目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第13話 お父様、申し訳ありません

 朝から空が、どこか落ち着かない色をしていた。

晴れてはいるのに、光が白すぎる。


 今日は保護者を招いた式典の日だった。中庭の生徒たちは、いつもより静かだ。足音は抑えられ、笑い声もどこか上ずっている。


 章吾は、窓辺の席にひとりで座っていた。


「……来ると思う?」


 気配に振り返ると、アルジャーノンが立っていた。その手の甲が不自然にこわばっていた。


「来るさ。おまえんとこの親父……欠席なんかしないだろ」


 章吾はそう言いながら、隣の椅子を足で引いた。

アルジャーノンは無言で腰を下ろす。影が落ちる。


 ひとすじ、風が冷たく吹いた。いつもなら皮肉のひとつも返すくせに、今日は何も言わなかった。


「にしても、なんか変な空気だよな、今日……」


 軽く肩を叩こうと、章吾はアルジャーノンの肩に手を伸ばした。


 ──その瞬間。


「やめろ」


 バシッ。


 はじかれた音が響いた。


 鋭く振るわれたアルジャーノンの手が、章吾の手をたたき落とした。


 驚きよりも先に、理解の追いつかない動揺が広がる。それと同時に、風の音が止み、空気が凍った。


 ゆっくりと歩いてくる黒の燕尾服。


 背筋を真っすぐに伸ばし、絶対に揺らがない目でふたりを見下ろしてくる男──ロデリック・フォーセット卿。


 章吾の背に冷たいものが走った。


「まさか──」


 ロデリックは一歩だけ、前に出る。彼は事実を確認するような、無表情な声音で続けた。


「──男と、むつみあっているのか?」


 風が吹いた。テーブルクロスの端がめくれ、ナプキンが翻る。


 アルジャーノンの瞳が、揺れた。ほんの一瞬、唇が動くが、言葉にはならない。


 いずれ、自分の隣には「誰か」が用意される。その顔も、名前も知らないまま──家の存続のため。


「違います」


 かろうじて口をついて出た声は、乾いていた。言い切ったあと、アルジャーノンはほんのわずか、目を伏せる。


「申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしました」


 それはまるで台本の一節のように、淀みなく、感情のない言葉だった。


 章吾は立ち尽くしたまま、何も言えなかった。


 視線を感じる。目の前で、自分は判断されている。貴族の名の下に、家の格式の下に、「それ」は許されるべきではないと──そう言われている気がした。


「アルジャーノン」


 父が再び名を呼ぶ。声は重く、乾いていて、どこまでも冷たい。


「お前は、我が家の名をなんだと思っている。」


 アルジャーノンは答えなかった。静かに目を伏せたままだ。


 章吾は、心の奥で小さく何かが壊れる音を聞いた。




 扉が閉まった瞬間、空気が一気に濁った。


 章吾は寮の部屋に入るなり、カバンを床に投げるように置いた。靴も脱ぎ捨て、ベッドの端に腰を下ろす。


 アルジャーノンは部屋の奥、机の前に立ったまま、黙っていた。上着の襟元を緩めても、その背はまるで鉄で固められたように硬い。


 しばらく沈黙が続いた。


 章吾の中に渦巻いていたものが、限界を超えるのにそう時間はかからなかった。


「さっきのさ……」


 低く、しかし抑えきれない声が部屋に落ちた。


「『むつみあっているのか』って、言われてさ。なんで否定した?」


 アルジャーノンは振り向かなかった。


 彼は微動だにせず、ただ黙っていた。その無言が、章吾の怒りに火をつける。


「俺といたのが、そんなに恥ずかしかった? 『お見苦しいところ』って、俺のことか?」


 椅子を蹴るように立ち上がる。アルジャーノンとの距離を詰める。


 それでも、彼はまだこちらを向こうとしなかった。


「ふざけんなよ……おまえ、いつも自分のことばっかじゃんか」


 章吾の声が少しずつ上ずっていく。


「おまえの事情も、家のことも、勝手に抱えてりゃいい。でもな、こっちはずっとそばにいて、わけもわかんねーまま『見苦しい』って言われて、はいそうですかって黙ってられるかよ!」


 その瞬間だった。


「やめろ!」


 アルジャーノンが振り返り、叫んだ。その声には、かすれたような痛みが混ざっていた。


 章吾は言葉を失った。


 アルジャーノンの顔が、ほんの少しだけ歪んでいた。


 怒っているわけでも、苛立っているわけでもない。追い詰められた人間の顔だった。


「……すまない」


 絞り出すような声。


「でも、私は……君を守れる立場では、ない」


 その言葉に、章吾の胸の奥がきしむ。


「なにそれ」


 彼はベッドに倒れ込むように座り、背を向けた。


「もういい。おまえのそういうとこ、ほんと嫌い」


 布団を被り、枕に顔をうずめる。その背中を、アルジャーノンはただ見つめていた。

 そして、静かにベッドの端に腰を下ろす。


 顔を上げると、天井の模様が滲んでいた。知らぬ間に、目尻から涙がひとすじ、頬を伝っていた。


 ──なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。



 夜が来ても、部屋の空気は凍ったままだった。


 章吾はベッドに背を向けたまま、目を閉じていた。眠れているわけじゃない。眠ったふりをしているのだ。


 隣のベッドからは物音ひとつしない。アルジャーノンの気配はある。息づかいが、かすかに布の向こうから伝わってくる。


「……謝るぐらいなら、最初から言うなよ」


 布団の中で、小さくつぶやいた。背中越しの距離は、たった数メートル。そのはずなのに、遠い。


 あいつは、俺のことを「見苦しい」と思ってたんだろうか。


 それとも──あんな父親の前では、何もかも諦めてしまうほど、従うしかない存在だったのか。


 章吾は、答えのない問いをいくつも胸に抱えながら、目を開けた。


 天井は、闇に溶けてどこまでも遠かった。


 一方のアルジャーノンは、カーテンを閉めたベッドの中で、毛布をきつく抱いていた。


 心臓の音がやけに耳につく。鼓動が、罪悪感を刻むように打ち続けていた。


「Hiwatari ……」


 名前を呼んでも、声にはならなかった。自分は守れない立場だと、言ってしまった。


 それは本心だった。家の名、伝統、父の目。そのどれもが、彼の言葉より重くのしかかってくる。


 でも、それでも──。


「君の手を、本当は払いたくなかった」


 あのとき、あの肩に触れてくれたあたたかさに、少しでも応えることができたなら。


 悪かった。

 ありがとう。

 そばにいてほしい。


 何ひとつ、口にできなかった。


 きつく目を閉じると、また涙が滲んだ。父の前では泣いたことなど一度もなかったのに。

 なぜ、章吾の背中を見ると、涙が出るのだろう。


 ──ひとりになるのが、あんなに怖いなんて、思っていなかった。




 朝が来た。


 章吾は毛布を頭からかぶったまま、うっすらと目を開けた。


 隣のベッドは、変わらず静かだった。


「……起きてる?」


 問いかけは、自分のために吐き出したようなものだった。当然、返事はない。


 すくりと起き上がり、靴を履く音だけが響く。


 キッチンの片隅に置かれたティーポットに水を注ぎ、湯を沸かした。


「……別に、謝れとは言ってねえよ」


 呟いた声もまた、返事のない空間に溶けていく。


 背後で、ふいにベッドの軋む音がした。


 章吾が振り返ると、アルジャーノンがゆっくりと起き上がっていた。


 髪は乱れていたが、制服のシャツのボタンはきちんと留まっている。それだけで、いつも通りの彼に見えた。


 しかし、目は赤かった。


「起きたんなら、こっち来れば?」


 そう言うと、章吾は黙ってカップを押し出した。

アルジャーノンは数秒のあいだ迷っていたが、やがて歩み寄ってきた。


 向かい合って座ると、ふたりの間には湯気だけが揺れていた。


「昨日は、悪かった」


 アルジャーノンが言った。その声は、ひどく低くて小さかった。


 章吾はひと口だけ、紅茶を飲んだ。熱さが喉を通り、胸の奥で静かに溶けていく。


「俺も、怒りすぎた」


 それだけ言って、目をそらす。するとアルジャーノンが、珍しく少しだけ笑ったような気がした。


 ふたりの間に、まだ拭いきれないものはあった。

それでも──今はそれでいい。


 その朝の紅茶は、どこか苦くて、でもほんの少しだけ甘かった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?