この世界には、ときおり、人の背にキノコが咲くことがある。
腐った“縁”や、ほどけなかった想い。
そんなものが、かたちになって芽吹くことがあるらしい。
そして、それを“読む”者がいる。名は──志乃。
*
最初に気づいたのは、医者だった。
「……あんた、これは……」
戸口の向こうで、男の声が震えていた。
部屋の中では、女が布団に寝かされている。
その背中に、小さな白い傘のようなものが、ぽつり、ぽつりと咲いていた。
最初は虫刺されか、湿疹だろうと誰もが思った。
だがそれは、湿気を吸って日に日に艶を増し、厚みを帯びていった。
そしてある日。
傘からこぼれた胞子が畳に落ち始めたとき──
村の医者は、匙を投げた。
「これは……わたしの手には負えん」
障子の影から、その様子をじっと見ていた少年がいた。
あどけない顔が、どうしようもない不安に染まっていく。
──あの日も、曇り空だった。
「母さん、ただいま」
学校帰りの声が、玄関に響く。
戸を開けると、ぬるい湿気が顔を撫でた。
「今日はね、となりの源田が川でザリガニを――」
ふすまを開けて、言葉が止まる。
母は、動かなかった。
畳に座ったまま、背中いっぱいに、白いキノコを咲かせていた。
傘のひとつひとつが、静かにひらいていた。
まるで誰かの夢が、腐って芽吹いたように。
胞子が空中に舞い、部屋の中が霞んでいた。
ひと息吸うだけで、土とカビと、ほんのり甘い匂いが鼻に残った。
「母さん……?」
声をかけても、反応はない。
キノコは確かに、増えていた。
太く、大きく──なにかを蓄えるように。
それから、母は起き上がれなくなった。
医者も祈祷師も呼ばれたが、誰も原因を語れず、触ることすらできなかった。
村人たちは、噂をした。
「山の神さまを怒らせたんだろ」
「いや、昔どこかの若いもんと、何かあったらしいよ」
「……黙っとけ。子どもが聞いてる」
そう言って、戸がぴしりと閉じられた。
ある晩、老婆がぽつりとつぶやいた。
「山向こうの“湿の路”に、そういうのを視られる娘がおる」
*
静かな谷あい、雲の垂れ込める山奥の一室。
そこは、胞子と湿度の研究室──「菌室(きんしつ)」だった。
棚にはガラス瓶がずらりと並び、その中では、ふわりふわりと銀色の胞子が舞っている。
古びた湿度計がかすかに揺れ、細い針が“兆し”を告げるように傾いていた。
机に向かっていたのは、ひとりの若い女。
長い前髪の下からのぞく目が、静かにノートを綴っている。
そのとき、封筒が届いた。
彼女──志乃は手を止めて、ふうっと息をついた。
手元には、食べかけのまま放っておかれた饅頭がひとつ。
手紙を読み終えた志乃は、黙って立ち上がると、饅頭の存在をすっかり忘れて出ていった。
その背後で、棚の上の“空かぬ貝”が、ひとりでに──ぱちり、と音を立てて開いた。
*
──ぱきん。
乾いた音が、村の空気を揺らす。
「来たぞ……湿の路の、あの女だ」
「ほんとに“見える”のかねえ」
「見た目はただの、旅のよれよれじゃないかい」
村人たちがひそひそと声を潜めるなか──
志乃は、ゆるい足取りで坂を下ってきた。
白い着物の裾は泥で濡れ、足元の草履は左右ちぐはぐ。
長い前髪はぺたんと頬に貼りつき、首からは貝殻と硝子瓶を束ねた紐が、じゃらりと音を立てていた。
「……あれ、また落としちゃった」
ふと立ち止まった志乃は、足元の小さな包みを拾い上げる。
中身は、少し潰れた饅頭だった。
「ま、いいか。あとで食べよ」
そう呟いて、にこりと笑うと、また何事もなかったように歩き出す。
「……なんかこう、気配の薄い人だな」
「でも、落とし物はよくするんだよな……」
*
志乃が通された部屋は、空気が重たかった。
雨上がりの土間よりも、ぬか漬けの匂いがこもった納屋よりも──もっと湿っていた。
「……ひどいね」
(こりゃまた、立派に“育って”るな)
畳に足を踏み入れた瞬間、志乃はそう呟いた。
母は、背を向けたまま寝かされていた。
着物の背中には、白く湿った傘がいくつも……いや、数えきれないほど。
ぬめりを帯びて、布の継ぎ目を喰い破るように、生え広がっている。
その傘たちは、ふるえていた。
風もないのに、呼吸するように、ふくらんでは、しぼむ。
まるで忘れられた夢が、腐って膿んで、土から逆流してきたみたいだった。
布の隙間から、柄の細い茸がのろのろと這い出し、
音もなく弾けるように開く大きな傘もある。
胞子は畳を白く染め、空気をどろりと濁らせていた。
──生えていた、のではない。
“棲みついていた”。
女の骨にも、肉にも、感情にも。
*
畳には、銀色がかった霧のような胞子がふわりと舞っていた。
(土のにおい。気持ちの水分が多すぎると、だいたいこれになる)
「この人、いつから、こんなふうに?」
「……半年くらいになりますか」
医者は額の汗をぬぐった。
「もともとは、しっかりした人だったんですよ。明るくて、気立てもよくて。……でも、あの事故のあとから、急に」
「事故?」
「子どもを、ね。山で。……目の前で、滑って落ちたらしくて」
「……目の前で?」
「ええ。村の者はみんな、“あれは母親の不注意だった”って言ってます。口には出しませんけどね」
「……なるほど」
志乃は一瞬だけ目を伏せた。
母の部屋から、静かすぎる空気が流れてきていた。
(その罪が、まだこの家に残ってる)
「これ、どうにか……」
そばにいた若い医者が言いかけるが、
「まだ、“結び”が見えませんから」
志乃が静かに制した。
そして袋から白い砂を取り出すと、
畳の上にくるりと一筆──滑らかな円を描いた。
「“座”をつくって、兆しを読みます」
彼女は年輪盤(ねんりんばん)と銀粉入りの硝子瓶を並べた。
風の動きや湿気の流れを読む、古い占具だ。
「なにしてるんですか、それ……占い、ですか?」
医者が驚いたように言う。
「はい。こういうときにこそ、必要なんです」
志乃は瓶をのぞき込む。
中の銀粉が、風もないのにふるりと舞い上がった。
「……風、通ってませんよね?」
「通らない風こそ、“何か”がいる証です」
母の背中で、ひとつの傘がかすかに揺れた。
志乃は目を細めて問いかける。
「お名前、教えてもらえますか」
返事はない。けれど、寝息がわずかに速くなった。
「“名”があると、“重さ”が生まれます。
重さがあれば、“糸”が生まれる。
そして糸があれば──“縁”があるんです」
「……どういう、意味ですか?」
「わたしの仕事は、その“糸”を、視て、必要があれば──切ることです」
志乃は、淡々と手帳を開いて書きつけていく。
気配、湿度、光の角度、傘の数と形、匂い──そのすべてを。
その様子を、医者と少年がじっと見守っていた。
「……で、何かわかったんですか?」
「まだ、足りませんね。何かが」
「足りないって?」
「“名”が曖昧。糸がぼやけてる。
この母親、まだ“向き合っていない”ことがあるようです。
この生え方は……後悔の根が、深すぎる」
ふと、志乃は立ち上がった。
「ねえ。お母さんのこと、少し教えてもらえますか。──坊や」
少年の肩が、びくりと揺れた。
年のころは八つくらい。
シャツの襟は曲がっていて、ズボンは擦り切れている。
足元の草履は片方だけ泥にまみれ、
頬にふわりと落ちた胞子が、すぐに消えていった。
「……え、ぼく? あ、はい……」
少年はもじもじと指を絡めながら、視線を泳がせる。
志乃の顔をまともに見られないまま、ぽつぽつと話しはじめた。
「その……かあさん、前は、こんなじゃなかったんです。
畑もやってたし、ごはんもちゃんと作ってくれて……
でも最近は、ずっと寝てて……」
言葉を探すように、何度もまばたきをした。
その目の奥に、「怖いものを見た」影が、うっすらと揺れていた。
志乃は、うなずく。
「順番にでいいよ。わたしが、ちゃんと拾うからね」
瓶の中で、銀粉がゆっくりと舞っていた。
志乃の“占い”が、本当の意味で始まるのは──ここからだった。
室内の空気は、まだじっとりと重たかった。
志乃はすり足で畳を歩き、部屋の隅の箪笥をひとつずつ開けていく。
そこにあったのは、白粉や紅、花模様の短い反物──
どれも、農家の暮らしには少し場違いなものばかりだった。
「……香の匂い?」
志乃はふと鼻を近づける。
微かに立ちのぼったのは、檜のような、湿った香り。
「これは……祝言のときの香ですね。
村の女たちが普段使う油とは、明らかに違う」
志乃の目が、母の寝所の奥へと向かう。
棚の下、ほこりをかぶった風呂敷の隅がわずかにずれていた。
そっと引き出すと、紅絹の裏地がちらりとのぞく。
それは──深い藤色に、藤の花をあしらった、柔らかな訪問着だった。
「これは……祝いの衣じゃない。香りが、濃すぎる」
志乃は袖口に顔を寄せ、香りの奥に沈む“気配”を確かめた。
そこにあったのは、日々の味噌や煤ではない。
あまく、濡れたような香り──
女が「選ばれたい」と願ったときだけ、身にまとうような匂いだった。
手が、止まる。
志乃はそっと懐から銀粉瓶を取り出し、部屋の中央に膝をつく。
瓶の中の粉を揺らすと、風のない空間に微細な粒が舞い上がった。
それは螺旋を描いて天井へ昇り、すっと消えた。
「……この部屋は、まだ喋っていない」
志乃は瓶を抱き、母のそばにそっと向き直る。
*
畳に手をつき、志乃はまっすぐ、母に言った。
「あなたは、“子を亡くした母”じゃない」
母の肩が、びくりと揺れる。
「あなたは、“母になりきれなかった女”です」
喉の奥から、嗚咽のような音が漏れる。
「……ちがう、ちがう……わたしは、母よ……あの子のことだけを思って……」
「じゃあ、なぜ紅を引いたんですか?
なぜ、香を焚いたんです? なぜ、その着物を選んだの?」
志乃の声は静かで、でも逃がさない。
「今朝の空気は、たしかに湿っていました。
でも、この香りは違う。“女の湿り”です。
誰かに“見せたい”ときの香り──そういうものです」
母の表情がかすかに揺れた。
志乃は、息の乱れを察してさらに静かに問う。
「この晴れ着は、お子さんのためのものじゃない。
……誰のために、装ったんですか?」
母は、顔を伏せたまま、口を閉ざす。
「“母”であることに、あなたは飽きていたんですか?
それとも──誰かに、“女”として見られたかった日だったんですか?」
その一言に、母の身体がかすかに震え、ようやく声が漏れる。
「やめて……お願い……」
「それは、誰のことですか?」
志乃の問いは、まるで風もない部屋にひとすじの刃のようだった。
母の指が、顔を覆っていた手をずらし、爪がぎゅっと皮膚に食い込む。
「……言えない……そんなの……言えるはずない……
あの人には家があって……子も妻もいて……
わたしは、ただ……ただ……」
「それが、あなたの“業”です」
志乃は目を伏せる。
瓶の中で、銀の粉がざわめいていた。
風のない世界で、“何か”が息をしている。
「母であれば、許されると思った。
でも本当は、あなたは“選ばれなかった女”で──
それを、認めるのが怖かったんですね」
母は畳に手をつき、声にならない言葉を吐いた。
「ちがう、ちがう……私は母でいようと……
母で、あろうとしただけ……!」
志乃はゆっくりと、母の正面に回り込む。
「……本当に?
“母であろうとして”、あなたは、女になったのではありませんか」
その瞬間、空気が、きしんだ。
キノコの傘のひとつが、ひび割れる。
そして、母の“記憶”が、湿りの中でほどけ始めていく──
志乃はそっと目を伏せた。囁きのような気配が、耳の奥を揺らす。
(視えるときは、いつも不意打ちなんだよなあ……)
(ちゃんと予告してくれたら、胃薬くらい準備するのに)
──はじまりは、ほんの小さな、水音だった。
畑で土を返していたとき、背後から、あの人の靴音が近づいてきた。
湿った地面に、やわらかく足音が沈んでいく。
「畝のつくりが丁寧だな」
そう言って笑ったとき、まなじりには、まぶしい陽が差していた。
手を差し出されるたび、何かが、少しずつ潤んでいく気がした。
その人には、家があった。
女房がいて、子どもがいた。
それでも──
その人のやさしさは、嘘のようで、本当のようで、
女の心の隙間を、静かに、確かに、濡らしていった。
やがて、赤子を宿した。
女はそれを、“呪い”ではなく、“縁”だと思った。
──いや、思いたかった。
そして、決めたのだ。
あの人の家の近くまで、赤子を見せに行こうと。
「この子は、あなたとわたしの証です」
そう胸を張って言えば、きっと何かが変わる気がした。
それが思い上がりだったとしても、
どこかで“運命の日”だと、決めていた。
*
その朝、女は化粧をした。
ぼろ布の奥にしまってあった紅と白粉を取り出して、
川べりの水面に顔を映し、唇にすこしだけ色をのせる。
鏡に映ったのは──
母ではなかった。
“女”だった。
赤子を背負い、普段使わぬ山道を歩いた。
地はゆるく、足場は悪かった。けれど、急いでいた。
──そのとき。
枝に足をとられて、帯がほどけた。
赤子が、背から──抜けた。
するり、と。
あれほど近くにあったぬくもりが、風のように離れていく。
女の背中に、空がひろがった。
声は出なかった。
赤子は、木の枝にひっかかったまま、ぶら下がっていた。
手を伸ばしても、届かない。
あとすこし、ほんの、少しなのに。
──重さが、消えた。
それは、罰だった。
助けも呼べず、夜が訪れた。
肩にあったはずの重さが、形をなくして、
それでも幻のように、そこにありつづけた。
風が吹いた。
冷たく、湿っていた。
頬を伝ったものは、涙ではなかった。
そして、女は気づいた。
──あの人に“見せるため”に、この子を連れてきたのだと。
母ではなく、女であろうとした自分が、
この“縁”を壊したのだと。
*
夢の中で、女はもう一度、あの日の光景を見ていた。
背を向ける男と、泣き叫ぶ赤子。
けれど今度は、迷わなかった。
男に背を向け、赤子に向かって手を伸ばした。
──それが、ほんとうの“縁”だった。
壊れたのではない。
縁は、今、もう一度──生まれなおした。
──それが、この背に、生えたものの名前だったのかもしれない。
そのとき。
──ぷしゅっ。
ひとつのキノコの傘が、破裂した。
空気が、ぴり、と震える。
「あなたが言葉にできなかった想い。
誰にも伝えられなかった愛。
それが、ここに咲いていたんです」
胞子が舞い、白い霧のように部屋中を満たしていく。
志乃の輪郭が、その霧に溶けていく。
「……でももう、大丈夫です」
志乃は立ち上がる。
白砂で描かれた“座”の中央に、まっすぐ立った。
母の背中には、まだ白く湿ったキノコがいくつも残っている。
それはまるで、悔いが根を張って静かに実を結んだようだった。
志乃は袖口から、銀粉入りの小瓶を取り出す。
蓋を静かに開けたとたん──
すうっと、風が生まれる。
空気がわずかに動き、瓶の口へ胞子が引き寄せられる。
「……繋がってる」
天井裏から、床の隙間から──
母の背を中心に、部屋のあらゆる場所へ、見えない“糸”が伸びていた。
それは、菌糸。
母の記憶と悔いが、張りめぐらせたもの。
志乃はそっと、年輪盤(木の輪切り)を取り出し、
淡い墨を垂らして、にじみの形を確かめた。
「湿りすぎた部屋……通らぬ風……腐る想い……」
そのとき──机の上の“空かぬ貝”が、
「カチリ」と音を立てて、ひとりでに開いた。
志乃の瞳が、深く澄んでいく。
「縁は、まだ生きていた。
だけど、もう……ほどけたわ」
銀粉を指先ですくい、母の背から伸びる菌糸の一本に──ふっと、吹きかけた。
風に乗った銀が、菌糸に触れたその瞬間。
──ばしっ。
糸が、はじけるように切れた。
それは一本だけではなかった。
部屋の空気が、すうっと変わっていく。
見えない“縁”の束が、次々に断たれていった。
「ならば──糸絶(しぜつ)」
志乃は掌をそっと開いた。
そこに集めた銀粉が、ふわりと落ちていく。
──落ちた先は、母の背中。
キノコの根の中心だった。
その根元が、静かな破裂音とともに、崩れた。
音はない。けれど、確かだった。
菌糸は、切られた。
*
銀粉の舞う中で、志乃は静かに息を止めた。
ぴたり、と空気の湿度が変わる。
風も音も止まり、時間さえも、凍りついたような静寂。
その中で──
「……もう、ほどけている」
志乃は小さくつぶやき、年輪盤のにじみを、指先でなぞる。
──ぴきっ。
木が裂けるような、小さな音。
水を吸った木が、ひとりでに悲鳴をあげたような、そんな音。
そして、
──きぃぃ……っ
遠くで、木の軋むような音。
土の奥で、何かが張っていた糸が、静かに切れていく。
天井の梁。床の隙間。母の背。
そこに伸びていた見えない糸が、ひとつ、またひとつ──
ぷつり。
ぷつっ。
ぴしぃぃっ……
小さな音が、次々に連鎖していく。
その音は、耳で聴くのではない。
骨の奥で、感じる音だった。
──そして。
風が、戻ってきたのだ。
風が、戻ってきた。
外の林から、鳥の声がふたたび聞こえる。
畳の匂いが、ほんの少しだけ、乾いていた。
志乃はそっと目を開け、床に落ちていた貝の殻を拾い上げる。
それはもう、音を立てることなく、再び口を閉じていた。
「……縁は、終わりました。
あとは、あの人の心が戻ってくるのを、待つだけです」
母の背に生い茂っていたキノコたちは、
静かにしおれ、白く濁った胞子が、ふわりと抜け落ちていく。
それでも母はまだ目を覚まさない。
けれど、もう“生きている”。
ただ静かに、眠っているだけだった。
*
畳の上にうずくまっていた少年が、そっと母の顔をのぞき込んだ。
「……ほんとに、もう大丈夫なの?」
「うん。もう、背中のキノコは育たない。
菌糸も、切りましたから」
少年はぽつりとこぼした。
「お母さん、夜になると──寝言みたいに、謝ってたんです。
“ごめんね”とか、“私のせいだ”とか……
でも、ぼくには何のことか、ずっとわからなくて……
だから、なんか──ぼくが悪いのかなって……」
志乃は、すぐには返事をしなかった。
代わりに畳にこぼれた銀粉をひと粒、指先ですくって、光にかざす。
「ううん。あなたのせいじゃない。
でも、お母さんのせいだけでも、きっとなかったと思います」
少年が、戸惑うように志乃を見上げる。
「人の心ってね。
あたためすぎても、冷やしすぎても、湿気がこもるんです。
それが積もって、やがて“かたち”になる──
……キノコ、みたいにね」
「……じゃあ、また、生えたり……しないの?」
「うん。きっとどこかでは、また生えるかもしれない。
でも、お母さんがちゃんと話せたなら──
もう、今の彼女には必要ないと思います」
志乃は、ふっと息を吐いて笑った。
「言葉ってね。
乾いた風みたいなものなんですよ。
うまく通れば、湿気は飛んでいくんです」
少年はそれを聞いて、少し考えてからぽつり。
「……風」
志乃は、わずかに笑って聞き返す。
「難しかった?」
「……うん。ちょっとだけ」
「じゃあ、お詫びにおまんじゅうあげます。
さっき落としてなければ、だけど……」
そう言いながら、志乃は腰の風呂敷をごそごそと探る。
が──
「あれ……?」
「落としたの?」
「……あー……まただ……」
情けない声を漏らして、志乃は空っぽの風呂敷をしばらく見つめていた。
「……あの人はね。
“気配の薄い人だったけど、饅頭はよく落としていく”って、
昔、誰かに言われたことがあるんです」
その言葉に、少年がくすりと笑う。
小さな風が、ふっと家の中を抜けていく。
その風は、もう──どこにも、湿気の匂いを運ばなかった。