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第19話 またな

 荷物を整理し終わった章吾は、無意識に深く息を吐いた。


 窓辺では、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルが静かに本を読んでいた。


 章吾は手元に置いていたペンを弄びながら、ちらりとアルジャーノンを見た。


 何も変わらない横顔。でも──その指先が、いつもと違って、震えているように見えた。


(……俺だけじゃない)

(こいつも、気づいてる)

(これは、最後の夜なんだって)


 ただ、ふたりは黙って、同じ夜を過ごしていた。


 暗い天井をぼんやりと見つめていた。気がつけば、章吾は目を覚ましていた。部屋は静まり返っている。


 暖炉の火も、すっかり小さくなっていた。寝返りを打とうとしたとき──ふと、気づいた。


 窓辺に、まだ灯りがある。いや、違う。そこに、アルジャーノンがいた。


 本は閉じられ、じっと夜の外を見つめていた。


 章吾はためらいながら声をかけた。


「……眠れないのか」


 アルジャーノンは、少しだけ驚いたように顔を上げ、小さく首を振った。

「君こそ」

 低い、ささやくような声だった。


 章吾は、苦笑して肩をすくめた。


「……なんか、落ち着かなくて」

 それ以上、言葉が続かなかった。アルジャーノンは、それで十分だと言うように、そっと頷いた。


 夜の闇がふたりを包んでいた。


 不思議だった。何もないこの時間が、たまらなく愛おしかった。


 章吾は、何かを言いたくて。でも、言葉にならなくて。アルジャーノンの横顔を見つめていた。


(……そばにいるのに)

(こんなに近くにいるのに)

(どうして、こんなに)

(触れられないんだろう)


 夜が、深まっていった。


 迷った。ほんの数秒。でも、章吾にとっては、永遠みたいに長い時間だった。


 そして、意を決してベッドを降りた。


 冷たい床に素足をつけ、窓辺に歩み寄る。アルジャーノンは、驚いた様子も見せず、窓の外を見つめたままだった。


 章吾は、その隣に腰を下ろした。

 ふたり。肩が触れるか触れないかの距離。同じ窓。同じ夜。同じ景色を見つめていた。しばらく、また沈黙が続いた。


 それは、もう苦しいものじゃなかった。静かで、やさしかった。


 ぽつり、と。章吾が呟いた。

「……意外と、静かだな」


 アルジャーノンも、かすかに笑った。

「……この時間は、いつもこんなものだ」

 低く、穏やかな声だった。その声を聞くだけで、胸がいっぱいになった。


 章吾は、窓の外に目を向けた。満天の星空。遠く、森の向こうに、街の灯りがちらちらと瞬いている。


「……ずっとこうだったらいいのに、なんてな」


 気づいたら、口から漏れていた。隣のアルジャーノンが、こちらを見た気配がした。


 ふたりはただ、夜空を見つめ続けた。


 夜空には、満天の星が瞬いていた。章吾はそれを見上げながら、ぽつりと呟いた。


「……卒業したら、どうする?」

 問いかけたのは、軽い調子だった。


 でも心のどこかでは、答えが怖かった。


 アルジャーノンは、少しだけ考えるように視線を上げて、それから低い声で答えた。

「……家を継ぐことになるだろう」


 当たり前のこと。この国、この世界では、彼に課せられた当然の運命。


 章吾の胸は、きゅっと縮んだ。


(……やっぱり、こいつは)

(俺とは、違う世界の人間だ)


 言葉にしなくても、わかっていたことだった。わかっていたのに──痛かった。


「そっか」

 かろうじて、それだけ答えた。


 アルジャーノンも、問い返してきた。

「君は?」

「……俺、日本に帰ったら、外交官になると思う。親父みたいに」


 アルジャーノンが、わずかに目を伏せた。


「そうか」


 その一言のなかに、いくつもの言葉が詰まっているように感じた。


「──ま、まだ分かんねぇけどな」


 章吾は、照れ隠しのように笑った。その声は少しだけ、かすれていた。


 本当はもっと話したかった。もっと伝えたかった。


 でも、伝えてしまえば、いよいよ「終わり」になりそうで。


 どちらも、ほんとうの気持ちは、胸の奥にぎゅっと押し込めたままだった。


 空が、ほんのり白み始めていた。章吾とアルジャーノンは、まだ窓辺に並んでいた。寒くも暑くもない、不思議な温度の夜だった。


 ふたりとも、もう何も話していなかった。でも、それが寂しくはなかった。


 章吾は、ちらりと隣を見る。アルジャーノンも、ふと章吾を見た。


 目が合う。一瞬、お互いに、どちらからともなく、ふっと微笑んだ。


(……また、会える)

 章吾は、そんなふうに思った。根拠なんてなかった。でも、信じられた。


 カーテンの隙間から、朝陽の一筋が差し込んできた。そろそろ、時間だった。


 章吾は立ち上がり、スーツケースの取っ手に手をかける。重さが指先に伝わる。


 アルジャーノンも、静かに立ち上がった。そして、ごく自然に、言った。


「……またな」


 それは、ふたりが最初に交わした、ありふれた別れの挨拶だった。


 章吾も、にやりと笑って返す。


「……またな」


 ふたりは、それぞれの道へ歩き出した。


 春の朝陽が、石畳を照らしていく。たった一晩の、やさしい世界はこうして終わった。


 地面に延びるふたりの影は、ゆっくりと交差していた。

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