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第11話 音楽の時間だ

「Hiwatari。君に伝えておくことがある」


 昼食後の時間、アルジャーノンは静かにそう切り出した。


「なんだよ。昼休みに説教か?」 

「違う、音楽の先生に言われた。君に、『やってみたい楽器はないか』と。個人音楽レッスンは必修なのだ」


「はぁ? めんどくせぇ」


 章吾は気だるげにそっぽを向く。アルジャーノンは動じず、軽く顎で音楽棟の方を示した。


「行こう。どうせ暇だろう」 

「おい、引っ張んなって……って、うわ、腕っ……!」


 音楽室に着くまでに、三度章吾は「帰っていい?」と聞いた。アルジャーノンはすべて無視した。



 室内にはグランドピアノと、整然と並んだ譜面台。 その真ん中に置かれた長椅子に、章吾はふてくされたように腰を下ろした。


「ピアノはどうだ?」


 と、アルジャーノン。


「まあまあかな」


 章吾は肩をすくめ、無造作にピアノに手を置いた。 そして、何の前触れもなく──音が溢れ出す。


 指が鍵盤の上を滑るたび、部屋の空気が震えた。


 アルジャーノンは言葉を失った。


「……君、本当にそれ、独学か?」

「まーな。レッスンは子供のころ受けたけど」


 さらりと答える章吾に、アルジャーノンはますます眉をひそめた。


「……お前も、弾いてみろよ」

「ならば、私はヴァイオリンを弾こう」


 そう言って、アルジャーノンは静かに棚からヴァイオリンを取り出した。


 アルジャーノンは黙って、構えた。音が、弦からこぼれ落ちる。


 エルガーの『愛の挨拶』。


 そのやさしい旋律が、音楽室に満ちていく。 章吾は吸い込まれるようにその音に耳を傾けた。


「いいじゃん。教えて」


 その一言に、アルジャーノンの指がふと止まる。


「……私がか?」


「うん。今、弾いてみたい」


 アルジャーノンは少しだけ目を伏せ、ヴァイオリンを差し出した。


「では──構えはこう。右手は弓、左手はネックを支える。そう、そこ……」


 ふたりの距離が、ぐっと近づいた。アルジャーノンの手が、そっと章吾の手を導く。温かい指先が、弓の握り方を教えるように触れる。


「こう。……力を抜いて」

「ち、近くね?」

「君の握りが不器用だからだ」


 からかいのような、真面目なような口調。

 しかし章吾の心臓は、先ほどからずっと落ち着かない。


 耳元で響く低い声。わずかに触れ合う肩と肩。


 そして、アルジャーノンが後ろから腕をまわすようにして、構えを整えた瞬間だった。


 章吾が顔を上げる。

 アルジャーノンも同時に、章吾の手元から顔をのぞき込む。


 ふたりの顔が──ほんの数センチのところで、止まった。


 視線が重なる。息が、かかった。


(……えっ)


 どちらともなく、呼吸が止まる。このまま、ほんの少し動けば、唇が……!

 アルジャーノンの蒼い瞳が、すぐそこにあった。章吾の目が見開かれる。


「っ……すまない!」


 先に離れたのは、アルジャーノンだった。距離を取るように一歩下がり、ヴァイオリンをきゅっと抱え込む。


「ご、ごめん……!」


 章吾も弓を置き、耳まで真っ赤にしながらそっぽを向いた。


 音楽室の空気が、しん、と静まり返る。雷の前のような、張り詰めた静けさだった。



「……その、弾きたいって言ったの、取り消してもいい?」


 沈黙を破ったのは、章吾だった。


「いや。教えよう」


 意外にも、アルジャーノンの声は落ち着いていた。が、その耳はほんのりと赤い。


「さっきのは……事故だからな」

「わかってるよ」


 目を合わさずに言い合うふたりは、まるで何かの稽古のようにぎこちない。だが、その空気は少しずつ和らいでいく。



「もう一度、構えからだ」


 アルジャーノンが再び後ろに立つ。章吾は頬を赤らめながらも、素直に身を預けた。


「右肩にヴァイオリンを乗せて。左手は指板を支えて」


 低い声が、背後から優しく響く。少し前とは違う。指導の声には、ほんのわずかな微笑みが混じっていた。


「こうか?」


「……悪くない」


 章吾の手元に、アルジャーノンの長い指がそっと重なる。弓の木肌ごしに、彼の体温がにじんだ。


 指が、そっと弓を導く。


 弦を擦った瞬間、小さな音がふるえた。不格好でも、それは「ふたりで出した最初の音」だった。


「お、出た……!」


 章吾が小さく笑った。アルジャーノンも、その横顔を見て、ふっと息をついた。


(……この人は、本当に掴みどころがない)


 だからこそ、離したくないのかもしれない──そんな思いが、胸の奥に灯った。




「……さっき、あぶなかったな」


 章吾がぽつりと呟いた。


「……何がだ」

「……わかってんだろ。あと少しで、唇、ぶつかってた」


 アルジャーノンの手が止まる。


「……君は、気にしているのか?」


 章吾は苦笑した。


「するだろ、ふつう」

「そうか」

「……お前は、しないわけ?」


 問い詰めるような章吾の声に、アルジャーノンは言葉を詰まらせた。


「……した。気にしている」


 ふたりの間に、また沈黙が落ちる。その沈黙は、先ほどよりもずっと柔らかかった。


「ま、事故だしな」

 章吾が、ぼそっと言う。


「事故、か」

 アルジャーノンはヴァイオリンをケースに片づける。


「……でも、悪い気はしなかった」

 その言葉に、章吾の手がピクリと動いた。


「……お前、そういうこと、さらっと言うなよ」

「事実だからな」


 どこか照れくさそうに、アルジャーノンはケースを棚に戻す。


「また弾きたいと思ったら、いつでも来るといい」

「勝手に開放していいのかよ、音楽室」

「私の名前を出せば、問題ない」

「……お前、便利だな」


 ふたりは肩を並べて部屋を出た。


 廊下の窓の外には、薄曇りの空が広がっていた。さっきまでの張り詰めた空気は、もうどこにもなかった。



 礼拝堂の鐘が、遠くで鳴った。次の授業が始まるまで、あと数分。


「……なあ」


 章吾がぽつりと声を上げる。


「ん?」

「今日、……たのしかった」

 アルジャーノンの足が、一瞬止まる。そして振り返り、章吾を見る。


「私も、だ」


 章吾は照れ隠しのように鼻をこすり、先に歩き出す。


「……また教えろよ」

「もちろん」


 その返事が聞こえてくると、どこかくすぐったくて、うれしくなった。


 音楽室の出来事は、誰にも話さない。


 ふたりだけの、ちょっとした「秘密」として、胸にしまっておこうと思った。


 厚い雲の切れ間から差す光が、さっきの弓の一音を思い出させるように、ふたりの肩を照らした。

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