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第14話 言葉を選べ、レジー

 ──名前ひとつ、呼べないくせに。それでも俺は、あいつの隣にいたかった。



 談話室へ向かう途中、章吾はひとり苛立っていた。


 視線の先、ベンチに並んで座るふたり──アルジャーノンと、レジナルド。


 レジナルドはにこやかに笑いながら、アルジャーノンの肩に軽く手を置いていた。


「ねぇ、アルジー。君、昔はもっと素直だった気がするけど?」


 章吾の胸に、じわりと熱がにじんだ。


(……アルジー?なんだよそれ)


 自分は──いまだに。あいつの名前を、口に出せたことすらない。隣にいるくせに。それなのに、レジナルドには、あたりまえのように許されている。


 視線を逸らそうとした、そのとき。


「……やめろ、レジー」


 低く、静かな声が響いた。アルジャーノンだった。

 その呼び方すら、章吾には遠かった。

 ──やめろ、レジー。


 ふたりだけに許された、親しい響き。

 レジナルドは肩をすくめた。


「昔は僕のこと、朝も夜も呼び出してたくせに。懐かしいね」


 軽く、からかうように。そして何事もなかったかのように、話題を切り替える。


「そういえば、今年のクリケット大会、また僕らがペアになるかもね」

「ああ」


 アルジャーノンが、短く答えた。レジナルドは、満足げに微笑む。


 章吾は、ただ黙ってそのやりとりを見つめていた。胸の奥でぐるぐると渦巻くものを、必死に押し殺しながら。


 ──俺には、呼べないくせに。


 隣にいるのに、どうしてこんなにも遠いのか。改めて思い知らされた。


 やがてレジナルドは、満面の笑みのまま章吾に向き直った。


「そうだ、Hiwatari君」


 章吾は、無言で視線を返す。


「君、クリケットの経験ある?」


 軽い調子。無邪気に聞こえるその声の奥に、微かな意図が透けていた。


「……ねぇよ」


 短く答える。それ以上、言葉を重ねる気になれなかった。


 レジナルドは、肩をすくめる。


「そっか。まぁ、アルジーと組むには、まだ早いかもしれないね」


 さらりと、何でもないふうに。それがかえって、章吾の心を波立たせた。


「『アルジー』って、そんなに軽く呼べる名前かよ」

 気づいたら、口に出していた。


「そうだよ?だって僕の幼馴染みだから」

 レジナルドは、負けじと言い返す。


「それ、嫉妬?Hiwatari君」

「……嫉妬?」

 その言葉が、胸に鈍く刺さった。冗談にしては、鋭すぎた。心のなかで何かが壊れる音がした。


 そのとき。

「……レジー!」

 低く鋭い声が、章吾の前に割って入った。


 アルジャーノンだった。彼はまっすぐレジナルドを見据えたまま、静かに告げる。


「言葉を選べ」


 滅多に見せない、張り詰めた声音だった。レジナルドは、小さく目を見開いた。


 そして、困ったように笑いながら言った。


「……ごめん、アルジー。冗談のつもりだったんだけど」


 あくまで軽く、場をなだめるように。

 章吾には、その一瞬、アルジャーノンの瞳に浮かんだ色が焼き付いて離れなかった。


 守ろうとする目。自分に向けられた、はっきりとした、意志。


 章吾は、そっと拳をほどいた。小さな音を立てて。


 レジナルドは、困ったように笑ったまま、軽く手を上げ、その場を離れていった。


 朝の光が、芝生の上に静かに伸びていく。

 寄宿舎の庭に、新しい風が吹いた。





 談話室に静寂が戻る。残されたのは章吾と、アルジャーノン。春の空気が、どこか気まずく流れていた。


 章吾は、両手をポケットに突っ込んだまま、ベンチの端に立っていた。何か言いたかった。


 怒鳴りたかった。ふざけんな、って。俺だって、ちゃんと──でも口が動かなかった。


 何をどう言えばいいのか、わからなかった。


 アルジャーノンが、ゆっくりと章吾に近づく。


「……すまない」


 ぽつりと落とされた声に、章吾は驚いた。

 悪いのはレジナルドだ。無神経にあんなことを言ったあいつのほうだ。


 それなのに、アルジャーノンはまっすぐ章吾を見ていた。蒼い瞳が、まるで章吾の痛みをすべて受け止めようとするみたいに。


(……やめろ)


 そんなふうに、優しくすんな。章吾は奥歯を噛みしめた。


「……別に、気にしてねぇし」

 吐き捨てるように言うと、アルジャーノンの表情が陰った。


 言葉が途切れ、沈黙が落ちる。


 章吾は目をそらしたまま、小さく息をついた。


 春の風が中庭を抜け、ふたりの間に、どうしようもない遠さを残していった。



 夜の寄宿舎は静まり返っていた。消灯後の廊下は、月明かりだけが薄く照らしている。


 章吾はベッドに横たわり、天井をじっと見つめていた。何度目を閉じても、蒼い瞳が脳裏に浮かんだ。


 シーツを握りしめる。


「……なんで、俺じゃないんだよ」

 胸の奥で、小さく崩れた声がした。



 同じ頃、同じ部屋で、アルジャーノンもまたベッドに座り、カーテン越しに夜空を眺めていた。


 高く昇る月。けれどその美しさも、今の彼にはただ遠く、冷たく感じられた。


(……Shogo Hiwatari)


 心の中で、そっと名前を呼ぶ。ただ呼ぶだけで、胸が痛んだ。その名を呼んでも、君は気づいてくれない。私が何を願っているのか。

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