──また「伝統」かよ。
白いシャツの襟が、妙に首に重たかった。ここに来てから何度目かわからない、疎外感。
「今年のFounders' Day Ceremony(創立祭)に向けて、今日からカレッジソングの練習を始める!」
担任の声が響いた瞬間、教室にため息が渦巻いた。
そんな教室の最前列でひときわ背筋を伸ばして座っている存在があった。
アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。白いシャツに、ぴったりと整えられたブレザー。
蒼い瞳で前を見据える姿は、このエラグレイヴ・カレッジの伝統そのもののようだった。
(……こいつは、完璧に馴染んでやがる)
胸の奥にひりつく感情が走った。
午後、ホールに集められた生徒たち。
パイプオルガンの伴奏が鳴る中、章吾は必死で口を開いた。ふと隣を見ると、アルジャーノンがまっすぐに歌っていた。
完璧な発音。正確な音程。その姿は、この伝統に完全に溶け込んでいた。
(……俺は)
どれだけ声を出しても、自分だけが場違いだった。しかし──
「Hoooow graaand the laaand of oooour foooorefaaaathers〜〜!」
突如、斜め後ろから飛び出した破壊的な歌声に、章吾は思わず吹き出しそうになった。
チャド。背は高く、髪は金色でくるくると跳ねている。
いつも陽気で騒がしい彼は、今日もまた絶妙なタイミングで空気をぶち壊してくれた。
「おい、チャド、黙れ!音痴すぎんだろ!」
前の席から誰かが笑いながらツッコミを入れる。
チャドはまるで気にした様子もなく、得意げに親指を立ててみせた。
「Don't worry, guys!これは心のハーモニーだ!」
言いながら、今度は調子っぱずれなビートボックスまで始める始末。指揮の教師がこめかみを押さえている。
(……バカだな、ほんと)
そのバカさが、どこか救いだった。
チャドはたぶん、ここに馴染めてなんかいない。
でも、それを気にするでもなく、自分をそのままぶつけてくる。まるで「ここが自分の場所じゃない」なんて、一度も思ったことがないように。
「SHOGO!」
また名前を呼ばれて、章吾が振り返ると、チャドが満面の笑みで親指を立てていた。
「お前、けっこうイケてたぜ。日本の侍パワー、見た!」
「……あほか」
ぼそりと返しながらも、口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。
礼拝堂の控室。
和やかな雰囲気が一変して、静寂が辺りを包み込む。
章吾の緊張はピークに達していた。アルジャーノンや他の貴族のような、歌の素養もない。音痴でも開き直る、チャドのような度胸もない。
握った拳からは、汗が滴り落ちていた。
「Hiwatari」
静かな声が、すぐ傍で響いた。驚いて振り向くと、そこにいたのはアルジャーノンだった。
「……歌詞、忘れたか?」
淡々としたその声が、なぜだか無性にあたたかかった。
「いや」
章吾は首を振った。本当は、歌詞の問題じゃなかったからだ。
「なら、問題ない」
そう言って、アルジャーノンは章吾の肩を軽く叩いた。ごく自然に、ごくさりげなく。その手のひらが、熱かった。
(ああ、やっぱり)
この男は、俺のこと、見てくれてるんだ。誰にもわからない痛みも、どうしようもない孤独も。きっと──どこかで、わかろうとしてくれてる。
章吾はまっすぐ顔を上げ、隣にいるアルジャーノンを、そっと見た。その姿は、誰よりもまぶしくて、誰よりも近く感じた。
礼拝堂の扉が、重たく静かに閉まる音がした。
壇上。生徒たちが所定の位置に並んでいく。章吾は、アルジャーノンの隣に立った。
横顔が、すぐそこにあった。
(……遠いな)
と思った。
ふとアルジャーノンがこちらを見た。言葉はない。ただ、頷いた。
(わかってる)
章吾は胸の奥でそっと答えた。
パイプオルガンの前奏が流れ、空気が震えた。歌声が、ひとつ、ふたつ、重なり始める。章吾も声を出した。
最初は震えた。でも、隣でアルジャーノンが歌っている。彼のまっすぐな歌声に導かれるようにして、自分の声も、まっすぐに伸びていった。
それだけで、怖くなかった。ふたりの声が、礼拝堂に溶けていく。誰の目も気にならなかった。
隣にいる、このひとりだけを見つめていた。
Founders' Day。伝統を歌い上げるこの瞬間。
俺はこの世界で、お前と並んでいたいんだ。
心の奥底から、そう思った。