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第23話 君は、カラヴァッジョのバッコスか

 五月の終わり、風はもう夏の匂いを運んでいた。


 寮の掲示板に貼られた、白地に金文字のポスターが目に飛び込んでくる。


【Flower & Boat Festival 開催!】

初夏を祝おう! 花とボートと、サッシュ(飾り帯)と笑顔で!


 それを見た瞬間、章吾は顔をしかめた。


 隣でチャド・マクブライドが、ソーセージを頬張りながらにやにやと笑う。


「おっ、これ初めて? エラグレイヴ恒例の『花の儀式』だぜ。男子も花冠つけて、リボン巻いて、ボート漕いで大騒ぎ! ……楽しみだな〜、な?」


「……花冠?」


 一拍置いて聞き返すと、チャドは誇らしげに親指を立てる。


「もちろん! 男も全員、強制! 伝統なんだわ。大昔は王族もかぶってたんだってさ」


「げっ……」


 章吾は口を閉ざした。脳裏に「自分が花なんぞ乗せられている姿」が浮かび、無言で掲示板を睨みつける。


 その表情を見て、チャドが背中をバンバンと叩いた。


「まあまあ、良い気分転換になるって。最近、なんか元気ないだろ?……もしかして『元ルームメイト』が気になる?」


「関係ない」


 思わず強めに言ってしまい、少し間を置く。


 言われなくとも、分かっていた。別々の部屋になってから、何か「足りない」ままだということを。




 当日。中庭は花の香りと、柔らかな笑い声に包まれていた。


 白い制服に、斜めに巻かれた光沢のサッシュ。生徒たちの頭には、白と青の花冠。


「はい、これ、Hiwatariの分!」 

 チャドが花冠を差し出す。


「……マジでやんのか、これ」

 章吾はしぶしぶ受け取り、適当に頭にのせた。すぐにズレる。 手直しするのも面倒で、そのまま列の後ろに並んだ。



 少し離れた場所で、それを見ていた金髪の少年がいた。


 アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。


 その視線の先にあるのは、むすっとした顔のまま花冠をのせた章吾の姿だった。


 額に汗を浮かべ、照れ隠しのように視線を落とす。 無造作に髪をかきあげる手。


(……カラヴァッジョの、バッコスみたいだ)


 口には出せなかったが、心のどこかが熱を帯びていた。


 それを「懐かしい」と感じたのは、ほんの少し前まで毎朝見ていた光景だったから。


 ──もう、隣にはいない。


 それを思い出すだけで、胸の奥が、ひどくざわめいた。



 整列した生徒たちの向こうに、金髪の少年の姿が見えた。

 章吾は、無意識に目を奪われた。


 金糸のような髪にのせられた小さな花冠。朝の光を受けて、ふわりと輝いていた。


(……あいつが、あいつが、だぞ)


 いつもは貴族様で、澄ました顔で、偉そうにしているくせに──今だけは、どこかの西洋絵画から抜け出した無垢な天使みたいだった。


 そして、ふっと目が合った。たったそれだけで、世界がぐらりと揺れた気がした。


(……隣に、行きたい)


 胸のざわめきは、誰にも止められなかった。



 ボートの順番が読み上げられていく中で、章吾は嫌な予感がしていた。


「次、東舎代表──アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル、Shogo Hiwatari」


「……マジかよ」


 一斉に生徒たちから歓声と笑い声が起こった。


「息ぴったりコンビじゃん!」 「夫婦舟〜!」


「うるせぇ……」


 額を押さえながら、章吾はため息をつく。だが、ボートの上で隣に座る金髪の姿を横目で見ると、背筋がすっと伸びた。


 アルジャーノンは視線を前に向けたまま、静かに言った。


「……行くぞ、Hiwatari」


 笛が鳴る。水を切る音が響く。


 最初は息が合わなかった。オールは交錯し、水飛沫が顔にかかる。


「おい、漕げよ!逆!」 

「うるさい、そっちが速すぎるんだ!」


 それでも、数度目の往復で、ふたりの動きがようやく噛み合ってきた。 呼吸が合う。リズムが生まれる。


(……懐かしいな)


 同じ部屋で、同じ時間を過ごしていた頃。 無言のやりとりでも、なぜかうまく回っていたことを、体が思い出す。


 ゴールに近づいたころには、もう息は切れていた。 それでも、笑っていた。


「……意外と悪くなかったな」


 ポツリと呟いた章吾に、隣のアルジャーノンがふと顔を向けた。


 風が吹く。花冠が傾く。


 無意識に、章吾はその花を直すために手を伸ばした。 指先が髪にふれた瞬間、ふたりの動きが止まる。


 目が合う。

 逃げなかった。

 ただ、見つめた。


 その時間が、やけに長く感じた。


「……おまえ、まだサッシュずれてる」


「君の花も傾いていた」


「……そういうとこだよ」


 ため息まじりに言いながら、ふたりは顔をそらす。


 風にそよぐ花の冠。水面に反射する光。


 ──少しずつ、何かが戻りはじめていた。



 その様子を、木陰からじっと見つめている影があった。


 レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。


 濃い緑の葉陰に身をひそめ、彼は微動だにせず、ただふたりを見ていた。


 アルジャーノンが、あの少年──Hiwatariに向かって、かすかに笑った。目元が、ほんのわずかに緩んだだけ。それだけなのに。


(……あれは、僕だけが知っていた笑顔だ)


 そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと苦しくなった。


「……まったく、愚かだね」


 指先はわずかに震えていた。胸の奥に、冷たいものがじわじわと広がっていく。


(あんな顔……もう、僕には見せてくれない)


 嬉しいはずだった。笑っている彼を見られたことが、本来なら。


 でもそれが、自分ではなく、あの少年に向けられていると気づいた瞬間に──何かが、静かに崩れていった。


 記憶のなかのアルジャーノンは、無口で、不器用で、それでも笑えばまぶしかった。その笑顔を、ずっと護ってきたつもりだった。


 なのに。

 今、その笑顔は他人のものになろうとしている。


(……なら、僕は何のために、そばにいた?)


 答えは出なかった。木の幹に背を預け、小さく息を吐く。

 胸の奥で、決意が生まれていた。


(君を、手放す気はないよ。アルジー)


 それは、愛というより祈りだった。願わくば、もう一度、あの笑顔が僕に向けられますようにと。


 風が吹いた。葉がわずかに揺れ、レジナルドの影をゆらした。


 その顔に浮かぶ微笑みは、どこまでも寂しげだった。

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