五月の終わり、風はもう夏の匂いを運んでいた。
寮の掲示板に貼られた、白地に金文字のポスターが目に飛び込んでくる。
【Flower & Boat Festival 開催!】
初夏を祝おう! 花とボートと、サッシュ(飾り帯)と笑顔で!
それを見た瞬間、章吾は顔をしかめた。
隣でチャド・マクブライドが、ソーセージを頬張りながらにやにやと笑う。
「おっ、これ初めて? エラグレイヴ恒例の『花の儀式』だぜ。男子も花冠つけて、リボン巻いて、ボート漕いで大騒ぎ! ……楽しみだな〜、な?」
「……花冠?」
一拍置いて聞き返すと、チャドは誇らしげに親指を立てる。
「もちろん! 男も全員、強制! 伝統なんだわ。大昔は王族もかぶってたんだってさ」
「げっ……」
章吾は口を閉ざした。脳裏に「自分が花なんぞ乗せられている姿」が浮かび、無言で掲示板を睨みつける。
その表情を見て、チャドが背中をバンバンと叩いた。
「まあまあ、良い気分転換になるって。最近、なんか元気ないだろ?……もしかして『元ルームメイト』が気になる?」
「関係ない」
思わず強めに言ってしまい、少し間を置く。
言われなくとも、分かっていた。別々の部屋になってから、何か「足りない」ままだということを。
*
当日。中庭は花の香りと、柔らかな笑い声に包まれていた。
白い制服に、斜めに巻かれた光沢のサッシュ。生徒たちの頭には、白と青の花冠。
「はい、これ、Hiwatariの分!」
チャドが花冠を差し出す。
「……マジでやんのか、これ」
章吾はしぶしぶ受け取り、適当に頭にのせた。すぐにズレる。 手直しするのも面倒で、そのまま列の後ろに並んだ。
*
少し離れた場所で、それを見ていた金髪の少年がいた。
アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。
その視線の先にあるのは、むすっとした顔のまま花冠をのせた章吾の姿だった。
額に汗を浮かべ、照れ隠しのように視線を落とす。 無造作に髪をかきあげる手。
(……カラヴァッジョの、バッコスみたいだ)
口には出せなかったが、心のどこかが熱を帯びていた。
それを「懐かしい」と感じたのは、ほんの少し前まで毎朝見ていた光景だったから。
──もう、隣にはいない。
それを思い出すだけで、胸の奥が、ひどくざわめいた。
*
整列した生徒たちの向こうに、金髪の少年の姿が見えた。
章吾は、無意識に目を奪われた。
金糸のような髪にのせられた小さな花冠。朝の光を受けて、ふわりと輝いていた。
(……あいつが、あいつが、だぞ)
いつもは貴族様で、澄ました顔で、偉そうにしているくせに──今だけは、どこかの西洋絵画から抜け出した無垢な天使みたいだった。
そして、ふっと目が合った。たったそれだけで、世界がぐらりと揺れた気がした。
(……隣に、行きたい)
胸のざわめきは、誰にも止められなかった。
*
ボートの順番が読み上げられていく中で、章吾は嫌な予感がしていた。
「次、東舎代表──アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル、Shogo Hiwatari」
「……マジかよ」
一斉に生徒たちから歓声と笑い声が起こった。
「息ぴったりコンビじゃん!」 「夫婦舟〜!」
「うるせぇ……」
額を押さえながら、章吾はため息をつく。だが、ボートの上で隣に座る金髪の姿を横目で見ると、背筋がすっと伸びた。
アルジャーノンは視線を前に向けたまま、静かに言った。
「……行くぞ、Hiwatari」
笛が鳴る。水を切る音が響く。
最初は息が合わなかった。オールは交錯し、水飛沫が顔にかかる。
「おい、漕げよ!逆!」
「うるさい、そっちが速すぎるんだ!」
それでも、数度目の往復で、ふたりの動きがようやく噛み合ってきた。 呼吸が合う。リズムが生まれる。
(……懐かしいな)
同じ部屋で、同じ時間を過ごしていた頃。 無言のやりとりでも、なぜかうまく回っていたことを、体が思い出す。
ゴールに近づいたころには、もう息は切れていた。 それでも、笑っていた。
「……意外と悪くなかったな」
ポツリと呟いた章吾に、隣のアルジャーノンがふと顔を向けた。
風が吹く。花冠が傾く。
無意識に、章吾はその花を直すために手を伸ばした。 指先が髪にふれた瞬間、ふたりの動きが止まる。
目が合う。
逃げなかった。
ただ、見つめた。
その時間が、やけに長く感じた。
「……おまえ、まだサッシュずれてる」
「君の花も傾いていた」
「……そういうとこだよ」
ため息まじりに言いながら、ふたりは顔をそらす。
風にそよぐ花の冠。水面に反射する光。
──少しずつ、何かが戻りはじめていた。
*
その様子を、木陰からじっと見つめている影があった。
レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。
濃い緑の葉陰に身をひそめ、彼は微動だにせず、ただふたりを見ていた。
アルジャーノンが、あの少年──Hiwatariに向かって、かすかに笑った。目元が、ほんのわずかに緩んだだけ。それだけなのに。
(……あれは、僕だけが知っていた笑顔だ)
そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと苦しくなった。
「……まったく、愚かだね」
指先はわずかに震えていた。胸の奥に、冷たいものがじわじわと広がっていく。
(あんな顔……もう、僕には見せてくれない)
嬉しいはずだった。笑っている彼を見られたことが、本来なら。
でもそれが、自分ではなく、あの少年に向けられていると気づいた瞬間に──何かが、静かに崩れていった。
記憶のなかのアルジャーノンは、無口で、不器用で、それでも笑えばまぶしかった。その笑顔を、ずっと護ってきたつもりだった。
なのに。
今、その笑顔は他人のものになろうとしている。
(……なら、僕は何のために、そばにいた?)
答えは出なかった。木の幹に背を預け、小さく息を吐く。
胸の奥で、決意が生まれていた。
(君を、手放す気はないよ。アルジー)
それは、愛というより祈りだった。願わくば、もう一度、あの笑顔が僕に向けられますようにと。
風が吹いた。葉がわずかに揺れ、レジナルドの影をゆらした。
その顔に浮かぶ微笑みは、どこまでも寂しげだった。