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第18話 夜まで、ここにいてくれないか

 扉が、ノックされた。


「Hiwatariくん。修理が完了したそうだ」


 寮監督の落ち着いた声に、章吾は思わず振り向いた。扉の外に立つ男の背後には、別の職員がふたり、控えるように立っていた。


「えっ……?」

「君の部屋だよ。今朝には家具も整っていたらしい」


 まるで予約していた部屋に案内されるような調子だった。


 章吾は一瞬、言葉を失った。そんな急な話、昨日の時点では何も聞いていなかったはずだ。


 目をやると、アルジャーノンが窓際でティーカップを手にしていた。その目は外の景色の一点を見つめたまま動かない。


「……急だな」


 ようやく絞り出した章吾の言葉に、アルジャーノンはゆっくりとこちらを見た。


「そうだな」


 それ以上、彼は何も言わなかった。


 監督生が一歩下がり、「案内します」と促す。


 章吾は立ち上がり、最後にもう一度部屋を見渡した。数日前には見知らぬ場所だった空間が、なぜか今は、背中にひっかかるように名残を残す。


 何もなかったように整った部屋。何も言わないままの相手。それでも、章吾は直感していた。


 ──これは、誰かの「意思」だ。


 そしてその誰かが、ただの寮職員ではないことも、薄々わかっていた。



 食堂を出たあと、ふたりは並んで廊下を歩いた。靴音だけが、石造りの床に小さく響く。落ち着かない気持ちで、章吾はただ前を向く。


(……なんだよ、この空気)


 何か言わなきゃ、と思った。沈黙が、耐えられなかった。


「……そろそろ、荷物まとめないとな」


 軽い調子のつもりだった。でも、声は思った以上に乾いていた。


 アルジャーノンが、ぴたりと足を止める。章吾も立ち止まった。振り返ると、アルジャーノンは何かを言いかけて、やめた。


 無言で、並んで歩き出した。それぞれ、胸の中に答えのないざわざわを抱えながら。春の光だけが、廊下の先を白く照らしていた。




 章吾はスーツケースの前で、手を止めた。荷物は少ない。すぐに終わる。しかし、ひとつずつ物を詰めるたび、胸の奥がざわついた。


(……ここで終わりにするのが、いちばん平和なんだろ)


 ふたりでいることで、何かを壊してしまうくらいなら。


 これ以上、あいつが周囲から変な目で見られるくらいなら。自分が引くのが、きっと正解なのだ。


(これが、あいつのため……かもしれない)


 理由づけのように、そう思った。そう思うことでしか、自分の胸の苦しさに抗えなかった。


 ──そのときだった。


「……夜まで、ここにいてくれないか」


 後ろから、低く落ちる声。章吾は、驚いて振り返った。


「……は?」


 アルジャーノンは視線を落としたまま、もう一度、言った。


「……夜まで。今日で最後だなんて、……思いたくなかった」


 その声は、震えてはいなかった。それでも、どこか切実だった。


 章吾は、言葉を失った。


(なんで、そんな顔で言うんだよ)


(俺は、おまえのために離れようとしてたのに……)


 理屈も距離も、胸の奥のざわつきも、全部が意味を失っていく。


(ずるいよ、おまえ……そんな顔すんなよ)


 断れるはずがなかった。


「……わかった」


 小さくうなずいたとき、アルジャーノンの肩が、すこしだけ落ちた。


 ほんのわずかでも、安心したような気配が漂っていた。


 なにか、大切なものがひっそりと結び直された気がした。

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