扉が、ノックされた。
「Hiwatariくん。修理が完了したそうだ」
寮監督の落ち着いた声に、章吾は思わず振り向いた。扉の外に立つ男の背後には、別の職員がふたり、控えるように立っていた。
「えっ……?」
「君の部屋だよ。今朝には家具も整っていたらしい」
まるで予約していた部屋に案内されるような調子だった。
章吾は一瞬、言葉を失った。そんな急な話、昨日の時点では何も聞いていなかったはずだ。
目をやると、アルジャーノンが窓際でティーカップを手にしていた。その目は外の景色の一点を見つめたまま動かない。
「……急だな」
ようやく絞り出した章吾の言葉に、アルジャーノンはゆっくりとこちらを見た。
「そうだな」
それ以上、彼は何も言わなかった。
監督生が一歩下がり、「案内します」と促す。
章吾は立ち上がり、最後にもう一度部屋を見渡した。数日前には見知らぬ場所だった空間が、なぜか今は、背中にひっかかるように名残を残す。
何もなかったように整った部屋。何も言わないままの相手。それでも、章吾は直感していた。
──これは、誰かの「意思」だ。
そしてその誰かが、ただの寮職員ではないことも、薄々わかっていた。
*
食堂を出たあと、ふたりは並んで廊下を歩いた。靴音だけが、石造りの床に小さく響く。落ち着かない気持ちで、章吾はただ前を向く。
(……なんだよ、この空気)
何か言わなきゃ、と思った。沈黙が、耐えられなかった。
「……そろそろ、荷物まとめないとな」
軽い調子のつもりだった。でも、声は思った以上に乾いていた。
アルジャーノンが、ぴたりと足を止める。章吾も立ち止まった。振り返ると、アルジャーノンは何かを言いかけて、やめた。
無言で、並んで歩き出した。それぞれ、胸の中に答えのないざわざわを抱えながら。春の光だけが、廊下の先を白く照らしていた。
*
章吾はスーツケースの前で、手を止めた。荷物は少ない。すぐに終わる。しかし、ひとつずつ物を詰めるたび、胸の奥がざわついた。
(……ここで終わりにするのが、いちばん平和なんだろ)
ふたりでいることで、何かを壊してしまうくらいなら。
これ以上、あいつが周囲から変な目で見られるくらいなら。自分が引くのが、きっと正解なのだ。
(これが、あいつのため……かもしれない)
理由づけのように、そう思った。そう思うことでしか、自分の胸の苦しさに抗えなかった。
──そのときだった。
「……夜まで、ここにいてくれないか」
後ろから、低く落ちる声。章吾は、驚いて振り返った。
「……は?」
アルジャーノンは視線を落としたまま、もう一度、言った。
「……夜まで。今日で最後だなんて、……思いたくなかった」
その声は、震えてはいなかった。それでも、どこか切実だった。
章吾は、言葉を失った。
(なんで、そんな顔で言うんだよ)
(俺は、おまえのために離れようとしてたのに……)
理屈も距離も、胸の奥のざわつきも、全部が意味を失っていく。
(ずるいよ、おまえ……そんな顔すんなよ)
断れるはずがなかった。
「……わかった」
小さくうなずいたとき、アルジャーノンの肩が、すこしだけ落ちた。
ほんのわずかでも、安心したような気配が漂っていた。
なにか、大切なものがひっそりと結び直された気がした。