荷物を整理し終わった章吾は、無意識に深く息を吐いた。
窓辺では、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルが静かに本を読んでいた。
章吾は手元に置いていたペンを弄びながら、ちらりとアルジャーノンを見た。
何も変わらない横顔。でも──その指先が、いつもと違って、震えているように見えた。
(……俺だけじゃない)
(こいつも、気づいてる)
(これは、最後の夜なんだって)
ただ、ふたりは黙って、同じ夜を過ごしていた。
暗い天井をぼんやりと見つめていた。気がつけば、章吾は目を覚ましていた。部屋は静まり返っている。
暖炉の火も、すっかり小さくなっていた。寝返りを打とうとしたとき──ふと、気づいた。
窓辺に、まだ灯りがある。いや、違う。そこに、アルジャーノンがいた。
本は閉じられ、じっと夜の外を見つめていた。
章吾はためらいながら声をかけた。
「……眠れないのか」
アルジャーノンは、少しだけ驚いたように顔を上げ、小さく首を振った。
「君こそ」
低い、ささやくような声だった。
章吾は、苦笑して肩をすくめた。
「……なんか、落ち着かなくて」
それ以上、言葉が続かなかった。アルジャーノンは、それで十分だと言うように、そっと頷いた。
夜の闇がふたりを包んでいた。
不思議だった。何もないこの時間が、たまらなく愛おしかった。
章吾は、何かを言いたくて。でも、言葉にならなくて。アルジャーノンの横顔を見つめていた。
(……そばにいるのに)
(こんなに近くにいるのに)
(どうして、こんなに)
(触れられないんだろう)
夜が、深まっていった。
迷った。ほんの数秒。でも、章吾にとっては、永遠みたいに長い時間だった。
そして、意を決してベッドを降りた。
冷たい床に素足をつけ、窓辺に歩み寄る。アルジャーノンは、驚いた様子も見せず、窓の外を見つめたままだった。
章吾は、その隣に腰を下ろした。
ふたり。肩が触れるか触れないかの距離。同じ窓。同じ夜。同じ景色を見つめていた。しばらく、また沈黙が続いた。
それは、もう苦しいものじゃなかった。静かで、やさしかった。
ぽつり、と。章吾が呟いた。
「……意外と、静かだな」
アルジャーノンも、かすかに笑った。
「……この時間は、いつもこんなものだ」
低く、穏やかな声だった。その声を聞くだけで、胸がいっぱいになった。
章吾は、窓の外に目を向けた。満天の星空。遠く、森の向こうに、街の灯りがちらちらと瞬いている。
「……ずっとこうだったらいいのに、なんてな」
気づいたら、口から漏れていた。隣のアルジャーノンが、こちらを見た気配がした。
ふたりはただ、夜空を見つめ続けた。
夜空には、満天の星が瞬いていた。章吾はそれを見上げながら、ぽつりと呟いた。
「……卒業したら、どうする?」
問いかけたのは、軽い調子だった。
でも心のどこかでは、答えが怖かった。
アルジャーノンは、少しだけ考えるように視線を上げて、それから低い声で答えた。
「……家を継ぐことになるだろう」
当たり前のこと。この国、この世界では、彼に課せられた当然の運命。
章吾の胸は、きゅっと縮んだ。
(……やっぱり、こいつは)
(俺とは、違う世界の人間だ)
言葉にしなくても、わかっていたことだった。わかっていたのに──痛かった。
「そっか」
かろうじて、それだけ答えた。
アルジャーノンも、問い返してきた。
「君は?」
「……俺、日本に帰ったら、外交官になると思う。親父みたいに」
アルジャーノンが、わずかに目を伏せた。
「そうか」
その一言のなかに、いくつもの言葉が詰まっているように感じた。
「──ま、まだ分かんねぇけどな」
章吾は、照れ隠しのように笑った。その声は少しだけ、かすれていた。
本当はもっと話したかった。もっと伝えたかった。
でも、伝えてしまえば、いよいよ「終わり」になりそうで。
どちらも、ほんとうの気持ちは、胸の奥にぎゅっと押し込めたままだった。
空が、ほんのり白み始めていた。章吾とアルジャーノンは、まだ窓辺に並んでいた。寒くも暑くもない、不思議な温度の夜だった。
ふたりとも、もう何も話していなかった。でも、それが寂しくはなかった。
章吾は、ちらりと隣を見る。アルジャーノンも、ふと章吾を見た。
目が合う。一瞬、お互いに、どちらからともなく、ふっと微笑んだ。
(……また、会える)
章吾は、そんなふうに思った。根拠なんてなかった。でも、信じられた。
カーテンの隙間から、朝陽の一筋が差し込んできた。そろそろ、時間だった。
章吾は立ち上がり、スーツケースの取っ手に手をかける。重さが指先に伝わる。
アルジャーノンも、静かに立ち上がった。そして、ごく自然に、言った。
「……またな」
それは、ふたりが最初に交わした、ありふれた別れの挨拶だった。
章吾も、にやりと笑って返す。
「……またな」
ふたりは、それぞれの道へ歩き出した。
春の朝陽が、石畳を照らしていく。たった一晩の、やさしい世界はこうして終わった。
地面に延びるふたりの影は、ゆっくりと交差していた。