朝から空が、どこか落ち着かない色をしていた。
晴れてはいるのに、光が白すぎる。
今日は保護者を招いた式典の日だった。中庭の生徒たちは、いつもより静かだ。足音は抑えられ、笑い声もどこか上ずっている。
章吾は、窓辺の席にひとりで座っていた。
「……来ると思う?」
気配に振り返ると、アルジャーノンが立っていた。その手の甲が不自然にこわばっていた。
「来るさ。おまえんとこの親父……欠席なんかしないだろ」
章吾はそう言いながら、隣の椅子を足で引いた。
アルジャーノンは無言で腰を下ろす。影が落ちる。
ひとすじ、風が冷たく吹いた。いつもなら皮肉のひとつも返すくせに、今日は何も言わなかった。
「にしても、なんか変な空気だよな、今日……」
軽く肩を叩こうと、章吾はアルジャーノンの肩に手を伸ばした。
──その瞬間。
「やめろ」
バシッ。
はじかれた音が響いた。
鋭く振るわれたアルジャーノンの手が、章吾の手をたたき落とした。
驚きよりも先に、理解の追いつかない動揺が広がる。それと同時に、風の音が止み、空気が凍った。
ゆっくりと歩いてくる黒の燕尾服。
背筋を真っすぐに伸ばし、絶対に揺らがない目でふたりを見下ろしてくる男──ロデリック・フォーセット卿。
章吾の背に冷たいものが走った。
「まさか──」
ロデリックは一歩だけ、前に出る。彼は事実を確認するような、無表情な声音で続けた。
「──男と、むつみあっているのか?」
風が吹いた。テーブルクロスの端がめくれ、ナプキンが翻る。
アルジャーノンの瞳が、揺れた。ほんの一瞬、唇が動くが、言葉にはならない。
いずれ、自分の隣には「誰か」が用意される。その顔も、名前も知らないまま──家の存続のため。
「違います」
かろうじて口をついて出た声は、乾いていた。言い切ったあと、アルジャーノンはほんのわずか、目を伏せる。
「申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしました」
それはまるで台本の一節のように、淀みなく、感情のない言葉だった。
章吾は立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
視線を感じる。目の前で、自分は判断されている。貴族の名の下に、家の格式の下に、「それ」は許されるべきではないと──そう言われている気がした。
「アルジャーノン」
父が再び名を呼ぶ。声は重く、乾いていて、どこまでも冷たい。
「お前は、我が家の名をなんだと思っている。」
アルジャーノンは答えなかった。静かに目を伏せたままだ。
章吾は、心の奥で小さく何かが壊れる音を聞いた。
*
扉が閉まった瞬間、空気が一気に濁った。
章吾は寮の部屋に入るなり、カバンを床に投げるように置いた。靴も脱ぎ捨て、ベッドの端に腰を下ろす。
アルジャーノンは部屋の奥、机の前に立ったまま、黙っていた。上着の襟元を緩めても、その背はまるで鉄で固められたように硬い。
しばらく沈黙が続いた。
章吾の中に渦巻いていたものが、限界を超えるのにそう時間はかからなかった。
「さっきのさ……」
低く、しかし抑えきれない声が部屋に落ちた。
「『むつみあっているのか』って、言われてさ。なんで否定した?」
アルジャーノンは振り向かなかった。
彼は微動だにせず、ただ黙っていた。その無言が、章吾の怒りに火をつける。
「俺といたのが、そんなに恥ずかしかった? 『お見苦しいところ』って、俺のことか?」
椅子を蹴るように立ち上がる。アルジャーノンとの距離を詰める。
それでも、彼はまだこちらを向こうとしなかった。
「ふざけんなよ……おまえ、いつも自分のことばっかじゃんか」
章吾の声が少しずつ上ずっていく。
「おまえの事情も、家のことも、勝手に抱えてりゃいい。でもな、こっちはずっとそばにいて、わけもわかんねーまま『見苦しい』って言われて、はいそうですかって黙ってられるかよ!」
その瞬間だった。
「やめろ!」
アルジャーノンが振り返り、叫んだ。その声には、かすれたような痛みが混ざっていた。
章吾は言葉を失った。
アルジャーノンの顔が、ほんの少しだけ歪んでいた。
怒っているわけでも、苛立っているわけでもない。追い詰められた人間の顔だった。
「……すまない」
絞り出すような声。
「でも、私は……君を守れる立場では、ない」
その言葉に、章吾の胸の奥がきしむ。
「なにそれ」
彼はベッドに倒れ込むように座り、背を向けた。
「もういい。おまえのそういうとこ、ほんと嫌い」
布団を被り、枕に顔をうずめる。その背中を、アルジャーノンはただ見つめていた。
そして、静かにベッドの端に腰を下ろす。
顔を上げると、天井の模様が滲んでいた。知らぬ間に、目尻から涙がひとすじ、頬を伝っていた。
──なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。
*
夜が来ても、部屋の空気は凍ったままだった。
章吾はベッドに背を向けたまま、目を閉じていた。眠れているわけじゃない。眠ったふりをしているのだ。
隣のベッドからは物音ひとつしない。アルジャーノンの気配はある。息づかいが、かすかに布の向こうから伝わってくる。
「……謝るぐらいなら、最初から言うなよ」
布団の中で、小さくつぶやいた。背中越しの距離は、たった数メートル。そのはずなのに、遠い。
あいつは、俺のことを「見苦しい」と思ってたんだろうか。
それとも──あんな父親の前では、何もかも諦めてしまうほど、従うしかない存在だったのか。
章吾は、答えのない問いをいくつも胸に抱えながら、目を開けた。
天井は、闇に溶けてどこまでも遠かった。
一方のアルジャーノンは、カーテンを閉めたベッドの中で、毛布をきつく抱いていた。
心臓の音がやけに耳につく。鼓動が、罪悪感を刻むように打ち続けていた。
「Hiwatari ……」
名前を呼んでも、声にはならなかった。自分は守れない立場だと、言ってしまった。
それは本心だった。家の名、伝統、父の目。そのどれもが、彼の言葉より重くのしかかってくる。
でも、それでも──。
「君の手を、本当は払いたくなかった」
あのとき、あの肩に触れてくれたあたたかさに、少しでも応えることができたなら。
悪かった。
ありがとう。
そばにいてほしい。
何ひとつ、口にできなかった。
きつく目を閉じると、また涙が滲んだ。父の前では泣いたことなど一度もなかったのに。
なぜ、章吾の背中を見ると、涙が出るのだろう。
──ひとりになるのが、あんなに怖いなんて、思っていなかった。
*
朝が来た。
章吾は毛布を頭からかぶったまま、うっすらと目を開けた。
隣のベッドは、変わらず静かだった。
「……起きてる?」
問いかけは、自分のために吐き出したようなものだった。当然、返事はない。
すくりと起き上がり、靴を履く音だけが響く。
キッチンの片隅に置かれたティーポットに水を注ぎ、湯を沸かした。
「……別に、謝れとは言ってねえよ」
呟いた声もまた、返事のない空間に溶けていく。
背後で、ふいにベッドの軋む音がした。
章吾が振り返ると、アルジャーノンがゆっくりと起き上がっていた。
髪は乱れていたが、制服のシャツのボタンはきちんと留まっている。それだけで、いつも通りの彼に見えた。
しかし、目は赤かった。
「起きたんなら、こっち来れば?」
そう言うと、章吾は黙ってカップを押し出した。
アルジャーノンは数秒のあいだ迷っていたが、やがて歩み寄ってきた。
向かい合って座ると、ふたりの間には湯気だけが揺れていた。
「昨日は、悪かった」
アルジャーノンが言った。その声は、ひどく低くて小さかった。
章吾はひと口だけ、紅茶を飲んだ。熱さが喉を通り、胸の奥で静かに溶けていく。
「俺も、怒りすぎた」
それだけ言って、目をそらす。するとアルジャーノンが、珍しく少しだけ笑ったような気がした。
ふたりの間に、まだ拭いきれないものはあった。
それでも──今はそれでいい。
その朝の紅茶は、どこか苦くて、でもほんの少しだけ甘かった。