ひとりきりの部屋には、沈黙しかなかった。
章吾はベッドに仰向けに寝転がり、無造作に蹴った毛布が床に落ちるのも気にせず、天井を見つめていた。
この部屋は、完璧に修繕された。天井のひび割れも、雨染みも、すべて跡形もない。新品のように磨かれた空間。
なのに、何ひとつ心は整っていない。
夜になると眠れない。朝が来ても、起きたくない。
誰かと笑っていても、その空白は消えない。
(……もういいって、思ってたはずなのに)
耳を塞ぐように横を向くと、視界の端に、あのティーカップが見えた。
いつだったか、アルジャーノンが自分の手元に無言で置いたもの。中身の紅茶はもう乾いて、縁には薄く茶渋が残っている。
思わず手を伸ばしそうになって、止めた。
もう、意味はない。ただの器に、想い出をなすりつけてるだけだ。
章吾は立ち上がった。何も考えたくなくて、とにかく外に出たくて、廊下を無目的に歩いた。
風が吹き抜ける中庭に出ると、正門のほうから誰かの声が聞こえた。
その中に、聞き覚えのある名があった。
「──ロデリック卿は、寄付の名目で工事に圧力をかけたのさ。あの修繕も、早まったのは彼の……」
章吾はそのまま立ち止まった。
木陰のベンチ。そこにいたのは、レジナルドとアルジャーノンだった。
「ロデリック卿は、この学院にとって特別な存在だ。誰も逆らえないし、誰も本音では抗えない。君も、それを一番わかっているだろう?」
レジナルドの声はいつものように落ち着いていたが、どこか慎重だった。言葉を選ぶような間。
「……修繕は、ただの偶然だと思っていた」
アルジャーノンの声は、低く、やや掠れていた。その声音に、章吾の心臓はどくんと打った。
「偶然じゃない。父上は寄付というかたちで明確に動いていたよ。君がHiwatari君と同室であることを不本意としていたらしい」
章吾は呼吸を忘れた。
(……俺の部屋が直ったのは、アイツの父親の金と意向で?)
そう思った瞬間、足元がすっと冷えていく。
つまり──あの別れは、「自然に終わった」のではなく、「終わらせられた」ものだったのだ。
アルジャーノンが何かを言いかけた瞬間、彼の身体がわずかによろめいた。
力が抜けたように片膝を折りかけたそのとき、レジナルドが素早く手を伸ばし、肩を支えた。
「……大丈夫かい?」
「平気だ。すまない」
小さな声で返すアルジャーノンの顔には、明らかな動揺が浮かんでいた。同時に──その横顔には、ほんの一瞬、安堵も滲んでいた。
レジナルドの手が肩にあるまま、彼はふっと目を閉じた。まるで、いまだけは息をつける場所を得たかのように。
章吾は、それを見ていた。
木陰のベンチ、寄り添うようなふたりの姿──そこに自分の居場所がないことを、あまりにも明確に突きつけられた気がした。
唇の裏を噛んだ。熱い感情が、喉の奥を焼いた。
(なんだよ、それ)
章吾は木陰の陰に身を潜めたまま、じっとふたりを見ていた。
アルジャーノンの肩に手を添えるレジナルド。何も言わずにその手に寄りかかるようなアルジャーノン。
姿勢を正したあとも、彼は顔を上げられずにいた。その横顔が、珍しく不安げだったことが、逆に章吾の胸に刺さった。
(だったら、最初から……)
心の中で言葉が膨らんでいく。
(だったら俺なんか、初めからいなくてもよかったじゃんか)
同じ傘の下で肩を並べた、雨の日も。
ともに星空を見上げた、あの夜も。
──全部、ただの「悪い夢」だったんだろう?
所詮、貴族の世界の人間で。俺なんか、あの父親のひと声で、簡単に外に放り出せる部外者。
熱くて、苦くいものが喉元までせりあがってきた。
章吾は、その場から静かに立ち去った。気配を悟られないように。音を立てないように。
風の吹く中庭の石畳を踏みしめながら、どこへ向かうのかも分からず歩いた。
誰とも会いたくなかった。誰の声も聞きたくなかった。
──あいつの姿を、今はもう見たくなかった。
胸がぎゅっと苦しくて、何もかもがうるさく感じた。
「……くそ」
つぶやいた声が、自分でも驚くほど荒かった。
その日の夕方、章吾は談話室の隅の席にひとり座っていた。
机の上に開いたノートは白紙のまま。書く気も、読む気も起きなかった。
窓の外では、風に吹かれて木々の葉が揺れていた。ガラス越しの景色は静かで、何も語らなかった。
「Hiwatari」
背後からかけられた声に、章吾は反射的に振り向いた。
そこに立っていたのは──アルジャーノンだった。夕暮れの光が差し込んで、彼の金髪をぼんやりと縁取っていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥がひゅっと縮んだ。
「……なに」
返した声は、意識せずに冷たくなった。
アルジャーノンはひと呼吸置いて、近づいてきた。
「さっき……中庭にいただろう」
章吾の背中がこわばった。
「……見てたのか」
「偶然だ」
短い返事。それ以上、何を言うでもなく立ち尽くすアルジャーノン。
その沈黙が、いつもより重たかった。
章吾はノートを閉じ、立ち上がった。
「気にすんなよ。お前には、ちゃんと支えてくれるやつがいるみたいだし」
「……何の話だ」
「別に。たいしたことじゃねえよ」
そう言い捨てて、章吾はすれ違いざまにアルジャーノンの肩をかすめた。
章吾は振り返らずに、そのまま廊下へ消えた。廊下に出ると、窓の外はすっかり薄暗くなっていた。
章吾は、ひとりで歩いていた。
(支えてくれるやつがいるなら、それでいいじゃん)
何度も心の中で繰り返した。その言葉は呪いのように、自分の心をさらに締めつけていく。
アルジャーノンがレジナルドに支えられる姿。よろめいて、寄りかかって、それを当然のように受け止める彼。
あのとき、自分じゃない誰かが彼のそばにいた。
──それだけのことで、こんなにも胸が痛むなんて、知らなかった。
「バカみたいだな……俺」
独り言が、薄暗い廊下に滲んでいった。
いつからだろう。あいつの仕草や声が、少しずつ胸の中に入り込んでいて、気づけばそこがぽっかり空いてしまっていた。
「……別に、期待なんかしてなかったのに」
ぼそりと呟いた声は、自分に向けたものだった。
遠く、時計塔の鐘が鳴った。午後七時。夜の始まりを告げる音。
章吾は立ち止まり、顔を上げた。前を見ても、誰もいない廊下。でも、どこかであいつも、同じように立ち止まっているような気がした。
すぐに、そんな幻想をかき消して、また歩き出す。
その背中には、誰の声も届かなかった。
──おまえなんて、いなくても。
そう思いたかったのに。
そう言い切れなかった自分が、一番嫌いだった。