※本編に甘さが足りないなと、勢いでつい書いたおまけです。
本編よりも性的に匂わせる表現がありますので、ご注意ください。
「……足りない」
夕暮れの書斎。
目尻を擦りながら、ヴィンセント・シャムロックが書類から顔を上げる。本や書類を積み上げたせいで狭くなった机に何とかペンを置くと、恨めしげな視線を真向かいの妻――グラディスに向けた。
「何がです?」
涼しい顔のまま、素早く書類に目を通していく彼女に一層恨めしげな視線を向けてから、ヴィンセントは立ち上がった。
腰と背中が悲鳴を上げる。朝からずっと座っていたせいだ。
背筋を伸ばしていると、向かおうとした先――グラディスの方がいち早く席を回ってきてしまう。
「数が合いませんか?」
実家のバセット家から妻のシャムロック家に婿入り――結婚し直した彼は、もともと不得意な数字の勉強をまた、最初からやり直すことになった。扱う品目や商慣習がバセットとはまた少々違うからだ。
何度か投げ出したくなった――実際、今までだったら投げ出していただろう――のに諦めないのは、ひとえに、妻の役に立ちたいからだった。
……が。
「そうですね、途中までは合っています。間違いやすいのはこの辺りですが、慣れた人でもよく間違えるのですから、気にしなくて大丈夫――」
細い指先が書類をなぞると、ヴィンセントは息をもう一度吐いて、机の引き出しから取りだしたものを彼女の肩にかけた。
「――羊のショール?」
「この前言ってた羊の毛を取り寄せて、編ませてみた」
「ええ……ほんとうにチクチクしない、素敵な肌触りですね」
「気になったことは、メモして、試してみることにしたんだ。あなたを見習って」
その肩を抱くと、首筋に顔を埋める。ちくちくしないふわふわの毛が、グラディスの首とヴィンセントの頬をくすぐった。
二度目の初夜から、ヴィンセントはお前、と呼ばなくなった。それをグラディスが思い出していると、重ねるようにヴィンセントが続ける。
「試してみないと分からないこともあるしな。……あの時指を刺したのは、早まったかもしれない」
「……その、あれは対外的なものでしたから。どの夜も、ヴィンセント様がとても優しいことに……変わりは……」
グラディスの言葉に恥じらいがこもったのを耳ざとく捉えて、ヴィンセントの片手がそっと腰に回る。
「契約通り、俺はちゃんと仕事をするつもりだ」
「はい、そうですね」
「契約を遂行するには心身の健康が必要だろう」
「それとこの状況にどんな関係が」
「今の俺には、ふわふわなグラディスが不足していると思う」
「……」
グラディスは沈黙の後、体から力を抜いて背中に腕を回すと、ぽんぽんと叩いた。
「……お気の済むまでこのままお付き合いします。でも今夜にはこの書類だけは、終わらせてくださいね。私もまだ自分の仕事を、頑張りますから」
それは、彼女は単に夫を元気づけるつもりの言葉だったのだが。
息を大きく吸うと、体を離したヴィンセントは急いで机につくと、熱心に書類を捲り始めた。
「分かった、今すぐ終わらせる」
「ヴィンセント様、わざと誤解していますね。……あの、笑わないでください」
グラディスは離れる直前に口付けられた首筋に手をやりつつ、頬を赤らめつつ抗議する。
それでも、普段から冷静で、時々弁舌鋭い彼女のその唇の端も恥じらうように綻んでいるのを見付ければ、心を許してくれているのだとヴィンセントには分かる。
――グラディスはほとんど夢を見ない。
朝から晩まで、彼女のシャムロック家の長女としての“やるべきこと”で満たされているから、寝る時間は体の休息と割り切っているのだ。
それに気付いたのは、バセット家で寝室を共にして大分経ってからだ。
というのも、彼女の方が後に寝ることが多かったからだが、はじめは深夜までの仕事と、男の自分を警戒してだろうと思っていた。
そして睡眠を削ってヴィンセントに勉強を教えてくれることには感謝し敬意も内心で払ってきたが――それでもいつしか、安らかに眠って欲しいと思うようになった。
こうやって忙しい日には、特に。
「笑ってないよ」
「笑っています」
「馬鹿にしてるんじゃない。嬉しいだけだ」
抗議しつつ観念したように黙るグラディスに、なるべく自然に笑いかけてからヴィンセントは書類にもう一度目を通す。
今度こそ早く終わらせようと、シャムロックに移った日の、初夜の願いを思い出す。
彼女に触れたいのは嘘偽りのない本心で、我が儘だけれど。
それでも、いくらでも彼女から受け取ってきた自分などにも、あげられるものがあるのなら。
夜に腕の中で、いつもより少し早く寝言を言って。
いつもより少し遅く目を覚ます彼女が、間近でふにゃりと笑ってくれる朝が増えればいい。