王宮の大広間は、豪華なシャンデリアがいくつも連なり、たっぷりとした光の海を作り出していた。白い大理石の床は磨き上げられ、まるで鏡のように人々の姿を映し出している。部屋の中央には、数多くの貴族たちが三々五々に集まり、優雅に談笑を交わし合っていた。その中には、華やかなドレスをまとい、胸を張る淑女たちの姿もあれば、彼女たちをエスコートする騎士や貴族の男性たちもいる。
だが、その華麗なる世界を象徴するかのような光景をよそに、そこにはどこか張り詰めた空気が漂っていた。今日は、かねてより噂になっていた“公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク”と“グラント侯爵家嫡男ライオネル・グラント”との正式な婚約発表――もしくは、それに関連する重大な発表が行われると噂されていたからである。
エルフィンベルク公爵家は、王国の中でも屈指の地位と財力を誇る名門だった。歴史ある家柄でありながら、権威に奢ることなく国に仕える一族として、王室からの信頼も厚い。そして、その公爵家の令嬢として生まれたシルフィーネは、外見こそ幼く小柄であるものの、その可憐さと聡明さで多くの貴族から将来を嘱望されていた。
しかし、彼女はまだ十六の年若い少女。貴族の社交界ではもう少し大人びた装いをする者もいるが、シルフィーネの場合、愛らしさを前面に押し出しているわけでもないのに自然と“あどけない”印象を与えてしまう。そのため、一部の若い男性貴族からは「可愛らしい人だ」と評判を得ていたが、一方では「子供っぽい」「恋愛対象には見えない」と揶揄されることもあった。
グラント侯爵家の嫡男ライオネルは、まだ二十歳そこそこと若いものの、武勇と知略に優れ、王宮でも評価の高い青年だった。その整った容姿や社交界での巧みな言動、さらには高貴な家柄も相まって、常に女性たちの注目を集めている。
そんな彼とシルフィーネの婚約は、国中の話題と言っても過言ではなかった。公爵家と侯爵家――どちらも名家であるが、シルフィーネの家は特に王家に近い存在。一方のライオネルも、母方が王族に連なるという立場を持つ。この二人が結びつくことは、家同士の結びつきを強固にし、双方にとって大きな利益をもたらすと見られていた。
それに、ライオネルはシルフィーネに対して以前から「美しい花が咲くのを待つように、君の成長を見守りたい」と言っていたという噂もあり、“微笑ましい結びつき”として、貴族の間では好感を持って語られていたのだ。
しかし――その噂話を根こそぎ覆すかのように、今日の王宮では不穏な囁きが飛び交っていた。
「どうやら、正式な婚約発表ではなく、何か別の発表があるらしい」
「ライオネル様が、最近新しい愛人と噂されている方を伴ってくるらしい」
「まさか、婚約破棄などということは――」
ざわざわと人々の間で交わされる言葉は、まるで嵐の前の静けさを想起させる。誰もが、詳細は分からぬまま、ただ胸騒ぎを感じていた。
シルフィーネ自身も、その胸の奥に言いようのない不安を抱えながら、控室で待機していた。ドレスの裾を持ち上げて立ち上がり、鏡の前で最後の身支度を整える。本人は特に贅沢を好むわけではないが、公爵令嬢としての責務を果たすため、薄い桜色のシルクドレスを纏い、肩には繊細なレースがかかっている。背中から腰のラインにかけては緩やかに絞られ、小柄な身体を一層引き立てるデザインだ。
鏡に映る自分の姿を見つめながら、彼女は胸の奥で何度か深呼吸を繰り返す。自分はまだ十六歳。今の外見だって、周囲から子供っぽいと思われているのではないか――そんな不安は常にあった。
だが、今日は特にその思いが強い。最近のライオネルの態度がどこか冷たい。以前は微笑を絶やさず、優しい言葉をかけてくれたのに。昔は一緒にお茶会を開いたり、本を貸し借りしたりと、そこそこ良好な関係だったはず。けれど、ここ数ヶ月、彼はシルフィーネを避けるようになり、会話も素っ気ない。まるで彼女の存在自体がわずらわしいものだとでも言わんばかりだった。
(私、何か彼に嫌われるようなことをしたかしら……)
記憶を遡っても、心当たりはない。もちろん、貴族としてのマナーを欠くような失態も犯していないし、ライオネルとの約束を破ったこともない。そもそも彼は、シルフィーネがまだ幼い頃から「将来が楽しみだ」と言ってくれていた相手なのだ。
――それなのに、今この胸騒ぎは何なのだろう。
シルフィーネは、不安をかき消すようにもう一度深呼吸すると、侍女の手を借りてドレスのしわを整え、ヘアアクセサリーを確認した。冠ではなく、花をモチーフにした銀細工の飾りを髪にそっと差している。鏡を見れば、そこには凜と立つ一人の少女が映っていた。
「大丈夫……。私は私らしく、堂々としていればいい」
口に出した途端、少しだけ気持ちが落ち着くような気がした。これから何が起こっても、エルフィンベルク公爵家の名に恥じぬよう、矜持をもって振る舞う。それがシルフィーネの生き方だ。
そうして彼女が大広間へと足を踏み入れた時、そこにいた多くの貴族たちの視線が一斉に注がれた。
「おや、あれがエルフィンベルク家の令嬢か。小鳥のように可憐だな」
「ドレスの色合いが愛らしいわ。まるで春の花のよう」
そんな好意的な囁きもあれば、
「子供っぽい……もう少し大人っぽく振る舞えないのかしら」
「年齢を考えれば仕方ないけれど、ライオネル様には少し釣り合わない気もする」
などという厳しい意見も聞こえてくる。シルフィーネはそれらを耳にしつつも、表情を崩さない。顔に笑みを湛えながら、来客へ礼を示し、丁寧な言葉をかけていく。
このような社交の場において、表情や態度は自分自身の評価に直結する。ましてや今日のように“婚約”に関わる大事な場では、余計に失態は許されない。
周囲の貴族たちは、彼女の可憐な立ち居振る舞いに感心する者も多かった。決して怯むことなく、むしろあどけない風貌とは裏腹に、落ち着いた雰囲気を漂わせているからだ。
一方で、彼女を迎えたはずのライオネルは、なぜかその場におらず、別室で待機しているという。今日の主役が顔を揃えないことに、来客も薄々感じるものがあった。
(何かがおかしい。正式な婚約発表なら、どうしてライオネル様はここにいないの?)
シルフィーネはそう思いつつも、表向きは微笑みを絶やさず、談笑する貴族たちに挨拶をして回る。ほどなくして、王宮の侍従が大きく声を張り上げて宣言した。
「皆様、本日はお集まりいただき誠にありがとうございます。まもなく、グラント侯爵家の嫡男ライオネル・グラント様がいらっしゃいます。どうぞ、中央の方へお集まりくださいませ」
そして人々は、大広間の中央に作られた小さな壇の前に集まっていく。シルフィーネも侍女を伴いながら壇の正面へと移動し、ライオネルを待ち構える形になった。
やがて、奥の扉が開く。
そこから颯爽と歩いてきたのは、濃紺のタキシードに身を包んだライオネル・グラント。身長は高く、金色の髪はきっちりと整えられ、その端正な顔立ちが大広間の光に映えている。彼が歩くたびに周囲の貴族たちは道を開け、憧れの眼差しを向ける女性も少なくない。
だが――彼の隣に寄り添う女性の姿に、会場は一瞬にしてざわついた。
彼女は、淡い水色のドレスを身にまとい、肩を大胆に露出させたモダンなデザインの衣装を着こなしている。髪は褐色で、目元がきりりと引き締まり、豊満な体つきをしている。その姿は、少なくともシルフィーネのような“子供らしさ”とは正反対の“成熟した女性”を思わせた。
「アメリア・フォン・ローゼリック伯爵令嬢……」
誰かがその名を口にする。
ローゼリック伯爵家は、最近財政的に苦しいと噂されている家柄だ。しかし、このアメリアは社交界でその華やかな外見と奔放な振る舞いで有名だった。そして、ライオネルと密かに親密な関係にあるのではないか――と囁かれ始めたのは、ほんの数週間ほど前からである。
シルフィーネは、壇の前で微動だにせず、その光景を見つめていた。胸の奥が苦しくなる感覚を覚える。どうして今日という日に、アメリアと一緒に現れるのか。それも、まるで“これから発表がある”という場面で、堂々と彼女を伴うなんて。
(ライオネル様、いったい何を考えているの……?)
視線を落としそうになる心をなんとか奮い立たせ、シルフィーネは自身の背筋を伸ばした。公爵令嬢として、こうした場で感情的になるわけにはいかない。例えどんな発表があろうとも、まずは受け止めて冷静に振る舞わなければ――。
その想いを胸に秘め、彼女はライオネルの言葉を待つ。
すると、壇の上に立ったライオネルは、軽く深呼吸をしてから、まるで誰も予想しないようなことを口にした。
「本日は、私ライオネル・グラントとシルフィーネ・エルフィンベルク公爵令嬢との婚約に関しまして、重大な発表をさせていただきます」
ここまでなら、誰もが思っていた“公式な婚約発表”と同じだろう。しかし、ライオネルが続けた言葉は、その場にいた全員の予想を裏切るものだった。
「結論から申し上げますと――この婚約を白紙に戻すことを、ここに宣言いたします」
大広間を埋めたざわめきは、一瞬にして水を打ったように静まる。何かの聞き違いではないかと、ほとんどの者が思った。しかしライオネルは、その沈黙を切り裂くように、さらに強い声で宣告を続ける。
「私には、新たな婚約者が必要なのです。エルフィンベルク家には誠に申し訳ないのですが、シルフィーネ令嬢のような“子供”と結婚するのは、私にはどうしても無理だと感じました。私には、もっと大人の女性が相応しい。そして、そのお方こそが――アメリア・フォン・ローゼリック伯爵令嬢、なのです」
一言ごとに、その言葉は会場の空気を凍らせていく。誰もが信じられない思いで、壇の上のライオネルと、彼の隣で得意げに微笑むアメリアを見比べていた。
(え……? 婚約を、破棄……? それも、私が“子供”だから?)
シルフィーネは頭の中が真っ白になりそうになる。怒りとか悲しみとか、そういう感情が湧くよりも先に、現実感が失われていくようだった。
けれど、貴族としての矜持が、彼女を必死に正気へと引き戻す。
(落ち着いて、落ち着いて……ここで動揺を見せれば、私だけでなくエルフィンベルク家の名にも傷がつく。まずは事態を把握しなければ)
シルフィーネは、懸命に胸の奥で鼓動する心を抑え込むようにして、ライオネルに向き合った。
ライオネルは人々の前で、まるで自分が正当な理由を持っているかのように続ける。
「シルフィーネ令嬢を責めるつもりはありません。彼女はまだ幼いだけなのです。これは私個人の好みの問題と言ってもいいでしょう。私は、子供よりも成熟した大人の女性と人生を歩みたい。そう考えるようになったのです」
穏やかそうに言い放ってはいるが、その言葉はシルフィーネに対する明確な侮辱でもある。会場のあちこちから、「なんてことを……」「公爵家に対して失礼では?」「あまりにも一方的だ……」という声が囁かれる。
普通であれば、こんな場で婚約破棄など、本人同士や両家でひっそり話し合うのが通例である。ましてや“ガキは嫌い”というような理由で、正式な場で公言するなど、前代未聞の醜態だ。
しかし、ライオネルはこの時を待ち望んでいたかのように、さらに言葉を続ける。
「そこで、私はここにいる皆様に宣言いたします。私はエルフィンベルク公爵家との婚約を破棄し、新しくアメリア・フォン・ローゼリック伯爵令嬢と婚約を結ぶ所存です。これを王宮にも正式に認めていただきたい」
その瞬間、ようやく我に返ったシルフィーネは、静かに一歩前に進む。そして、ライオネルの言葉を受け止め、落ち着いた声で問いかけた。
「ライオネル様……本当に、私との婚約を破棄したいというお気持ちに変わりはないのですね?」
ライオネルは、まるで面倒なことを聞かれたとでも言いたげに、苦々しい表情を浮かべる。
「シルフィーネ、一度言ったことを何度も繰り返させないでくれ。俺はもう決めたんだ。お前のような子供とは結婚したくない。きっと、お前もそのうち分かる時が来るだろう」
それを聞いて、シルフィーネの小さな手がきゅっと握られる。人目には分からないほど微かな震えがあった。しかし、その震え以上に、彼女の瞳はどこまでも透き通り、そして冷静だった。
「……分かりました」
その一言に、ライオネルは怪訝な顔をする。まるで、“もっと取り乱して泣き崩れる”とでも思っていたのだろうか。
しかし、シルフィーネはただ冷静に、そして静かに微笑んだ。
「私は、エルフィンベルク家の令嬢として、あなたのご意思を尊重いたします。この婚約破棄については、正式な手続きを進めましょう。ただし、破棄するのでしたら、こちらにもそれ相応の話し合いと条件があります。どのように対処するかは、公爵家の顧問弁護士を通じて改めてお伝えさせていただきます。――以上です」
まるで事務的な処理をするかのような態度に、会場中が静まり返った。シルフィーネ本人が、もっと涙ながらに訴えたり、非難したりするのではと予想していた貴族もいたからだ。だが、彼女は毅然とした態度を貫き、一点の曇りも見せない。
ライオネルは動揺を隠せないのか、思わず顔を歪める。おそらく、“醜い争い”を演出してシルフィーネを悪者に仕立てようという意図があったのかもしれない。しかし、彼女が堂々と受け止める姿を前に、その筋書きが崩れつつあった。
一方、隣のアメリアは勝ち誇ったように口元を吊り上げ、シルフィーネを見下す視線を投げかけている。まるで「ほら、あなたは所詮子供。これが大人の女の勝利よ」とでも言わんばかりだ。
シルフィーネは一瞥もくれず、淡々と周囲の貴族たちに向けて深く一礼をした。
「皆様、本日は急な場での婚約破棄宣言にご迷惑をおかけいたしました。エルフィンベルク公爵家としても、これ以上は無用の混乱を招かないよう、事後処理を速やかに進めて参る所存です。どうか、今後ともよろしくお願い申し上げます」
その言葉に、一部の貴族たちはシルフィーネの冷静な態度に感嘆し、小さく拍手を送る者さえいた。誰もが無礼な場で、常識外れの言動を見せているのはライオネルの側だと分かっているからだ。
こうして、衝撃的な形で“婚約破棄”は宣言された。
会場の空気は重苦しく、人々は噂話を囁き合いながらも、表面上は何事もなかったかのようにそれぞれの談笑に戻る。しかし、その視線は時折シルフィーネへと注がれ、憐憫や賞賛、様々な感情が交錯していた。
シルフィーネ自身は、拍手を送ってくれた面々に軽く礼を示しながら、すぐに控室へ戻ろうと足を向ける。ドレスの裾が重く感じるのは、疲労のせいかもしれない。心の奥底には怒りも悔しさもあるが、今はそれを漏らすわけにはいかない。
「……ライオネル様……」
噛みしめるように口中でその名を呼ぶ。かつて、一緒に本を読んだり、馬車で遠出をしたり、穏やかな時間を共有した人だった。幼いながらに憧れにも似た感情を抱いたことさえある。
それが、一方的な“子供だから”という理由で婚約を破棄されてしまう。悔しくないといえば嘘になるが、それ以上に、彼の態度に対して呆れや悲しみが大きかった。
(きっと、私とでは得られない何かを、あのアメリアという女性に見出したのね。それが“成熟した女性らしさ”というものだとしたら……私は、まだまだということかしら)
子供っぽいと感じさせてしまう外見は、どうしようもない。もちろん、もう少し年を重ねれば自然に大人びた姿になるかもしれないが、今の時点では意図的にどうにかできる問題ではない。
ただ、一点だけ言えるのは、シルフィーネはこの婚約破棄を“受け入れる”と決めたということだ。理由がなんであれ、ここであがいても、ライオネルの心が戻るとは思えない。むしろ、両家の対立を深めるだけだろう。
(公爵家としてのプライドを守るには、私が冷静に対応し、必要な補償や条件を整理して提示すればいい。それこそ、今までどおり理性的に進めていくだけ)
けれど――その決意を固めて数歩歩いたところで、背後から声が聞こえる。
「シルフィーネ、待ちなさい」
声の主はアメリアだ。美しい水色のドレスの裾を揺らしながら、ゆらりと近づいてくる。その顔には勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
「……何かご用でしょうか、ローゼリック伯爵令嬢」
シルフィーネも、公の場であることを意識し、丁寧な言葉づかいを保つ。周囲の人々も何事かと注視している。
アメリアは、わざとらしくシルフィーネの顔を見下ろし、「まったく、驚いたわ。あなたがあれほどあっさり婚約破棄を受け入れるなんて」と吐き捨てるように言った。
「子供は子供なりに、取り乱すかと思ったけれど……意外と冷静なのね。もしかして、まだライオネル様の未練を捨て切れていないんじゃない?」
その言い草に、シルフィーネは内心で小さく息をつく。
「ご心配なく。私は、ライオネル様が判断されたことを尊重します。未練などございません。もともと、結婚は双方の合意によって成立するものです。どちらかが望まないのであれば、破棄は当然の結果でしょう」
さらりと言ってのけるシルフィーネに、アメリアはわずかに面食らったような表情を見せる。しかし、すぐに鼻で笑い、
「そう? まあ、あなたがどう思おうと、もうライオネル様は私のものよ。あなたみたいに子供っぽい娘より、私の方がずっと魅力的だって分かったのね。これで“女の幸せ”とは何か、ようやく理解したってわけ」
わざわざ人前でこんな嫌味をぶつけてくるのは、シルフィーネに“取り乱してほしい”という意図があるのだろう。あるいは、自分こそがライオネルの隣にふさわしい存在だと誇示したいのかもしれない。
(どちらにせよ、これに反応して感情を表に出すのは得策じゃない)
シルフィーネは穏やかな笑みを張り付けたまま、首を軽く振った。
「そうですね。もしあなたがライオネル様を本気で愛しているのなら、どうぞ末長くお幸せに」
淡々とした言葉に、アメリアの表情がさらに険しくなる。まるで、この場で争いをしかけることすら拒絶されているような、そんな歯がゆさを感じているのだろう。
周囲の貴族たちも、興味深そうに二人を見守っているが、あまりにあからさまに耳を傾けると失礼に当たるため、遠巻きにしている。
「……ふん、まあいいわ。これからはあなたも私たちを祝福してくれるでしょう。元婚約者として、敗北感を味わいながらね」
そう言い放つと、アメリアは踵を返してライオネルのもとへ戻っていく。その後ろ姿を眺めながら、シルフィーネは小さく息を吐いた。
(アメリア様……私を挑発して何がしたいのかしら。もしかして、まだ何か裏があるのか)
彼女がシルフィーネに感じる敵意は、単なる勝利宣言だけではないように思えた。ライオネルと結託して、あるいはライオネルを利用して、今後何かを企んでいるのでは――という不穏な疑念が湧く。
しかし、今はまだ何も確証がない。ただ、公爵家としては“あり得ない形”で婚約を破棄された以上、このまま泣き寝入りするわけにはいかない。
(父と母にも、この件を詳しく報告しなければ……。正式な手続き、損害賠償、今後の方針……やることは山積みだわ)
心の中ではそんな冷静な思考を巡らせながら、シルフィーネは控室に戻る。一人になれる空間に入ると、途端に身体の力が抜けて、思わず椅子に倒れ込むように座った。
顔が火照り、胸がひどく痛む。
(私、こんなに動揺していたんだ……。でも、人前では絶対に見せられない)
深呼吸を何度か繰り返しながら、頭の中を整理しようとする。一部の貴族たちが言うように、ライオネルとアメリアの関係は単なる“恋愛”だけではない気がする。ローゼリック伯爵家は多額の借金を抱えていると聞くが、ひょっとしてライオネルがそれを肩代わりしているのだろうか。
(ライオネル様なら、私の公爵家と結婚する方が遥かに安泰なはずなのに……。それでも私と別れてアメリア様を選ぶというのは、何か他の利点があるのかもしれない)
もっとも、彼にとっては“子供っぽいから嫌い”という言葉が本音なのかもしれないが。それでも、あのライオネルがここまで強引な手段を選ぶとは思えない。
(まあ、考えても仕方ないか。いずれ、裏事情があるなら明るみに出るはず)
そう思い直し、シルフィーネは気持ちを切り替えようとした。これ以上、この一件に振り回されてはいけない。公爵令嬢としての誇りを守るため、今すべきことを淡々と行うだけだ。
――それからしばらくして、大広間の儀式的なパーティはお開きとなった。
エルフィンベルク公爵や公爵夫人、彼女らの顧問たちも対応に追われている。各方面への根回し、婚約破棄に伴う手続き、そして何より“今回のような突飛な宣言”を受けて王家がどのように動くかを注視しなければならない。
シルフィーネは父母と落ち合うが、父は冷ややかな目で「ライオネルめ……我が家をここまで侮辱するとは。徹底的に責任を取らせねば」と呟いた。母も激怒しているが、表向きは淑女らしさを崩さず、「シルフィーネ、あなたが無事で何よりでした」と優しく声をかけてくれる。
「ええ、母様……私なら大丈夫です。相手がどうこうより、私たちには私たちのやるべきことがありますもの」
その言葉に、母は穏やかに微笑み、娘の背をそっと撫でた。父も、「お前が取り乱さずにいてくれたのは助かった。さすが私の娘だ」と、誇らしげに言う。
だが、その後ろにはやはり悲しみや怒りが見え隠れする。大事に育ててきた娘が、理不尽な理由で婚約破棄を言い渡され、それが大勢の貴族が見守る中で行われたのだから当然だろう。
シルフィーネはそんな両親の思いを汲み取りながら、なんとか心を平静に保とうと努めていた。
その夜――。
パーティから帰宅したシルフィーネは、自室の大きな窓辺に寄りかかりながら、澄んだ夜空を仰ぎ見ていた。部屋の中は、暖炉の灯が淡く揺れている。外に目をやると、満天の星が瞬いており、遠くには王都の街並みが夜の闇に沈むように広がっている。
(あんな形で婚約破棄されたから、もうライオネル様とは二度と顔を合わせる機会もないのかな……)
そう思うと、ほんの少しだけ胸が軋むのを感じる。かつては、「成長したら美しい花になってくれる」と言ってくれた人なのだ。短いながらも、それなりに良好な関係を築いてきたと信じていた。
(でも、あの時の言葉は全部嘘だったのかもしれないわね。私は“可愛いお人形”程度にしか思われてなかったのかも。所詮、まだ子供――か)
鏡を覗いても、そこには小柄であどけない少女が映っている。背を伸ばす方法や大人っぽい振る舞いを身につける努力はしてきたけれど、急に変われるものではない。
「仕方ないわよね……」
呟きながら、彼女はそっと瞳を閉じる。婚約破棄は悔しいが、ある意味では自由を得たとも言える。人生はこれから先、どうにでも変わっていくのだ。
エルフィンベルク公爵家の一員として、国や家を支えるために自分ができることを見つければいい。結婚だけが幸せでもなければ、ライオネルだけが男ではない。
(もしまた、私を必要としてくれる人が現れるなら、その時に改めて考えればいい。とにかく今は、公爵家の汚名を晴らすため、必要な手続きを進めて……)
そこまで考えたところで、扉が軽くノックされた。
「失礼いたします。お嬢様、よろしいでしょうか」
侍女の声だ。どうやら手紙が届いているらしい。シルフィーネはドアを開け、差し出された封筒を受け取る。封蝋には、見覚えのある紋章が押されていた。
――グラント侯爵家、ライオネル・グラントの紋章。
(え……今さら、何の用?)
シルフィーネは眉をひそめつつ、封を切って中を読む。そこには、衝撃の内容が記されていた。
要約すると、ライオネル側は“正式な婚約破棄”における条件を、エルフィンベルク家ではなく“王家の仲介”を通じて行いたいと要求してきているというのだ。しかも、自分たちに有利な条項ばかり並べてあり、“破棄される側”であるシルフィーネが賠償金を支払うように求めている。
(まさか……! 私が破棄された立場なのに、どうして私が支払うの? 結婚の準備にかかった費用は向こうもあるはずなのに、こんなの一方的すぎる……!)
怒りが込み上げると同時に、ライオネルの狙いが見えてくる。
――おそらく、王家に取り入っている彼は、この問題を“シルフィーネ側に非がある”という形で収めようとしているのだ。そうすれば、ローゼリック伯爵家との結婚においても利点があるし、グラント侯爵家のイメージを守ることができる。
そして、公爵家に多額の賠償金を支払わせることで、自分たちの懐を潤すこともできる。アメリアの実家の借金返済に宛てるつもりなのかもしれない。
「……許せない」
シルフィーネは思わず唇を噛みしめる。ここまで人を馬鹿にしたやり方があるだろうか。しかも、国王の甥という立場を利用し、“王家の仲介”という形で押し通そうとしている。
(でも、泣き寝入りするわけにはいかないわ。もし本当にそういう手段を使うつもりなら、こちらも正面から戦ってやる)
シルフィーネは改めて決意を固める。これで、ただ黙っていてはエルフィンベルク家の名誉が汚される。自分が子供っぽいからと侮っているのなら、思い知らせてやらなければならない。
(私は確かに幼いかもしれない。でも、その分、頭を使って戦うことはできる。父様や母様、そして周囲の支援もある。負けるつもりなんてないわ)
暖炉の揺らめく火を見つめながら、シルフィーネは手紙を固く握りしめる。心の内側には、ふつふつと煮えたぎる怒りと、静かに燃える闘志が同居していた。
――今日の昼間、あの王宮の大広間で見せた冷静さは、決して“何も感じていない”という意味ではない。むしろ、この裏切りに対する怒りは、彼女の内側で大きく膨れ上がっているのだ。
「いいわ、ライオネル様。あなたが私を“子供”呼ばわりしたこと、一生忘れません。あなたたちが私を侮った代償、きっと払ってもらいますから――」
そう静かに誓った時、暖炉の火がぱちりと音を立て、少しだけ炎が高く揺れた。まるで、少女の心の内に宿った強い意志を象徴するかのように。
これが、エルフィンベルク家の公爵令嬢、シルフィーネ・エルフィンベルクの“婚約破棄”の始まりだった。
まだ十六歳の、あどけないとさえ言われる少女。しかし、その瞳はもう子供ではない。矜持と怒りを糧に、シルフィーネは今後、周囲の陰謀を次々と切り崩していくことになる――その序章が、まさに今、切り開かれようとしていたのである。
こうして、波乱の夜は更けていく。
王宮のあちこちには、依然として婚約破棄の噂話を続ける貴族たちが残っていた。ある者はライオネルを非難し、ある者はシルフィーネを憐れみ、またある者は面白がって次の展開を待ち受ける。
だが、どんなに人々が憶測を並べようと、シルフィーネの内なる決意は揺るがない。すべてを冷静に受け止め、時には冷徹な判断も下していくだろう。その瞳に浮かぶ光は、まるで幼さを脱ぎ捨て、未来を掴もうとする一人の“戦う淑女”の姿を映し出しているかのようだった。
セクション2
「子持ちになったけど、私が一番年下ってどういうこと?」
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初対面の子どもたちとの会話を終えたあと、わたくしは深く、深くため息をついておりました。
「……これ、無理ゲーではありませんか?」
わたくしは今、十二歳。なのに、夫の子どもたちは全員年上。
成人している長男、次女、思春期真っ盛りの三男、そして唯一の“未成年”でさえ十五歳の末娘――つまり、全員わたくしより上ですの!
「どう考えても、わたくしが“子供”ですわよね……?」
だけど、名実ともにわたくしは“リーデン侯爵夫人”。
公的には“クラウス様の正妻”であり、あのお子さまたちにとって“母”という立場ですの。
(形のうえでは……ですけれど)
「奥様、お部屋のご案内をいたします」
困惑とプレッシャーに包まれる中、メイドのマリアが声をかけてきました。
「ありがとう、マリアさん。……ご案内、お願いしますわ」
広すぎる屋敷の廊下を歩きながら、心の中では不安がくすぶり続ける。
(わたくし、本当に“母”としてうまくやっていけるのでしょうか……)
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案内されたのは、一階の奥にある日当たりの良い小部屋。
白を基調とした内装に、桃色のカーテン。優しい雰囲気のお部屋ですわ。
「奥様専用のお部屋でございます。主寝室はクラウス様と別に、当面はこちらをお使いくださいとのことです」
「あら、そうなんですの?」
(よかった……とりあえず、初日から“夫婦の営み”なんて展開はなさそうですわね……)
もちろん、妻としての役目は理解しております。
けれど、まだ十二歳ですのよ!? 無理ですわ、いろいろと物理的に!
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その日の午後、屋敷の図書室で“奥様らしくなるための勉強”をしていると、またしても子どもたちと顔を合わせることになりました。
「なにしてんの、ママ」
「勉強ですわ」
「え、ママってまだ勉強すんの?」
「ママだからこそ、勉強が必要なんですの!」
ユリウスがくつろいだ様子でソファに座りながら、呆れたように言う。
「……教育ママ? に、似合わねー!」
「し、失礼ですわねっ! わたくし、びしびしやりますのよ?」
「それ、むしろ不安なんだけど……」
そこへマリーベルが紅茶を持ってやってきた。
「まぁまぁ、ユリウス。ママは今、一生懸命“母親”になろうとしてるんだから、あまりいじっちゃダメよ」
「マリーベル様……」
「わたくし、まだママって呼ぶのには慣れないけど。でも、あなたの努力は分かるから」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなる。
(……わたくし、頑張りますわ)
---
その夜。
リーデン家の夕食は、基本的に家族全員で揃ってとるのが習わしだそうです。
つまり――
「……では、いただきますわ!」
食卓に並んだ子どもたち全員に対して、十二歳のわたくしが“主婦”として挨拶するという、異様な光景が展開されておりました。
「“いただきます”って、普通ママが言うの?」
「え? じゃあ誰が言うんですの?」
「……いや、ママが言って正解なんだけど、絵面がなぁ……」
「可愛いからヨシってことで!」
「はい、そこ! からかっていると、おやつ抜きにしますわよ!」
「「「えー!?」」」
そんな日常の中に、少しずつ――“家族”としての空気が芽生え始めていたのでした。