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1-2

 父は生前、家の一階で小さな馬具屋を営んでいた。地下には工房があって、店は一階。二階は住居で、僕たちはそこで暮らしていた。店ではおもにくらを売っていて、父は工房でそれを作っていた。オーダーメイドで丁寧に作られるくらは、多くの人に求められ、店は子どもでも理解できるほど、繁盛していた記憶がある。


 火事で家はすっかり焼けてしまったが、地下の工房だけはわずかに残り、作りかけのくらがいくつかのこされていた。それが父の唯一の遺品だ。それもあって、僕は自然と馬に興味を持つようになり、祖父に「馬の仕事ならなんでもいい、たずさわってみたい」と話して、運よく紹介してもらった。そうして、今に至った――というわけである。


 約数十分ほど経ち、列車が駅に到着する。予定時刻の十二時きっかりだった。だが、しっかり停車しても、僕はなかなか立ち上がることができない。極度の緊張のせいだ。まずは深呼吸をする。それからわかりきっているのに、腕時計で時間を確認し、荷物を持ち、ようやく立ち上がった。


 明らかに観光客と見られる人の波に揉まれて、列車を降りる。フェリーがどうのとか、トレッキングコースがどうのとか、彼らの暢気のんきな会話や笑い声が少しだけうらやましかった。


 足早に改札を出ると、ちょうど目の前には一台の車が停まっていた。黒いワゴン車だ。車体はピカピカに磨かれて、太陽の光に反射し、まぶしいほど光っているが、足回りには泥が付着している。


 ピカピカに磨かれた車体のせいで、余計にそれが目立ってしまって、お世辞せじにも綺麗な車とは言いがたい。目を細めていると、運転席にいた男も目を細めながらこちらを凝視ぎょうしして、車から降りてきた。


「やあ!」


 背丈は僕と同じくらいだろうか。細身で、背すじがピンと伸びている。身なりはずいぶんと着古したブルゾンにジーンズを穿いていた。足下はスニーカー。だが、黒い車と同様、所々に土汚れがついている。それを見れば、彼が乗馬クラブの人かもしれない――と、僕は自然と察することができた。


「もしかして……、君がオリバー・トンプソン?」

「はい……」


 僕が彼を乗馬クラブの人間だと察したように、彼もまた僕を見て、新人きゅう務員むいんだと察したようだ。僕はドキドキしながら手を差し出した。


「はじめまして。オリバー・トンプソンです」

「あぁ、よかった……! オレはライル。ライル・ロバーツ。ウィンダミア乗馬クラブの厩務員きゅうむいんをやってるんだ。オーナーに頼まれて迎えにきたよ」


 ライル・ロバーツ、と名乗ったその人はそう言って、僕が差し出した手をぎゅっと握る。あいさつの握手にしては、少々力が強く感じた。


「いやぁ、すぐに見つかってよかった」

「お……、お迎えにきてくれて、ありがとうございます。よろしくお願いします」

「よろしく。さぁ、乗って。みんな、クラブで君を待ってる。――あぁ、荷物は後ろへ置いてくれ」

「はい」


 ライルさんは、僕を車の助手席へ乗るようにうながし、僕は手荷物を後部座席へ置いて、助手席へ乗り込む。車はすぐに走り出した。ラジオからは流行の歌が流れている。助手席の窓は少しだけ開いていて、そこから乾いた風が吹き込んでくる。緑と土の匂いがする。


「ロンドンから来たんだっけ。この辺は田舎でびっくりしただろ」

「いえ……。僕の住んでいたところはロンドンといっても郊外でしたから……。それにここは可愛らしい町で、素敵です」


 ロンドンの郊外にあった祖父母の家は、とてもこじんまりとしていたが、僕は好きだった。長年住み慣れた土地というだけでも、そこは魅力的だと思えるものだが、しかし。このウィンダミアも、まだ来たばかりではあるが、それに似た雰囲気を感じる。


 建物も道も古いようだが、どこか控えめに建っているような雰囲気が可愛らしく、また、とても綺麗だった。それは今日まで、この町が人々によって大切に守られてきた証だろう。


「僕、ここが好きです」

「ありがとう。ウィンダミアは今回が初めて?」

「はい」

「そうか。馬は? 乗った経験ある?」

「何度か……。でも、本当に数えるほどしかなくて……お恥ずかしいですが……」


 僕がこれまで馬に乗った経験は本当に言葉通り、数えられるくらいだった。それも学校の授業で乗っただけ。乗馬に関しては素人同然だ。


「ほとんど、なにも知らないんです……」

「あぁ、時々そういう人もいるよ。大丈夫。君はまだ若いし、すぐ慣れちゃうって」

「ありがとうございます」

「オレは小さいころから乗ってるからさ。馬について知らないことはほとんどないと思うんだ。なんでも聞いて」


 そう言いながら、ライルさんはハンドルを握り、ふふんと鼻を鳴らした。自慢げな彼の口調は、やや鼻につくが、僕はうらやましかった。多少の経験でもなければ、そうはなれないだろう。


「しかし……、ロンドンの方からこんな田舎へ来るなんて、君は変わってるなぁ。馬の仕事なら向こうにもたくさんあったんじゃないか?」

「はい……。でも、おじいちゃ――祖父が、ウィンダミア乗馬クラブの社長さんをとてもいい人だと話していましたから。それに、僕は田舎の方が好きなんです」

「ふうん。まぁ、シティから来た人間はみんなそう言うね」

「はぁ……、そうですか」

「そうだよ」


 ライルさんはそう言うと、今度は意地悪そうな笑みを浮かべて「今に不便で泣きを見るぞ」とおどすように付け足した。それから、ラジオから流れる曲に合わせて、陽気な鼻歌を唄い出す。僕はひとまず苦笑いで返し、窓の外を見つめた。そうして、窓のすき間から入る風の匂いを感じながら、彼の歌を聴くことにした。

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