目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第21話 さっき中庭にいただろう

 ひとりきりの部屋には、沈黙しかなかった。


 章吾はベッドに仰向けに寝転がり、無造作に蹴った毛布が床に落ちるのも気にせず、天井を見つめていた。

 この部屋は、完璧に修繕された。天井のひび割れも、雨染みも、すべて跡形もない。新品のように磨かれた空間。


 なのに、何ひとつ心は整っていない。


 夜になると眠れない。朝が来ても、起きたくない。

 誰かと笑っていても、その空白は消えない。


(……もういいって、思ってたはずなのに)


 耳を塞ぐように横を向くと、視界の端に、あのティーカップが見えた。


 いつだったか、アルジャーノンが自分の手元に無言で置いたもの。中身の紅茶はもう乾いて、縁には薄く茶渋が残っている。


 思わず手を伸ばしそうになって、止めた。


 もう、意味はない。ただの器に、想い出をなすりつけてるだけだ。


 章吾は立ち上がった。何も考えたくなくて、とにかく外に出たくて、廊下を無目的に歩いた。


 風が吹き抜ける中庭に出ると、正門のほうから誰かの声が聞こえた。


 その中に、聞き覚えのある名があった。


「──ロデリック卿は、寄付の名目で工事に圧力をかけたのさ。あの修繕も、早まったのは彼の……」


 章吾はそのまま立ち止まった。


 木陰のベンチ。そこにいたのは、レジナルドとアルジャーノンだった。



「ロデリック卿は、この学院にとって特別な存在だ。誰も逆らえないし、誰も本音では抗えない。君も、それを一番わかっているだろう?」


 レジナルドの声はいつものように落ち着いていたが、どこか慎重だった。言葉を選ぶような間。


「……修繕は、ただの偶然だと思っていた」


 アルジャーノンの声は、低く、やや掠れていた。その声音に、章吾の心臓はどくんと打った。


「偶然じゃない。父上は寄付というかたちで明確に動いていたよ。君がHiwatari君と同室であることを不本意としていたらしい」


 章吾は呼吸を忘れた。


(……俺の部屋が直ったのは、アイツの父親の金と意向で?)


 そう思った瞬間、足元がすっと冷えていく。


 つまり──あの別れは、「自然に終わった」のではなく、「終わらせられた」ものだったのだ。


 アルジャーノンが何かを言いかけた瞬間、彼の身体がわずかによろめいた。


 力が抜けたように片膝を折りかけたそのとき、レジナルドが素早く手を伸ばし、肩を支えた。


「……大丈夫かい?」

「平気だ。すまない」


 小さな声で返すアルジャーノンの顔には、明らかな動揺が浮かんでいた。同時に──その横顔には、ほんの一瞬、安堵も滲んでいた。


 レジナルドの手が肩にあるまま、彼はふっと目を閉じた。まるで、いまだけは息をつける場所を得たかのように。


 章吾は、それを見ていた。


 木陰のベンチ、寄り添うようなふたりの姿──そこに自分の居場所がないことを、あまりにも明確に突きつけられた気がした。


 唇の裏を噛んだ。熱い感情が、喉の奥を焼いた。


(なんだよ、それ)


 章吾は木陰の陰に身を潜めたまま、じっとふたりを見ていた。


 アルジャーノンの肩に手を添えるレジナルド。何も言わずにその手に寄りかかるようなアルジャーノン。


 姿勢を正したあとも、彼は顔を上げられずにいた。その横顔が、珍しく不安げだったことが、逆に章吾の胸に刺さった。


(だったら、最初から……)


 心の中で言葉が膨らんでいく。


(だったら俺なんか、初めからいなくてもよかったじゃんか)


 同じ傘の下で肩を並べた、雨の日も。

 ともに星空を見上げた、あの夜も。


 ──全部、ただの「悪い夢」だったんだろう?


 所詮、貴族の世界の人間で。俺なんか、あの父親のひと声で、簡単に外に放り出せる部外者。


 熱くて、苦くいものが喉元までせりあがってきた。


 章吾は、その場から静かに立ち去った。気配を悟られないように。音を立てないように。


 風の吹く中庭の石畳を踏みしめながら、どこへ向かうのかも分からず歩いた。


 誰とも会いたくなかった。誰の声も聞きたくなかった。


 ──あいつの姿を、今はもう見たくなかった。


 胸がぎゅっと苦しくて、何もかもがうるさく感じた。


「……くそ」


 つぶやいた声が、自分でも驚くほど荒かった。


 その日の夕方、章吾は談話室の隅の席にひとり座っていた。


 机の上に開いたノートは白紙のまま。書く気も、読む気も起きなかった。


 窓の外では、風に吹かれて木々の葉が揺れていた。ガラス越しの景色は静かで、何も語らなかった。


「Hiwatari」


 背後からかけられた声に、章吾は反射的に振り向いた。


 そこに立っていたのは──アルジャーノンだった。夕暮れの光が差し込んで、彼の金髪をぼんやりと縁取っていた。


 その姿を見た瞬間、胸の奥がひゅっと縮んだ。


「……なに」


 返した声は、意識せずに冷たくなった。


 アルジャーノンはひと呼吸置いて、近づいてきた。


「さっき……中庭にいただろう」


 章吾の背中がこわばった。


「……見てたのか」

「偶然だ」


 短い返事。それ以上、何を言うでもなく立ち尽くすアルジャーノン。


 その沈黙が、いつもより重たかった。


 章吾はノートを閉じ、立ち上がった。


「気にすんなよ。お前には、ちゃんと支えてくれるやつがいるみたいだし」

「……何の話だ」

「別に。たいしたことじゃねえよ」


 そう言い捨てて、章吾はすれ違いざまにアルジャーノンの肩をかすめた。


 章吾は振り返らずに、そのまま廊下へ消えた。廊下に出ると、窓の外はすっかり薄暗くなっていた。


 章吾は、ひとりで歩いていた。


(支えてくれるやつがいるなら、それでいいじゃん)


 何度も心の中で繰り返した。その言葉は呪いのように、自分の心をさらに締めつけていく。


 アルジャーノンがレジナルドに支えられる姿。よろめいて、寄りかかって、それを当然のように受け止める彼。


 あのとき、自分じゃない誰かが彼のそばにいた。


 ──それだけのことで、こんなにも胸が痛むなんて、知らなかった。


「バカみたいだな……俺」


 独り言が、薄暗い廊下に滲んでいった。


 いつからだろう。あいつの仕草や声が、少しずつ胸の中に入り込んでいて、気づけばそこがぽっかり空いてしまっていた。


「……別に、期待なんかしてなかったのに」


 ぼそりと呟いた声は、自分に向けたものだった。


 遠く、時計塔の鐘が鳴った。午後七時。夜の始まりを告げる音。


 章吾は立ち止まり、顔を上げた。前を見ても、誰もいない廊下。でも、どこかであいつも、同じように立ち止まっているような気がした。


 すぐに、そんな幻想をかき消して、また歩き出す。


 その背中には、誰の声も届かなかった。


 ──おまえなんて、いなくても。


 そう思いたかったのに。

 そう言い切れなかった自分が、一番嫌いだった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?