Founders' Day Ceremonyが終わった礼拝堂。さっきまでの厳かな空気がうそのように、行き交う人々でざわめいていた。
生徒たちは互いにスーツの袖を引き、ネクタイを直しながら、来賓たちの間を縫って歩いている。章吾は、その光景を少し離れた場所から眺めていた。
そこに、近づく足音。
「あの!」
背後から聞き覚えのある声がして、振り返ると──栗色の髪を編み込んだ、小柄な少女が立っていた。
どこかで見た顔だ、と思うよりも早く、彼女がぺこりと頭を下げた。
「ガーデンパーティーのとき、お見かけしました。
わたし、ここの在校生の妹で……チャドって知っていますか?」
「そうだったのか。チャド、いい奴だよな」
彼女の顔がぱっと明るくなった。
「あのときは、あまりちゃんとお話できなかったので……今日また会えて嬉しいです」
「そりゃ、どーも」
「私、日本のアニメが大好きで!ずっと日本の方と話してみたかったんです」
笑顔でそう言われて、章吾は戸惑いながらも、軽く会釈を返す。
「……そっか。アニメ、何観てるの?」
「いろいろ観てますけど……最近は『蒼月の双剣』です!あと、昔の『光のグレイス』も!」
「……まさかの名作チョイスだな」
少女は嬉しそうに笑ったあと、ふっと視線を逸らすように言った。
「……でも、正直それより気になってるのは、あなたとアルジャーノンさんのことなんです」
心臓が、どくんと跳ねた。
「すごく……仲がいいんですね。見てると、恋人同士みたいに見えるから。私まで、見てると嬉しくなっちゃいます」
思わず息を呑む。ごまかそうとする前に、少女は慌てて首を振った。
「ごめんなさい、変なこと言いました!でも、きっと、他にもそう思ってる人、いると思います」
──他人から、そう見えるんだ。あいつがどう思ってるかじゃない。もう、周りには「そう見える」距離感なんだ。
「……迷惑、かけてないかな」
ぽつりとこぼした言葉に、少女は静かに微笑んだ。
「そんなふうには、見えませんでしたよ。アルジャーノンさん、とてもやさしそうでした」
しばし沈黙していると、
「あっ!チャドだ!──いつかまた、お話しましょうねっ!」と少女は一礼してから駆けていった。
*
少女と別れた後、章吾は、礼拝堂を抜け、人気のない談話室へと逃げ込んだ。
昼間でも薄暗いその部屋には、大きな暖炉がある。春とはいえまだ肌寒い寄宿舎の空気の中で、炭火が赤く光っていた。
外は春の陽気が満ちていても、この場所だけは冬の名残を留めたまま、ひっそりと静かだった。
章吾はソファに沈み込み、少女の言葉を反芻していた。
(恋人、みたい……か)
他人にそう見られるほど、俺たちは近かったのか。目をつぶると、あのやさしい声が蘇る。
『アルジャーノンさん、とてもやさしそうでした』
苦い思いが胸の奥でにじんで、思わず顔を伏せる。
──カツン。廊下に、小さな靴音が響いた。
章吾は無意識に顔を上げる。談話室のドアが、静かに、ためらうように開いた。
そこに立っていたのは──アルジャーノンだった。
一瞬、ふたりの視線が重なる。章吾の喉が、ごくりと鳴った。
アルジャーノンも、わずかに足を止めたが、何も言わず、ゆっくりと歩を進める。
そして、章吾の隣のソファへ。距離は、ほんの数十センチ。触れそうで、触れない、静かな緊張。
その存在感が、胸の奥をかすかにざわつかせた。
沈黙が落ちる。暖炉の赤い火だけが、ぱち、と音を立てた。
章吾はちらりと横目で隣を盗み見る。アルジャーノンは手を組み、燃え残る炭火を見つめていた。
ちらちらと揺れる炎が、彼の横顔を柔らかく照らす。蒼い瞳に、赤い光がゆらりと映っている。
(……なんで、俺の隣に座るんだよ)
聞きたかった。でも、聞けなかった。この時間が、壊れてしまいそうで。
章吾はそっと目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
「……俺、歌……下手だったろ」
それは、自分でも驚くほど素直な声だった。沈黙が一瞬、深くなる。
やがて──
「……君の声は、よく響いていた」
低く、芯のある声が返ってきた。
「……きれいだった」
思わず、章吾はアルジャーノンを見つめた。彼はまっすぐに章吾の目を見ていた。一切のためらいも、飾りもない視線で。
「私には、そう聴こえた」
声もまなざしも、あまりに真っ直ぐで、逃げ場がなかった。
章吾は反射的に視線をそらす。こめかみにじんわりと熱が広がる。
「……やめろよ、からかうな」
言いながら、唇をかすかに噛む。自分でも、声が少し震えていたのがわかる。そのとき、すぐに返ってきた。
「からかっていない」
思わず振り返ると、アルジャーノンが、すぐそこにいた。距離が、さっきより近い。
「私は、君の声が好きだ」
ぽつりと落とされたその言葉に、章吾の胸は高鳴った。心臓の音が、やけにうるさい。
「……バカじゃねーの」
呟いたその声に、どこかすがるような照れが滲む。思わず目を伏せた。
アルジャーノンは何も言わなかった。ただ隣で、じっと章吾を見つめていた。
そのときだった。
──「君たち」
静かに開いた扉の隙間から、老教授が顔をのぞかせた。
「……よく『ふたり』でいるのかね? ずいぶんと仲がよいようだ」
一瞬にして、談話室の空気が凍りついた。
ぽつりと落ちたその言葉は、軽口にも冗談にも聞こえなかった。どこか探るようで、含みがあって──皮肉よりも残酷だった。
教授は、何も気づかぬふりでにこやかに微笑み、そのまま扉を閉めた。
章吾は固まったまま、呼吸の仕方さえ忘れていた。鼓動が、耳の奥で嫌な音を立てている。
隣で、ソファがきしむ。アルジャーノンが、ゆっくりと立ち上がった。
「……悪かった」
その一言は、驚くほど小さくて。でも確かに震えていた。
章吾は思わず顔を向けた。
──逃げるような背中。
「待って──」
声が、出ない。喉の奥が焼けついたみたいで、言葉にならなかった。
(なんで……謝るんだよ)
謝られる理由なんて、なかった。でも──それは、明らかに「線を引く」ための言葉だった。
何かを拒まれた気がして、胸がぎゅっと締めつけられた。
章吾は、なにもできずに、その背中を見送った。扉が閉まる音が、妙に遠くで聞こえた。
*
夜。
ベッドに背を沈めながら、章吾は天井の暗がりを見つめていた。手足は冷えきっているのに、胸の奥だけがずっと熱い。
(……あのとき、呼び止めればよかった)
あんなの、「教授も冗談を言うんだな」って笑えばよかった。何も変わらないって、言えばよかったのに。
でも、できなかった。手を伸ばす勇気が、出なかった。
(あいつ……俺と一緒にいると、恥ずかしいと思ったのか?)
考えるたびに、心臓がぎゅうっと痛む。呼吸の仕方さえ、わからなくなりそうだった。
ただひとつ、はっきりしているのは──あのとき、あの背中が、世界でいちばん、遠かったということ。
どれだけ声を上げても、届かないところへ行ってしまう気がした。
目を閉じると、胸の奥で、ぐしゃりと音がした。
それが、泣きたいという感情なのか、好きという気持ちの破片なのか──自分でも、もうわからなかった。