「名前と年齢、出身地を述べてください」
鷲鼻が最も目立つ壮年の男が面倒そうに言った。
ガラス窓から差しこむ朝の陽光が、机の片側をまばゆいほど照らし出している。白く磨き上げられた長机に着席している面接官は、六人とも現役の騎士。鎧はつけていないが、それぞれ異なる紋章を胸に入れた立派な上着をきっちりと着こなしている。
光は彼らの背後に掛かる青色の旗をも半分だけ輝かせ、縫い刺しの紋章を冴え冴えと際立たせていた。この旗の紋章は国王の出自を表しているという。
対するグブザフは影の中に立っている。入ってきた扉はすぐ横にあり、背後は壁だ。一、二歩下がっただけでぶつかりそうな距離だが、ここに立つしかなかった。目の前に水盤があり、この水盤より前に出るなというのが、与えられた指示だからだ。
「名前はグブザフ。十五歳。出身は……えっと、フィヤン地区です。あ、えっと、ザヌの」
失敗した、とグブザフは焦る。
すらすら答えるつもりだったのに、言葉がうまく出てこなかった。口が渇いてしゃべりにくく、頭が痺れたようになって考えがまとまらない。必死に唾を飲もうとするが、空気を無駄に飲みこむばかりで、よけいに焦ってしまう。
「ザヌ州のフィヤン地区ですね。名前はグブザフ?」
「灰色の犬」
最も年嵩に見える男が呟いた。表情はほとんど動かなかったが、口元が少し笑ったようだ。その小さな声に宿る侮蔑の気配までグブザフはしっかりと聞き取った。
鷲鼻の騎士が、ふっと鼻先で笑いながらグブザフに問う。
「犬? へえ……本名ですか?」
「ないんです。あ、幼名です。えっと、つけてもらえなかったので……」
「じゃあ死ぬまで犬と呼ばれるわけだ」
端にいる面接官が太い声でおどけるように言う。すぐに忍び笑いが起こり、「幼名?」「犬ならまだましだろう。おしっこって名前も聞いたことあるぞ」と雑談が始まった。
グブザフは口を閉じる。緊張してうまく働かなかった頭の中に、すうっと冷たい風が通り抜けていく気がした。不愉快な気持ちを隠すため、顔を俯ける。
同じだと思った。
この立派な服を着た騎士たちも、今まで会ったギレン人たちと変わらない。ハルンタ人の幼名を理解しない連中だ。でもそれは仕方がない。
ギレン人は最初から良い意味の名前を子供につけるらしい。もしも「犬」という名前をつけるとしたら、ゴミをあさる浮浪者や、威勢はいいが実力のない小物といった、嫌われ者や低い地位にいる人への蔑称になる。
そのことをグブザフはとっくに知っていた。幼名の意味を知らない彼らに腹を立てる必要はないのだいうこともわかっていた。
それでも平然と聞き流すことができないのは、グブザフという名前が自分の幼名であるという以上に、特別な意味を持つ名前だからだ。
ザフはハルンタ語で「犬」を意味する。そこに「灰色」がついて、グブザフ。
母が暖炉の灰を掻き出しているときに産気づいたからというのと、グブザフの両目が曇り空のような灰色だから、という二つの理由でつけられた。
灰色なのは目の色だけだ。髪の毛は栗色に近い金髪だし、肌の色も灰色ではないけれど、全身が汚れて黒ずんでいるから、名前の意味を知って「ぴったりじゃないか」と大笑いするギレン人も過去にはいた。
ハルンタ人は十歳になるまで人間の名前を持たない。生まれてから十年に満たない人の子は精霊にさらわれてしまうので、動物や虫、がらくたや汚物から取った名前を仮につける。
この習わしを軽んじるハルンタ人はめったにいない。最初から本名を子供につけたら行方知れずになった、という先祖の話や知り合いの噂話は珍しくないのだ。グブザフの先祖にもいたと、両親から聞いている。
こうした背景をギレン人は知らないのか、知っていても納得できないのか、汚い言葉を子供の名前につけるとはなんて乱暴で愚かだ、と軽蔑の目を向けたり嘲笑ったりする。
人間の名前だと思わせないことが目的の幼名なのだから、笑われれば笑われるほど成功しているということだ。
グブザフにそう語って聞かせた人は、父と母だけではなかった。その名前でいいんだと、知り合いの大人はみんな言った。少なくとも十歳になるまでは、それでいいんだと。
人としての本当の名前は十歳から。
グブザフも十歳になる時に本当の名前をもらうはずだった。だがグブザフは、ずっとグブザフのままだ。両親が死んでしまったから。
脇に下ろした両手で拳をぎゅっと作り、石の床を見つめる。陽が当たっていない場所とは言え、季節は初夏。寒くはないはずなのに、足にうまく力が入らない。
履いている革靴は去年の冬に拾ったとき底が抜けていた。ロルじいさんに直してもらって、足に合わなくなっていた靴と取り替えた。今は拾ったとき以上のひどい土汚れとひび割れでボロボロになっている。その残念なありさまを眺めているうちに、だんだん心が落ち着いてきた。
シャツもスラックスも泥跳ねの跡で汚れているが、綻びや破れは丁寧に繕われ、接ぎ当てもされている。こうした修繕はグブザフがやったのではない。
一人でここに立っているけれど、送り出してくれた人たちがいる。その顔を思い浮かべれば、こんなことで俯いていられないという気持ちになる。
グブザフは顔を上げて居並ぶ面接官たちを見返した。すると、さっきとは別の面接官から次の質問が飛んできた。
「なぜ、騎士になりたいのですか?」
そばかすの多い面接官だ。頬に笑みを残しているが、眼光は鋭い。その質問でほかの面接官も笑うのをやめた。
全員が口を閉じていると、自分の鼓動のほかになにも聞こえなくなる。グブザフは息を吸い、きっぱりと答えた。
「お腹がすいてるからです。あ、今の話じゃなくて。つまりその、ごはんを探しまわらなくていいように」
「それだけ?」
「あとは……騎士は、貴族だと聞いたからです」
「貴族になりたいから?」
「そうです。そうすれば、その……」
グブザフは口ごもる。本当の理由は言いたくない。かといって、まったくのでたらめも言いたくない。だから声に出せる理由は、「騎士になって、貴族になって、豊かになりたい」ということなのだが、そんな理由で合格できるのか不安になってきた。
顎に力を入れて口元を引き締めたとき、目の前に置かれた水盤の水が、急に白く濁った。
「白くなった!」
グブザフは目を丸くして面接官に伝えたが、一段高い場所に座る六人の面接官は誰ひとり驚いた様子はない。小馬鹿にしたように微笑んでいたり、厳めしい顔で睨んでいたりする。グブザフは自分だけが取り乱していることが恥ずかしくなった。
出ない唾を飲みこむ。手は無意識に胸元を掴んだ。薄い服の下の固い感触を握りしめ、ぼそぼそと声を発する。
「貴族になれば、強くなれる、から」
「では今は弱いと?」
「それは……だって、ぼくはハルンタ人で、フィヤン地区にいて、家がなくて、両親もいなくて、ゴミ拾いで生きてて、そういうのを、弱いって言う……と思います」
だからここに来たんだ、という言葉は胸に納めたまま、目を伏せる。
家も親もない貧しいハルンタ人でも貴族になれる唯一の機会。それが今まさにグブザフが臨んでいる騎士団採用試験だ。三年に一回、貴族以外を対象に王都で実施される。
この試験の開催を知ったとき、グブザフは一も二もなく飛びついた。
まず、ザヌの役所で年齢や健康状態、犯罪歴などを詳しく審査され、条件を満たしているという保証書を渡されて、隣の州にある王都まで来た。馬車の代金を支給されたが、実際には足りていなかったし、食事代も含まれていなかった。
とはいえそれは予想どおりで、道路掃除から煙突掃除、果ては裕福な家の汚物掃除と、あらゆる掃除や雑用の報酬で貯めてきた全財産を、切り詰め切り詰め旅をして、指定の宿に入ったのが三日前。
そこからは自腹を切る必要がなく、もう受かったような気持ちになったものだが、この面接に合格して、なおかつその後の訓練に耐え抜いてから、やっと騎士に選ばれる。
胸元の固い感触をもう一度ぎゅっと握りしめたグブザフは、手を脇に下ろし、灰色の目で面接官を一人ずつ見つめ返した。
冷ややかな目や蔑む目、呆れたような目、興味のなさそうな目や嘲笑う目の最後に、静かな眼差しとぶつかる。その瞬間、言葉がするりと飛び出した。
「ぼくは、どうしても騎士になって出世したいんです」
ハルンタ人の少年グブザフが、ギレン人の騎士五人とハルンタ人の騎士一人を前に、一切ひるむことなく告げた。
この国の王がハルンタ人からギレン人に代わったのは三十年前。西の国から来たギレン人が当時の王族を皆殺しにしてしまったのだ。貴族も断絶したり平民に落とされたりして、今や貴族の大半をギレン人が占める。
平民も状況はたいして変わらない。ギレン人が一斉に移住してきて、ハルンタ人は貧しい暮らしに追いやられた。ギレン語がわからないとすべてがギレン人の思うままになってしまうので、たいていのハルンタ人はギレン語を使うようになった。たった三十年で、四百年以上続いてきたハルンタ人の国はギレン人の国になった。
こうした変化のなかで、ハルンタ人のアラニア家だけは例外だった。
彼らは裏切り者だ。
三十年前、公爵であるアラニア家当主も、その親戚たちも、ギレン人に寝返って侵略を助けた。ギレン人による新体制が始まったとき、つぎつぎと爵位を剥奪される貴族の中にあって、アラニア家だけは身分を保持した。
そんなアラニア家の男が一人、今まさにグブザフの前にいる。ハルンタ人の特徴とも言えるバターのような色合いの肌をした丸顔の面接官。ほかの五人が色白で面長のギレン人だから、一人だけ容貌が異なる彼にグブザフはすぐ気がついた。彼だけがとても静かな目で自分を見ていることにも、さきほど気がついたばかりだ。
王都を守護する騎士団の一つ、黒騎士団の現団長はアラニア家当主の弟だ、というのは有名な話だ。きっとこの人がそうなのだろうとグブザフは思った。名前はエマシュ・アラニア。年齢はたしか四十二歳。さっきからグブザフの顔と手元の紙とを交互に見ているだけで、質問はしてきていない。
同じハルンタ人だから、この人だけは味方になってくれるだろうか。そう思う一方で、裏切り者なんだから助けてくれるわけないだろう、とも思う。
どっちつかずの気持ちを持て余しながらグブザフは水盤に目を向けた。
中身が白く濁った水盤は、グブザフの腰の高さの台座に据えられている。水盤の形は円く、大きさは人の顔がぎりぎり入るくらいだろうか。くすんだ灰色をして艶はなく、装飾もさりげない。さざ波のような横線が側面に走っているだけだ。ただ、水盤の底には絵のような文字のような見慣れないものがあった。水が白く濁った今は見えないが、きれいだったから印象に残っている。
なぜ水は白く濁ったのだろう。
面接を始める前に短剣を渡され、指先を切って水につけるように言われたことと関係があるのだろうか。
怪我や痛みに対する覚悟を試されているのかと思ったから、グブザフはためらわずに刃を指先に滑らせた。思ったより深く切ってしまったと焦ったものの、水につけて引き抜いたときにはもう血は止まっていた。そのときでさえ水は澄んだままで、白どころか赤くもならなかったのに。
「よくわかりました」
鷲鼻の面接官が言った。
今のやりとりでなにをどこまで探られたのだろう。
グブザフは疑問に思ったが、顔には出さないように気をつけた。騎士は顔色を読まれてはならないんだ、とゴミ拾い仲間のロルじいさんが言っていたのを、今ごろ思い出したから。
「ザヌから来たグブザフくん。あなたは騎士の資質を持ち合わせていない。まあ、せっかくだから王都の見物でもして、ザヌにお戻りください」
半笑いで告げられたその言葉が、グブザフの頭から背骨を通って足の裏へ抜けた。息を忘れて、表情も取り繕えず泣きそうになった。
絶対に受かりたかったのに。
水盤に満ちる白い液体がさらに色を深めて乳白色になる。そうして、グブザフの悲嘆を吸い取るようにかすかに波立った。