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第20話 彼はそのような存在ではありません

 アルジャーノンが父の部屋に呼ばれたのは、授業が終わった直後のことだった。


 寄宿舎から少し離れた、古い煉瓦造りの建物──学院内でも限られた者しか出入りを許されない貴族専用の応接室。


 その重厚な扉の前に立つと、アルジャーノンは一度だけ深く息を吐き、何の躊躇もなく扉を押した。


 中には、すでに父がいた。変わらぬ姿勢で椅子に座り、ティーカップを手にしている。その仕草一つひとつが、完璧に訓練された振る舞いで、まるで彫像のようだった。


「……来たか」


 それだけの声に、アルジャーノンは黙って一礼した。


 対面に腰を下ろすと、すぐに銀のトレイが運ばれた。用意された紅茶は、父の好む銘柄──濃く、苦味のあるもの。彼の席にも同じものが注がれる。


「どうだ、ひとりの部屋の使い心地は」


 静かな問いだが、そこに込められた意図は明白だった。


 アルジャーノンは表情を変えず、紅茶に口をつける。


「とても快適です」


「そうか。それなら何よりだ」


 薄く笑った父の目には、決して情が差さない。


 しばらくの沈黙が落ちた。カップを置く音だけが、空間に小さく響く。


「……あの少年、Hiwatariというのだったか」


 突然、名指しされたその名前に、アルジャーノンの手が止まった。


「彼と共に過ごしていたようだな。まあ、事情は聞いている。雷で部屋が使えなかったとか」

「一時的な措置です」

「その一時が、想像以上に長く続いたように見えたが」


 淡々とした口調のなかに、揺るがぬ圧があった。


 アルジャーノンは黙っていた。反論はしない。だが、肯定もしない。


 カップの中の紅茶は、冷め始めていた。


「君は、忘れてはならない。何者であるかを」


 父の声は、冷たい水面に石を落としたように静かで、それでいて深く響いた。


「フォーセット家の嫡子としての自覚を持ちなさい。誰と時を過ごすか、それは君自身の趣味の問題ではない。『血筋』は、交わる相手によって試されるのだ」


 その言葉は、アルジャーノンの胸に刺さった。


「……彼は、私に影響を与えるほどの存在ではありません」

「ならば、なぜ沈黙した」


 父の目が、わずかに細められた。

 鋭利な問いだった。感情の綻びを見逃さぬ目。


 彼の父、ロデリック・フォーセット卿は、言葉の裏に潜む空白に敏感な男だった。


「……」


 アルジャーノンは答えなかった。答えられなかった、のかもしれない。


 たしかに章吾は、ただのルームメイトだった。

だが、自分の中で何かが変わりはじめていたのは、否定できなかった。


 紅茶の香りに紛れて、小さな声が聞こえるようだった。

 ──「目ぇ合ってんだよ、貴族」


 そんなことを言われた日のことが、ふと脳裏に蘇る。


「感情は、力を曇らせる」


 父の声が、静かにかぶさった。


「君は、孤高でなくてはならない。誰にも染まることなく、家名の誇りと共に生きる。それが、君の役目だ」


 それは命令ではなく、当然のこととして語られた。


「……わかりました」


 アルジャーノンは、小さく返事をした。答えはそれしかなかった。少なくとも、今この場では。


 父は満足そうに頷くと、再びティーカップに口をつけた。その姿は、揺るがぬ格式そのものだった。


 そして、冷え切った自分のカップを見つめながら、アルジャーノンは静かに思った。


 ──この紅茶は、もう、何の味もしない。



 アルジャーノンが父の部屋をあとにし、応接室を出てすぐのことだった。


 中庭を横切ろうとしたとき、見慣れた姿が目に入る。 石畳の縁に腰かけ、本を開いていたのは──レジナルドだった。


「……何をしている」


 声をかけると、レジナルドは軽く顔を上げた。 その表情に驚きも気負いもない。


「アルジー、君を待っていた」


 まるで当然のように言って、ページを閉じる。


「父上に呼ばれたのだろう?」


 アルジャーノンは答えずに隣に腰を下ろした。コートの裾がかすかに触れる。


「おまえは、私の監視役か?」

 「違うよ。──君は、言葉を交わさなくても、見ていれば分かる」


 ふ、とアルジャーノンの肩から力が抜ける。 章吾といるときとは違う、どこか緊張のとけた吐息。


「……ああ、昔はこれが普通だったな」


 ふっと遠くを見たその横顔に、どこか懐かしさが滲んでいた。


 レジナルドは黙ったまま、カバンから小さな缶を取り出す。 中には紅茶のティーバッグがひとつ。


「飲む? 僕の持ち込みだ」 

「……こんなところで。品がない」 

「君が好きな、甘い香りのやつだよ」


 受け取った缶の蓋を開ける。 どこか、章吾が淹れていたものと似た匂いがした。


 アルジャーノンは、ほんの一瞬だけ目を伏せる。


「……レジー、君は私にやけに執着するが」


 言いかけて、口をつぐむ。

 レジナルドはティーバッグをゆらしながら、穏やかに言った。


「君の笑顔が、好きだからだよ。できれば、ずっと笑っていてほしい」


 その言葉は、まるで陽だまりのようだった。


「……私は、笑ってなどいない」

「そうだね。でも、笑える君を、僕は知っている」


 静かな声だった。押しつけでもなければ、期待でもない。ずっと見てきたからこそ出た、確信のような優しさ。


 アルジャーノンは、無言のまま湯気の立つカップを見つめた。


(……ああ、こいつは、昔からこうだった)


 必要なことだけを見抜き、余計なことは言わずに隣にいる。


「レジー。君が、心を明かせる友人であることに変わりはない」


 ようやく言葉にして返すと、レジナルドは目を細めた。嬉しさを表すにはあまりにささやかだったが、それで十分だった。


 その沈黙の優しさが、今のアルジャーノンには、ひどく心に沁みた。


 ──章吾といるときは、言葉を選ぶのにあれほど気を遣うのに。


(……これが、本来の私だ)


 無理をしない会話。構えなくていい間。緊張も張り合いもない穏やかさ。


 ──しかし、なぜだろう。あの騒がしさが、少しだけ恋しかった。


 ティーバッグから漂う甘い香りの向こう、名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。


 振り返っても、誰の姿もなかった。

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