僕は息を呑む。落馬の経験はないが、その瞬間を見たことはあった。馬から落ちたのは乗馬部の先輩で、腕も経験もそれなりにあると言われていたが、僕の目の前で落馬したのだ。
そのときの馬も、サラブレッドだった。いつも乗っている馬で、よくなついていたにもかかわらず、その馬は突然、本当になんの前触れもなく立ち上がり、相棒であったはずの乗り手を振り落とし、走ってしまった。その日、僕が初めて馬という生き物に対して、恐怖を覚えたのは言うまでもない。
「大変だったんですね……。その馬主さん……」
「どうだか。暴れ馬でも持ち主との相性はあるから、なんとも言えないね。まぁ、今のところは聞いていた通りだけどさ」
そう言って笑みをこぼし、ライルさんは窓を開けた。夏らしい、爽やかな風が入ってくる。眼下には湖のほとりを歩く馬が数頭見える。背には観光客らしき人を乗せている。ライルさんはその人馬の一行を指差して言った。
「ああやってさ、馬に乗ってる人を見ると、まるで一体化してその馬とひとつになったみたいに見えるだろ。でも、本当はそうじゃない。人はただ馬の背に乗っかってるだけで、バラバラなんだよ。落馬しようと思ったら簡単さ。ひとつになるには、強い繋がりが必要なんだ」
「強い、繋がり……」
「そう。馬と心を通わせること。そうじゃなきゃ、オレたちは不安定な動物に本当にただ、跨ってるだけ。馬は利口だからね、意思疎通ができてないのに、背中に乗って、無理やり指示を出そうとすると、すぐバカにする。落とそうとしたり、反抗したり……特に悪い馬はそうだよ」
「悪い馬?」
「頭がいい馬ってことさ」
ライルさんはそう言うと、いたずらっぽく笑みをこぼし、窓を閉めて、こう続けた。
「動物ってのは、ちゃんと見てるからね。相手がどういう奴か」
「じゃあ、僕のことも……」
「もちろん、見てるよ。――おっと、いけない。おしゃべりはここまでにしよう。着替えを済ませたら馬房で早速、仕事だ」
僕は急ぎ着替えを済ませ、部屋の外で待っていてくれたライルさんのあとについて、宿舎を出た。そのまま馬房へ向かう。近づくにつれて、馬の糞の匂いが強くなる。僕は入り口で長靴の消毒を教わって済ませると、そのまま馬房の中へ入った。
「あ……」
見れば、入り口のすぐ近くの馬房で、一頭の馬が首を縦に振っている。その向かいの馬房からはガリ、ガリ……と音がし始めた。すると、ライルさんはすぐさまその馬のそばに近寄り、「こら!」と低い声で叱る。
「今のは――前掻きって言ってね。あんまりやらせちゃだめなんだ」
「まえかき……」
「前足でこう……地面をガリガリするの。あれは催促だから。言うこと聞いたらどんどんわがままになるんだよ」
「へえ……」
「体を壊してるときなんかもあるけど、たいていはご飯か――ニンジンの催促さ。やり始めたらとりあえず叱って」
「はい」
馬のいない馬房にライルさんが入っていく。それから、中を確認するように見渡した。入り口には「ロリポップ」と書かれた表札のようなものが下がっていて、そのそばには、大きな熊手のようなものが置いてあった。ライルさんは一度、腕の時計に目を落とす。それから、再び僕を見て言った
「二時か……。それじゃあ……ここを掃除してもらおうかな」
「は、はい……!」
「ここね、ロリポップっていう馬の馬房なんだけど、今、外乗に行ってるところなんだ。戻ってくる前にボロ取って掃除して。色が濃くなってる藁はおしっこをしたところだから、それは取ってやって、新しいのを敷いといて」
「はい……」
「用具はこれ。フォークっていうんだ」
「フォーク……」
「汚れた藁はリヤカーに乗せて。新しいのは外の小屋にあるから。そこから取って使っていい。終わったら声かけて。オレは一番端の馬房にいるからね」
早口でそう説明し終えると、ライルさんは僕に大きなフォークを手渡して、颯爽とその場を去り、一番端の馬房へと消えていった。僕はひとり、その場に残されて、からっぽの馬房を見渡す。そして、ふうっと息を吐くと、腕まくりをした。いよいよ、初仕事だ。
「よーし」
僕は言われた通りに外の小屋へ行って、新しい藁を乗せられるだけ、リヤカーに乗せて持ってきた。そうして、汚れた藁やボロを大きなフォークで取り除き、そこに新しい藁を敷いていく。綺麗になった馬房には新しい藁の香ばしい匂いが立ち込めた。掃除を済ませると、汚れた藁はリヤカーに乗せて、外へ出す。
しかし、ちょうどその時だ。馬房の中に馬の嘶く声が響き渡った。同時に、二人の男の声が聞こえてくる。おそらく、そのうちの一人はライルさんだ。
「こら……、頭を振るなって……!」
「ほんとにこいつ……、しょうがない奴だな。折り合いがつかないにもほどがあるよ」
「どうするんだよ、お前。今日も調教させないつもりなのか?」
僕はその声がする馬房へ、おそるおそる近づき、そっと覗いた。次の瞬間――目を瞠る。馬房には一頭の馬と、ライルさんともう一人、厩務員らしき男の人がいて、二人がかりで、馬の口の辺りにくつわのようなものを嵌めようとしているようだった。馬は頭を上下に振って、どう見ても嫌がり、暴れている。僕はその馬の姿に、目が釘付けになった。