだ
「はい」
令が 返答した後 カシャン……と受話器を戻す
カシン……カシン
小銭が2枚戻って来る
早く帰っていらっしゃい……
背を押されている気がする
令は 涙を左の甲で拭うと えっ……えっ……としゃくりを上げた
「お母さん」
令の胸を 母親の声が占める
「帰ろうか」
アラバギが 令の頭を肩に抱いた
「うん」
ちいさく令が 頷く
ラキは やわらかく唇で 微笑むと 令の背を撫でてやる
「さあ……行きましょう」
令は ぐしぐしと 泣きながら歩き出す
「帰ろう……」
駅前ロータリーを抜けると薬局があった
個人としては 大きなドラッグストア
入口に 黄色いカエルがいる
見知ったおばさんが 店じまいをはじめていた
ららららら……
シャッターが降ろされる
店内の蛍光灯の灯りが すみやかに 街路からぬぐわれる
令は おさまってきた 涙を飲み込んだ
「こんばんわ」
塾帰りなのか 遅い帰りの 小学生が 自転車を引いてすり抜けていく
令は こくと頭を垂れた
あの角を曲がれば 住宅地に入る
かずら公園が 手前にあった
街灯の下を 右に折れて 令は自宅に向かう
はやく両親にあいたい
自然と足早になる
あの十字路を過ぎれば 令の家だ
令は アラバギの手を握り締めた
茶色い煉瓦ばりの塀が見えて来る
家だ
令は アラバギとラキを振り返る
「ここよ」
きゃきゃ……きゃんきゃん……きゅんきゅん
中から 可愛らしい鳴き声がする
ぷーちゃん!
令が 門扉を開ける
一刻も早く……
令は 転がり込む
がちゃん
カロンカロン……
「お父さん……お母さん!ぷーちゃん」
きゃわん……
小さいキャラメル色が しっぽを振った
アプリコットの トイプードル……
プーちゃんこと プリンスくんは ちまちまと 尾っぽを振って令の足に飛びつく
きゃん……きゃいん……きゅぅーん
令が 破顔してしゃがみ込んだ
クンクン……
ちっちゃい鼻が令の 耳元に 滑る
飛びついては 令の顔を舐め 飛びついては 令の顔をなめする
きゅう……くんくん……
ヴッ!
しかし 令の 背後に気配を察して ぷーちゃんは 抱き上げた令の肩越しに ヴヴと 唸った
がう
アラバギとラキを威嚇する
尻尾がさがった
「ぷーちゃん……大丈夫よ 2人は悪いひとじゃないわ」
ぐるぐる……
唸るぷーちゃんに ラキが 指をだした
「あっ……」
噛まれる
令は 青くなった
ぷーちゃんは 懐けばべったりだが……慣れない相手には 神経質なのだ
しかし……ぺろん……
ラキの指をひと舐め 匂いをかいで ふた舐め……
ぷーちゃんは 尾っぽを振り始めた
「ぷーちゃんっていうんですか」
やわらかく微笑めば その腕に移ろうとする
「流石は精霊きっての動物好き」
アラバギが 笑った
スト……ン
床に降りて ぷーちゃんはお座りする
そして ちいちゃく 首を傾げた
かわいい
テディベアカットのぷーちゃんは 本当のぬいぐるみみたいだ
しかし アラバギが 土間に入ったとたん 足を踏ん張って キャンキャンと吠え始めた
「ぷーちゃん?」
令が 首を傾げる
ヴヴ……きゃわん……きゃわん!
「………………」
これには アラバギも 面食らってしまう
「令」
奥から 母親が顔をだした
「これぷーちゃん」
母親が ぴしりと言う
ぷーちゃんは階段下のぷーちゃんベッドに入って まだヴヴと唸っていた
「あら……お客様なの」
母親は 淡いピンクの前掛けで 手をぬぐった
「うん……昨日からお世話になった人なんだけど お父さんいるかな……」
令が 階段上と 玄関から僅かに見える居間とを見比べながら のびあがる
「父さんね……なんだか……」
母親は 赤い目を伏せがちに 前掛けを 握った
「なんか変なのよ…雨戸なんか閉めちゃって 部屋鍵かかってるし 降りてこないの」
不安気に 唇を戦慄かせる
「どうしちゃったのかしら……」
スイ
アラバギが令よりも1歩前にでた
「?」
アラバギの 美しい横顔は 引き締まり くっ……と
階段上を眺めている
アラバギ……?
令と母親は アラバギの面をみつめた
「悟様」
アラバギの 美声にびくっと 2人は震えた
しかし それよりも驚いたのは……
アラバギが令の父親の名前を知っていたこと
「アラバギ……?」
ガタン……
階上で ギギと扉が開く音がした
「お父さん」
階上から静かに 階段を降りてくる音がする
「お父さん……あのね」
見上げて 令は声を飲み込んだ
「お父さん……?」
父親 悟は 白い袴姿だった
まるで神主のような
令はおろか 母に至っても 口をあんぐり開けている
「帰ったか……令」
ひどく落ち着いた
いつもの明朗さとは うってかわった声音だった
悟は アラバギに 深く黙礼する
アラバギも それに習った
「柳踊の石鏡を持ち帰りました」
アラバギの深い声が 下げられた頭から聞こえる
「よく……よく令を守ってくださいましたな」
まるで 別人の悟に 令は ただ呆然としていた
「令……すべては アラバギ殿から聞いているとはおもうが」
強い眼差しを向けられてしまうと 背が震える
悟の首には 瑪瑙の勾玉がかけられていた
瑪瑙が あたたかく 乳白色に照る
「お父さん……知ってたの?」
令の問いに 悟は 深く頷く
今の 悟には 辺りを制するような 獅子の風格があった
白いものが僅かに 混ざり始めた 頭髪を後ろに撫で付けているため 額が張って見えた
「とにかく 上がりなさい」
静かに身を返して 居間に向かう
「綾子…… 部屋に用意してあるから 玄関に清めの盛り塩と榊を置いておきなさい」
穏やかに 悟は 妻に言いおいて 居間の床に正座した
いつもお気に入りの昼寝ソファーがあるのにもかかわらずだ
そして 眼差しを上げる
「令……お2人も座りなさい」
令も 慣れない風に 薄いアジアン織りの板敷きに正座する
床に 骨が当たっていたかった
「先ずは……」
ガラス張りのテーブルに アラバギが 鏡を置く
「柳踊の石鏡です」
白い 上衣を解くと にび色が あらわれた
それは 人工の蛍光の下で まるで 別物のような 冷たい光を放っている
令は怖いものを見るかのように 鏡面を見つめる
僅かに にじり下がると アラバギの 足に手が触れた
あたたかい……
それだけで安心してしまう自分がいる
「天照大御神については……聞いたかな」
問われて
「はい」
と いずまいをただす
「では 朱雀についても……」
「はい……聞きました」
深く 悟は頷いた
「では 前任の姫巫女 静様についても」
「はい」
そうか……ならば……
悟は膝をうつ
「静様が 天照大御神の遠い子孫で 我々の系譜に当られるということは……?」
深い黒目に捕らわれて 令は背をのばした
「天照大御神の子孫では とは 察しはつきましたが 私の系譜に当られるとはしりませんでした」
「静様は我々の直系の御先祖にあたられる」
悟が袴を割って にじりよった
「そして……今 そなたが天照の姫巫女を継いだのだ」
「はい」
令の瞳があがった
「我等に 出来ることは 先ず柳踊の石鏡を榊の結界の中に置くこと 3点の力点を作って安置する」
悟は正三角形を 指でかたちづくった
「3点を私とアラバギ殿 ラキ殿で形成する」
「はい」
アラバギとラキが 静かに頷いた
「そして その中央に柳踊を安置する」
悟の大きな手が 柳踊の石鏡の縁をなぞり
重々しく戻される
「かならず朱雀は 柳踊の石鏡を狙いにくるだろう……
何としても 砕かれてはならない」
きりと 悟が 折り目をただした
「そのために 私は札と 清めの塩……そして神の水を用意した」
懐に 手を滑らせると 天照大御神の札を取り出した
しかし 一般の札とは 僅かにことなっている
どうやら 手書きであるらしい
すらり……と 美しい筆遣いで書いてあった
美しい札……
令は 目線で筆跡をなぞる
「1枚を玄関に 1枚を 水回りに貼りなさい」
悟が的確に指示をだす
「結界を結ぶ前に 各自 浄めねばならない……
綾子……お風呂はつかえるな」
やんわりと しかし 堅固な要塞のように 悟が尋ねる
「はい あなた……沸かしてあります」
母親……綾子が にっこりとうなづいた
何だか悟を見つめる瞳が たのもしそうだ
「まずは 令」
手でもって指示をくれる
「はい」
令はさらりと 立ち上がった……つもりだった
しかし
「……~ ……」
足が痺れてふらりとする
「ウォッホン」
令は 耳まで赤くなって しずしずと退席した
令が風呂場に 消えるのを確認して 悟は顔をもどした
「令には……」
重い沈黙
「令には 過酷な戦いになる」
渋面が 満ちる
「あの子は「死」をみるだろう」
第14章 唇華……
令は ザバリ……と 肩にお湯をかけた
ずき……り
やはり 肩が重く痛む
湿布でもはろうか
令は 湯気の中
鏡を とろりと手で撫でた
青くは なっていない
顎を伸ばして見て肩をうつしてみる
酷く打ったのでは無さそうだ
「……?」
首筋に赤い跡
それはまるで華のようだった
令は 指で撫でてみる
なんだろう
髪をたくしあげて 確かめる
痣……
ツキンと心の奥底が疼いた
「まあ……いいか……後がつかえてるし……」
手早くシャンプーをしてしまう
トリートメント……
思いあぐねて そのままにした
サラ……
引き戸を開けると バスタオルで体をぬぐってしまう
髪は 別のタオルで巻いて部屋着に着替える
ギンガムのワンピース
サマードレスだが これが1番くつろぐ
令は 猫柄のスリッパをパタパタとならして2階にあがった
階段を登りがけに
「お次どうぞ」と声がけをする
アラバギとラキが立ったようだった
令は自室に入りドライヤーをあてる
ブラシでとかすと 毛先が僅かにひっかかる
スリッパを脱いで ベッドに足を投げ出して 令は考えた
無くした記憶
何かあったのだろうか……
忘れてはならない……
芯が疼く
「令……いるの?」
階下から 綾子が呼ばわる
パチリ
ドライヤーのスイッチを切ると
「はぁい」
と返事をする
「2階のお父さんの部屋に 着替えがあるそうなの
おふたりに出してあげなさい」
「はぁい」
令はスリッパに足をおろすと隣の部屋に入った
暗い……
そうか雨戸が しまっているのだ
閉めなければ 街灯の灯りで僅かに明るい筈なのだ
悟は 街灯の灯りが読書にいいと部屋の灯りを落として本を読んでいた
くん……
微かに香の匂い
甘いのでもない 清涼な香り
令は 悟のベッドにきちんと整えてある2組の着替えを
胸に抱いた
白……
見た限りでは麻のカッターシャツにジーンズだ
天然の肌触り
令は シャツの縫い目を擽る
下着もきちんと添えられていた
お父さん……
意外とまめな 悟に令は苦笑する
パタンパタン
音を立てながら 階段を降りて 令は 思った
アラバギ……
泣いてた……
悲しげな 横顔を思い出す度に 胸がいたい
階下へと降りて 風呂場に向かう
居間を通り様に 悟と目があった
何かを知っているような 見透かす眼
令はのまれそうになって 1つ会釈する
お父さん……
あんな眼をするんだ
風呂場の脱衣場に入って
令は脱衣かごの隣の 洗濯機の蓋に着替えを2組おいた
かごに アラバギの Tシャツがたたまれてある
ラキの Tシャツは 脱いだままだったが
アラバギは違う
性格だろうか
令は そうっとTシャツを手に取った
赤い……日の丸
まだ温もりがある
令は吸われるように Tシャツにくちづけていた
アラバギの体温と体臭が何だか心地よい
頬を埋めて きゅとTシャツを握る
アラバギ……
……して……る
あ……して……る
何かが言いたい
令はTシャツを 抱きしめると 立ち去り際
「アラバギ……好き」
と囁いた
しかし その声はシャワーの音に消される
しかし 令の心には 澱のように残った
脱衣場を出ると 令の手には アラバギのTシャツがある
返さなきゃ……
抱きしめて……
躊躇って……しかし かみ締める
返さなきゃ……
身体は 裏腹に 持ち帰ろうとする
令はキツく唇を噛んで 脱衣場へ戻った
アラバギ……
令の手が そうっと Tシャツを かごに戻す
「好きに……なっちゃ……いけない……」
不意に 込み上げてきて 令はばたりと 戸を閉める
「………………令」
アラバギの声がしたが……令はパタパタと階上に戻った
居間の 悟は穏やかに 令を見送る
「過酷なのは……これからなのだ……令」
悟の つぶやきは 誰にも聞かれず 宙にきえた
令は部屋に入ると 唇を噛んで 僅かに堪える
しかしこらえきれずに ベッドに泣き崩れた
アラバギ……
あの声 あの髪の匂い あの笑顔
はなしたくはない
失いたくはない
告白したら失ってしまう
そんな気がした
令は 薄緑のチェックの ベッドカバーを握りしめ
ぶるる……と震える
いやだ……
叶わないと知っているのに
相手は………
相手は精霊なのに……
神様なのに……
ぎり
胸が捩れた
吐き気がする
いやだよ……
カタン……
背後のドアで音がした
令は涙まみれの顔を 跳ねるようにドアにむける
「……!」
長い髪
優しい黒曜……
痛むような その面が 令を見つめている
「バギ……っ!」
令は迷わずすがりついていた
同じ 匂いがする髪
僅かに 雫が伝っている
アラバギは 上気した肌に カッターシャツを 纏っていた
わあああああっ
堪えられない
令は 声を上げて泣いた
大好き……大好きよ……
嗚咽で呼吸困難になりながら
令はアラバギの背を掴んだ
絶対……絶対……!
絶対……離れない……
抱きついていても 足元からもろもろと 崩れれていきそうな気がする
アラバギ……
令がアラバギを何度も呼ぶ
アラバギは 静かに 令を抱き込むと背をいたわった
「いなく……ならないで……」
その言葉に アラバギが きゅ と 口を結ぶ
痛むような 黒曜が 令の瞳をいる
そして……
噛み付くような……口づけ……
令は 目を見開いて ぴくりと震えた
アラバギ……っ
切なく擦り合わされる唇
心が解かれて 脳が痺れた
唇が……甘い
ツ……
唇が 糸を引いて離れて 再び塞がれる
アラバギの手が 令の手を包み込んで きつく握った
「んッ……」
僅かに 息が乱れて 胸が苦しい
令はアラバギの胸を僅かに押し返した
しかし
暗転
首筋に2本の指が 当てられる
令が 最後にみたものは……
ひどく悲しげな アラバギの「あの瞳」だった
ぞぷり……
肉塊に 滑った牙が立てられる
黒い獣は 音をたてて 溢れ出る血を飲み下す
骨色の爪が 肉塊の 首を ばつり……とはねた
ばっ……っ
薄暗い街灯に 黒い飛沫をとばして 首はコロコロところがった そしてブランコの脚にぶつかる……
カッ
僅かに跳ね返って その首は 赤い月を無情に見上げた
目は 血走り 裏返り 白目を剥いている
口から淡い黄色の泡を吐いていた
それをヒールを履いた脚が 踏み潰す
ピンヒールが生首の 目をえぐった
――朱雀様に差し上げなくてはね……恐怖に満ちた顔
中々イイ……わ……――
膝裏まである 栗の髪を ばさりと煽って生首のもう片方の目をえぐり出した
赤い……
赤い爪が 眼球を丁寧に取り出す
最後に見た恐怖
よろこばれるわ
かっ
女は赤い口紅を塗った唇を 大きく開く
うふ……
口の中に女は 眼球を頬張った
「さあ……おとどけして……感じる……でしょう」
ぐくっ
飲み下して 女は 身体を歓喜に震わせた
女の身体を 鬼火がつつむ
「おいしいの……今度は唇なんて……おいしいかしら」
四つん這いになって背をそらす
うふふふふふふふふ……
女の含みは かずら公園の 遊具をわたって 不気味に草木を揺らした
「いただき……ます」
ジジ……ジ……っ
札の筆跡が じり……と焦げていく……
鈍い炎は 筆跡を焦がし上質な和紙を黒く抜いた
ぼっ
札の上部が 弾けるように切れた
ザラ……
真っ白な清めの塩が 赤茶に変色し溶けていく
みぃ……つ……けた……
はらっ
榊の枝が 枯れ果て 葉を落とす
愛してるわ 精霊さん……
ぶぉっ……
激しい邪気が扉を唸らせた
どんっ
部屋の四隅が鳴る
どん……っ どん……っ
辺りの気圧の変化に 令が跳ね起きた
どうやら入浴の後 ベッドで居眠りをしてしまったらしい
ず……どん……っ
家が 突き飛ばされているような 巨大な邪気……
「こん……ばん……わ」
甘い 蜜のような声がする
女……
あけ……て……ねぇ
家の回りで声がする
令は 部屋の窓から下を見下ろした
誰……も……いない……
しかし……
ピンポーン
チャイムが鳴った
時計を見ると夜中の3時だった
ピンポーン
令の 背を何かが掴む
ぴき……
髪の毛の 1本1本に電気が通った心地がした
ピンポーン
ピンポーン
ねえ……いるんでしょ……
声が満ちる
ピンポーン
突如 ばしっ!令のいる窓に 何かが叩き付けられる
それは両目をくり抜かれ 口肉 頬肉を
ごっそりと削ぎ取られた 生首だった
きゃああああぁああ!
ばぢり!
家の回りに 白い膜が生じる
ばずばずばず
生首は 膜に突き刺さって 侵食を始めた
ぐあっ
生首の 唇がない口が大きく開かれる
がぶり
生首は 膜をくらい始めた
ぐぁつっ……
膜が 歯型を残して食いちぎられる
ぐぁつ ぐぁつ
生首が 首を揺すりながら じわじわと 膜を食い進んだ
がかっ……っ!
生首は 膜を食い破り 令にむかって
けたり……と笑う
ひゅめみこ……
唇がないために息が漏れる
ひゅめみこ……こいしい……
その頬肉を削がれた生首が
眼球のない眼窩から 血の膿を流す
ひゅめみこ……
だきたい……
がんっ!
生首が 窓ガラスに体当たりをする
ひゅめみこ……そのくちびる……あいぶ……したい……
生首は 跳ね返って 空中で制止する
あいしてる……れい……
びし……り……
窓ガラスにひびがはしった
ぴし……ぱしっ……
サリサリ……窓ガラスが ひびに覆われていく
パリ……
堪えきれずに ガラスが はらはらと落ちる
令は あとじさった
「あ……」
身を翻して 扉に向かう
ざ……りん……
ガラスが飛び散る
生首が 凄まじいわらいごえをあげて 令の背に食らいつく
しかし
がづん……
令が扉を閉める方が早かった
が……りぃ
生首が扉に歯を立てる音がする
みり……みりみり……みりぃ
扉が削られている
令は 足が縫い止められたようで 身動きがとれない
びめみごーっ
生首が 恐ろしい声を上げる
ばづん
鈍く 扉がたわんだ
きゃ……わん!
きゃ……わん!きゃ……わん
ぷーちゃんの怯えた鳴き声が 令の金縛りを解く
令は 脱兎の如く階段を駆け下りた
下りると 階段下から ぷーちゃんが飛び出してくる
きゃ……わん
不安気に 令の足元にまるくなった
ず……どんっ
玄関のドアが たわむ
令は 跳ね上がった
溶けた塩の匂いが 満ちている
切れた札は 土間に はらり と落ちていた
黒い焦げあと……
そこに 呪い歌がやきつけられている
爪を這わせたかのような 呪いの文字
令が 居間に 目を向ける
薄く 明るい
蝋燭の灯りだろうか……
令は 駆け込んだ
「……!」
そこには 胡座をかいた 悟達がいた
3点結界
辺りには 紙燭が置かれてある
「お父さん」
令が呼びかけると 紙燭の灯火が ぼぼ……と揺らいだ
紙燭の1本に 照らされて アラバギの顔が揺らめく
バギっ……
近づくと 紙燭の炎が 高く 高く燃え上がった
「近づくな 令」
瞑想したまま 悟がつぶやく
悟を頂点とした 3角が 白いもので フローリングに描かれ それぞれの角に アラバギとラキがいる
3角の中央に 榊に守られた 柳踊の石鏡があった
鏡面にしめ縄が巻かれている
どん……!
ず……どん……っ
部屋が 空間が はりつめた気圧が たわんだ
「吽」
悟が 額に皺を寄せた
じじ……
紙燭が燃え上がる
「令 その白磁の器の水をまけ……」
悟の 前に 青く見えるほど白い器があった
「我……願ひたまふ……天照大御神……唱えよ」
令が 指を水に浸すと
「我……願ひたまふ……」
と唱えた
パシャ……リ……
フローリングの結界の回りを 指についた 水をまいて回る
じゅ……お……
しかし 水はすぐ濁って腐ってしまう
あけてぇ……
ざ……どんっ!
壁が揺らいで 埃がはらりと落ちる
「我……願ひまふ……天照大御神!」
令はきつく唱えて 白磁の水をまきおえた
しかし!
ざしゅっ
下からの攻撃は 予期していなかった
フローリングの板目を食い破って 木の根が 令の足首を掴む
「きゃ……」
ぐら……と上体がゆらぐ
――つかまえたぁ……巫女様 でも食べたらまずそうねぇ――
きりり……
根が締めあげられる
――たべてあげないっ――
ざ……
令が引きずられる
――他の男鬼の妾にでもなる……?それとも瘴鬼の餌になりたい?汚して あ・げ・る・わ――
アラバギは 結界を維持するため 微動だに出来ない
しかし 汗が浮き 唇を噛んでいた
うふふふふふふっ
――足からもいであげましょうか?指がいい?それとも顔にする?――
木の根が 令の顔を撫でる
――目玉なんかは……美味しそうね――
木の根が 令の 瞳を狙おうと 先を尖らせる
――いただいて……おこうかしら……――
ひゅ……
木の根の先端が 令の目をつらぬいた
令は 身を固くする
しかし 木の根は しなやかな腕を 貫通してとまっていた
「…………!」
アラバギ……
荒い息をついて 真っ直ぐな髪をみだして 令を抱いていた
「アラバギ……結界が」
腕を貫く 木の根がぐりぐりと抉る
アラバギは 顔をしかめた
「お前の方が 大事だ」
痛みを堪えながら 耳元で囁く
くぅぅぅぅっ!
女が歯噛みする
――小賢しい――
ぎりぃっ
木の根をきつくねじり込んで アラバギをうめかせる
――赦さないわよ――
ず……どんっ
アラバギを 欠いた結界は 紙燭を 燃え上がらせ 焼失した
「あっ……」
令が柳踊の石鏡を見る
うぉおぁああ……
柳踊の石鏡が にび色に発光している
まずい 陽動だ
アラバギが 身を返したときには 柳踊の石鏡は 弾けていた
「…………!」
強烈な光の渦に 令は 目を覆う
うふふふふふふふ
女が 姿をあらわした
赤い鬼
赤い膝上のボディ・コンシャスに赤いピンヒール
口紅も 爪も 赤く染められていた
美しい……見惚れる程の「女」だった
魅惑的な身体の線を惜しげも無く晒している
女は艶めかしく胸を寄せて 身を屈めた
白い谷間が 芳しく香る
「うふ……可愛らしい精霊さん」
白い指が アラバギの唇の 線をなぞるように空を描いた
「貴方なら食べたいわ……」
きゅ……
きつく胸を寄せ 唇を半分開く
赤い唇がしっとりと濡れた
「おいしい……ん……でしょ」
「でもね」
赤く 長い爪がくんっと反る
女は嫌い……!
とくにあなたはね!
きつく 突き刺さんばかりに爪をつきだした
――朱雀様のお気に召したのが……こーんな小娘だなんて……!ひきむしってやりたいわ……血だけは綺麗なんでしょうね!――
深い色めいた眼差しが 激情にゆらぐと 氷のような光を放つ
――苦しめてやる……!
こともあろうに……あんたなんかを汚したいですって……この私がいるのに……朱雀様!――
がかんっ
ピンヒールが 床を削る
「あなたしってる?姫巫女ってねぇ……純潔じゃなきゃならないのよ」
顔を上げると にんやりと 口の端を上げる
「つまり……うふふん……誰とも結ばれちゃあならないのよね!」
勝ち誇ったかのように 女が微笑んだ
「あなたを破滅させるなら簡単……「男」とねさせればいいの!だけどそれぢゃあつまらないの!
結ばれたくとも結ばれず 胸を掻きむしる!身体を持て余すそんな思いをなさい!朱雀様には私がいるんだから……!朱雀様は滅ばないわ……」
うっとりと目を細めると ふふ……と唇がゆるんだ
「私……愛してる……の」
ざくっ
女の言葉が 不可視の矢じりになって 令の 深い部分に刺さった
あ……い……し……て……る……
言いたかった言葉……
涙が とめどなく溢れる
でも……誰に……?
足元は 闇 足場も僅か
ここで ここで 落ちてしまったら 心臓がドクドクいっている
「私は また褒めていただくわ……よくやったって……
そして伽の相手は この……私なの!うふ……うふふ」
朱唇を いやらしく舐めて 四つん這いになった
「あなたには……できて?」
挑むように 身をくねらせる
「殿方は こうゆうのが お好きなんだから……」
女豹の姿勢で アラバギにつたいよる
うふふ
艶かしい手が アラバギの太腿に触れた
びくん
アラバギが硬直する
「ほしくなぁい?」
大きく開いた襟ぐりを さらに引き下ろす
今にも胸が零れそうだ
「ねぇ……したく……ない」
肉迫されて アラバギが目をふせる
アラバギは 必死に堪えているかにみえる
「ねぇ」
女の赤い爪が アラバギのジーンズの縫い目をさすった
――経験……あるんでしょ……――
女が にじり寄るのと 足が蹴りあげられたのは ほぼ同時だった
がうっ
女が仰け反る
美しい鼻から 鼻血が流れているのがみえた
アラバギの蹴りが まともに顔面にきまっていたのだ
――見損なうな――
アラバギの声は 言いようの無い怒気に包まれていた
おこりが きたみたいに ぶるぶると震えている
――私は……私には……もう……――
言いかけて 口をつぐむ
アラバギ……!
令が 抱きついた
凄く 凄く嬉しい……
胸が痛いくらい……
令は アラバギの首にすがった
麻のシャツに 顔を埋める
淡く石鹸の香り……
令は目を閉じた
言いたい……口にしたい言葉が 幾つもある
ああ……
もつれてしまいそうだ
アラバギの腕が 令の背を引く
「私には……決めた人がいる……」
重く しずやかに いって 令の背を撫でた
私……では……私……では有り得ない……
背が硬直した
何かが焼き切れたようで 声がでない
何故……何故そう思うのか……
覚えている気がする……
深い拒絶
令は目をさ迷わせた
アラバギを アラバギの腕を押しのけようとして アラバギに 拒絶される
しなやかな腕がほどけない……
令が 涙で くちゃくちゃになる
なんで……
私じゃ……ない……よ……
きっと……
思い当たる人がある
静様
聡明な 純潔の人
私みたいに……穢れてない人……
思い出し……た……
私……巫女なんだ……覚醒したんだ
でも……抱きしめられたい……
くちづけされたい
抱いて……ほしい……
身が焼ける
令は アラバギの胸をおした
「動くな……令」
きり……腕が逆にしまる
いやだ……
こんな……じゃ……ないっ!
うぉおおっ
赤い突風が アラバギを 包んだ
「この……この……この無礼者……!」
ゆらり……
赤い目が 立ち上がる
喰らってやる……!
喰らい尽くして……骨を砕いてくれる
女のまわりに邪気が纏わり 黒い帯が漂う
「この……あたしを……あたしを足蹴にするなんて巫女諸共八つ裂きよ!」
爪が湾曲し 髪が逆立つ
ゆる……さない……
ぐあっ
ピンヒールが 床を蹴った
ずがん!
重い 強打が アラバギの腕を軋ませる
アラバギは右で受けたはよいものの 令を抱いているため 反撃を躊躇った
「この……うつけが……」
ピンヒールを 鋭い凶器にして蹴りが見舞う
アラバギは 令を胸に抱いたまま 一撃を……甘んじて受けた
「……!」
足……脚の膝裏に 深く ピンヒールが 突き刺さる
令は 抱き込まれた腕越しに 身を捩った
「バギっ」
背中が熱い
喉から何かが込み上げるみたいだ
女の 熊の一撃が アラバギの背を見舞った
ばすっ!
鈍い打撃音……
骨が軋る音がする
しかし アラバギは 令を離さなかった
きついくらいに掻き抱く
「バギ……離して……ねぇ」
涙が溢れてきて止まらない
令はアラバギの シャツを握りしめた
そして きつく 抵抗する
ぐあっ
女が 両手指を組んで振り上げる
いけない……!
「バギっ」
このままでは 後頭部にまともに落ちる
バギ
令は アラバギの頭を 庇うように 両手ですがって かばいこもうとした
「……している……」
アラバギの囁き
しかし令には届かなかった
「あ……している」
ず……どんっ!
きつく
アラバギの頭を 令が抱いた時
白い人影が 躍り出た
深い打撃
しかし「彼」は全身で打ち消す
ぎり……
「彼」は睨み上げ 唇を引き結んだ
女の打撃を 両腕で がっちりと受け 筋肉を伝えて 衝撃を 地に逃がしている
「お父さん」
令が身を上げた
ざしっ
圧されて
令が駆け寄ろうとする
しかし
アラバギに腰を抱かれて阻止された
「バギっ!」
令がアラバギの顔を引っ掻く
――離して――
「足手まといだ!」
強く 上から怒鳴られて 令が震える
抗う 手指から力が失せた
「今の令では あの女の髪一条にすらかなわない」
強く諭されて 手を握り込まれる
ずが!
打撃が 悟を払う
「お父さん!」
悟が 飛ばされて 食器棚に叩かれる
ガシャ
食器棚は 倒れはしないが 中の食器をぶちまけた
ざっ
悟の倒れた髪を鷲掴もうとする女
その脇間から しなやかな しかし強靭な脚がとんだ
女は 片手で受け流すが バランスを崩して僅かに 腰を引いた
ざおっ!
ラキの 連蹴りが 女の上体を狙う
しかし連蹴りのため威力が落ちる
女はケタリと全てをかわし ながしきった
ラキの回し蹴り
しかし脚を がっちりと抱え込まれてしまう
うふふっ
万力のように 締めあげられ その 膝に 女の肘が落ちた
べぎっ!
ラキが苦鳴する
「意外と 足癖わるいのね」
女は飽いた玩具のように ラキの足を投げ出す
「ぐぅ……」
ラキが 折れた右足を抱え込んだ
「ラキっ」
令が アラバギの腕の中で叫ぶ
見ていられない……!
全身が熱いよ……!
令が思いを爆発させた
シュッ
虹の光彩
透明な 光をうつす 虹の粒が 令から散らばる
「あっ……」
喉元に 力が込み上げる
それが言霊になって 虹の蓮を咲かせた
きゃあああぁあおお……
女が 目を掻きむしった
まるで 光彩がしみているようだ
ああああっ
仰け反り 喉を掻きむしる
ひゃあああっ……
アラバギは 右に刀を呼ぶと 女の背を切り払った
ぎゃあああっ
女の白肌が 露になり赤く深い 谷が 縦断する
「お……おのれぇ」
白肌を 茶色い剛毛が 覆っていく
めきぃ……
爪がめくれ上がって 骨色の厚みのある爪がはえる
があああっ
女は吼えて 長く首を伸ばした
ぎろり……
血色の 底光る両目
女は あの 美しい姿を もはや とどめなかった
女鬼は 鼻柱に深い皺を寄せる
ぐらっでぐれる……
野太い
もはや言葉にすらなっていない声で 鬼は叫んだ
背丈が異様にのび 居間の埋め込み式ライトに頭がすっている
が……どんっ!
重い……鉄槌のような 打撃が アラバギを撃つ
がおっ!
しかしアラバギは 虹の膜に 護られていた
加わる破壊力と 打ち消す防御の力……
力が 打ち合って 力場の中に 渦が生まれた
ずがんっ!
第2撃
重い……限りなく重い 重力の塊が アラバギに落ちる
令は アラバギの腕の中で 身を強ばらせた
ギャン!
何かが ぶつかり金属の呻く音
令の 眼前で アラバギの刀が 柄元から折れた
「……!」
アラバギの身体が 令をかばい視界が覆われる
ずがっ!
ピピッ
令の顔に 生暖かいものが とんだ
令が 指でそれをぬぐう
錆臭い
ベタつく赤
血!
理解するまでに ひどく時間を要した気がする
令は アラバギの肩を探った
温かく湿っている
令の背に悪寒が走る
ずぁ
鬼が 剛腕を引き上げると 手刀に ベッタリと 血がついていた
アラバギの 傷から抜かれたものであるのは瞭然だった
それはアラバギの背に 鬼の巨大な手刀が ズッポリと埋まっていた事を意味するのだろう
令は 背に回って わなわなと 震える
傷が深い
鈍く 肉片を覗かせて 穿たれた穴には
流れきれない 血が溜まっていた
内臓に達している
人間なら 即死でもおかしくはない
令はワンピースの裾を 歯をたてて引き毟った
ぴいいぃぃいっ
綿は 綺麗に裂けた
令はその切れ端を 重ねて アラバギの傷に当てる
熱い
令の拳ですら入ってしまいそうな傷は じゅくじゅくと出血し 傷に溜まっていた血量だけで切れ端は搾れる程になってしまう
アラバギは 苦しげで 朦朧としている様だった
かくん
令の肩にアラバギの顎が落ちる
駄目!
失血死してしまう
令は 念を手に流して 蓮の華を呼んでみた
美しい虹の華
オーロラセロファンのような 輝く華は 令が嘆くとポタリと 一滴を花弁に流した
水……?
令が 蓮を傾ける
美しい 虹の雫が 2・3滴溜まっていた
令は それを口に含む
何故そうしたかはわからない
しかし令は 唇を伝えて アラバギの唇を塞いだ
長い……接吻
令は アラバギの手に 優しく触れ 滴を流し込んだ
「くっ……」
アラバギが 僅かに伝い飲む
令は 全てをうつしおえた
しかし ふわりと もう僅かに 唇を這わせる
頭がぼーっとする
芯が熱い
令がアラバギにすがった
どうか……効きますように
アラバギが 身じろぐ
令のすがる体に 腕が回った
「アラバギ」
どうやら 気付けにはなったようだ
顔色は まだ青いが アラバギは くらりと立ち上がった
令はアラバギの背に手を添える
とくん……
熱い
確かに脈打っている
アラバギの唇が動いた
「……をかしてくれるか?」
令が顔を上げた
「なに?」
声が掠れる
令は アラバギの横顔が徐々に生気を取り戻しているのが嬉しくて 涙ぐんだ
「力を……かしてくれるか」
強く手を握られる
アラバギの 黒曜が 令の 瞳を 捉える
穏やかだ……
今までの 死の影が まるで嘘のようだ
令はアラバギの 手を握り返す
いいよ……
肯定のつもりだった
くっ
指が 絡められる
アラバギは 折れた刀を 青眼に構えた
静かに 瞑目する
「吽」
令の握られた手から 神気が 流れ出ていくのがわかる
少し 血が遡る気がした
きゅ……きゅっ
令は アラバギの腕に肩をあずけ 頭をもたせかけた
そして 目を閉じる
深い 深呼吸……
全身が 微かに震えた
ざわ……
室内にいるのに……木々を感じる
渡る風……鳥を感じる
闇より暗い 夜の中にいるのに 昼の風が吹き抜けた
ざ……
アラバギの刀が 再び 実体化する
それは虹のオーラを宿していた
「吽!」
アラバギの 刮目1番 斬撃が 空を裂いた
がうん……!
鬼の頂点から 腹を斬撃が裂く
ざっ
傷口から鮮血が溢れて 床に血溜まりを作った
ぴしゃ……
ほとばしる血は 鉄の匂いをまいて はねる
鬼の身体は 裂かれた傷口から めりめりと ひろがった
肉が裂ける
ぎしぃ
鬼の下肢が 軋んだ
ずしゃ……
鬼の身体は 肉塊となって 床に落ち 内臓と 死の匂いを濃くする
ざんっ
まだ残る下肢の 痙攣にアラバギが 刃を落とした
令は アラバギの 腕から離れると ラキと悟の 傍らに行く
2人を助け起こして 手当てをする
虹の華の 雫は ことの他 良く効いた
アラバギが 刃のつゆをはらい
令を振り返る
「良く……良く戦ってくれた」
蒼い炎が アラバギの背後を照らしている
鬼の身体を 焼却しているらしい
「アラバギ」
令が 唇に 笑みを浮かべて手をのべた
アラバギ
全てが愛おしい
背後の蒼に照らされて アラバギは
とても 美しかった
流れる黒髪が 蒼い中を流れる
令は 触れて手繰りたかった
でも……
ふ……と 手を 跳ねて戻してしまう
アラバギと 私は……
切なかった 胸が裂けるくらい
アラバギには 思う人が……ある
令が目を潤ませた
「素晴らしかった」
アラバギは 構わず 脇に片膝をつく
そして両の手で 令の頬を包む
「すまなかった……令」
やわらかい
優しい唇の 動き
そして純粋な 微笑み
面差し
令は 慌てて目をふせて ぶるると顔を振った
「貴方をあいしている……から……」
言えない……
口に できるわけない……
彼は 優しいから……
令が ぐっと唇を噛み 顔を上げた
そして心に残る最後の 勇気を 笑顔に変える
「うん……」
アラバギは 静かに 受けるように 微笑んで そっと頬を寄せる
「信じているよ……令」
頬が 令の頬にサラリと触れて やわらかく離れる
髪の匂いが……した
令が こくと頷く……
もう……もう何も怖くないよ アラバギ……
第15章 運命人
朝……
靄が 街を這う……
春にしては冷えるあさだった
息が白い
令は 窓ガラスを サラと手で拭う
庭木が 薄く靄に浮かんでいる
令は 動きやすい服に着替え 髪も束ねていた
ジーンズ地の ミニスカートに ニーソックス
上は 葡萄色のボーダーシャツ
上から ジーンズ地のジャンパーを羽織る
髪は きつくポニーにしていた
唇には 僅かに色付いたグロスを 塗っている
少しだけ
女……になりたかった
髪を縛るゴムには アラバギから貰った 勾玉を付けている
「頑張ろう」
ジャンパーの身ごろを きゅ……と正して 令は顔を上げた
あの人が 例え誰を思っていても……
私に出来ることは 彼を守り続けること そして姫巫女であること
「令……ご飯よ……」
母 綾子が 階下から呼ぶ
令は しゃ……とカーテンをしめた
割れた 窓を横切って 階下へと向かう
生首は もはや動かず アラバギの手によって焼却されていた
あの後 柳踊の石鏡が割れてしまったことで 4人は話し合った
パタン……パタ……
階段を降りて行くと 味噌汁の匂いがする
ジャガイモとワカメかな……
令は 唇を緩めた
柳踊の石鏡が 割れたのならば 破の鏡の可能性は消える 最後に残るのは 朱雀の「魂」を封じた「石碑」だけ……しかし 場所がわからない……
ただ3点の結界を模して配置されたとしか 判然としない……
アラバギがいっていた
探知が出来ないのだと
悟が 地図とコンパスを 出して 探していた
令は 居間に入る
辺りは 破壊されてはいたものの 4人と後から 起きてきた 綾子の尽力で なんとか食事が出来るまでになっていた
食卓には 湯気をたてる 炊きたての白米と 鮭 そして 令の予想どおり ジャガイモとワカメの味噌汁が 添えられてある
令は肩をすくめると ふふと笑った
どんな時でも 母の手料理は嬉しい……
惨状を見て 最初は 目を白黒していた綾子も しまいには 腕まくりして アラバギ達をこきつかっていた
卵焼きが ほんわりと 甘く香る
令は こくんと 唾を飲んだ
「令……納豆分けて頂戴」
綾子が キッチンから顔を出す
令は嬉しそうに笑うと
「はーい」
と 冷蔵庫を開けた
中には 100%のグレープジュースと プルーン
カスピ海ヨーグルトなどの瓶がある
令は 脇の 戸袋から 納豆のパッケージを 取り出した
水元納豆……
令のお気に入りだ
令は パッケージの フィルムを パリッと剥がすと 発泡のパックを分ける
しかし2つ足りない 3つしかない
どうするか?
器に纏めて 取り分けようか……
令があぐねていると玄関が カロンと開いた
「ただいま……」
ラキの声だ
令は ひょこりと 顔をだした
きゃわん……
玄関を覗くと
外から戻ったらしいラキと 土間に前肢をのせる ぷーちゃんがいる
「はい」
がさり
ラキが小さいビニール袋を差し出した
「たりなかったでしょう……悟様と買いに行ってきました」
あっけらかんと笑う ラキ
令は きょん としてしまう
「コンビ……ニっていったかな……ねぇぷーちゃん」
きゃわん……
ぷーちゃんが尾っぽを振る
そして令の 足元にかけてきた
「あ……ありがとう」
ぷーちゃんが 令の 足元に甘えたように 飛び上がる
令は 指で さらさら撫でてやった
ラキの背後で 門扉の 閉じる音がする
そしてカロンと 悟が 入ってきた
グレーのトレーナーに 紺地に 白ラインのジャージ
いつもの悟だ
「おかえりなさい」
令が 何だか気抜けしたように声をかける
「ただいまぷーがね……ラキくんに懐いちゃってね」
満面の笑顔だ
昨夜とは明らかに違う
「納豆たりなかったろ……散歩がてらにね」
悟もビニール袋を取りだした
「デザートだ プリン」
「へっ……あ……はい」
令が 慌てて 受け取って 2人にスリッパをだした
「あの……食事できてるから……って」
どすどすと 居間に向かう 悟に 令が声をかける
「ああ……お腹減ったな……なあ……ぷー」
お愛想を求めるように 悟が ぷーちゃんを 覗き込む
明るくおどけて ウインクまでしていた
きゃわん……
令は 肩でため息をつく
まるで別人だ
「ほらぷー ご飯」
かららら
ぷーちゃん用のお皿に 手掴みでドライフードを 上げる
ぷーちゃんは 大好きな ラム味の ドライフードをお座りして待っていた
「お手……おかわり」
チョン チョンと ぷーちゃんが 手をだす
「よーし それじゃあ おまわり」
出来ない
令は苦笑した
全くもって 普段の悟だ
あんなに険しくて 逞しくて 堅固だった昨夜とは違っていた
令は ふふっと笑って 肩をすぼめる
嬉しい…………
ほっとするよ お父さん
ふあ……
鼻孔を 優しい薄荷が 擽った
「……!……」
振り返ると 階段を背に アラバギが いる
穏やかで やわらかな 微笑みを浮かべて……
「着替えたんだな」
優しい声
「うん」
令は 目を閉じた
深く 味わいたい声だ
「似合ってるよ」
さらり……と すり抜け様 静かに肩に手が触れる
令は どきんとしたが しかし もはや 浮ついたドキドキではなかった
大切な 思い……
胸に秘めた何か……
それが 脈打っている
令は ふんわりと笑った
「うん!」
そして アラバギの背に続く
長い ストレートの 黒髪は 今日も美しかった
「さぁさ 座って」
綾子が 箸を配っている
「バギくんは これね」
もはやバギくんなのだ
母は強い
令は思った
「はい お父さん」
桐に 焼き目いりの箸を 悟にわたす
悟のお気に入りだ
「それじゃあ いただきます」
令は先ず 大好きな 卵焼きに 箸をつけた
母のだし巻きは 甘い
一口食べて ほんわりとした
「バギくん」
悟が 呼びかける
「うちの娘がすまんね おてんばだろう」
納豆の パックを 開けて フィルムを取る
令は いきなり真っ赤になった
「お父さん」
「いいえ」
「こんなでも 嫁の貰い手あるかね……」
「お父さん!」
令が 悟の 袖を引こうと手を伸ばした
しかし すっ アラバギの手が 令の手をとどめる
「令は いい子ですよ……私は好きです」
……へ……
令の手から 箸が 片方落ちた
「素晴らしい お嬢さんです 悟様」
綾子が 転がした箸を拾ってくれる
「なかなか どうして 嬉しいなあ」
悟が 頭をかいて からからと 笑った
「私が 私でよいなら 嫁に欲しいところですね」
とは ラキの弁
「そうかい……そうかい」
悟が 納豆をかき混ぜる
こりこりこり
アラバギは
「?」
と見入った
箸で引き上げて また戻す
そして 再び こりこりこり……混ぜ合わせた
納豆が 糸をひいている
「あの……それは」
バギは なんとも 不思議そうだ
独特の匂いがする
「なんですか」
小首を 傾げてみて アラバギが 悟の パックを 覗く
「納豆……だよ 栄養があるんだ」
悟が 微笑んだ
「大豆をね 菌で 発酵させるんだよ」
食べてみるかい……
す……と 悟が パックを 差し出した
アラバギは 箸で1粒つまんでみたくて 箸をのばす
しかし つる……と 滑る
もう1回
しかし 豆に逃げられた
「はっはっはっ」
悟が パックを 持ち上げて アラバギの ご飯に かけてやる
「こうやってたべるんだよ」
令は くすりと笑った
「はい……どうぞ」
令は 素直に ご飯を口にする アラバギを 見つめて 目を細める
アラバギは 最初は 迷っていた風だったが 2口ほど 食べて 美味しかったらしく 笑顔で完食した
「おいしいですね」
にっこり……
でも 口元に 白いものが……
令は 思わず 手を伸ばす
「ごはん粒」
「羨ましいぞ……バギ」
ラキに 突っ込まれる
令は 身をすくめて 赤くなった
「いやはや……バギくん おかわりは」
悟の明るい声
アラバギは ちょっと すまなそうに おかわりをした
「美味しいです 綾子様」
深く黙礼する
あらやだ
綾子は 明るく笑った
「様はいらないわ……様は 綾子さんでいいから……おばさんでもいいのよ」
優しい 明るい声
アラバギの 眉から 力が抜けた
「すみません」
「食事が終わったら……令」
「はい?」
悟の呼びかけに 令が 顔を上げる
「携帯を 買いに行きなさい」
「へっ」
令が 驚いたように 悟を 伺う
悟は 令が携帯を 持つことに かなり 反対していた
それなのに……
「必要だろう……」
「これで 連絡無しに 夜帰らないなんて……ないわけね」
綾子がウインクした
「EUなんかいいんじゃないかしら……安いってテレビで言ってたし」
綾子が 勝手に 算段している
「Sバンクも安いらしいし……」
令は口を挟めない
まさか いきなり 自分が 携帯持ちになるとは 思わなかった
嬉しい
正直にうれしかった
「EUにします」
明るく言って 令が にっこりする
「EUね 私も持とうかしら……ねぇ お父さん」
やんわりと笑う 綾子は 少し まぶしそうだった
令達は 食事を終えると 携帯を買いに 大きな街へ出ることにした
大きな街 翁街は 矢崎から 登りで 8つ先にある……
令は ローファーを履いて 玄関に立った
「気をつけて行くのよ……翁街は 都会だから……」
綾子が 心配そうだ
令は 爪先を とんとんして
「大丈夫アラバギ達がいてくれるから……」
と微笑んだ
「そうね……バギくんお願いね」
もはや 全幅の 信頼が あるらしい……
アラバギは さらりと 髪を揺らして頷く
令は にっこりと笑った
そう……大丈夫……
バギがいてくれる
「なにがあってもお守りしますよ」
ラキは 緩い癖毛を ゴムで束ねて 肩口に垂らしていた
やわらかい微笑みは浮き雲の儚さを持ちながら 強靭な強さを 秘めている
令は「うん」と頷いて 2人の手を取った
「いってきます」
「行ってらっしゃい」
綾子は 僅かに寂しそうに 子供の成長の早さを 呪うような 悲しげな微笑みを 浮かべた
巣立ってしまう
大切な 大切な宝物
綾子は 令の背を 目を伏せがちに見送る
その肩に 居間から 現れた 悟の 大きな手が触れた
大丈夫だ
綾子は その 手に頬を寄せる
令……
そんな2人を午前の靄が 緩くつつんだ
かずら公園の前を 通りかかると 人だかりが出来ていた
散歩中の犬と飼い主
女子高生
そして 近所のおばさん達
何かがあったのだろうか……
公園の中から口をハンカチで覆った 捜査員らしき人達が 走り出てくる
かすかに 風にのって 酸っぱいような 腐った肉のような匂いが漂ってくる
げぇ……
たまらず 1人が嘔吐した
人だかりを 制限しているお巡りさんも 1様に顔をしかめている
顔色が青い
令は 嫌なものを感じて アラバギの袖を掴んだ
鑑識らしき車がきて
担架が公園に入っていった
暫くして 青いビニールに覆われた 何かが運び出されてくる
うっぷ……
令は 鼻を覆った
酸っぱい……
臭気で 味を感じる
不快だ……
涙が込み上げてきた
「すみません通して」
鑑識の人達が 人を押し退ける
その時 ふぁさり……担架とビニールの間から 何かが滑り落ちた
肉……
「ひっ」
淡橙の肉色の物体
血は一滴も無いようで 肉は 紅から橙に変わっていた
砂が肉の周りについている
その中から 白い 細い骨
指の骨だろうか……
1本が見えた
もう一本には 筋肉組織らしいものが まだ付着していた
そこに じわりと 這う虫がいる
令は 目に焼き付いた 映像を払うようにアラバギに すがりつく
「酷いもんだね……ありゃあ」
散歩のおじさんらしき人が 近所のおばさんに話しかけている
「野犬に食われたって ああはいかないよ」
首にかけたタオルで 鼻を覆う
「熊なんじゃないかねー」
「でも熊なんて町中に出んでしょう」
愛犬の頭を撫でながら中年男性はいった
「山からは10キロ以上あるからね」
しきりに首を捻っている
「大型野獣かね……どうみてもねー しかし 首なかったっていうんだよ」
中年男性が 愛犬のリードを引く
不安げに 握り輪をきつく引き込んだ
「咥えていったのかしらね」
眉をそばだてた 近所のおばさんが 話に加わる
「まだ この辺にいるんじゃないかしらね」
おばさんが 不安げに 辺りの 物陰を見つめた
令には 辺りに漂う 不安げな澱のような 黒い霧が見える気がする
暗い何かが 漂っている
不安な何か……
鬼……
鬼の気配
きつく指を握り込む
ざわり
遊具を揺らして 滲んだ風が ふいた
「瘴鬼だ」
アラバギの声が落ちる
きり……
令が 唇を噛む
もしかしたら……あの 生首が……
空気が 背を伝う
ラキが静かに言霊をつぶやいている
「邪気が まだ微かに残っています」
「霰」
ラキの言霊に 風が流れて くらい影が祓われる
令は ほっと溜息をついた
光が 再び さざめくように 降り注ぐ
滲んだ気配も 消え去っていた
さわ……
微かに 残った不安の砂礫を 風が流していく
キィ……
オレンジのペンキの剥げかかった 回転遊具が 微かに回る
令は 1つ 頷くと アラバギ達と先を急いだ
こんな事を 2度と起こしてはいけない
日は 昇りきり 午前の春の 陽射しが 背をあたためている
令は 静かに目で振り返ったが
立ち止まる事はしなかった
さら……
風に流れて 砂が舞う……
回転遊具の 脚部に 1枚……
血のついた生爪が 落ちていた
令達は 薬局の前を過ぎ CD屋の前を通りかかる……
流れている曲は 佐々木 薫の「抱きしめて」だった
切ないバラード
ピアノと アコースティックギターに 甘い声が絡んでいる
切ない……恋の歌
――貴方にあえたから……今 私は いるの……――
――貴方に会えたから…… 今 私は 歌うの……――
――そばに居ても 遠い――
――でも 私は 貴方――
微かに 掠れて ハーモニカが入る
令は 目を閉じた
令の気になっていた曲だ
最初は ただ 漠然と 素敵な曲だと おもっていた
悲しげで 切なげで 大人のバラード
しかし 今の令になら……わかる気がした
アラバギと出会って無かったら ただの「いい曲」で 終わっていたのかもしれない
だけど……
令は CDが 1枚欲しいなと思った
買いたい……
どんな……思いを曲が 歌っているのか……
わかる気がする
バギが いるから
令達は しっとりと CD屋の前を通り過ぎ
駅に差し掛かった
昨日 電話した電話ボックスが 陽の光をガラスに 反射させている
令は 財布からお金を出すと 券売機で 切符を3枚購入した
矢崎から8駅先の翁まで 300円の距離だ
令は 各人に 切符を渡すと 改札を くぐった
今回は 誰も立ち止まらない
駅員さんが1つ会釈していた
矢崎は 令の いつもの 利用駅なので 駅員とも面識がある
改札を抜けると 正面に自販機があり 紙パックの ジュースが売られている
「ミックスジュース」「苺オレ」「バナナセーキ」
甘くてお財布に優しい
令は 100円玉を カチリと 投入した
令は 意外と 自販機で ジュースを買うのが好きだ
令は 苺オレにする
ぴっ
ぱ……こん……
軽い音をたてて ピンクのパックが 落ちてくる
パックを開けなくても 苺の あの匂いが してきそうだ
アラバギにも 100円を渡す
アラバギは あぐねた結果 バナナセーキに したようで ぴっと ボタンを押している
パコン……
黄色い 優しいパック
ラキは じっと すがめつにみて 飲むヨーグルトにした
青い 涼し気なパック……
3人は 笑顔で 階段をおりた
紙パックのジュースが 手に冷たくて 気持ちいい
「ん――――――――っ」
ホームに降りると 令は 背伸びをした
春
のどかだ
あたたかく 降り注ぎ始めた陽光が なんとはなし……安心感を誘う
麗らか……
令は紙パックのジュースに ストローをさした
アラバギとラキが ここにいなかったら……
普段と同じ日々が 永遠に続く
そんな気がしてくる
アラバギ……
私は 貴方に会えてよかった
それが この 日常を壊してしまうものであっても……
令はかまわなかった
アラバギ……
チラ……と横目であおぐと アラバギは ストローを くわえたまま 遠くを みている
「……!」
その瞳は ひどく遠く……悲しげだった
バギ……
令は じっと 見つめてしまう
悲しい 悲しすぎる 眼差し
ふ……っ
アラバギの 目が流れた
そして はたと 令と ぶつかる
バギ……誰のことを考えていたの……
目線を 絡ませて 令の心は軋んだ
あの「人」の事……?
「バギ……」
令の 唇が 動く
バギ……
身体の 芯を見つめられているみたいだ
目がそらせない
深い黒曜……
令は 静かに 顔が うわむいた
見つめられてしまうと アラバギの 色に染められてしまいそうだ
ドクン……
芯が 脈打つ
「バギ……アラバギ」
アラバギの 目が 令の 瞳から 何かを汲み取るように
細められた
美しい翳り
瞳に 深い影が落ちている
美しい黒……
「令」
彼の唇が動いた
形の良い やわらかそうな唇
触れて 口付けてしまいたい
令の 芯を 引き寄せる
とくん……とくん……
胸が 痛い
「ねぇ……抱きしめて」
口にしてしまいたくて
令は 目をながす
誰のことを考えていたの……
痛い
心に何かが刺さった
令が 俯いてしまう
アラバギは 1つ瞑目すると 再び前を向いた
それはまるで 何ものかを 飲み込んだかのような仕草
令は 唇を噛んだ
愛しても……愛しても答えてもらえない……ん……だよね
不覚にも 涙が零れてきそうだった
自分に 決着をつけたはずだったのに
令は 指を握りしめる
指が白くなるほどに
たたん……たたん
ラキの身体が すいと 2人の間に滑り込んでくる
「来ましたよ」
令が 目をあげると 丁度 翁本町行きが 滑り込んで来たところだった
令は かぶりをふると 顔を見られないように のりこんだ
今の 顔…… 誰にも見られたくない
鼻柱が熱かった
乗り込んで 扉脇に身を寄せる
アラバギは 俯きながら乗り込み顔をふせた
す……
ラキが ラキの背が令を 辺りから隠してくれる
きゅ……
令は 左で 手すりを握り締め 右で ラキのシャツを引いた
「ありがとう」
きつく握って 麻にしわがよる
涙が 涙が止まらなかった
「ラキ」
令が 背に触れると ラキは静かに 目を下げた
そして 手をのばす
誰にもみつからないように くしゃりと 令の 髪を 混ぜた
大丈夫です
瞳が笑っている
令は 何度もうなづいた
涙が 溢れて止まらない
ラキの優しさに触れてしまうと 令は いたたまれなかった
「ありがと……」
ちいさくつぶやく
ラキは 視線をもどすと 前を向いた
そして背中をただ貸してくれる
アラバギは 俯いたまま 背を向けていた
しかし その背が 僅かに震えている
それは電車の振動のため……なのだろうか……
それとも……
寂しそうな アラバギの横顔を ラキだけが……みていた
「次は……守村……守村…… 御降りのお客様は……」
アナウンスに 令は ぴくりと 肩を震わせた
守村では 確か 令側の 扉が開く
顔を 手早く拭って 顔をあげた
兎に角 笑わなきゃ……
ラキの 背に 触れて 深呼吸する
ラキは 静かに 吊革に 移動した
さらりと 目配せを くれるのを忘れない
令は 目配せを承けて小さく笑う
顔が 真っ赤だったろう……
ガララ
扉が開いて 2人が乗り込んできた
若いサラリーマン風と 若い女性
若い女性は 髪の毛を ブリーチして ショートにしている
黒いフレアの ミニスカートに アニマルプリントのスパッツ
手に シルバーの 携帯を持っている
携帯は デコレーションされていて 傾けると 色とりどりに輝いた
令は 一瞬 目を奪われて ため息をついた
綺麗
彼女は ネイルアートの爪で カチカチと 携帯を操作している
と 突然 場違いな音量で シャンパリーズの 曲が流れた
パワフルキュートなロック
着うただ
彼女は 特に慌てた風も無く
暫く鳴らして サビを終わらせてから電話を受けた
「あ……今 今電車乗ったから……翁でさぁ 美味しいフードみつけたのよー……えりもいくでしょー 駅前のカラオケでさーシャンパの 新曲入ったって」
かなりの ハイトーンで 話し始める
辺りの座席から 咳払いが 聞こえた
「でっさー」
彼女は 悪びれるでもない
「佐々木のさー……うたえるー」
きゃいきゃいと ネイルアートの爪を 弾きながら 彼女はつづける
「でさ おじさんがさー みてくんのよー」
話を終える気配が無かった
アラバギは 静かに振り返ると 彼女と視線を交える
「わ……ちょっ……なに!めちゃ いい男なんだけど……また後でかけるね」
ぴっ……素早く彼女は電話を切った
そして えへとばかりに アラバギに 笑いかける
しかし ふいと アラバギは顔を背けて元の位置に身を戻してしまう
彼女は 舌打ちこそしないものの ふん と 床を蹴った
それが アラバギ流の注意のしかたなのだ
令は くすりと 笑った
はっきり 注意する方法もあるけど……
バギ……
やっぱり すごいよ
令は にっこり笑って アラバギに ジェスチャーを送る
アラバギは ちょっぴり 気恥しげに 目を細めて寄越した
その仕草が あまりにも いたずらっ子っぽくて
令は くすりと 笑ってしまう
「次は 翁本町……翁本町」
若そうな 車掌のアナウンス
令は アラバギの手を 迷わずぐいと とった
その時の びっくりしたような 虚をつかれたような アラバギの顔を 令は決してわすれないだろう
アラバギは引かれるままに 令と 連れ立って電車を降りた
広いホーム
矢先の倍はありそうだ
大きな売店が ホームにあって コーヒーショップもみえる
エスカレーターに 緑の扉のエレベーター
お年寄りが 手車をおしている
わぁん……ん
突然 人の多い所に来たためか 音が割れて 耳鳴りのようだ
下りのホームにも 人が沢山見えた
ここには ホームが三つある
令はラキを振り返ると 階段を指さした
行こう……
ちょっと声を張り上げる
どんっ
と 隣を歩いていた お婆さんが 何かに突き飛ばされた
「……!」
令は 慌てて支える
しかし グラ……
支えきれずに 体勢を崩して 令が潰れた
「令!」
令はホームに倒れ込み 軽く膝を打つ
「いた……」
手のひらも 軽く擦りむいた
令は 起き上がって お婆さんの 安否を確かめる
ズキ……
膝が 少し疼く
令が お婆さんを助け起こすと お婆さんは 何とも無いようだった
小さな 土産物らしい ビニールを 大事そうに 抱えて立ち上がる
「おねぇちゃんごめんね」
嗄れた しかし 優しい声
令は 立ち上がると いえいえと かぶりをふった
「本当にありがとうねぇ」
お婆さんは 令の手をつつむ
暖かい ちいちゃな しわくちゃな手だった
令は 手を握り込むと
「下まで 御一緒しましょうか……」
と 笑顔で尋ねる
「ん……やぁ……大丈夫だから……お姉ちゃん血ぃ出てるから これでふきぃ」
白いハンカチをくれる
見ると 手のひらから血がでていた
令は 白い綿の ハンカチをみて
「よごしちゃうから……」
と辞退した
「なにいっとるの」
お婆さんさんの 力がぐいと 令の手を引く
令は とっ……と たたらをふんだ
人通りが 階段付近で立ち止まった 令達を迷惑そうに避けていく
「はい……できた」
手のひらに 布のあたたかさをかんじてみると 手にハンカチが きっちりまかれていた
令は はんだように謝礼して お婆さんの手を取る
とりあえずは 人の少ないところへ
また 突き飛ばされては大変だから……
辺りは 何かのイベントの帰りらしく ペナントを 持った少年や少女でごったがいしていた
中にはアニメのキャラクターらしい 少女のイラストの入ったビニールをさげている人もいる
――プリンティ アイドル――
かなり有名な 甘ったるい声の声優がでていて 令も 何回かは見たことがあった
確か リナちゃんといったかな?
アニメのイベントかなにかが あったんだ
令は お婆さんを 安全な場所に連れて行くと ぺこりとお辞儀をして アラバギ達と階段にむかった
「気をつけてねぇ」
お婆さんの 小さな手を振る姿が見える
令は 大きく振り返した
そして 下り階段を降りる
ここを下って 乗り換え通路を過ぎれば改札だ
改札の先で 西洋デパートと つながっている
令は降りる人々の波に混じりながら 2人に目配せした
ラキは 相も変わらず 飄々としていたが アラバギは
何だか迷惑そうだ
人をかき分ける度に 少し申し訳なさそうにしている
下り専用に分けられた階段を逆走する人がいて 少し押された
乗り換え通路にでて 改札を目指す
少し先に トイレを示す 案内板がみえる
改札はその先だ
令達は 改札を何とか 抜けると 辺りを見回す
人……人……人
いくら土曜日だといっても この混みようは 異常だ
「春の大特売市!」
ハートマークを つけそうな イントネーションで 西洋デパートの 宣伝が聞こえる
目の前の 大きな液晶スクリーンに 大特売と ドン・ドン・ドンと 3つに区切られて 赤に黄色の 縁取りの字が打ち出される
令は 目がクラクラした
ちゃららーん
華やかな 音楽と共に 西洋デパートのCMが入る
令は アラバギと ラキの手をひっつかむと 兎に角人の少ない方へ移動した
揉みくちゃも良いところだ
駅ビルを出ると 何とかため息をつく……
スゴすぎる
令が 肩を落とす
イベントとぶつかったうえに 土曜日 おまけに 西洋デパートの 大特売初日
くてくてになって 壁によりかかった
一気に疲労する
背や肩に 重石を乗せられたみたいだ
ため息をつくと アラバギが 令の 足に触れた
「……痛くは……ないか……?」
気遣うような 翳りのある 黒曜が 令をさぐる
屈んで 膝を撫でた
痛っ!
令が 身を震わせる
軽く打っただけのはずなのに
アラバギは ソックスをそっと 引き下ろす
「……!」
膝は ひどい 打ち身になっていた
赤く腫れ上がっている
これは 明日には青黒くなる
アラバギは そうっと 打ち身の周りを押した
ずくん
と疼く
「これは 痛いな」
ラキが アラバギに 変わって 手を差当てる
じんわり
ラキの手の熱さが伝わる
ふぅ……
ラキが 息を吐いた
ひや……
ラキの 手の辺りが 急激に冷たくなる
打撲のまわりを おしつつむように 触れずに気配で 包んだ
さら……
じんじんと 疼いていた膝は 不思議と痛みを削ぎ落としたように 鎮まっていく
令は 膝を見下ろしてみる
痛みも腫れも 不思議とおさまっていた
「ラキ」
「これくらいしか出来ませんが……私めの唯一の得意分野です」
仰々しく腰をおって胸に手を当てる
そんなおどけた 仕草も ラキがやると ピッタリと決まる
まるで 1枚の絵を見ているみたいだ
美しい巻き毛の 王子が 姫君に 腰をおる
そんな風体だ
何人かの若い女性が ラキに 見惚れて 頬を染めている
「行くぞラキ」
アラバギの 手が 腰をおったままの ラキの頭を押し込んだ
ぐ……
ラキがしずむ……
しかし ラキは少しくらい良いだろうと ゴチりながら後に続いた
令は くすっと 笑うと肩を竦めて アラバギに 続く
アラバギ道わからないのに……
なんだかおかしかった
令が 先頭に立って 先ずは 近くの……空いていそうな
デパートの入口に入る
そこには 風除室があり 脇に 公衆電話が置かれている
ニスで光るベンチもおいてあった
令は 風除室を突っ切ると 煙草の自販機を横目に 店内へと入る
店内は 婦人服 子供服共に人だかり……
令は その人の群れを 極力避けながら 西洋デパート3階へと向かう
確か 携帯電話のお店があったはずだ
エスカレーターに 足をかけて 飛び乗る
アラバギ達も 持ち前の運動神経で 見事に乗り込んだ――春の大特売市開催中――
明るい 店内放送が聞こえる
華やかな 音楽
いつも 西洋デパートのCMで 流れている曲だ
3階フロアに降り立つと 先ずは電気屋が目にはいった
かなり大きい専門店
令は 突き当たって エレベーターの方へ 右に曲がる
ところどころ 壁や柱に 大特売市のポスターが はられてある
暫く行くと 100円ショップ
そこを左におれると巨大な吹き抜けがある
その近くに携帯電話の売り場があった
やたらと明るい売り場にEUからSバンク トコモなどの機種が並ぶ
髪の長い 清楚な女優が イメージキャラになっている
手にはEU携帯を持っていた
流されているのは 明るいシャンパリーズの 楽曲
最近 発売された アルバムに入っている曲だ
着うたフル!
大きなロゴが踊っていて 色とりどりにある
令はEUに決めてはいたものの 一応一巡して結局ポスターの前にもどった
手前の 棚に ピンクの携帯モデルと ブラウン
シャンパンゴールドの 機種が並ぶ
いずれも見本だが
令は ピンクのモデルを手に取った200万画素のカメラつき!ラジオも入る新製品
かわいい……
大人っぽい可愛さで手に取ると僅かに重い
思っていたよりごつかった
開いてみると 液晶の部分には 子猫と小さな植木鉢の写真がある
白いテラスにアメリカンショートヘアー
絵になる
隣のはどちらかというと男性向きのデザインだ
タフネス携帯とある
水に濡れても大丈夫らしい……
令は シャンパンゴールドの携帯も てにとったが ワンセグとあるので ピンクの携帯にすることにした
夢にまで見た携帯
着うたいれたい
浮ついた理由で持たされたものではなくとも
気分は上向いてしまう
皆がつけているみたいに かわいい ストラップつけて
曲は 佐々木 薫の――抱きしめて――にする
にんまり……自然と唇が緩んでしまう
かわいい
とっくり返しながら カウンターに向かう
カウンターには明るい ハツラツとした若い女性の スタッフがいる
女性は 満面の笑顔で 「いらっしゃいませ」と挨拶した
髪の短い 可愛らしいスタッフ 感じはよさそうだった
「新規で宜しいですか?失礼ですが親権同意書を……こちらが 契約書になりまして……」
テキパキと指示をくれる
「こちらがお客様の携帯番号になりますね」
透明なマニキュアの人差し指が 番号を指し示す
「開通して お受け取りになれるようになるまで40分ほどかかります」
にっこり……
「よろしいですか?」
「はい」
令が 嬉しそうに受ける
40分
食事をしに行ってもいい……
お弁当を買って 近くの公園で食べるとか? フードコートにいってもいい
令は アラバギを 振り返った
「翁公園とフードコート どっちがいい?」
フードコートには確か 美味しいたこ焼き屋とラーメン屋 ファストフード店があった
今の時間空いてるかな……
特売市だから 無理か……
令が 人差し指を唇に当てる
「公園で食べよう」
地下の食品街でお弁当を買おう
デパートのお弁当なんて 本当に久しぶりだ
いつもは 矢崎のスーパーの398円弁当だもん
スタッフに 一礼して3人は地下に向かうことにした
そうだ エレベーターに のせてあげよう……
くす……
ちょっと悪戯心をおこして エレベーターにむかう
淡いオレンジの扉が ビタミンをおもわせる
きんこーん
ボタンを押すまでもなく エレベーターが到着する
見ると若い男女の2人組が待っていた
「乗ろう」
兎に角 不思議顔の2人を引き込んで ぴっ 地下1階を押す
西洋デパートのエレベーターはガラスばりになっていて 外の景色が見える
見下ろすと駅前の巨大なロータリーを 多数の人が
わぁ……と歩いていた
ここからだと まるで色とりどりの 粒が思い思いに ちらばっていくようだ
顔を上げれば 大きなケーキ屋の 看板が見える
確か あそこの ミックスベリーのタルトは絶品だとウォーカー誌に書いてあった
ぐくん……
軽く浮遊感があって エレベーターは下降を始める
人通りが段々と近づく
ぶ……
ガラスが暗転して地下に 潜った事を知る
きんこーん
がこん
扉が開いた
地下1階は 巨大な食品街になっている
売り場にない 食品は無いとまでうたわれる モンスターマーケットだ
令は まず辺りをみまわした
エレベーターの前は食品用の保冷ロッカーと 手荷物用ロッカーが並ぶ
パン屋アルジェが すぐ脇にある
パンの焼ける 芳ばしい匂いが満ちている
令は思わずクンクンと鼻をあげた
アルジェの パンはフランスパンが有名だ
皮がぱりっとしていて……
令が大好きなものの 1つだ
あとは カツサンドが有名で並んではすぐ 売り切れる
値段も ボリュームの割に500円と手頃だ
令は先ずは弁当屋を見て回る
――松篠(まつしの)屋――
――山吹(やまぶき)屋――
――有里(ありさと)屋――
松篠は おこわが 中心で もち米 水ともに こだわっている
パックにもりつけて おこわだけで 600円
お弁当にすると500円からある
山吹は 和食限定
きんぴら 切り干し 大根の煮付け 肉じゃが 芋の煮っころがし
味も定評があるが 値段が少しはる
有里は 和洋折衷 オムライスもあれば釜飯もある
タコさんウィンナーの お子様弁当が 人気だ
――プリンティアイドル――の 箸セットがついてくる
令は くるとみまわして もう少し回ってみる