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Ⅵ 灰色犬の玉座

 泊まるように言われたとき、荷物を置いている宿に戻ったほうがいいんじゃないかと、ちらっと思った。


 ここで一晩を過ごせば、冷静に答えを出すのが難しくなる。そんな予感がしたからだ。だけど断れる雰囲気ではなかったし、ここでの夕食にも興味があった。そうして迷っているうちに、泊まることが決まってしまった。


 夕食も一人で食べた。豪華で美味しかったけれど、あまり食欲がなかった。それでも残すのは惜しくて、無理に平らげた。


 案内された寝室はこれまた立派で、用意された寝間着はなめらかな感触で気持ちがいい。ドキドキしながらベッドに横たわったら、ふんわりと包まれた。花のようないい香りもしたので、大きく息を吸った。


 こういう寝具で眠れるのは最高だと思う。それなのに少しも眠くならない。暗い天井を眺めながら頭に浮かぶのは、今日の出来事と、これまでのことと、これからのことだ。


 エマシュ・アラニア。道端で寝起きするような自分でも名前を知っていた人物。裏切り者の一族。


 その人と二人きりで話したなんて、夢だったんじゃないかと思うけれど、上質な寝具を使っている今が現実なのだから、あの話も実際に語られたことだ。


 エマシュの瞳はまるで蝋燭の炎のようで、火で炙られているような気分だった。どうにも居心地が悪くて、何度も目をそらしてしまった。


 いつの間にか壁の灯りが点いていることに気がついたのも、エマシュから目をそらしたときだった。話の途中で誰かが入ってきた気配はない。自分が昼寝から目を覚ましたときには、もう灯りが点いていたのかもしれない。そう考えて、薄気味悪くなった。


 うたた寝をしただけだと思っていたけれど、そうではないかもしれない。この屋敷に来てから何日も経っているんじゃないかという、奇妙な感覚にとらわれてしまった。


 それはたぶん、エマシュの話が大昔にまで時を遡っていたせいだ。話の内容も、エマシュと二人きりという時間そのものも、今までの日常とはかけ離れすぎていて、どうして自分はここにいるのか、どうしてこんな話を聞いているのか、と何度も考えていた。


 水盤の水が反応するのは王族の血だけ――。


 それが事実だと信じた根拠は、賢者の水盤の昔話が、民間では別の伝説と混ざっているという、その理由だ。


 大事なものを守るためにどうでもいいものだと偽って広める。それがハルンタ人の幼名であり、同じ理由で賢者の水盤も隠されたのなら、あの昔話は実際にあった出来事だということ。それならば、面接中に白く濁って底が見えなくなったあの水盤が意味することは。


 そこまで考えて、ぞくりと寒気立った。


 それから記憶を探った。父と母が、なにかそれらしいことを言っていなかったかと。


 今あらためて思い返すと、一つだけ心当たりがある。


 精霊にさらわれた子供が先祖にいた、と母が言っていた。もしかしてそれが、あのおとぎ話の王子様なんだろうか。巨人の爪と神獣の角の王子。正しくは、賢者の水盤をもらった王子。


 あの話を母は何度も何度も語って聞かせてくれた。自分も好きだったし、母も好きな話だったから、というだけではなく、先祖の話だったから、だとしたら?


 どっちの先祖だろう。父か、母か、それとも両方の先祖ということは?


 母は、賢者の水盤が出てくる正しい話を知っていたのだろうか? 知っていたとしたら、どうして話さなかったのだろう。完全に隠してしまったら正しい話が消えていくだけなのに。それとも、十歳の名付けと同じように、時が来たら正しい話を伝えるつもりだったのだろうか。


 貴族を飛び越えて王族になれる。


 そう言われたとき、いよいよ寒気が止まらなくなった。足の裏から頭のてっぺんまで、ぞくりぞくりと震えた。


 怖い話だと思った。嬉しい話だと思った。自分は特別なんだと思った。でもその「特別」を、いい意味にできるかどうかはわからないのだと怖くなった。


 どうすればいいのだろう。


 気をつけろ、とロルじいさんの声が耳によみがえった。


 気をつけろ、グブザフ。顔色を読まれるな。うまい話に飛びつくな。裏があるかもしれん。貴族と話すときは、いつでも試されていると思え。


 そう言ってロルじいさんは王都に送り出してくれた。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 自分はただ、騎士になって、つまり貴族になれればよかった。あいつらと会って話ができる機会があればそれでよくて、国がどうとかギレン人を追い出すとか、そんな大きな話になるなんて想像もしていなかった。


 エマシュ・アラニアの手を取れば、人生が大きく変わる。


 だけど、あの人は、なんだか信用できない。穏やかに話してくれるし、お金持ちだし、騎士団長だからたぶんとても強いし、味方になって支えてくれるというのだから、なにも心配いらないような気分にもなりかけた。けれど、あの目が引っかかる。茶色い目の奥の、鋭くて冷たい光。人を上から、じっと観察しているような目。


 沈黙の中でひたすら頭を働かせていた。必死に、なにかを見落としているんじゃないかと考えた。そして気がついた。


 この試験は過去にも開催している。それなら、水盤が白く濁った人はこれまでにもいたはずだ。あの面接官たちは、水盤が白く濁ったとき誰も驚いていなかった。それは過去にも見たことがあったからだ。


 だったら、その白く濁った人たちは今どうしているのか。


 まったく噂を聞かない。単純に自分の耳にまで入ってこなかっただけかもしれないが、そうでないとしたら。


 噂になりようがない、からだとしたら。


 アラニア家は、ハルンタ人を裏切った一族だ。


 そんなアラニア家が、反乱の企てがばれないよう細心の注意を払ってきたのなら、王族の末裔が何人もいるのなら、企てを拒んだその人たちを表に出られないようにするのは、きっと簡単だ。そうやって徹底的に秘密を守って反乱の準備を進める。そういうことができる人たちなんじゃないだろうか。


 ギレン人は、三十年前にハルンタの王様が負けた相手だ。普通に考えて、ゴミ拾いで生きてきた自分が勝てるとは思えない。


 もしも失敗したら、アラニア家は自分を切り捨てるのではないだろうか。


 三十年前のように、アラニア家だけが無事で、王族を名乗った自分は殺される。そんな結末もあるのではないか。


 みんなが貧しさから解放されるのはいいことだ。ロルじいさんも暖かい家に住めるし、仕立屋のおばさんにも今までのお礼ができる。そこだけを考えるなら、この話を断るべきではないと思う。


 だけど、信じていいのか。


 ああ、だけど。


 そもそも本当の話なのだろうか。水盤の話が作り話で、反乱への誘いは罠で、誘いに乗ったら反逆罪で逮捕、とか?


 いや、でも……。


 あんなに美味しい食事を出してくれて、今もふかふかのベッドに寝かせてくれて、これほど大掛かりな罠をたった一人に仕掛けるなんてこと、あるのだろうか。しかも自分は本名も住む家もない、後ろ盾などあるわけもない貧しいただの騎士志願者だ。そんな相手に贅を尽くす罠など、ちょっと考えられない。


 もし、すべてが真実で、自分が王族で、ギレン人を追い出せるなら。


 叶うなら。


 貴族を飛び越えて王族へ。


 そんな夢みたいな話が現実に?


 やっぱり危険だ。だまされるな。


 ロルじいさんに相談したい。一人で答えを出すのは怖い。だけどここにロルじいさんはいない。


 グブザフはすべすべの寝間着をまさぐった。胸に乗る小さな骨を掴む。


 エマシュ・アラニアが最後に言った。


 三十年前の王様も灰色の目をしていたと。


 その瞬間、この骨がかすかに震えたのを感じた。犬の声で元気に吠えた気すらした。


「それだけで、いいじゃないか」


 ぽつりとこぼした声は、花の香りと混ざった。そのまま闇に漂って、グブザフの胸に戻ってくる。より深く、浸透する。


 やっぱり、これが答えだ。


 本名なき孤児から、貴族を飛び越えて王族へ。


 この機会を捨てたくない理由が、一つ、確かにある。あらゆる不安を振り切って進めるほどの、強い願いがここにある。


 あとのことは、そのあとで。


 考えがまとまったグブザフは、ぎゅっときつく目を瞑った。すぐに息を強く吐いて、肩のこわばりを解きながらぱっと目を開く。今度は緩やかに瞼を下ろした。


 あの水盤をじっくり眺めたい。頼んだら見せてくれるだろうか。


 そんなことを思いながら、眠りに落ちていった。



 ***



 ――六年後。


 王都にはハルンタ人が運営する指物師協会があり、所属する指物師の技術を毎年審査している。


 この年、三年連続で最高位の称号を贈られた指物師がいた。彼はある日、自室にこもってひっそりと、以下のことを手記にしたためた。






 文字で記録を残すなど、普段はいたしません。けれども、これは私の人生で最も特別な出来事になる気がして、やはり書きとどめておくべきだと思ったのです。


 事の起こりは、三ヶ月前のことでした。


 夜明け前に旧王朝派が蜂起し、日が沈むころには、ギレン人の征服王朝を打ち倒しました。私が生まれた年にこの国を乗っ取ったギレン人から、ついに玉座を取り戻したわけです。


 この解放戦争の中心にいたのが、旧王統の末裔、バルワイト様です。十歳を過ぎても実名を持たず、幼名のグブザフを名乗り続けておられましたが、蜂起の直前に祈祷師を通して新たなお名を授かったと聞きました。


 この戦で、ギレン人の王と王妃、二人の王子、宰相を含む多くの王族・重臣が命を落としました。


 この一連の出来事について、今の私の感慨はさておき、どうしても記しておきたい不可解な点があります。


 宰相ムルガン家の嫡子だけが、腹に矢を受けて亡くなっていたのです。私の知るかぎり、この戦いで矢が使われた話は他にはありません。


 これはムルガン家で使用人をしていた友人から聞いた、確かな話です。解放軍が宰相一家を襲撃した際、友人は遺体を目にする機会があったらしく、「腹に矢が刺さっていたのは次男ただ一人だった」と言いきりました。


 彼はさらに「解放軍の中に弓を持っていた者が、たった一人いた」と、もったいぶって話してくれました。それがなんと、まだ即位前のバルワイト様だったというのです。


 私はてっきり、陛下は王宮の奪還に加わっていたものと思っていたので、その話を聞いて驚きました。しかも彼の話では、陛下は空っぽの矢筒を背負っていたそうです。


 これは妙な話です。途中で矢を失うようなことがあったのか、あるいは初めから一矢しか持っていなかったのか。いずれにしても、真相はわかりません。


 私がこの話を聞いたのは、すでに陛下からのご依頼を終えた後でした。ですので、これを直接お尋ねする機会はもうないでしょう。


 そう、肝心の依頼の話です。


 本来、口外してはならぬと固く口止めされたことです。しかし、どうしても書き残さずにいられないのです。この手記は、生涯誰にも見せるつもりはありません。


 即位したばかりの若き陛下は、指物師協会を通じて私を王宮にお呼び出しになり、密命をくださいました。


「玉座に、目立たぬよう小物入れを取り付けてほしい」


 大きさをお伺いすると、


「首飾りが一つ入ればよい」


 とのことでした。そこで私は、首飾りがちょうど入るほどの引き出しを作り、玉座に取りつけたのです。


 華麗な装飾にまぎれて、その引き出しを見つけられるのは、おそらく私と陛下だけでしょう。


 完成の折、陛下は首から下げておられた首飾りをそっと外し、静かに中へと納められました。ちらりと見えたその首飾りは、二本の革紐に金属札と小さな骨を通しただけの、素朴で不思議なものでした。


 そして陛下は、こうおっしゃいました。


「引き出しを封じて、開けられぬようにしてほしい」


 取り出せなくなってしまいますが、よろしいのですか、と恐る恐るお尋ねした私に、陛下はどことなく愁いを帯びた様子で微笑まれ、こうお答えになったのです。


「ここが墓標なのだ」


 はっとしました。


 あの金属札には、たしかに「グブザフ」という文字が刻まれていたように思います。つまりは、そういうことだったのでしょう。


 取り戻された玉座。


 この国で、もっとも高みにある場所。


 そこを、「グブザフの墓標」となさったのです。



(了)



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