五月の朝、
「え?」
バッテリーは十分にある。故障だろうか。そんな時、見覚えのないアプリが画面に浮かび上がった。
「ミライノート」
薄い青色の背景に、白い文字で書かれたアプリ名。カナタは困惑した。こんなアプリ、ダウンロードした覚えがない。インストール履歴を確認しようとしたが、アプリが勝手に起動してしまう。
まるで日記のように、文字が流れ始めた。
『午前8時37分。カナタは教室の窓際で、早瀬ミオが落とした数学の教科書を拾うことになる』
「は?」
時計を見ると、8時27分。10分後の予測だった。カナタは眉をひそめる。早瀬ミオ?確か隣のクラスの女子だったような。でも、なぜ彼女の名前がここに?
電車が駅に滑り込む。カナタは半信半疑のまま、スマホをポケットにしまった。いたずらアプリの類だろう。きっと誰かが面白半分で作った占いアプリか何かだ。
だが8時37分ちょうど、窓際で早瀬ミオの教科書が床に落ちた。
カナタは席から身を乗り出し、反射的に立ち上がる。教科書を拾い上げると、ミオは驚いたような顔で振り返った。長い黒髪が肩で揺れ、大きな瞳がカナタを見つめる。
「ありがとう、結城くん」
その笑顔に、カナタの心臓が一拍飛んだ。早瀬ミオ。隣のクラスで目立つ存在だった彼女が、自分の名前を知ってくれている。
「あ、いえ……どういたしまして」
カナタは慌てて教科書を渡した。ミオの指先が一瞬触れ、カナタは頬が熱くなるのを感じた。
『午前8時47分。カナタは早瀬ミオに話しかけたくて仕方がなくなるが、勇気が出ずに諦める』
スマホを見ると、また文字が現れていた。確かにその通りだ。ミオに話しかけたい。でも、なんて声をかければいいのか分からない。
「結城くん」
ミオが振り返った。カナタの心臓が跳ね上がる。
「このアプリ知ってる?最近流行ってるらしいんだけど」
ミオがスマホを見せてくれる。画面には見慣れた占いアプリが映っている。
「あ、えーっと……僕も最近、変なアプリが勝手に入ってて」
初めて会話らしい会話ができた。ミライノートの予測は外れたことになる。でも、この偶然は嬉しかった。
昼休み、カナタは親友の田中と屋上で弁当を食べながら、アプリのことを話した。
「10分後が見えるって?それってもしかして……」田中は箸を止めて、興味深そうに身を乗り出す。「本当に当たるの?」
「さっきも当たったんだ。でも全部じゃない。時々外れる」
「面白そうじゃん。試しに何か見てみろよ」
カナタがスマホを確認すると、新しい文字が浮かんでいた。
『午後12時32分。田中が階段で転んで怪我をする。足首を捻挫し、保健室に運ばれることになる』
時刻は12時22分。カナタは血の気が引いた。これまでは小さな出来事ばかりだったのに。
「田中、今日は屋上から下りるのやめようか」
「え?なんで?まだ時間あるじゃん」
「なんとなく……危険な予感がして」
カナタの真剣な表情を見て、田中は困惑した。でも、親友の頼みを断ることはできない。
「わかった。でも理由を教えてくれよ」
「後で説明する」
結局、二人はエレベーターで下りることになった。1階に降りる途中、清掃員のおばさんがエレベーターに乗り込んできた。
「あら、君たち。階段使わなくて正解よ。さっき誰かが水をこぼしちゃって、3階の踊り場がびちょびちょなの。滑って怪我する人が出るところだったわ」
田中の顔が青くなった。
「カナタ……お前、まさか……」
アプリは本物だった。
それから一週間、カナタはミライノートに夢中になった。朝のホームルームで席替えがあることを事前に知り、希望の席に座れるよう準備をしたり、小テストの問題が配られる前に復習ページを開いておいたり。10分という短い時間だからこそ、ちょうどいい予知能力だった。
そして何より、ミオとの距離が縮まった。
『午後3時15分。早瀬ミオが図書館でひとり勉強している。声をかけるなら今がチャンス』
『午前10時23分。ミオが数学で分からない問題があると呟く。教えてもらえないかと相談される』
アプリの情報を使って、カナタは自然にミオとの時間を増やしていった。一緒に図書館で勉強したり、放課後に軽音部の練習を見に行ったり。
「結城くん、最近よく会うね」
ミオが微笑みながら言った時、カナタは少し後ろめたさを感じた。でも、彼女と過ごす時間が、カナタにとって一番幸せな瞬間だった。
ミオは思っていた以上に面白い子だった。クラスでは控えめに見えるが、実は映画が大好きで、特にSF映画について語る時の彼女は目を輝かせていた。
「未来が見えたら、どうする?」
ある日の帰り道、ミオが唐突に聞いた。
「え?」
「もし10分後の未来が分かったら、どう使う?」
カナタは動揺した。まさか、ミライノートのことがバレているのだろうか。
「うーん……悪いことを避けるとか?」
「でも、未来を変えちゃったら、それが本当に良いことなのかな」
ミオの表情が一瞬曇った。でもすぐに笑顔に戻る。
「ごめん、変なこと聞いちゃって」
そんなある日の放課後。
『午後4時15分。カナタは誰かに殺される。加害者:不明』
教室で一人、数学の宿題をしていたカナタは凍りついた。文字を何度も読み返す。「殺される」。その文字が現実感を伴って迫ってくる。
時刻は4時5分。あと10分で、自分が死ぬ?
心臓が激しく鼓動する。手が震え、スマホを握る指に力が入らない。周りを見回すが、教室にはもう誰もいない。廊下からは吹奏楽部の練習音が聞こえてくる。普通の、いつもの放課後の風景。
『加害者の詳細情報は表示できません』
追加の文字が現れた。なぜ?これまでは何でも詳しく教えてくれたのに。なぜこんな重要な時に。
カナタは急いで考えた。誰が自分を殺そうとしているのか。いじめっ子?でも特に恨まれるようなことはしていない。通り魔?この田舎町で?
4時8分。
廊下に足音が響く。ゆっくりと、確実に、こちらに向かってくる足音。
カナタは机の下に身を隠した。息を殺し、じっと待つ。足音が近づく。教室の前で止まった。
ドアノブがゆっくりと回る。
4時10分。
「結城くん?まだいるの?」
ミオの声だった。カナタはほっと息を吐く。
「早瀬さん……」
机の下から這い出すと、ミオが入り口に立っていた。いつもの制服姿だが、なぜか表情が読めない。
「どうして隠れてたの?」
「いや、その……なんでもない」
4時12分。あと3分。
でも相手がミオなら大丈夫だ。彼女が自分を殺すはずがない。きっとアプリの誤作動だろう。
「早瀬さん、一緒に帰らない?」
カナタは安堵と共に声をかけた。でも、ミオは首を振る。
「その前に、聞きたいことがあるの」
ミオが一歩教室に入り、ドアを閉めた。教室の電気が消える。非常灯だけが薄暗く室内を照らしている。
4時13分。
「結城くん」
ミオの声が、いつもと違って聞こえる。冷たく、感情がない。機械的で。
「君、ミライノートのことを他の人に話した?」
カナタの血が凍った。なぜミオがアプリの名前を知っている?
「な、なんのこと……?」
「嘘つかないで。田中くんには話したでしょう?」
ミオが一歩近づく。暗闇の中で、彼女の手に何かが光った。
「早瀬さん、どうして……」
「ミライノートは特別なアプリなの。選ばれた人だけが使える。でも、秘密を守れない人は……」
4時14分。
カナタは後ずさりした。窓際まで追い詰められる。ミオの表情が見えないが、声だけで彼女の本気度が伝わってくる。
「待って!僕は誰にも──」
その瞬間、ミオのスマホが光った。画面には見覚えのある青い背景。ミライノート。
そこに表示された文字を、カナタは震え声で読み上げた。
『午後4時15分。彼は真実に気づき、すべてが終わる』
4時15分ちょうど。
ミオが微笑んだ。いつもの優しい笑顔ではない。どこか悲しそうで、諦めたような、そして申し訳なさそうな表情。
「結城くん、ごめんね」
彼女の手が動く。
しかし次の瞬間、教室のドアが勢いよく開いた。
「カナタァー!」
田中が飛び込んできて、ミオに体当たりした。ミオは壁に激突し、手に持っていた何かを落とした。床に転がったのは、鋭く研いだシャープペンシルの芯だった。
「田中……なんで……」
「お前のスマホ、さっき見せてもらっただろ?『4時15分に殺される』って表示が出てたから、急いで来たんだ」
カナタは震える手でスマホを確認した。確かに、10分前の画面には田中の行動が記されている。
『午後4時5分。田中がカナタのスマホの異常に気づき、急いで教室に向かう。そして早瀬ミオを制圧し、カナタを救う』
「でも、どうして早瀬さんが……」
壁にもたれて座り込んだミオは、項垂れたまま答えない。代わりに、彼女のスマホが答えを示していた。
床に落ちたスマホの画面には、ミライノートが表示されている。そこには信じられない文字が浮かんでいた。
『このアプリの使用者が複数になった場合、一方を排除する必要があります。排除方法:物理的消去。対象:結城カナタ』
そして最後に、小さく記されていた。
『管理者:早瀬ミオ。任務:実験体の監視および不要時の処分』
カナタは愕然とした。ミオとの出会いも、楽しかった会話も、一緒に過ごした時間も、すべて監視のためだったのか。
「僕は……実験体?」
ミオがゆっくりと顔を上げた。その瞳には涙が浮かんでいる。
「最初は……そのつもりだった」
か細い声で、ミオが呟いた。
「ミライノートは開発段階のアプリ。人間の行動予測の精度を測るための実験だった。私は監視役として、あなたに近づいた」
カナタの胸が痛んだ。すべてが嘘だったのか。
「でも……」
ミオが続ける。
「一緒にいるうちに、本当に楽しくなった。あなたと話している時、実験のことを忘れてしまうほど。それが……間違いだった」
スマホ画面の一番下に、震える文字で書かれた一行が見えた。
『備考:実験体への感情移入を確認。任務続行困難につき、強制執行モードを発動』
ミオは自分の意志で殺そうとしたのではない。アプリに強制されていたのだ。
翌日、ミオは転校していった。
カナタが登校すると、彼女の席は空っぽで、担任が淡々と転校の事実を告げただけだった。まるで早瀬ミオという少女が最初からいなかったかのように。
カナタのスマホからミライノートは消えていた。でも、代わりに一通のメッセージが残されていた。
『結城くん、本当にごめんなさい。あなたと過ごした時間は、私にとって初めての本当の時間でした。実験なんて忘れて、ただの高校生として笑っていられた。ありがとう。そして、さようなら』
カナタは教室の窓から空を見上げた。
時々思い出す。あの時のミオの悲しそうな表情を。彼女の涙の意味を。
彼女もまた、誰かに操られていた被害者だったのかもしれない。大きな組織の歯車として、感情を持ってはいけない役割を与えられていた。
それから数日後、田中がカナタに言った。
「なあ、あの後ニュース見たか?大手IT企業で不正実験の疑いって」
「え?」
「スマホアプリを使った無断人体実験。内部告発があったらしい。関係者は全員逮捕されたって」
カナタは複雑な気持ちになった。ミオが内部告発をしたのだろうか。自分を守るために。
そして今も、世界のどこかで、新しい「実験体」が10分後の未来を見つめているのかもしれない。
未来を知ることが、本当に幸せなことなのか。
カナタは今でも分からないままだ。
でも一つだけ確かなことがある。あの短い時間、ミオと過ごした時間は、実験だったかもしれないけれど、彼女の気持ちは本物だった。
そしてカナタの気持ちも。
夕日が教室を橙色に染める中、カナタは静かに呟いた。
「早瀬さん、元気でいてくれ」
その時、窓の外で誰かが振り返ったような気がした。でも振り返って見ても、そこには誰もいなかった。
ただ風が、桜の花びらを舞い上げているだけだった。