サルベルト教授が去ったあとも、魔力回路の状態を見るために別の魔法医が来て検査をして去っていった。去り際に、その日はそのままVIP用の病室に入院となると説明を受け、レイは戦慄した。理由を聞いても言葉を濁し、あまつさえうろうろしないようにと念を押されてしまった。
先程までいた施設の部屋を彷彿とする広さの、それよりも調度品すら豪華な病室に一人取り残されたレイは、ベッドの上で膝を抱えていた。せめて広さがもう半分ほどだったら落ち着いたのに。
レイは備え付けの鏡を見るために、個室についている浴室へ向かった。ディートリヒに打たれた両頬は、綺麗に治っており腫れもない。血に濡れたズボンを脱いで、刺された太ももを見ても傷跡すら見当たらない。もう一度鏡で顔を見る。血行もいい。肌艶もいい。くますらない。検査結果を教えてくれ。何故帰ってはいけないのかの説明をしてくれ。誰か。頼むから。
流石に血のついたズボンが気になり、軽くシャワーを浴びてから病衣に着替えた。髪を乾かそうと思ったが、魔力回路のオーバーヒート手前まで一度発熱したので、そのままタオルでごしごしとこすりながら部屋に戻った。通信魔法機器も鞄ごと置いてきてしまっているので、誰にも連絡を取れない。病室の内線用の通信魔法機器は、外部通信ができない仕組みとなっており、直接誰かに依頼することはできなかった。仕方なく病院の事務方に事情を説明して、ルミアの魔法薬店に無事であることを連絡してほしい旨を依頼した。
そして、またベッドの上で膝を抱えていた頃、病室のドアを誰かがノックした。
「どうぞ」
ベッドに腰かけてそう応えると、病室のドアが開かれ、マルキオン教授とマーベック氏が病室に入ってきた。知った顔が来てくれたことにやっと安堵したが、レイは立ち上がってマルキオン教授に謝った。
「教授、すみませんでした」
「ほーん? どれについてかな? 浄化薬の薬の手配かな? それとも悪質な浄化薬のリークの件かな? はたまた命を危険に晒したことかな?」
マルキオン教授の黒い笑顔に、レイはつられて笑いそうになりながらも、真剣に「全部です、すみませんでした」と小声で謝った。マルキオン教授は笑みをこぼしながらため息を軽くついて、「がんばったね」とレイの肩をぽんぽんと叩いたあと、指をくるくると回してレイの髪を乾かしてくれた。キィンと澄んだ共鳴音が小さく響いて、レイは少し複雑な気持ちになった。
「さて、何も持たずに飛ばされてきたって聞いたから、マーベックがご厚意で通信魔法機器を持ってきてくれたよ。僕からは、これ」
マルキオン教授が紙袋を手渡してくれた。覗いてみると、今月号の魔法薬通信が入っており、見舞い品として最高の物にレイは心の中で小躍りした。その後、マーベック氏がマルキオン教授の後ろからおずおずと出てきて、固い面持ちで通信魔法機器を手渡してきた。
「……レイ君、すまない。こんなことに巻き込んでしまった」
「いえ、マーベックさんのせいではないですよ」
レイは通信魔法機器を受け取りながら否定したが、マーベック氏はゆっくりと首を振った。
「もとはと言えば、国安保の担当者がきちんと監視を務めていれば起こらなかった案件だ。材料費、エラー品の量、監査についてもそうだ。面目ない。浄化薬の被害者の方にもきちんと謝罪をせねば」
レイはマーベック氏の落ち込みように、この人のように責任感のある人が国安保にもいるなら、この国の医療界も安心できる気がした。レイは頷いて「伝えておきます」とマーベック氏に伝えた。
「通信魔法機器の返却は、国安保へ着払いで送ってください。フル充填しなきゃいけないとか、ありませんから。どうぞお気になさらず。それでは、私はこれで」
レイはお礼を伝えて、マーベック氏を見送った。マルキオン教授は、「つっかれたー」と来客用のソファに寝転んで、まだ居座る気のようだ。
「サルベルト教授、さっき来てくださいましたよ」
「君がオーバーヒート寸前までいったって聞いたからね。教授回診をずらしてまで来たみたい」
「……本当に申し訳ない」
マルキオン教授の言葉にレイが恐縮していると、ソファの背もたれからひょこりと顔を覗かせて、マルキオン教授がジト目でレイを見つめていた。
「妬けるなぁ。僕の恋人にまで目をかけられちゃうなんてさ」
「何言ってるんですか。貴方の教え子だから気にかけてくれるんでしょうに」
レイの言葉に少し気分が良い顔になっても、マルキオン教授はレイの方をじっと観察していた。レイは魔法薬通信を紙袋から取り出しながら、マルキオン教授のうざったらしい視線に眉根を寄せて言った。
「……何ですか」
「オーバーヒート寸前までいった割には、いつもより元気だね。魔力回路の処置はしてもらってないんじゃない?」
言われて、レイも確かにそうだ、と内心同意した。発熱抑制剤のおかげかと思っていたが、その後発熱もしばらく続いていたし、本当にぎりぎりの状態だったはずなのに、回復が早い気がする。オーバーヒート寸前に行使していた魔法は古代魔法で、行使できなかったのは初級の電撃魔法だった。古代魔法の影響だろうか? と考えていると、マルキオン教授が口を開いた。
「レイ君、もしかして、昨日か今日あたり、調律した?」
心臓が驚くほど跳ねた。いや、驚いたから跳ねたんだが、跳ね方にも驚いた。こんなに大きく脈打つことがあるのかと、胸を押さえた。その反応に、マルキオン教授の顔がぱっと輝く。
「え、嘘。レイ君、本当に調律したの? 封印されし伝説の杖とか言われてたあのレイ君が!?」
「何なんですかその不名誉な二つ名は!」
レイが顔を真っ赤にしながら噛みつくと、マルキオン教授がしれっと言ってのける。
「いや、だって君、全然調律されなかったらしいじゃん? 君に好意を寄せた学生さんが『調律してみないか』って君に聞いたら、簡単に寝てくれるのに誰とも調律できなかったって、有名な話だよ?」
レイは手の中にある魔法薬通信で顔を隠した。まさかそんな噂になっているとは思わなかった上、「調律の年」のことを今更持ち出されても困る。しばらく挑戦してまったく成果がなかったために、そんな時間は研究に当てた方がまだ建設的だと思って、次の年からは断ってもいた。未だにそんな風に陰で語られていたという事実を知るとは思っていなかった。誰だ教授の耳に入れた阿呆は!
マルキオン教授は肩をすくめながらさらに続けた。
「魔力が調律されていると、体力にしろ魔力回路の疲労にしろ、回復が早いからね。特に君の場合は、日ごろから調律しておくに越したことはないんじゃないかな。……あーあ。どこの馬の骨とも分からんやつにレイ君の初めてを奪われたー」
「サルベルト教授に言いつけますよ」
「こわーい」
そう言いながら、マルキオン教授の姿がまたソファの背もたれに隠れた。それを見てレイは来客用のソファを上から覗くと、マルキオン教授が本格的に寝る体勢に入っていた。
「教授、来ていただいたのは有難いですけど、こんなところで油売ってていいんですか?」
「いや……ほんと、疲れたからちょっと寝かせて……気にしなくていいから……」
「流石にそろそろ店の方に連絡も入れたいですし、うるさくしますよ」
「気にしなーい」
そう言ってマルキオン教授の目が閉じられた。気にするのはむしろこちらなのだが、本業も忙しいのにさらに忙しくさせてしまったのは自分なので、正直無碍にもできない。そう思いながらマルキオン教授を観察していて気付く。教授の魔力は、まるで肌荒れしているかのようにがさついており、コンディションが悪そうだ。自分が調律出来ていないのに、忙しくした張本人が調律してたら、確かに思うところはあるかもしれない。
レイは病院のベッドから掛布団をはぎ取ってマルキオン教授にかけた後、ベッドに腰かけ通信魔法機器を起動した。通信魔法機器にはまっている魔力石は結構いい代物で、これなら映像を載せて通話をしても良さそうだ。おそらく、モートンには顔を見せてあげた方がいいだろう。
ゥウン! という音とともに普段よりも大きめの魔法陣が2つ浮かび上がる。一つには自分の顔が映っており、もう一つにはまだなにも映し出されていない。正直、映像付きで通信魔法を起動するのは初めてなので、こんな挙動をするのかとレイは少し面食らった。おそらく自分の顔が相手にどんなふうに映っているのかがわかるような仕組みなのだろう。しばらくして通信が繋がり、モートンの顎が大きく映し出された。
「モートン、大丈夫?」
レイが声をかけると、モートンが驚いたようにのけぞった。
「レイさん! よかった、無事だったんですね!」
魔法陣に近付いたのか、映し出されるモートンがほぼ真っ黒になってしまったので、「下がって下がって」と声をかけると、モートンが椅子に座って距離を取った。こちらの魔法陣にきちんとモートンの肩から上が映るようになって、レイはモートンに笑いかけた。
「心配をかけてしまったみたいで、すみませんでした。それと、朝から怖い目に合わせてごめんね」
レイはモートンが魔法薬店の通信魔法機器に出たので、まだ家に帰ってないのだろうと推測した。モートンの家の玄関前で割れて倒れていた鉢植えを思い出すと、少し胸が痛んだ。モートンは目を潤ませて、頭を振った。
「いえ……レイさんの方が、よっぽど大変だったでしょう。正直、生きた心地がしませんでした」
モートンがそう言いきったところで、モートンの背後にクラウスの姿が映った。クラウスは少しかがんで、こちらにも顔が映るように立ち位置を調整してくれた。
「クラウス、ありがとう。モートンについていてくれたんだな。……体調は? 薬は使ったか?」
「私のことより、レイ、君の体は?」
クラウスが呆れたように言ってくるので、レイは少しムッとした顔をしながらクラウスをジト目で見た。
「大丈夫だよ。でも、今日は入院らしい」
入院という言葉を聞いて、クラウスは一瞬難しそうな顔をしたが、レイが口を曲げながらクラウスを見ると、苦笑して答えた。
「薬は使った。……そうだな、ここに君がいたら、もっと元気だっただろう」
クラウスが寂しそうに笑いかけてくるので、レイは一瞬モートンの反応を見た。モートンの視線が泳ぎ、「お茶を淹れてまいります」と言ってさっと中座した。空気を読む執事らしい行動だが、レイとしてはそんな気の遣われ方をされたいわけじゃなく、眉間を押さえた。
「……クラウス」
抗議の視線を送ると、クラウスは意地悪く笑って返してきた。
「今のは君の反応の仕方のせいだろう。私の好意を知らないときの君だったら、『何言ってんだか』と流していたさ」
クラウスの背後でモートンが紅茶の缶の蓋を落としたのが見えた。クラウスが一度振り返ったが、また視線を戻してきたので、レイはジト目でクラウスを見た。
「今のは君のせいだぞ」
「どうやらそうらしい」
わざとらしく肩をすくめるクラウスに、レイはため息をついた。クラウスが少し視線を下げて、またレイを見る。
「……ゴブリン調査の件は、虚偽報告だったらしい」
クラウスの言葉に、レイは小さく息を吐いた。やっぱりそうだったか、と内心で呟く。クラウスの力を借りてでも出てこない痕跡。今朝連行されているときに見た依頼人である村長の表情。他の住人が外に出ようとすると威嚇するのに村長については何もしようとしない公爵家の私兵たち。怪しい点はいくつもあった。
「目的は?」
「君の監視だ。君は『話せない』だろうが、例の件に関わった人物がそのあとすぐに領地に入ったわけだ。実力の程を確認したいと思うのは当たり前だろう」
国安保からの依頼の件も聞いたのだろう、宣誓魔法のことを知っているような口ぶりだった。すると、話をしていたクラウスの顔が徐々に暗くなっていく。
「魔力回路のために、君はほとんど魔法らしい魔法を使っていなかった。レーヴェンシュタイン公爵家としては君をほぼ白としていただろう。村長も、水道水の浄化装置については『魔力石の交換』としか報告を上げなかったとのことだ。それを、私が関わったせいで――」
「クラウス。怒るぞ」
クラウスの言葉を遮って、レイはぴしゃりと言ってのけた。クラウスの目がレイに向く。その瞳は愁いを帯びており、叱られるのを待つ子供のようでもあった。
「クラウス、君が置かれていた状況を脱せたことに、俺は満足している。その結果を間違いだったとでも言うつもりか? 今回の件について、どこまでいっても君は被害者でしかない」
そう言っても、クラウスはどうやら納得していないようだ。この責任感の塊のような男を、どうやったら納得させられるんだろうか。レイは足を組んで、頬杖をついた。
「例えば、俺がもっと強かったなら、こんな事態にはならなかった。そうだろう?」
「待て、何故そうなる」
クラウスの眉が寄った。レイは首を傾げながら平然と言う。
「俺が強かったなら、今、俺は入院するなんてことにはならなかった。加えて言うならゴブリン調査だって一人でやっていたし、きっと俺は黒判定され、もっとすごい戦力を揃えられて袋叩きに遭っていただろうな。……さらに言うなら、きっと魔法薬士を目指すこともなかったし、君に出会うこともなかっただろう。そうしたら、君を救うことができなかった。違うか?」
黙り込むクラウスに、レイは一つ息を吐いた。
「必然なんて言葉は好きじゃないが、俺は君を救えたことで、魔力回路が弱い自分も、少し、悪くないんじゃないかと思えたよ」
そんな会話をしていると、モートンが湯気が立ったカップをクラウスの前に置いた。自身も椅子を持ってきて画面の中に映るように座りながらモートンが口を開く。
「私は、レイさんとクラウス様が出会ってよかったと思っておりますよ。ルミア様に会いに来られていた時のクラウス様は、今のように感情も豊かに出されず、年長者としてはそれはもう心配しておりましたから。そして、今レイさんが言った言葉を聞いて、もっと安心いたしました」
執事然としていたモートンが、こういった会話に口をはさむのはとても珍しかった。それだけ、心の中にしまっていた言葉だったのだろう。
モートンがカップに口をつけたあと、にっこりと笑いながら言った。
「で、ルミア様にお二人のことはいつ頃ご報告されるご予定で?」
「――待って、付き合ってないから!」
モートンの勘違いにレイは慌てて否定したが、クラウスがぽつりと呟いた「まだ、な」という言葉でさらにややこしい話になったのは、言うまでもない。