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【第二話④】咲きかけたもの──白い茎と三本足の記憶

【あらすじ】

読めない兆し、滲む胞子。志乃の足は、砥ぎ師の家へと導かれていく。 


村のはずれ、干上がりかけた小川を渡った先で、志乃は足を止めた。

乾いたはずの風に、どこか湿った“引っかかり”がある。 


……風が、どこかで引きちぎれてる。 


志乃は腰に下げた小瓶を取り出す。

硝子の中に銀の粒子が静かに揺れていた。

指先で瓶の栓を抜くと、粒子がふわりと空気に触れ──ひとすじ、逆らうように逆流した。 


「……今のは」 


初めて見る動きだった。

風の流れに沿わず、まるで“何か”へ導かれるように、銀粉が空中に筋を描く。

志乃はその動きに目を細め、無意識に前髪を耳にかけた。 


そういえば──このあたりには、腕のいい砥ぎ師が住んでいたはずだ。

かつて「糸絶ちの刃」を砥いでもらったことがある。

人と“菌糸”の交点を断つ、特別な刃物。 


志乃にとっても、それは数少ない、刃を預けた経験だった。 


男の縁側にはいつも一匹の三毛猫がいた。

白が多くて、少しばかり気の強い瞳の。

「千代」と呼ばれていたその猫が、砥ぎ場の陽だまりで寝息を立てていた光景を、志乃は妙にくっきりと思い出した。


瓶の中の銀粉が、また一筋──地面へ落ちず、風にも溶けず、筋を描いて流れていく。 


「……導いている?」 


こんなふうに、銀粉が“目的を持って”動いたのは──はじめてだった。

志乃はその筋を追うように、静かに歩き出した。 


草むらに、小さな毛玉が落ちている。

獣の吐いた痕かと思い、手袋越しに拾い上げる。

絡んだ毛の中に、わずかに白い粒子が混じっていた。 


やがて、古木の根元で、何かが体をこすりつけた痕を見つけた。

裂けた樹皮に、白と茶の毛がへばりついている。

──あのとき、縁側で見た猫の、毛色とよく似ていた。 


嫌な予感が、ひとつ、胸の奥に沈む。 


歩を進めるたびに、地表の湿気が増し、空気に腐った匂いが混ざり出す。

志乃はゆっくりと息を吸い込んだ。 


この空気は、すでに“咲いた”あと──いや、“咲きかけている”。 


目的の家の前に立ったとき、すでに確信はあった。 


庭の片隅、苔むした井戸の脇に、半分に割れた砥石が転がっている。

その割れ目から、ふわりと胞子のようなものが溢れていた。


湿気を孕んだ胞子は、まだ生きている。

息をしているように。


志乃は静かに“座”を敷いた。


井戸脇に放置された、割れた砥石。

そこから溢れ出した胞子は、見慣れた死の兆しよりも、はるかに“濃い”。


空気の奥底に、じっとりとした湿りが沈んでいる。

外の風は乾いていたはずなのに、この家の周囲だけ、じわじわと“内側”から何かが滲み出しているようだった。


――深く吸ってしまう前に、兆しを読まなければ。ここが、“侵される側”と“外”の境だ。


志乃は銀粉瓶の蓋を開ける。

瓶の奥底で、微細な粒子が淡く揺れた。

意識を重ねる。いつも通りの手順。……の、はずだった。 


――読めない。 


見えてはいる。

粒子の波。かすかな渦。兆しの気配。

なのに、それが……どこにも、結ばれていない。 


(おかしい。なぜ……?)


思わず息を止めていた。気づけば、呼吸が浅い。喉が鳴る。

慌てて“座”の線をなぞり直す。形は正しい。位置も間違えていない。

けれど、やはり“読めない”。


(読もうとしているのに。いつもなら、もっと、見えるはずなのに……)


焦りが、指先から染み出していく。

兆しは確かにそこにある。

なのに、それを“掴めない”。


(読もうとする。……でも、読めない。いや──“見えない”?)


見ようとするたび、視界の奥が歪んでいく。

銀粉のきらめきが、かえって目を灼く。

この場所の“感情”そのものが、自分の読みを拒んでいる……そんな気配。


(違う……こんなの、見たことがない)


喉の奥に、冷たいものが広がる。

額に滲む汗が、じわじわと眉を伝って落ちる。

背筋の冷えは、冷気か、それとも……戦慄か。


──こんなこと、初めてだ。


「……これは、ちがう」


志乃は座から手を放し、わずかに身を引いた。

その瞬間、風の向こうから──ふっと、鉄と火の匂いが流れてきた。


焦げたような土の匂い。何かが焼かれた痕。


視線を落とすと、草が不自然に焼け、土に円が刻まれている。

これは、子供の遊びじゃない。意図された“円”。


志乃は息を止める。


砥石から流れた胞子は、その円を避けるように軌道を変え、家の方へと向かっている。


扉は開いていた。中に入ると、ひどく静かだった。

空気が重い。いや、滞っている。何かが、まだここに“居る”。


部屋の隅に、白いものが倒れている。


「……おまえ……」


猫の身体は、見る影もなく痩せ細っていた。

毛並みの隙間に、白く細いものが絡まっている。

──菌糸。

それは毛に沿って広がり、いくつかは皮膚に喰い込んでいた。


小さな肩が、不自然に膨らんでいる。

呼吸は浅い。けれど、わずかに胸が上下していた。


「……まだ、生きてる」


だが、その体から発される湿度は、もう“ただの命”のものではなかった。


鼻先が、かすかに疼く。胞子が、空気の底に微かに沈んでいる。




そのとき──

腰に下げた小さな貝殻が、


「かちり」、と音を立てた。


空かぬ貝。

兆しが縁を掴んだときにだけ、共鳴する“読まざる音”。


志乃の背筋に、冷たいものが走る。


――この子のなかに、まだ“結び”がある。


それは猫の命ではない。

“誰かの情”だ。


志乃は座を敷いた。

銀粉瓶を据え、風の流れに意識を重ねる。


粒子が揺れる。

そこに残っていたのは、ひとの名残だった。


「……まだ、残ってる」


男の気配。千代への情。それがまだ、この空間に引きとめられている。


──本当なら、戻れるはずだった。

兆しは、もう手遅れになる直前で、かろうじて繋がっていた。


だが、兆しは、間に合わなかった。 


次の瞬間──風が、裂けた。

ざわり、と。空気の層が剥がれ落ちる音がする。 


それは里の方角から、逆巻いて押し寄せてきた。

湿気が渦を巻く。土の匂いに混じって、濁った気配が膨れ上がっていく。

空気そのものが、歪んでいた。


ただの風じゃない。

これは──胞子だ。 


粒が群れをなし、塊となり、竜巻のように立ち上がっている。

まるで、山を背にした“何か”が、ゆっくりと大きく、息を吐いたかのような。 


志乃の肺が、拒絶するように震えた。

喉が焼けるように乾き、身体が先に動いた。 


風に逆らって、踏み出す。

一歩。二歩。 


「──来る」


細道へと駆け出す。

読めなかった代償が、背中を追ってくる。

靴音が湿った地を叩く。裾が草をかすめ、風を切った。


(つづく)









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