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地の底のパンデクテス
地の底のパンデクテス
彗星無視
異世界ファンタジー冒険・バトル
2025年08月03日
公開日
6.4万字
完結済
「——生体遺物・パンデクテス、起動しまシタ。マスター、ご指示を」 遺物(ギフト)——それは迷宮の秘する、特殊な力を持った道具。遺物を狙って迷宮に潜るギフトハンターの少年、イデアはある日美しい少女の姿をした生体遺物・パンデクテスと出会う。ヒトの形をした遺物の価値は計り知れず、イデアはパンデクテスを『プロメテウス商会』へ売り渡す決意を固める。しかし垣間見せたパンデクテスの笑顔に人間じみた情緒を見出してしまい、彼女を売ろうとする罪悪感に苛まれ、一方そのことを知らないパンデクテスはイデアを(暫定)マスターと認めて信頼を深めていく。 裏切りを予期しながらも築かれる関係。その絆に真実はあるのか—— 道具と人間、嘘と本当、境界で揺れるイデアの選択こそ、地底に紡ぐ物語。

第1話 『地の底のパンデクテス』

——その美しさに、瞬間、すべてを忘却した。

 呼吸いきを忘れた。時間ときを忘れた。自分が今、追手から逃げているのだという状況も忘れて、ただその少女に見入った。


「お前——、は」


 荒く石を切り出した暗室。迷宮の中では珍しくもない小部屋。中心にある台座のすぐそばで、その少女は悠然と立っている。

 こちらを見据える瞳は闇の中で輝きを放つかのごとき黄金。腰まで伸びる長い髪は、これも暗闇に映える真っ白な色だ。見たこともない、雪という気象現象の知識を連想する。

 ……理解が追い付かない。

 この少女は誰なのか。どうして俺をまっすぐに見つめているのか。なによりも——彼女はさっきまで、一冊の本だったはずだ。

 一切の疑問に答えは出ない。考える頭は漂白されている。

 あまりに目を引く髪と瞳。顔立ちは幼さを残しているものの浮かべる表情は理知的、あるいは機械的であり、そのバランスの取れなさは一種の幽遠さを生むようだ。

 人と同じ姿をしていながら、ソレはあまりに美しすぎた。

 端整すぎる容貌、精緻すぎるディテールはかえって人間味を失わせる。彼女が宿すのは名のある彫刻家か、それともいっそ全能の神がその手で造り出したかのような造形美だ。そんなものは人間が持つ美しさではない。

 だからソレは、人間ではなかった。


「何者だ……! なんなんだ、お前はっ」


 自分よりも小さな少女に、俺は恐れさえにじませて問う。喉を通る声は震えを帯びていた。

 俺の質問に答えたのか、それともそうではないのか。白い髪をなびかせて少女は一歩踏み出し、俺の顔を覗き込むようにしながら、鈴を転がす無垢の声音で言ったのだ。


「——生体遺物ギフト・パンデクテス、起動しまシタ。マスター、ご指示を」

「…………なんだって?」


 人ではない、迷宮に散りばめられた遺物ギフト

 偶然のように、運命のように。かくして俺——日々迷宮に潜るしがない遺物ギフトハンターであるイデア・ウラシマは、その日、この世で最も稀有で珍妙な遺物ギフトと出会ったのだ。


 *


 きっかけは数分前。

 いや、事の始まりを語らうのであれば半年前、あるいは五年も前に遡らねばならないのかもしれないが、眼前の少女との出会いのみに焦点を絞るのであれば、やはり数分で事足りるだろう。


「——っ」


 俺は物陰で身を潜め、必死に息を止めていた。

 まだパンデクテスと名乗る奇怪にして人外の美を宿す少女と出会うことなど露知らず。ひんやりと冷たい石造りの回廊にて、柱の陰で気配を殺す。……そのまま一分ほど経ったところで、ちらと顔を出して向こう側を窺う。

 そこには巨大な狼に似た生物がおり、額から鉱物じみた質感の奇妙な角を生やしたその生き物は、俺に気が付くことなく回廊の先へとのっそのっそ歩いていった。


「ふー、行ったか」


 やり過ごせた。止めていた呼吸を再開し、俺は柱の陰から出る。

 ここは迷宮。遺物ギフトは迷宮の宝だが、ならばああして宝の番人として徘徊する者があの魔物たちだ。

 遺物ギフトハンターとは威勢がいいが、迷宮は悪鬼ひしめく万魔殿パンデモニウムであり、実のところはせせっこましいコソ泥稼業なのだった。


「……ま、あの程度ならやってやれないことはないけど。安全第一ってな」


 独り言をつぶやき、先の魔物が向かったのとは別の方向へと進む。迷宮の中は入り組んでいるうえ、数日おきに構造が変化するトンデモ設計だ。道順の暗記は遺物ギフトハンターの必須技能と言える。

 危険と隣り合わせのハンターに必要な技術や素養は多々あれど——最も大切なものはひとつ。

 それは運。迷宮に散らばる遺物ギフトと巡り合う幸運こそが肝要であり、当然鍛えようとしても鍛えられないので、誰もが喉から手が出るほど欲しい資質だ。

 けれど今日、俺の幸運ラックは飛び抜けていた。

 左右に壁はなく、上と下にも別の道が交差する、立体的な迷路の廊下。十字路の真ん中に、胸の高さほどの台座が存在した。

——遺物ギフトだ。まだ誰にも取られていない。

 獲物を前にし、俺は一も二もなく飛びつく。間近に見てみれば、台座の上に置かれていたのはなんとも奇妙な球体だった。


「籠……か?」


 紫色をした球体状の籠。見たこともないような硬質な素材で編まれており、大きさは手のひらとそう変わらない程度。特筆すべきは隙間から窺える内側で、そこには闇としか形容のできない黒いなにかが渦巻いている。

 まるで異界につながる門のようだ、と荒唐無稽なことを思う。

 だがその荒唐無稽さ、奇妙さこそ遺物ギフトの証。地獄から流れてきたものだとも、天蓋の向こう側より下りてきたのだとも囁かれるそれは、魔法のような現象を引き起こす説明不可能の代物だ。

 宝を前にした高揚のまま、台座に収められたそれをむんずと手に取る。


「っと——マジか。ホントにツイてるぞ、今日。一体どうしちまったんだ?」


 すると頭の中に『フォグメイカー』という名称と、有する能力、そして能力を発動するための呪文が流れ込んでくる。

 ……適合した、ということだ。俺に適性のある遺物ギフトは結構珍しい。

 しかも能力も俺向き、というかコソ泥稼業向きときた。


「これなら商会に売らず、当面は自分で使うか? いや、でもこれ、たぶん希少級レアはあるよな。売れば二、三か月は遊んで暮らせるくらいの金になるぞ……」


 球体の籠、フォグメイカーをめつすがめつ眺めながら考え込む。

 売っぱらうか、自分で使うか。頭を悩ませる二択。だがこれはどちらの利益も捨てがたい、歓迎すべき悩みごとと言えた。

 と、そこへ。ジレンマに答えを出す前に、十字路の向こうから近づいてくる一団があった。


「おい、そこのチビ。その遺物ギフトおいてけ。なに、大人しく渡せば痛い目には遭わせないでやるよ」


 見るからに暴力の気配を漂わせる、刃物を手にした三人組。リーダー格らしき青髪の男は威圧的にこちらをにらみつける。

 取り巻きのふたりはその後ろで、ごちそうを前に舌なめずりをするのに似たニヤニヤとした笑みを浮かべていた。


「……ずいぶんと単刀直入な脅迫だこと」

「お前は獲物を前に丁寧な挨拶から始めるのか? それを台座に置き直せ。妙な動きを見せたら容赦はしねえ」


 なるほど実に明瞭な返答だ。俺が台座に収められた遺物ギフトを見れば飛びつくように、こいつらものうのうと遺物ギフトを運ぶハンターを見れば飛びつくというわけか。

 迷宮を万魔殿パンデモニウムと評したのは我ながら的を射ている。跳梁するのはなにも魔法器官を有する魔物たちだけではない。同じ人間もまた、遺物ギフトの超常的な力や金銭的価値という光に目がくらんでか、時として魔道に堕ちてしまう。

 つまるところ。こいつらは俺のような遺物ギフトハンターを狙った、盗賊の類だ。

——よし、逃げよう。一秒で決定。

 挨拶は要らないと言ったのは向こうなので、さようならの一言もなく回れ右。フォグメイカーを抱え、俺は来た道を全速力で駆け戻る。


「——追うぞてめぇら! ガキが舐めやがって、ぶん殴ってあの遺物ギフト奪い取れ!!」


 当然、向こうもそのまま逃がしてくれるような素直さは持ち合わせていない。だって賊だし。

 さて、どうしたものか。確かに俺はまだ16のガキだが、迷宮に入り始めてもう五年だ。そこいらのチンピラ相手に後れを取らない程度の自負はある。

 とはいえ、さすがに刃物を持った大人を三人も同時に対処するのは無理。となるとこのまま逃げ切りたいところだが、残念ながら足の速さでもこちらが劣後している。


「はッ、しょせんガキの足だな! せっかくの忠告を無碍にしたツケ、きっちり払わせてやるよ!」

「……チビだのガキだの、いちいちうるさいやつだな」


 追いつけると確信したのか、背後から嘲笑が届く。

 逃げ切る手ならある。今まさに、俺の手の中に。

 せっかく適性もあったことだ。手に入れて早々だが使わせてもらうとしよう。走りながら、俺は呪文を口にするだけの息を吸う。


「『隠蔽せよ、最果ての白き常闇』」


 そして、その能力を解き放った。すると手にした紫の籠、フォグメイカーの黒い渦からたちまち白い霧のようなものが立ち込め始める。


「なんだ……突然霧が、なにも見えない!」

「馬鹿な、迷宮の中で霧なんて……まさかさっきの遺物ギフトか!?」


 ご明察、と口の中だけでつぶやきながら霧の中を駆け抜ける。

 俺がさっき台座から取り上げた遺物ギフト、フォグメイカーはその場に前後感覚を失わせるほどの濃い霧を生じさせる能力を持っていた。

 やはり便利だ。これがあれば、きっと大抵の魔物からも逃げ切れるだろう。

 しかし今回の相手は人間、それも執念深い人狩りの手合い。霧を抜ければまた俺を捜すに違いない。時間が稼げているうちに、より遠くへ逃げなくては。

 俺は宙に張り渡された廊下の端に立ち、眼下を覗き込む。

 吸い込まれるように深い迷宮の闇。だがその手前、三メートルほど下にはまた別の廊下が張り渡されている。

 俺は躊躇せず、そこへ向かって飛び降りる。臓腑が上に引っ張られるような浮遊感。


「ぐっ……!」


 自由落下を経て、硬い床面へと着地。同時にその場で転がり、衝撃を分散させる。

 ……うまくいった。肩の辺りが若干痛むが、まあ問題はない。

 抱えたままのフォグメイカーも無事。もっとも遺物ギフトというのは例外なく不壊の性質を持ち、絶対に壊れたり欠けたりはしないものだ。たとえどれほどの高所から落としたとて、こいつには傷ひとつ付かない。

 さっきのやつらも俺がこんな逃走経路を使うとは思うまい。念には念を、より遠くへ逃れるべく、俺は着地した廊下の先へと進む。

 一本道のその先に、小部屋があった。

 しめた。隠れるにはうってつけだ。俺は一目散にそこへ逃げ込み、


「……おいおい、どうなってんだ。明日は雪でも降るんじゃないだろうな」


 岩室のようなその一室の中心に台座があることに、心底から驚愕した。

 天蓋がある以上、この地底に雨も雪も降り注ぐことはない。そんな当然コトはわかっているが、それでも奇跡の実現を疑いたくなるような出来事。

 台座には、一冊の本が置かれていた。

 暗がりに溶けるような真っ黒の表紙。だが装丁は黄金で豪奢、鍋の重しにでも使えそうなくらいの分厚さ。

 台座に飾られているということは間違いない。遺物ギフトだ。

 遺物ギフトを立て続けに見つけるなんてのは、俺も初めての経験だった。通常、ほとんど毎日迷宮に潜ったとしても、月にひとつ見つかればいい方といったところ。

 熱に浮かされたように、俺はその大冊たいさつへと手を伸ばす。そして指先が触れる刹那。

 本はまばゆい青の輝きを放つと、一瞬にして姿を変えた。


「お前——、は」


 光が止む。眼前に立っていたのは、白い髪と黄金の瞳を持つ少女。

 その触れがたい美しさは、俺の中のすべてを忘却の波に攫わせた。突き詰めた美とはこうも作為的になるのだと思い知る。


「何者だ……! なんなんだ、お前はっ」


 圧倒された心を奮わせ、俺は震える声でそう問い質す。

 そうして少女は——さっきまで本だったはずの彼女は薄い唇を動かし、静やかに言った。


「——生体遺物ギフト・パンデクテス、起動しまシタ。マスター、ご指示を」


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