目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報
記憶喪失になったので、恋人だと紹介されたコワい人と生活を始めました。
記憶喪失になったので、恋人だと紹介されたコワい人と生活を始めました。
悠月 星花
異世界恋愛ロマファン
2025年08月03日
公開日
1.2万字
完結済
目を覚ましたら、ベッドの上でした。 私を心配して現れたカップルと私を睨む一人の男。 カップルの男が話しかけてくるが、その人物が誰かわからない。 その場に来てくれた三人の記憶がなかった。 どうやら、私は頭を打って、記憶喪失になったらしい。 カップルの男から、「ケイトの恋人」として紹介されたのは、他でもない私を睨んでいる男で……。

記憶喪失になったので、恋人だと紹介されたコワい人と生活を始めました。

 目が覚めたとき、王宮の看護師が私を介助して、ベッドに座らせてくれた。

 ベッドで眠っていた経緯について、何があったのか覚えていなかいが、頭の痛みと包帯が痛々しい。


「大丈夫ですか? ケイト様」

「えぇ、少し痛みますが、大丈夫です。ありがとうございます」


 そんなやり取りを看護師としていたところ、3人の男女が部屋に入ってきた。三人をそれぞれみていると、カップルの男が、ベッドに座っている私に近づいてきた。少し困ったような、心配をしてくれているような顔で私を見つめる。

 ベッドの裾に立っている女は、表情はとても心配しているようだが、目はそうではなかった。私に向けて、どんな感情があるのか。嫉妬のような見下したような苛烈な感情と痛々しい私を憐れむように見つめてくる。

 最後に入ってきた男は、特に印象的で、扉の前に腕を組んで立ち、私を睨んでいた。見ただけではどんな感情があるのか全く読めず、仏頂面に鋭い睨みを利かせているので、とても怖い印象だ。


「ケイト、大丈夫だったのか? 王女様のお茶会の途中、階段から落ちたと聞いて……」

「そうみたいですね? 頭を少し打ったようです」


 私は頭に巻かれている包帯を触りながら、その男に微笑んだ。


「そんなっ! 侍医はなんて言っているんだ?」


 私の近くにいる男から聞かれた看護師が、「しばらく痛みはあるが、特に問題はない」と、伝えた。

 ホッとしたような表情をする男を私はジッと見つめた。


 ……誰だろう?


「ケイト」

「……あなたは、どなた様ですか? 私の家族ですか? それとも恋人?」

「覚えていないのか?」


 素直頷き、私を見つめている男に聞いてみると、一瞬驚いた表情をしたあと、ベッド側にいた女と目配せしている。私の視線も、彼の視線を追ってみていると、女は勝ち誇った表情を隠した。こちらに向き直った男が、ニッコリと笑う。


「ケイト、オレは、キミの友人で、コマーシャ。あっちの女性は、キミの親友のイザベラ。それと……」


 ドアの前で私を睨んでいた男にコマーシャは駆け寄り、その男の両肩に手をやり、微笑んだ。


「セドリック、キミの婚約者だ!」


 コマーシャがそう言った瞬間、ずっと仏頂面だったセドリックが初めて表情を崩す。とても驚いたようで、目を見開いてコマーシャの方を見ている。セドリックより背の低いコマーシャであるが、グイグイと引っ張って、私の元までセドリックを連れてくる。


「…………」

「ほら、リック? ケイトが怪我をしたんだから、具合を聞かないと!」

「コマーシャ!」

「なんだい? 病室でそんな大きな声を出して。キミの婚約者が負傷したんだから、心配だろう? 早く屋敷に連れて帰ってあげないと! ほら、抱き抱えてあげて」


 まるで、私をセドリックに押し付けるように、コマーシャは強引に連れ出そうとしてくる。私は、「私にも帰る場所がある」と言ってみたが、強制的にコマーシャに遮られ、渋々と言ったようにセドリックは私を抱き抱えた。

 馬車までの時間だと思って、私も言われるがまま、セドリックにしがみついたが、なんとなく感じる、懐かしさらしいものはない。

 その代わりと言ってはなんだが、とても、心をざわつかせるようなセドリックの香水にドキドキした。


「うわぁ……」


 歩き始めたセドリックは、突然叫ぶ腕の中にいる私を睨んだ。私は慌ててセドリックの首に腕を回し、落ちないようにとしがみついた。


「な、なんでもありません。大きな声を出してしまって、申し訳ありません」

「……気にするな」


 ぶっきらぼうな物言いに、それ以上の会話は存在しない。私は静かにセドリックの顔を見つめた。


 ……何も思い出せない。


 セドリックを見ているより、コマーシャの方が懐かしさを感じる。チラリと覗き見したら、イザベラと腕を組んで、何やら嬉しそうに話していた。

 私は視線を戻し、セドリックを観察する。


「なんだ?」

「いえ、何も。……いえ、あの、私、本当に……」

「恋人なのか? と?」

「はい。なんだか、違う気がして……」

「どうして?」


 一瞬だけ、セドリックが私の方を見た。目が合ったが、すぐに前へ視線を戻したセドリックの感情は読み取れない。ただ、見つめ合った目は、とても印象的であった。


「……うまく言えないのです。でも、何か違うような気がして……」

「そうか。記憶喪失なのだから、忘れてしまっていても仕方がない。また、1から関係を作っていけばいいだろう?」

「……でも、それには、その…………」


 言い淀んでいるうちに、馬車に着いたようで、中に放り込まれた。私は慌てて座席に座り直し、乱暴にされたことが不満であった。さっきまで、コワそうに思えたセドリックを睨んでやる。

 それに気がついたセドリックが、ふっと意地悪く笑ったあと、馬車に乗り込んで扉を閉める。


「感情がともわないから不安とでも?」


 私を見つめてくるので、反論しようとしたとき、唇に柔らかいものが触れる。先ほどの乱暴な扱いとはまるで違う優しいキスだった。


「な、な、な、何を!」

「何って、ただの挨拶だろう? 恋人なら、普通にしていることだ。そんなに驚くほどのことではない」


 淡々と私の言葉を切り捨て、隣に座るので、少し間を開けて、座り直した。それを面白く思っているのか、クックッと笑ったあと、御者に屋敷へ向かうよう伝えている。


「そんなに嫌だったか?」

「…………それは」

「いつものことだと言っている。嫌なら、次からは突き飛ばせばいい」

「突き飛ばすだなんて……」

「じゃあ、どおしてほしい?」


 探るようにこちらを見てくるので、「少し時間をほしい」と願った。すると、案外、セドリックは、私の意見を聞き入れてくれるようで、「わかった」と返事をしてくれる。


「期間を決めよう。いつまでも、この距離というわけにはいかないだろう?」

「……3ヶ月はどうでしょう?」

「長い。1ヶ月だ」


 その言葉のどおり、私は頷き、セドリックとの生活を始めることにした。


 私の記憶違いではないと思うが、このセドリックという男は何を考えているのかみじんもわからなかったが、私への優しさが全くないのではないことは、先ほどのキスからもわかる。

 ただ、記憶がない私にとって、『恋人だ』と目の前に現れたセドリックを完全に信用することはできなかった。


 屋敷に戻ると、メイドたちが、私を見て驚いている。侍女頭が出てきて、2、3、手を叩けば、みなはキビキビと迎えの挨拶をして下がっていく。


「セドリック様、連絡はいただいています。ケイト様のお部屋に、まずは、ご案内いたしますね」

「わかった。足りないものがあれば、好きに買ってくれ」


 2人がこそこそと話している内容は、少しだけだが耳に入ってくる。やはり、私は、セドリックと付き合っていなかったようで、急いで部屋を整えているのではないかと訝しんだ。


「あの……」

「ケイト様のご両親への連絡は済んでおります。ひと月の間、療養のため、セドリック様の屋敷に留まると伝えてありますので、後ほど、お屋敷からも荷物が届くと思います」

「それって……」

「セドリック様はケイト様を屋敷への招待をずっと待ち望んでおられましたが、なかなか叶わず。本日、やっと叶ったのですよ! 以前より、ケイト様好みのお部屋はご用意しておりますので、どうぞ、ごゆるりとお過ごしください」


 侍女頭の笑顔があまりにも自然で、私も今の話が嘘のようには感じず、部屋への案内をしてくれるよう

に言ってしまった。



 記憶喪失になって、2週間が経った。屋敷にも慣れ、1人で庭を散策するくらいは、許可がおりていたので、咲き始めた庭園の花々を見るために、庭園の東屋へ向かう。

 しばらく歩いていると、影になった場所から、聞き慣れた声が聞こえてくる。私は注意深くそちらへ向かうと、セドリックとコマーシャが何やら話し合っている。


「リック、あくまでもアイツはオレの婚約者だからな! オレが見ていない場所で、指一本でも触れてみろ?」

「どうするつもりだ?」


 コマーシャがセドリックに詰め寄っているので、しばらく、その場で話を聞いていることにした。


 ……アイツとは、誰のことでしょう? セドリックには、他にも女性がいるということかしら?


「ケイトをオレの元へ連れ戻す!」

「はぁ……。そもそも、イザベラを取ったのはコマーシャじゃないか? 今更、ケイトを連れ戻して……」

「いいか、リック! ケイトはお前じゃなくて、オレを愛しているんだ。記憶喪失の間、イザベラと楽しい時間を過ごすだけで、誰にも譲るつもりはない!」


 私はコマーシャの言葉に耳を疑った。


 ……今、なんて言ったの?


 理解に苦しむようなコマーシャの言葉に、私は絶句していたが、セドリックもセドリックだ。私は怒りにが湧いてくる中、ふと、セドリックの言葉が気になった。

 記憶喪失になった私をコマーシャに急にあてがわれたセドリック。この屋敷へ来てからは、とても優しく気遣ってくれ、穏やかな日々を過ごしている。記憶がない分、セドリックとの関係に違和感を感じていたが、この日々を続けていけるのなら、過去を手放して、新しくセドリックとの関係を築いていってもいいのではないかと思い始めていた矢先のことだった。


「ケイトが望むなら、コマーシャの元へ帰すさ」


 いつもとは、違い、少し自信のなさげな声が、私の胸の中にある不安を大きくさせていく。


「ケイト様! どちらにいらっしゃいますか?」


 メイドが私を呼びに来てくれたらしく、声が聞こえてきた。目の前にいる2人は、私が近くにいるのではないかと少し焦ったように周りを見渡しているが、彼らからは、こちらを見つけることはできないだろう。

 静かにその場を離れ、私の名を呼んでいるメイドの後ろから近づき、わざと見つかるように声をかけた。きっと、このメイドの声は、2人にも聞こえているのだから、少し離れた場所から出ていく。


「探してくれたのね! ありがとう」

「えぇ、お探ししていました」


 満面の笑みを浮かべ、私を視認するとメイドは駆け寄ってくる。


「どこに向かわれたのかと……」

「少し、散策でもしようかと思って」


 メイドと東屋まで行く話をしていると、庭の奥から戻ってきたセドリックが何事もなかったかのように声をかけてくる。


「セドリック、私と一緒にお茶はいかがかしら?」


「忙しい」と切り捨てられるかと思っていたが、返事は良かった。いつも、無表情で怒っているのか感情が読みにくかったが、ここ数週間、一緒に過ごす日々で、少しだけ表情を読み解くことができるようになった。


「セドリックは、なぜ、いつも、私を睨んでいるように視線をむけてくるの?」

「……そんなことはない」

「いいえ。本人がそう思っていなかったとしても……蛇に睨まれたカエルのように、生きた心地がしないわ。ほら、こうやって……」


 私は少し背伸びをしながら、両方の人差し指でセドリックの口角をにゅっとあげる。背の高いセドリックは、後ろに下がったので、私はバランスを崩して前に倒れ込んでしまった。目の前にいたセドリックは、私が転ばないように抱き止めてくれ、小さなため息をついている。


「あ、あの……ごめんなさい。その、もっと、笑顔が増えたら、素敵だろうって……」


 口早に理由を言って、セドリックの腕の中から解放してもらおうともがいたが、体がしっかりしているセドリックの腕は私の力如きでどうにかなるものではない。しばらくすると、セドリックの体が小刻みに震えている。私はそっとセドリックを見上げた。

 すると、この屋敷に来てから、一度も笑ったことがなかったセドリックが笑っているではないか。


 ……笑ってる? あの鉄仮面のような人が?


 不思議しそうにしていると、私の右手をとり、自身の頬に沿わせる。


「おかえり、ケイト」


 優しい声に何を言ってるのがわからず、首を傾げてみると、おでこにキスをされた。


「あの」

「なんとなく。今まで、どこか緊張しているようだったし、ケイトから俺に触れてくるのは初めてだろ?」


 指摘され私は頬が急に熱くなった。ビックリして、セドリックを突き飛ばして距離をおく。


「どうかした?」

「ど、どうもしていません!」

「それより、少しだけ、距離が近くなったかな?」


 クスクス笑いながら、私の手を取り、屋敷へ戻ろうとしている。


 ……東屋に行こうと思っていたのに。


 少し残念そうにしていると、私の方をチラッと見たあと、メイドにお茶の用意をするようにと東屋の方へ向かい始めた。


「少し外でゆっくりしよう」


 そう言って、反対方向へ歩き始めたので、私は後ろからついていく。歩調を合わせてくれたので、隣に並んで歩く。


「屋敷には慣れたか?」

「はい、皆がよくしてくれるので」

「そうか。……俺は、どうだ?」


 セドリックの言葉に私は思わず見上げると、いつもとは違い、不安そうに眉が歪んでいた。私は内心驚いたが、口には出さずに、「慣れました」と伝えた。実際、私の記憶にはセドリックへの気持ちはないように思える。懐かしさであったり、何か感じるものがなかったからだ。

 この屋敷へ療養と称しお世話になってからの献身ぶりに心を寄せるようになった。たった2週間だけのことでも、私には十分すぎた。


「じゃあ……」


 ただし、さっきのコマーシャとの会話が私には気になる。何を意味しているのだろう……と思うと、素直にその先の言葉を言えそうにない。


「期日までは、このままでもよろしいですか?」


 やんわり断り、私たちはまた東屋まで歩き始めた。

 東屋についてからは、セドリックの昔話を聞く。私との出会いの話を聞きながら、何かが違うような気がしてきたが、たわいもない話は続いていく。


「そういえば、もうすぐ、お城で夜会がある。行くか?」

「行ってもよろしいのですか?」

「もちろんだ。ドレスも用意しよう」

「わぁ! 嬉しいです。素敵なドレスを楽しみにしていますね?」


 1週間後にある夜会の約束のあと、名残惜しそうなセドリックは公務へ向かわないといけないらしい。私が手を握って「いってらっしゃいませ」と言うと、セドリックははにかむようなむずがゆいような表情をしたあと、「いってくる」と頬にキスをして東屋から去っていく。

 そのセドリックの背中を見ながら、このまま記憶が戻らなくてもいいのではないかと、ふと思ったのである。



 夜会の日、朝から支度に追われている。女の支度ほど、時間がかかるものはない。セドリック曰く、「母の支度に何時間もかかっていたことに腹立たしく思っていたが、ケイトの支度だと思うと楽しみで仕方がない」らしい。

 セドリックの母が、何故、夜会一つにそこまで時間をかけるのかわからなかったようだが、私を着飾るためにメイドたちが働きバチのように動き回っているのをみると、母に対して文句を言っていたことを「悪かったな」と呟いていた。

 夕方になり、準備が整った私をセドリックがエスコートしてくれる。メイドたちの綿密な連携プレーのおかげで、私は玉のような美しさとセドリックが贈ってくれたドレスの相乗効果のおかげで、何倍も見栄えがしているようだ。

 夜会会場へ向かってから、馬車からエスコートされ降りる私をチラチラと見る貴族たちがとても多い。


「きっと、今夜の会場中の視線は、ケイトが独り占めだな」


 セドリックがクスクスと笑いながら耳打ちしてくるので、恥ずかしくなってきた。夜会会場に入った瞬間、セドリックが言ったように、私への視線がさらに増えたように感じる。

 二人で会場を少し歩いていると、後ろから聞き覚えのあるコマーシャに呼び止められた。私たちは振り返ると、その場には、コマーシャとイザベラが立っていた。


「ケイト、素晴らしいよ」


 そう言って、私に手を伸ばしてくるコマーシャに私は戸惑った。コマーシャ自身が、「セドリックが恋人だ」と私に告げたのに、無遠慮に私に触れようとしてくる。私は後ろに下がろうとしたとき、腰に手を添えられた。伸ばされたコマーシャの手をセドリックが払い除けた。


「リック?」

「あぁ、悪いな。汚い手で、ケイトに触れて欲しくないんだ」

「なんだと?」


 セドリックを睨んだコマーシャは、胸元を掴み掛かり、何事か話していた。私には聞こえなかったが、苦虫を潰すような表情になったコマーシャは、私たちを睨んだあと、イザベラの手を取り去っていく。乱暴に歩くコマーシャに振り回されるように歩くイザベラは、「痛いっ!」と言っているが、コマーシャは止まることなく、大広間から出ていった。


「良かったのですか?」

「あぁ、コマーシャのこと? 気になる?」

「友人なのでしょ?」

「正確には、友人だっただよ。今は、もう、たたの知り合い程度だ。さぁ、夜会を楽しもう」


 そう言って、セドリックは私をエスコートしてダンスホールへと向かう。記憶喪失になってから、外へ出たのが久しぶりだったので、少し羽目を外してしまったようで、とても楽しい時間を過ごした。

 帰るころには、疲れていて、馬車に乗ったあと、屋敷まで眠っていたらしい。

 揺れに気がついたとき、私はセドリックに自室まで抱きかかえられ、運ばれているところだった。


「セドリック、ここは?」

「もうすぐ部屋に着くから」


 そう言われて、屋敷に戻ってきたのだとわかった。ベッドに座らされ、ハイヒールを脱がせてくれる。


「ゆっくり休んで」


 部屋から出て行こうとするセドリックの服を咄嗟に掴んだ。


「どうかしたか?」

「……あの、」

「ん?」

「今日は、ありがと、ございました」

「あぁ、いいよ。当然のことだろう?」


 コマーシャから守ってもらったお礼をいうと、柔らかく笑うセドリック。今までのどの笑顔より優しいその表情に胸がざわつく。


「それじゃ、もう、いくよ」


 部屋を出て行こうとするセドリックの服を掴んだままだったので、その手にセドリックの大きな手が重なった。


「これでも、1ヶ月の約束を守るために自重しているつもりなのだけど?」

「……わかっています。でも、今日は、一緒にいてほしいです」

「その意味はわかっているのか?」

「……はい」


 俯いていく私の顎をくいっとあげられ、セドリックと視線がぶつかった瞬間、キスをされた。今までとは違う、そう、少し乱暴なキスだった。

 私は、セドリックの頬に手を当てれば、そのまま、後ろに倒されていく。


 カーテンが少し空いている。満月の光が、私の部屋へと差し込んでいた。



「おはよう」


 日が昇り始めたのか、太陽の暖かさがやんわりと部屋に差し込む。声の方を見ると、セドリックが優しい表情を私に向けていた。


「……おはようございます。セドリック」

「体は、その……」

「大丈夫です」


「そう」と呟いたあと、セドリックは私の頭をそっと撫でた。目を細めて髪を撫でられていると、外からメイドの入室許可を求める声が聞こえてきた。私が返事をしようとしたとき、「少し待て」とセドリックが先に返事をしてしまう。

 近くにあったガウンを私に着せ、セドリックは素早く着替えていく。


「風呂に入ってゆっくりしておいで。そのあと、朝食を食べよう」


 時間的にまだ、少し早い朝だったのだが、私が風呂から出てきて廊下を歩いていると、2階からセドリックと女性の声が聞こえてきた。


「何度も言っている。イザベラには、関係のないことだろう?」

「そうはまいりませんわ! ケイトが記憶を戻したと思うと……」


 私は階段を昇っているときだった。セドリックと目が合い、その視線を追うイザベラ。泣いていたのか、目が赤いイザベラは、私を見るなり、階段を駆け降りてきて、私を突き飛ばした。


「な、」


 私はそのまま後ろに倒れるように階段から落ちていく。手を伸ばして駆け降りてくるセドリックの動きがやけにゆっくりに見えて、私も必死に腕を伸ばした。

 あと少しだった。指先が触れ合うところだった。

 セドリックの手も私の手も空を掴み、ドサっという音とともに、私は階段の1番下まで落ちた。頭を強く打ったようで、そのまま意識を失った。



 目が覚めたとき、窓の外は夕方なのか、空がオレンジ色に見えた。私の手をしっかり握りしめて、ベッドのふちで眠っているセドリックを見てなんだかホッとした。


「セドリック様」


 名を呼ぶと、浅い眠りだったようで、目を開けるセドリック。みるみるうちに困ったような表情になり、心配そうにしている。


「ご心配おかけしました。半日も眠っていたのですね」


 ベッドから起きあがろうとした私を静止し、首を横に振る。


「3日だ。ケイト、3日も眠っていたんだ!」

「……3日もですか? あの朝、セドリック様は、イザベラと話をしていて……」

「あぁ、そうだ。イザベラがこの屋敷へ来ることはないから安心して、もう少し休みなさい。医者を呼んでくる」


 握っていた手を離し、部屋を出ていくセドリック。扉の前で「よかった」と一言呟いた。

 私は、そんなセドリックの背中を見送る。そもそも、私は何故、セドリックに手を握られていたのかと考えた。

 そのとき、浮かんだのは、この茶番劇を始めたコマーシャの言葉だった。


「あぁ、そうだった。コマーシャがイザベラと浮気をするために、記憶を失った私にセドリック様が恋人だと嘘をついたのだったわ。記憶が戻ったみたいね」


 私は天井を見ながら、記憶喪失になる前となった後のことをつなぎ合わせていく。

 セドリックは、コマーシャの浮気と知りながら、私を恋人として受け入れた。

 いつも、セドリックには、良い顔をされていなかったため、とても苦手意識を持っていたことを思います。


「……私、セドリック様と」


 数日前のことを思い返してながら、あの時間はなんだったのだろうと考える。この屋敷に来てからというもの、セドリック本人から冷徹にされたこともなく、屋敷の侍従たちは、私の世話をやけること喜んでいた。

 セドリックに嫌われていたはずの私が、この屋敷で邪険にされたことはない。数日前だって、セドリックを自室へ帰さなかったのは、私のわがままだ。

 打ち付けて痛い頭で、今までの経緯を考えていると、部屋の扉が開いた。セドリックが医者を連れて戻ってきたのだ。

 医者のいうところによると、後頭部を強打しているので、しばらくは安静にするようにということだ。診断だけ終わると、医者は退席し、部屋に2人きりとなる。


「痛むか?」

「少し痛いですけど、心配はいりません」


 握られた手の温かさがとても心地よい。こうやって心配してくれるセドリック。今なら、私への本心が聞けるのではないかと見つめる。


「どうした?」

「いえ、この屋敷にきてから、とても良くしていただきました。セドリック、様。お伺いしたいことがあります」

「なんでも聞いてくれ」


 その言葉に微笑みながら、私は疑問に思っていることを口にした。


「いつから、私のことを好きになったのですか?」


 少し驚いたようで、表情が崩れる。屋敷に来る前の私が知るセドリックは、いつも鉄仮面のような仏頂面でいつも私を睨んでいた。そんなセドリックも、屋敷の中では、表情も多少和らぐ。ただ、それでも、表情に感情があまりのることはなく、一緒に暮らすようになってから、鉄仮面の下の感情も読み解けるようになった。


「もう、ずっと昔から、ケイトのことを愛していた」

「ずっと昔から?」

「あぁ、そうだ。コマーシャと付き合う前からだ」

「……何故、コマーシャの名が?」


 今度は逆に私が驚かされた。いつから、記憶が戻ったことに気がついたのか。


「戻っているのだろう?」


 隠し通せるものでもないので頷き、いつ、気がついたのかも尋ねた。無意識のうちにセドリックに敬称をつけて呼んでしまったことで、記憶が戻ったのだと気がついたようだ。


「茶番劇はここまで。ケイト、コマーシャの元へ……」

「帰りません。セドリック様さえよければ、私は、あなたとこの恋の続きをしたく……」


 ベッドに寝ている私をセドリックが抱きしめてくる。


「セドリック様?」

「いいのか? コマーシャのところへ戻らなくても」

「はい。始まりはどうあれ、私の心は、もう、あなたの元にあります。記憶をなくして不安だった私を献身的に支えてくれたのは、他でもないセドリック様ではありませんか?

「それは、下心があって……」

「始まりはどうあれと、言いましたよ? 私をあんな浮気男に返すのですか?」


 首を振るセドリック。その背中に、私も腕を回した。この数週間、ずっと、支えてくれたことに感謝を告げる。


「私だけを愛してくださいますか?」

「もちろんだ、ケイトを心からキミを愛している」

「それなら、問題はございません。私もセドリック様のことを心からお慕いしていますから」


 少しだけ離れ、私の顔をセドリックが見るので微笑むと、泣き笑いのような表情をしている。甘えるように私からセドリックの胸に擦り寄っていくと、大切な宝物を抱えるように、抱きしめてくれた。



 数ヶ月が経ったとき、私とセドリックの婚約披露も兼ねて、屋敷で夜会が行われた。

 何も知らないコマーシャとイザベラも、もちろん招待された。


「本日は、私とケイト嬢の婚約披露にお集まりいただき、誠に感謝します。ささやかでありますが、どうぞ、お楽しみください」


 セドリックが夜会の開始の挨拶と同時に、「どういうことだ!」とコマーシャの怒号が会場に響く。そのまま、主催であるセドリックに詰め寄ってくるコマーシャとの間に警備兵が割って入った。


「どういうことだ! リック、説明しろ!」

「どうもこうも、ケイト嬢は、コマーシャではなく、俺を選んだ……それだけのことだが?」

「ケイトは記憶喪失をしているだけで、本当に愛しているのは、このオレだ! ケイトとの婚約は、このオレがすることになっている!」

「ちょっ、ちょっと! コマーシャは私と結婚するはずでしょ?」

「うるさいっ! アバズレめ!」


 コマーシャは、後ろから追いかけてきたイザベラを振り払い、私の方を見る。目が合った瞬間、コマーシャは死んだ魚のような目をし、猫撫で声で私の名を呼ぶ。


「私を捨てたのは、コマーシャではありませんか? 親友のイザベラと浮気をした挙句、私との結婚を迫りますか?」

「あぁ、浮気だ。浮気だから、少しくらい目を瞑ってくれたっていいだろう? お前こそ、リックに鞍替えか? いいから、戻ってこい」

「いいえ、戻りません! 献身的に支えてきた私を記憶喪失になったからと手放したのは、コマーシャです。あなたに私の名誉を傷つけるような発言は許しません!」

「きさまっ!」


 逆上したコマーシャに対して、セドリックは間に立って、私を背中に隠してくれた。警備兵が、さらにコマーシャを囲み、捻り上げている。

 呆然としていたイザベラと共に、セドリックの号令で屋敷の外へと追い出されたのであった。


「大変、お騒がせいたしました。ごゆるりとお楽しみください」


 セドリックの謝罪のあと、音楽が再開され、その後の夜会はつつがなく終わった。

 ただ、悪意ある噂話だけが、この夜会の成功の裏で残ってしまったが、すぐに新しいスキャンダルの噂話へと切り替わった。



「本当によかったのか?」


 真っ白なウエディングドレスを着ている私の隣で、セドリックが眉尻を下げて私に問うてくるので、私はきっぱりと「この道以外にありませんよ」と微笑んだ。


「セドリックは、私の気持ちが信じられませんか?」

「そういうわけじゃなく……」

「愛されている自信がないのですか?」


 ゆっくり頷くセドリックに、私は困った顔をする。今日までたくさん話し合った。私の記憶が戻ったときから、何度も何度も。私が盲目的に愛していたのは、確かにコマーシャであったが、記憶が戻ったとき、私の側で見守り支えてくれたのはセドリックである。それだけで、私の心が動かされたわけではなかった。

 セドリックと生活していく中で、セドリックの感情の機微をとらえることができるようになった。今までなら、何が不満で、私を睨んでいるのか、とても怖い存在だと思っていたのに、屋敷へ来てから、メイドたちとの話や侍女たちから「言葉でケイト様に愛情を伝えなさい」と叱られているセドリックを何度も見かけたりと、これまでのセドリックの感情も知ることになった。


「私は、記憶をなくしたことで、あなたの深い愛情を知ったのです」

「だからって……」

「それ以上は、言わないでください」


 私は、セドリックの唇に人差し指を押し当てた。その続きを言われてしまうと、悲しい気持ちになるからだ。

 目じりを下げて、セドリックに微笑んだ。言葉はいらないだろう。私の愛情を未だ信じられないのか、元々疑い深かったセドリックだからなのか、この話をするたびに、心の距離があるようで、寂しかった。

 私の心を読み取ったのか、急に私を抱き寄せ、「悪かった」と囁いた。


「わかってくれれば、嬉しいです。私は、他の誰でもなく、セドリックと幸せな未来へ進んでいきたいですわ。今日のドレス、いかがですか?」

「……とても綺麗だ。本当に」

「ふふっ、ありがとうございます」


 私から離れ、その場で膝をついた。私の手を取り、左の薬指にキスをするセドリック。


「……くすぐったいです」

「俺からの誓いだ」

「えぇ、えぇ、わかっています。セドリック」


 私を見上げるセドリックの頬をそっと撫でる。


「愛しています。世界一、幸せな二人になりましょう」


「もちろんだ」とセドリックは私の手をとり、新たな門出の扉を開いた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?