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糸絶(しぜつ)
糸絶(しぜつ)
青羽イオ
現代ファンタジー都市ファンタジー
2025年08月03日
公開日
1.6万字
連載中
「“縁”が腐ると、人にキノコが咲く──そんな世界の話」 山奥の村に現れた、兆しを読む占い師・志乃。 キノコに覆われた母の背を前に、彼女は語り、聞き、ほどいていく。 感情と記憶の奥底に沈んだ“縁”に、そっと風を通す短編。

第1話 “縁”が腐ると、人にキノコが咲く


 この世界には、ときおり、人の背にキノコが咲くことがある。

 腐った“縁”や、ほどけなかった想い。

 そんなものが、かたちになって芽吹くことがあるらしい。

 そして、それを“読む”者がいる。名は──志乃。

 *

 最初に気づいたのは、医者だった。

「……あんた、これは……」

 戸口の向こうで、男の声が震えていた。

 部屋の中では、女が布団に寝かされている。

 その背中に、小さな白い傘のようなものが、ぽつり、ぽつりと咲いていた。

 最初は虫刺されか、湿疹だろうと誰もが思った。

 だがそれは、湿気を吸って日に日に艶を増し、厚みを帯びていった。

 そしてある日。

 傘からこぼれた胞子が畳に落ち始めたとき──

 村の医者は、匙を投げた。

「これは……わたしの手には負えん」

 障子の影から、その様子をじっと見ていた少年がいた。

 あどけない顔が、どうしようもない不安に染まっていく。

 ──あの日も、曇り空だった。

「母さん、ただいま」

 学校帰りの声が、玄関に響く。

 戸を開けると、ぬるい湿気が顔を撫でた。

「今日はね、となりの源田が川でザリガニを――」

 ふすまを開けて、言葉が止まる。

 母は、動かなかった。

 畳に座ったまま、背中いっぱいに、白いキノコを咲かせていた。

 傘のひとつひとつが、静かにひらいていた。

 まるで誰かの夢が、腐って芽吹いたように。

 胞子が空中に舞い、部屋の中が霞んでいた。

 ひと息吸うだけで、土とカビと、ほんのり甘い匂いが鼻に残った。

「母さん……?」

 声をかけても、反応はない。

 キノコは確かに、増えていた。

 太く、大きく──なにかを蓄えるように。

 それから、母は起き上がれなくなった。

 医者も祈祷師も呼ばれたが、誰も原因を語れず、触ることすらできなかった。

 村人たちは、噂をした。

「山の神さまを怒らせたんだろ」

「いや、昔どこかの若いもんと、何かあったらしいよ」

「……黙っとけ。子どもが聞いてる」

 そう言って、戸がぴしりと閉じられた。

 ある晩、老婆がぽつりとつぶやいた。

「山向こうの“湿の路”に、そういうのを視られる娘がおる」

 *

 静かな谷あい、雲の垂れ込める山奥の一室。

 そこは、胞子と湿度の研究室──「菌室(きんしつ)」だった。

 棚にはガラス瓶がずらりと並び、その中では、ふわりふわりと銀色の胞子が舞っている。

 古びた湿度計がかすかに揺れ、細い針が“兆し”を告げるように傾いていた。

 机に向かっていたのは、ひとりの若い女。

 長い前髪の下からのぞく目が、静かにノートを綴っている。

 そのとき、封筒が届いた。

 彼女──志乃は手を止めて、ふうっと息をついた。

 手元には、食べかけのまま放っておかれた饅頭がひとつ。

 手紙を読み終えた志乃は、黙って立ち上がると、饅頭の存在をすっかり忘れて出ていった。

 その背後で、棚の上の“空かぬ貝”が、ひとりでに──ぱちり、と音を立てて開いた。

 *

 ──ぱきん。

 乾いた音が、村の空気を揺らす。

「来たぞ……湿の路の、あの女だ」

「ほんとに“見える”のかねえ」

「見た目はただの、旅のよれよれじゃないかい」

 村人たちがひそひそと声を潜めるなか──

 志乃は、ゆるい足取りで坂を下ってきた。

 白い着物の裾は泥で濡れ、足元の草履は左右ちぐはぐ。

 長い前髪はぺたんと頬に貼りつき、首からは貝殻と硝子瓶を束ねた紐が、じゃらりと音を立てていた。

「……あれ、また落としちゃった」

 ふと立ち止まった志乃は、足元の小さな包みを拾い上げる。

 中身は、少し潰れた饅頭だった。

「ま、いいか。あとで食べよ」

 そう呟いて、にこりと笑うと、また何事もなかったように歩き出す。

「……なんかこう、気配の薄い人だな」

「でも、落とし物はよくするんだよな……」

 *

 志乃が通された部屋は、空気が重たかった。

 雨上がりの土間よりも、ぬか漬けの匂いがこもった納屋よりも──もっと湿っていた。

「……ひどいね」

 (こりゃまた、立派に“育って”るな)

 畳に足を踏み入れた瞬間、志乃はそう呟いた。

 母は、背を向けたまま寝かされていた。

 着物の背中には、白く湿った傘がいくつも……いや、数えきれないほど。

 ぬめりを帯びて、布の継ぎ目を喰い破るように、生え広がっている。

 その傘たちは、ふるえていた。

 風もないのに、呼吸するように、ふくらんでは、しぼむ。

 まるで忘れられた夢が、腐って膿んで、土から逆流してきたみたいだった。

 布の隙間から、柄の細い茸がのろのろと這い出し、

 音もなく弾けるように開く大きな傘もある。

 胞子は畳を白く染め、空気をどろりと濁らせていた。

 ──生えていた、のではない。

 “棲みついていた”。

 女の骨にも、肉にも、感情にも。

 *

 畳には、銀色がかった霧のような胞子がふわりと舞っていた。

 (土のにおい。気持ちの水分が多すぎると、だいたいこれになる)

「この人、いつから、こんなふうに?」

「……半年くらいになりますか」

 医者は額の汗をぬぐった。

「もともとは、しっかりした人だったんですよ。明るくて、気立てもよくて。……でも、あの事故のあとから、急に」

「事故?」

「子どもを、ね。山で。……目の前で、滑って落ちたらしくて」

「……目の前で?」

「ええ。村の者はみんな、“あれは母親の不注意だった”って言ってます。口には出しませんけどね」

「……なるほど」

 志乃は一瞬だけ目を伏せた。

 母の部屋から、静かすぎる空気が流れてきていた。

(その罪が、まだこの家に残ってる)

「これ、どうにか……」

 そばにいた若い医者が言いかけるが、

「まだ、“結び”が見えませんから」

 志乃が静かに制した。

 そして袋から白い砂を取り出すと、

 畳の上にくるりと一筆──滑らかな円を描いた。

「“座”をつくって、兆しを読みます」

 彼女は年輪盤(ねんりんばん)と銀粉入りの硝子瓶を並べた。

 風の動きや湿気の流れを読む、古い占具だ。

「なにしてるんですか、それ……占い、ですか?」

 医者が驚いたように言う。

「はい。こういうときにこそ、必要なんです」

 志乃は瓶をのぞき込む。

 中の銀粉が、風もないのにふるりと舞い上がった。

「……風、通ってませんよね?」

「通らない風こそ、“何か”がいる証です」

 母の背中で、ひとつの傘がかすかに揺れた。

 志乃は目を細めて問いかける。

「お名前、教えてもらえますか」

 返事はない。けれど、寝息がわずかに速くなった。

「“名”があると、“重さ”が生まれます。

 重さがあれば、“糸”が生まれる。

 そして糸があれば──“縁”があるんです」

「……どういう、意味ですか?」

「わたしの仕事は、その“糸”を、視て、必要があれば──切ることです」

 志乃は、淡々と手帳を開いて書きつけていく。

 気配、湿度、光の角度、傘の数と形、匂い──そのすべてを。

 その様子を、医者と少年がじっと見守っていた。

「……で、何かわかったんですか?」

「まだ、足りませんね。何かが」

「足りないって?」

「“名”が曖昧。糸がぼやけてる。

 この母親、まだ“向き合っていない”ことがあるようです。

 この生え方は……後悔の根が、深すぎる」

 ふと、志乃は立ち上がった。

「ねえ。お母さんのこと、少し教えてもらえますか。──坊や」

 少年の肩が、びくりと揺れた。

 年のころは八つくらい。

 シャツの襟は曲がっていて、ズボンは擦り切れている。

 足元の草履は片方だけ泥にまみれ、

 頬にふわりと落ちた胞子が、すぐに消えていった。

「……え、ぼく? あ、はい……」

 少年はもじもじと指を絡めながら、視線を泳がせる。

 志乃の顔をまともに見られないまま、ぽつぽつと話しはじめた。

「その……かあさん、前は、こんなじゃなかったんです。

 畑もやってたし、ごはんもちゃんと作ってくれて……

 でも最近は、ずっと寝てて……」

 言葉を探すように、何度もまばたきをした。

 その目の奥に、「怖いものを見た」影が、うっすらと揺れていた。

 志乃は、うなずく。

「順番にでいいよ。わたしが、ちゃんと拾うからね」

 瓶の中で、銀粉がゆっくりと舞っていた。

 志乃の“占い”が、本当の意味で始まるのは──ここからだった。

 室内の空気は、まだじっとりと重たかった。

 志乃はすり足で畳を歩き、部屋の隅の箪笥をひとつずつ開けていく。

 そこにあったのは、白粉や紅、花模様の短い反物──

 どれも、農家の暮らしには少し場違いなものばかりだった。

「……香の匂い?」

 志乃はふと鼻を近づける。

 微かに立ちのぼったのは、檜のような、湿った香り。

「これは……祝言のときの香ですね。

 村の女たちが普段使う油とは、明らかに違う」

 志乃の目が、母の寝所の奥へと向かう。

 棚の下、ほこりをかぶった風呂敷の隅がわずかにずれていた。

 そっと引き出すと、紅絹の裏地がちらりとのぞく。

 それは──深い藤色に、藤の花をあしらった、柔らかな訪問着だった。

「これは……祝いの衣じゃない。香りが、濃すぎる」

 志乃は袖口に顔を寄せ、香りの奥に沈む“気配”を確かめた。

 そこにあったのは、日々の味噌や煤ではない。

 あまく、濡れたような香り──

 女が「選ばれたい」と願ったときだけ、身にまとうような匂いだった。

 手が、止まる。

 志乃はそっと懐から銀粉瓶を取り出し、部屋の中央に膝をつく。

 瓶の中の粉を揺らすと、風のない空間に微細な粒が舞い上がった。

 それは螺旋を描いて天井へ昇り、すっと消えた。

「……この部屋は、まだ喋っていない」

 志乃は瓶を抱き、母のそばにそっと向き直る。

 *

 畳に手をつき、志乃はまっすぐ、母に言った。

「あなたは、“子を亡くした母”じゃない」

 母の肩が、びくりと揺れる。

「あなたは、“母になりきれなかった女”です」

 喉の奥から、嗚咽のような音が漏れる。

「……ちがう、ちがう……わたしは、母よ……あの子のことだけを思って……」

「じゃあ、なぜ紅を引いたんですか?

 なぜ、香を焚いたんです? なぜ、その着物を選んだの?」

 志乃の声は静かで、でも逃がさない。

「今朝の空気は、たしかに湿っていました。

 でも、この香りは違う。“女の湿り”です。

 誰かに“見せたい”ときの香り──そういうものです」

 母の表情がかすかに揺れた。

 志乃は、息の乱れを察してさらに静かに問う。

「この晴れ着は、お子さんのためのものじゃない。

 ……誰のために、装ったんですか?」

 母は、顔を伏せたまま、口を閉ざす。

「“母”であることに、あなたは飽きていたんですか?

 それとも──誰かに、“女”として見られたかった日だったんですか?」

 その一言に、母の身体がかすかに震え、ようやく声が漏れる。

「やめて……お願い……」

「それは、誰のことですか?」

 志乃の問いは、まるで風もない部屋にひとすじの刃のようだった。

 母の指が、顔を覆っていた手をずらし、爪がぎゅっと皮膚に食い込む。

「……言えない……そんなの……言えるはずない……

 あの人には家があって……子も妻もいて……

 わたしは、ただ……ただ……」

「それが、あなたの“業”です」

 志乃は目を伏せる。

 瓶の中で、銀の粉がざわめいていた。

 風のない世界で、“何か”が息をしている。

「母であれば、許されると思った。

 でも本当は、あなたは“選ばれなかった女”で──

 それを、認めるのが怖かったんですね」

 母は畳に手をつき、声にならない言葉を吐いた。

「ちがう、ちがう……私は母でいようと……

 母で、あろうとしただけ……!」

 志乃はゆっくりと、母の正面に回り込む。

「……本当に?

 “母であろうとして”、あなたは、女になったのではありませんか」

 その瞬間、空気が、きしんだ。

 キノコの傘のひとつが、ひび割れる。

 そして、母の“記憶”が、湿りの中でほどけ始めていく──


 志乃はそっと目を伏せた。囁きのような気配が、耳の奥を揺らす。

 (視えるときは、いつも不意打ちなんだよなあ……)

 (ちゃんと予告してくれたら、胃薬くらい準備するのに)

 ──はじまりは、ほんの小さな、水音だった。

 畑で土を返していたとき、背後から、あの人の靴音が近づいてきた。

 湿った地面に、やわらかく足音が沈んでいく。

「畝のつくりが丁寧だな」

 そう言って笑ったとき、まなじりには、まぶしい陽が差していた。

 手を差し出されるたび、何かが、少しずつ潤んでいく気がした。

 その人には、家があった。

 女房がいて、子どもがいた。

 それでも──

 その人のやさしさは、嘘のようで、本当のようで、

 女の心の隙間を、静かに、確かに、濡らしていった。

 やがて、赤子を宿した。

 女はそれを、“呪い”ではなく、“縁”だと思った。

 ──いや、思いたかった。

 そして、決めたのだ。

 あの人の家の近くまで、赤子を見せに行こうと。

「この子は、あなたとわたしの証です」

 そう胸を張って言えば、きっと何かが変わる気がした。

 それが思い上がりだったとしても、

 どこかで“運命の日”だと、決めていた。

 *

 その朝、女は化粧をした。

 ぼろ布の奥にしまってあった紅と白粉を取り出して、

 川べりの水面に顔を映し、唇にすこしだけ色をのせる。

 鏡に映ったのは──

 母ではなかった。

 “女”だった。

 赤子を背負い、普段使わぬ山道を歩いた。

 地はゆるく、足場は悪かった。けれど、急いでいた。

 ──そのとき。

 枝に足をとられて、帯がほどけた。

 赤子が、背から──抜けた。

 するり、と。

 あれほど近くにあったぬくもりが、風のように離れていく。

 女の背中に、空がひろがった。

 声は出なかった。

 赤子は、木の枝にひっかかったまま、ぶら下がっていた。

 手を伸ばしても、届かない。

 あとすこし、ほんの、少しなのに。

 ──重さが、消えた。

 それは、罰だった。

 助けも呼べず、夜が訪れた。

 肩にあったはずの重さが、形をなくして、

 それでも幻のように、そこにありつづけた。

 風が吹いた。

 冷たく、湿っていた。

 頬を伝ったものは、涙ではなかった。

 そして、女は気づいた。

 ──あの人に“見せるため”に、この子を連れてきたのだと。

 母ではなく、女であろうとした自分が、

 この“縁”を壊したのだと。

 *

 夢の中で、女はもう一度、あの日の光景を見ていた。

 背を向ける男と、泣き叫ぶ赤子。

 けれど今度は、迷わなかった。

 男に背を向け、赤子に向かって手を伸ばした。

 ──それが、ほんとうの“縁”だった。

 壊れたのではない。

 縁は、今、もう一度──生まれなおした。


 ──それが、この背に、生えたものの名前だったのかもしれない。

 そのとき。

 ──ぷしゅっ。

 ひとつのキノコの傘が、破裂した。

 空気が、ぴり、と震える。

「あなたが言葉にできなかった想い。

 誰にも伝えられなかった愛。

 それが、ここに咲いていたんです」

 胞子が舞い、白い霧のように部屋中を満たしていく。

 志乃の輪郭が、その霧に溶けていく。

「……でももう、大丈夫です」

 志乃は立ち上がる。

 白砂で描かれた“座”の中央に、まっすぐ立った。

 母の背中には、まだ白く湿ったキノコがいくつも残っている。

 それはまるで、悔いが根を張って静かに実を結んだようだった。

 志乃は袖口から、銀粉入りの小瓶を取り出す。

 蓋を静かに開けたとたん──

 すうっと、風が生まれる。

 空気がわずかに動き、瓶の口へ胞子が引き寄せられる。

「……繋がってる」

 天井裏から、床の隙間から──

 母の背を中心に、部屋のあらゆる場所へ、見えない“糸”が伸びていた。

 それは、菌糸。

 母の記憶と悔いが、張りめぐらせたもの。

 志乃はそっと、年輪盤(木の輪切り)を取り出し、

 淡い墨を垂らして、にじみの形を確かめた。

「湿りすぎた部屋……通らぬ風……腐る想い……」

 そのとき──机の上の“空かぬ貝”が、

「カチリ」と音を立てて、ひとりでに開いた。

 志乃の瞳が、深く澄んでいく。

「縁は、まだ生きていた。

 だけど、もう……ほどけたわ」

 銀粉を指先ですくい、母の背から伸びる菌糸の一本に──ふっと、吹きかけた。

 風に乗った銀が、菌糸に触れたその瞬間。

 ──ばしっ。

 糸が、はじけるように切れた。

 それは一本だけではなかった。

 部屋の空気が、すうっと変わっていく。

 見えない“縁”の束が、次々に断たれていった。

「ならば──糸絶(しぜつ)」

 志乃は掌をそっと開いた。

 そこに集めた銀粉が、ふわりと落ちていく。

 ──落ちた先は、母の背中。

 キノコの根の中心だった。

 その根元が、静かな破裂音とともに、崩れた。

 音はない。けれど、確かだった。

 菌糸は、切られた。

 *

 銀粉の舞う中で、志乃は静かに息を止めた。

 ぴたり、と空気の湿度が変わる。

 風も音も止まり、時間さえも、凍りついたような静寂。

 その中で──

「……もう、ほどけている」

 志乃は小さくつぶやき、年輪盤のにじみを、指先でなぞる。

 ──ぴきっ。

 木が裂けるような、小さな音。

 水を吸った木が、ひとりでに悲鳴をあげたような、そんな音。

 そして、

 ──きぃぃ……っ

 遠くで、木の軋むような音。

 土の奥で、何かが張っていた糸が、静かに切れていく。

 天井の梁。床の隙間。母の背。

 そこに伸びていた見えない糸が、ひとつ、またひとつ──

 ぷつり。

 ぷつっ。

 ぴしぃぃっ……

 小さな音が、次々に連鎖していく。

 その音は、耳で聴くのではない。

 骨の奥で、感じる音だった。

 ──そして。

 風が、戻ってきたのだ。

 風が、戻ってきた。

 外の林から、鳥の声がふたたび聞こえる。

 畳の匂いが、ほんの少しだけ、乾いていた。

 志乃はそっと目を開け、床に落ちていた貝の殻を拾い上げる。

 それはもう、音を立てることなく、再び口を閉じていた。

「……縁は、終わりました。

 あとは、あの人の心が戻ってくるのを、待つだけです」

 母の背に生い茂っていたキノコたちは、

 静かにしおれ、白く濁った胞子が、ふわりと抜け落ちていく。

 それでも母はまだ目を覚まさない。

 けれど、もう“生きている”。

 ただ静かに、眠っているだけだった。

 *

 畳の上にうずくまっていた少年が、そっと母の顔をのぞき込んだ。

「……ほんとに、もう大丈夫なの?」

「うん。もう、背中のキノコは育たない。

 菌糸も、切りましたから」

 少年はぽつりとこぼした。

「お母さん、夜になると──寝言みたいに、謝ってたんです。

 “ごめんね”とか、“私のせいだ”とか……

 でも、ぼくには何のことか、ずっとわからなくて……

 だから、なんか──ぼくが悪いのかなって……」

 志乃は、すぐには返事をしなかった。

 代わりに畳にこぼれた銀粉をひと粒、指先ですくって、光にかざす。

「ううん。あなたのせいじゃない。

 でも、お母さんのせいだけでも、きっとなかったと思います」

 少年が、戸惑うように志乃を見上げる。

「人の心ってね。

 あたためすぎても、冷やしすぎても、湿気がこもるんです。

 それが積もって、やがて“かたち”になる──

 ……キノコ、みたいにね」

「……じゃあ、また、生えたり……しないの?」

「うん。きっとどこかでは、また生えるかもしれない。

 でも、お母さんがちゃんと話せたなら──

 もう、今の彼女には必要ないと思います」

 志乃は、ふっと息を吐いて笑った。

「言葉ってね。

 乾いた風みたいなものなんですよ。

 うまく通れば、湿気は飛んでいくんです」

 少年はそれを聞いて、少し考えてからぽつり。

「……風」

 志乃は、わずかに笑って聞き返す。

「難しかった?」

「……うん。ちょっとだけ」

「じゃあ、お詫びにおまんじゅうあげます。

 さっき落としてなければ、だけど……」

 そう言いながら、志乃は腰の風呂敷をごそごそと探る。

 が──

「あれ……?」

「落としたの?」

「……あー……まただ……」

 情けない声を漏らして、志乃は空っぽの風呂敷をしばらく見つめていた。

「……あの人はね。

 “気配の薄い人だったけど、饅頭はよく落としていく”って、

 昔、誰かに言われたことがあるんです」

 その言葉に、少年がくすりと笑う。

 小さな風が、ふっと家の中を抜けていく。

 その風は、もう──どこにも、湿気の匂いを運ばなかった。





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