【あらすじ】
読めない兆し、滲む胞子。志乃の足は、砥ぎ師の家へと導かれていく。
村のはずれ、干上がりかけた小川を渡った先で、志乃は足を止めた。
乾いたはずの風に、どこか湿った“引っかかり”がある。
……風が、どこかで引きちぎれてる。
志乃は腰に下げた小瓶を取り出す。
硝子の中に銀の粒子が静かに揺れていた。
指先で瓶の栓を抜くと、粒子がふわりと空気に触れ──ひとすじ、逆らうように逆流した。
「……今のは」
初めて見る動きだった。
風の流れに沿わず、まるで“何か”へ導かれるように、銀粉が空中に筋を描く。
志乃はその動きに目を細め、無意識に前髪を耳にかけた。
そういえば──このあたりには、腕のいい砥ぎ師が住んでいたはずだ。
かつて「糸絶ちの刃」を砥いでもらったことがある。
人と“菌糸”の交点を断つ、特別な刃物。
志乃にとっても、それは数少ない、刃を預けた経験だった。
男の縁側にはいつも一匹の三毛猫がいた。
白が多くて、少しばかり気の強い瞳の。
「千代」と呼ばれていたその猫が、砥ぎ場の陽だまりで寝息を立てていた光景を、志乃は妙にくっきりと思い出した。
瓶の中の銀粉が、また一筋──地面へ落ちず、風にも溶けず、筋を描いて流れていく。
「……導いている?」
こんなふうに、銀粉が“目的を持って”動いたのは──はじめてだった。
志乃はその筋を追うように、静かに歩き出した。
草むらに、小さな毛玉が落ちている。
獣の吐いた痕かと思い、手袋越しに拾い上げる。
絡んだ毛の中に、わずかに白い粒子が混じっていた。
やがて、古木の根元で、何かが体をこすりつけた痕を見つけた。
裂けた樹皮に、白と茶の毛がへばりついている。
──あのとき、縁側で見た猫の、毛色とよく似ていた。
嫌な予感が、ひとつ、胸の奥に沈む。
歩を進めるたびに、地表の湿気が増し、空気に腐った匂いが混ざり出す。
志乃はゆっくりと息を吸い込んだ。
この空気は、すでに“咲いた”あと──いや、“咲きかけている”。
目的の家の前に立ったとき、すでに確信はあった。
庭の片隅、苔むした井戸の脇に、半分に割れた砥石が転がっている。
その割れ目から、ふわりと胞子のようなものが溢れていた。
湿気を孕んだ胞子は、まだ生きている。
息をしているように。
志乃は静かに“座”を敷いた。
井戸脇に放置された、割れた砥石。
そこから溢れ出した胞子は、見慣れた死の兆しよりも、はるかに“濃い”。
空気の奥底に、じっとりとした湿りが沈んでいる。
外の風は乾いていたはずなのに、この家の周囲だけ、じわじわと“内側”から何かが滲み出しているようだった。
――深く吸ってしまう前に、兆しを読まなければ。ここが、“侵される側”と“外”の境だ。
志乃は銀粉瓶の蓋を開ける。
瓶の奥底で、微細な粒子が淡く揺れた。
意識を重ねる。いつも通りの手順。……の、はずだった。
――読めない。
見えてはいる。
粒子の波。かすかな渦。兆しの気配。
なのに、それが……どこにも、結ばれていない。
(おかしい。なぜ……?)
思わず息を止めていた。気づけば、呼吸が浅い。喉が鳴る。
慌てて“座”の線をなぞり直す。形は正しい。位置も間違えていない。
けれど、やはり“読めない”。
(読もうとしているのに。いつもなら、もっと、見えるはずなのに……)
焦りが、指先から染み出していく。
兆しは確かにそこにある。
なのに、それを“掴めない”。
(読もうとする。……でも、読めない。いや──“見えない”?)
見ようとするたび、視界の奥が歪んでいく。
銀粉のきらめきが、かえって目を灼く。
この場所の“感情”そのものが、自分の読みを拒んでいる……そんな気配。
(違う……こんなの、見たことがない)
喉の奥に、冷たいものが広がる。
額に滲む汗が、じわじわと眉を伝って落ちる。
背筋の冷えは、冷気か、それとも……戦慄か。
──こんなこと、初めてだ。
「……これは、ちがう」
志乃は座から手を放し、わずかに身を引いた。
その瞬間、風の向こうから──ふっと、鉄と火の匂いが流れてきた。
焦げたような土の匂い。何かが焼かれた痕。
視線を落とすと、草が不自然に焼け、土に円が刻まれている。
これは、子供の遊びじゃない。意図された“円”。
志乃は息を止める。
砥石から流れた胞子は、その円を避けるように軌道を変え、家の方へと向かっている。
扉は開いていた。中に入ると、ひどく静かだった。
空気が重い。いや、滞っている。何かが、まだここに“居る”。
部屋の隅に、白いものが倒れている。
「……おまえ……」
猫の身体は、見る影もなく痩せ細っていた。
毛並みの隙間に、白く細いものが絡まっている。
──菌糸。
それは毛に沿って広がり、いくつかは皮膚に喰い込んでいた。
小さな肩が、不自然に膨らんでいる。
呼吸は浅い。けれど、わずかに胸が上下していた。
「……まだ、生きてる」
だが、その体から発される湿度は、もう“ただの命”のものではなかった。
鼻先が、かすかに疼く。胞子が、空気の底に微かに沈んでいる。
そのとき──
腰に下げた小さな貝殻が、
「かちり」、と音を立てた。
空かぬ貝。
兆しが縁を掴んだときにだけ、共鳴する“読まざる音”。
志乃の背筋に、冷たいものが走る。
――この子のなかに、まだ“結び”がある。
それは猫の命ではない。
“誰かの情”だ。
志乃は座を敷いた。
銀粉瓶を据え、風の流れに意識を重ねる。
粒子が揺れる。
そこに残っていたのは、ひとの名残だった。
「……まだ、残ってる」
男の気配。千代への情。それがまだ、この空間に引きとめられている。
──本当なら、戻れるはずだった。
兆しは、もう手遅れになる直前で、かろうじて繋がっていた。
だが、兆しは、間に合わなかった。
次の瞬間──風が、裂けた。
ざわり、と。空気の層が剥がれ落ちる音がする。
それは里の方角から、逆巻いて押し寄せてきた。
湿気が渦を巻く。土の匂いに混じって、濁った気配が膨れ上がっていく。
空気そのものが、歪んでいた。
ただの風じゃない。
これは──胞子だ。
粒が群れをなし、塊となり、竜巻のように立ち上がっている。
まるで、山を背にした“何か”が、ゆっくりと大きく、息を吐いたかのような。
志乃の肺が、拒絶するように震えた。
喉が焼けるように乾き、身体が先に動いた。
風に逆らって、踏み出す。
一歩。二歩。
「──来る」
細道へと駆け出す。
読めなかった代償が、背中を追ってくる。
靴音が湿った地を叩く。裾が草をかすめ、風を切った。
(つづく)