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第二章 風の吹く世を

第八話 いなおほせ鳥と好き者

 つまり、あの物語を誰も聞いたことがないのはこれから起きる(書かれる)ことだったからということですの!?


 嘘でしょう……。


 つまり私はあのきつ……じゃなくて春宮に入内するってことですの?


 いえ、そんなことより中の君は?


 私は前世であの物語を最後まで聞いたの?

 あの姫君――中の君は無事なの?


 ――無事だったのなら皆があの物語があんなに食い付くはずがない。


 中の君がどうなったのか知っている人がいなかったからこそ皆、競って知りたがったのだ。

 ということは中の君に何かあったと言う事になる――というか、これから起きるのだ。良くないことが。


 出家ならまだしもはかなく(亡く)なったりしていたら……。


 私は慌てて頭を振った。


 縁起でもありませんわ!


 と、とにかくもう一度寝ましょう。

 まだ外は暗いのだし、あの物語の続きが分かればどうすればいいか分かるはずですわ!



「姫様! 起きて下さい!」

 トメの言葉に私(左大臣の大君の方)は渋々身体を起こした。


 結局、夢は見られなかった。

 というより眠れなかったのだ。


 中の君が大変――かもしれないのに!



「お姉様、また物語読んでください」

 三の姫(左大臣の三女の方)がやってきた。


「いいわ。中の君と四の姫を呼んできて」

 私は女房に言った。



「中の君は縫い物があるのでいらっしゃれないそうです」

 四の姫を連れて戻ってきた女房が報告した。


「また?」


 きっと山のような縫い物をやらされているのだろう。


 私は女房に物語を読んでいるように言い置いて中の君の部屋に向かった。



「中の君、手伝うわ」

 私は中の君に声を掛けた。


 中の君の横ではツユが勅撰和歌集を読みあげている。

 勅撰和歌集の暗記も貴族の姫の教養の一つだから聞きながら縫い物をしているのだろう。


「そんな! お姉様にそんなこと……!」

「私も縫い物が上手くないと困るから」


 貴族も自分(や自分の家族)が着る衣裳は機織はたおりから染色、仕立まで自宅でする。

 娘が婿を取ったら婿の分も妻の家で用意する。


 だから良い妻の条件の一つは縫い物が上手いことなのだ(大臣の北の方だろうと自分を含めた家族の衣裳は妻が縫うんですのよ)。


 私の言葉に中の君が黙って縫い物に目を落とす。

 つられて中の君の手元を見て顔が引きった。


 かなり……じゃなくて、ええっと…………………………あまり上手ではない。


 これはかなり練習が必要だ。

 そのせいか、見たところ直衣のうし唐衣からぎぬなど一番上に着る衣裳はない。


 もっと上達しないとお婿さんを迎えることが出来たとしても年を取ったら捨てられるかも……。


 中の君はものすごく可愛いし性格も控えめだから殿方に好かれるだろう。

 良い妻の条件は『話(趣味)が合う』、『器量がいい』、『裁縫が得意』、『出世の手伝いが出来る(親が金持ち)』だ。


 とりあえず『器量がいい』と『出世の手伝い(お父様が付いていれば確実)』は満たしているし、趣味や相談はお相手の殿方によるのだし、私だったらこんな良い子をお嫁さんにしたら絶対に大切にしますわ!


 まぁ容姿は年を取ったら衰えるけど……。


「だ、大丈夫よ、すぐ上達するわ」

 私は慰めるように言いつつ縫っていた手が止まる。


 これだけ………………上手ではないと手伝っていいのか迷う。

 上達するには一枚でも多く縫った方がいいだろうし、そうなると早く終わるようにと私が手伝ったりしない方が中の君のためではないだろうか。


 お母様も物語のように徹夜してでも縫えとは仰らないはずだし……。


 ただでさえ上手くないのに夜、燭台しょくだいの灯りだけで縫ったりしたら縫い目は目も当てられない出来になるだろう。


 縫わせる目的は縫い物が上達するようにだし、着るのは自分達なのだからつたない縫い目では困るはずだ。


 真っ直ぐではないのはいいとしても人前で下に着ているものがほどけて落ちてしまったりしたら目も当てられないし、お父様が他の妻の所で衣裳を脱いだらひどい縫い目を見られてしまうかもしれない。


 そうなれば、お父様の北の方は縫い物が不得意だと笑われてしまうのかもしれないのだ。

 お母様もそんな不面目なことは嫌だろう。


 私がそんなことを考えていると、

「あの……」

 中の君が躊躇ためらいがちに口を開いた。


「なに?」

「お姉様は春宮様に入内されると伺いました」

勅許ちょっきょが下りたらそうなると思うわ」


 勅許というのは帝の許可である。

 貴族達の話し合いで決まるとは言え形の上では許可をするのは帝なのだ。


「まだ勅許が下りていないということは春宮様のしは……」

尚侍ないしのかみがされたと聞いたけど」

 私は中の君の質問に答えた。


 添い伏しというのは春宮や皇子が元服する夜に共寝をする公卿の姫のことですわ。


 添い伏しをした姫は妃になることが多い。

 だから大抵の皇子は元服と同時に妃を迎えるのだ。


 私は春宮が元服した頃はまだ裳着がすんでいなかったので尚侍が春宮の添い伏しをしたんですの。


「尚侍? では春宮様の妃ではないということですか?」

「どうかしら……」


 尚侍というのは帝の妃に準じた扱いを受ける。

 ただ、元は女官長なのだ(というか今でも一応女官長ですわ)。


 お手付きされることが多いから今では最初からそういう扱いになっていると言うだけで皇子を産めば妃に昇格することが多い。

 そういう意味では『尚侍』と言われているうちは妃ではない。


 ちなみにこれは時代によって違いますわよ。

 昔は尚侍はただの女官長でしたの(一応、今でも)。


 お手付きが多いことから今は妃にしたい姫を尚侍や御匣殿みくしげどの(これも女官の役職の一つ)として出仕させるようになったんですのよ。


 私は中の君の問いに考え込んだ。


 今の尚侍はおいくつだったかしら……。


 何年か前に尚侍が変わったのだ。

 確か大納言の三の姫でお若かったはず(春宮より一つか二つ年上くらい)だから、元服するような年の皇子がいる帝とはかなり年が離れている。


 帝が春宮のように幼い姫が好きというのでないのならただの女官長なのかもしれない。

 それなら春宮に入内することもありうるだろう。


 というか春宮に年が近いという事はそもそも添い伏しにさせて春宮に入内させるという腹づもりだったのかもしれない。

 私は年齢的に添い伏しは無理なのだし。


「尚侍は帝の妃に準じた扱いとはいってもお手が付いてたら春宮様の添い伏しにはしないと思うから……」

 添い伏しをした姫が身籠もったときに父親がどちらなのか分からなかったら困るのだから。


 帝の手が付いていなかったのなら春宮に入内させるということは十分あり得る。

 実際、尚侍が添い伏をした例はあるし。


 ただ、中の君の表情を見て私は言葉を濁した。

 やはり、中の君は春宮に想いを寄せているようだ――ただの幼馴染みではなく。


 それなら春宮の妃のことは気になるだろう。

 いくら帝や春宮の妃が一人というのは有り得ないとは言え。


 中の君は黙り込んでしまった。

 私もなんと言っていいか分からず黙って縫っていた。


 私の一存で入内を代わって上げられるなら喜んで代わるのだけど……。


 私は春宮に入内したいなんて思っていないのだし。

 しかし、そのためにはまずお母様を説得しなければならない(お父様は別に中の君でも構わないようですから、問題はお母様だけですわ)。


 不意に中の君が顔を上げた。


「どうしたの?」

「鳥の鳴き声が……」

 中の君の視線の先にはスズメよりちょっとだけ大きくて背中が黒い鳥がいた。


「いなおほせ鳥はあの鳥じゃないかって春宮様が教えて下さったんです」

 中の君が黒っぽい小鳥を指した。


「まぁ……」


 なんて酔狂な……。


 私は呆れた。


 春宮も中の君もホントに生き物が好きなのね……。


〝わが門に いなおほせ鳥の 鳴くなべに 今朝吹く風に 雁は来にけり〟- 詠み人知らず


〝いなおほせ鳥〟というのは勅撰和歌集に出てくる鳥なのだが、どの鳥のことなのか分からなくて昔から色々な人達が様々な鳥の名前を挙げていた。


〝いなおほせ鳥〟がどの鳥の別名か、なんてことを気にするのは学者と好き者くらいだと思いますけど……。


『好き者』には「女好き(または男好き。要は色好み)」という意味の他に「物好き」や「風流を好む人」という意味もある。


 どの意味で言ったのかはご想像にお任せしますわ。


「シロがあの鳥を捕まえて殺してしまった時は春宮様は大層悲しまれてたんです」

 中の君が言った。


 なら犬を放しておかなきゃいいでしょうに……。


「犬はそういうものだから……」


 帝の猫を噛んで折檻された犬もいたそうだけど……。

 紐で繋いでおけばいいのに……。


「いえ、シロは猫です。真っ白い猫なんです」

 中の君がうっとりとした表情で言った。


「そ、そう……」


 猫なら尚更、鳥を捕まえるのは当たり前だと思うんだけど……。


 中の君は本当に生き物が好きなのね。

 とても優しい性格で可愛らしいし。


 やはり私が守ってあげなきゃ……。


 大事な妹だもの。

 まだ何も起きてないんだし今ならなんとかなるはずよ。


 何があっても中の君を行方知れずになんかさせませんわ!

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