放課後の図書室。
最初はただ、本を返すだけのつもりだった。
けれど、棚の向こうにあの姿を見つけた瞬間、時間の流れが変わった気がした。
白いシャツ、整ったネクタイ、そして指先に一冊の古書。
アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、まるで何百年前からそこにいたかのように、静かにページをめくっていた。
「……やぁ、Hiwatari」
ふと棚の向こうから声がかかった。章吾は、ほんの少しだけ肩を強張らせた。
「……おう」
短く返す。ぎこちない沈黙。昨日のレジナルドとの一件。その後、うまく言えなかった自分の言葉。胸にしこりのように残っていた。
アルジャーノンはそんな様子を気にするふうもなく、静かに本を開く。ぱらぱらとページをめくる繊細な指先。章吾は、思わず覗き込んだ。
そこには、びっしりと、見たこともない文字列が並んでいる。
「……なに、それ」
思わず問いかけると、アルジャーノンは顔を上げずに答えた。
「ラテン語だよ。この学校の図書室には、何世紀も前の古書が保管されている」
それから、自然な仕草で──ページを指でなぞりながら、流れるように読み上げた。
「……『In silentio crescit anima』」
柔らかな発音。耳に心地よい響き。アルジャーノンは顔を上げ、さらりと訳した。
「『静けさの中で、魂は成長する』――アウグスティヌスの言葉だ」
さらっとした説明。それが、彼にとってどれほど自然なものか、痛いほど伝わった。
(……すげぇ)
素直に、そう思った。同時に、胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
(……やっぱ、こいつは──)
本物なんだ。エラグレイヴ・カレッジの頂点に立つ、本物の貴族。
届かない。胸の奥で、誰にも言えない言葉が、静かに沈んでいった。
章吾は、黙ったまま立ち尽くしていた。
すると、アルジャーノンが手にしていた古書を閉じ、章吾に差し出した。
「……読んでみる?」
驚いて顔を上げる。
「……いや、俺……ラテン語なんか、わかんねぇし」
ぼそっと答えると、アルジャーノンはほんの少しだけ口元を緩めた。
「わからなくてもいい。最初は、言葉の響きだけでも感じればいいさ」
柔らかい声だった。押しつけがましくもなく、ただ自然に。
章吾は、差し出された本をぎこちなく受け取った。分厚くて、重たい。擦り切れた革装の表紙。長い年月を超えてきた本。
(……俺なんかが、触れていいもんなのか)
そんな考えがよぎったけれど、手の中には、たしかな温もりが残っていた。アルジャーノンが、触れていたもの。
胸の奥が、そっと震える。
「……ありがと」
かろうじて、それだけを呟いた。アルジャーノンは静かにうなずく。図書室の静寂がふたりを包み込んだ。
外では、春の風が木々を揺らしている。その音が遠く聴こえて、別世界みたいだった。
数日後。また図書室。
章吾は、自分でも驚くほど自然に、そこにいた。
借りた本を返すため。それだけだったはずなのに、棚の向こうに白いシャツの背中を見つけたとき、思わず足を止めていた。
アルジャーノンも気づき、軽く会釈する。ごく自然な動作。
章吾が近づくと、彼は手にしていた本をゆっくりと閉じた。その表紙に見覚えがあった。
──『冬の翳りに花は咲く』。
祖父・日渡秋水の代表作。世界的に評価され、英訳版も多く出ている。
章吾の視線に気づいたのか、アルジャーノンが穏やかに問いかける。
「……もしかして、『日渡秋水』と君は血縁か?」
「ああ。祖父だよ」
章吾はそう言って、椅子に腰を落とした。
「『日渡』って名前、出した瞬間から空気変わるんだよ。親切なやつもいたけど、勝手に期待してくるやつもいた。……それがしんどくて、ずっと黙ってた」
その言葉を、アルジャーノンは一言も遮らなかった。
彼は静かに、章吾の正面に立ったままだった。
「こっちでも言うつもりなかった。でも、おまえが読んだから、もう意味ねぇな」
「……名とは、ただの記号だ。だが時に、人間そのものより重くなる」
「わかってんじゃん」
章吾は、ふっと苦く笑った。その笑いには、自嘲と、どこか安心の影があった。
自分の背負うものを、言葉にせずとも理解する相手が、いま目の前にいる。その事実だけで、胸の奥がじんと熱を帯びていく。
そのとき。
「Yoー!Shogo!アルジーー!」
元気すぎる声が、図書室の静寂を破った。チャドだった。大きな荷物を肩に抱えたまま、にこにこ笑いながら近づいてくる。
「お前ら、また一緒かよー! もしかして、運命の赤い糸ってやつ?」
ふざけたチャドの声に、章吾の顔が一瞬で熱を帯びた。
「……ちげーし!」
即答したものの、声は裏返り、説得力などどこにもなかった。
チャドは、珍しく押し黙った。
隣のアルジャーノンは、いつも通り静かに本を閉じていたが──耳が、わずかに赤い。
(……バカか、チャド)
内心で悪態をつきながらも、胸の奥が落ち着かなかった。
(赤い糸、だなんて)
笑い飛ばせばよかった。くだらねえ、って鼻で笑ってやればよかった。なのに、頭のどこかで想像してしまう。指と指が、目に見えない糸で繋がってるなんて。そんな、馬鹿げた話。
でも、もしそれが本当にあるとしたら──
自分でも気づきたくなかった気持ちが、輪郭を持ち始めていた。
章吾は、ページをめくる手を止めた。
遠くに座っているアルジャーノン──姿勢よく、穏やかな指先でページをめくるその横顔。
(……あいつの、隣にいたい)
自分でも、あっけないほど自然に思った。
でも、すぐに胸の奥がひりついた。その人は、ただのクラスメイトじゃない。レイヴンズデイル家の嫡男。気高く、正確に言葉を選び、伝統の重みとともに息をしている。
(……わかってる。俺とは、生きてる世界が違う)
たとえば、肩がふいに触れたとして。笑いあったとして。その隣に立つには、覚悟がいると思った。
この気持ちは、手放しに笑って言えるものじゃない。「隣にいたい」なんて、軽く告げた瞬間に──この関係のすべてが壊れてしまいそうで。
視線を伏せ、唇を噛んだ。手のひらが、うっすらと汗ばんでいた。
アルジャーノンは、何も気づかずに本を閉じた。
願わくば、まだ名前をつけないままで。傷つけないままで。
この時間を、少しでも長く守っていたかった。