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第14話 鍋料理

 翌日。事務所で雑務を行ったあと、夜の十一時。


 もうくたくただ。そう思いながら家路に着いていた。


 静かな夜の気配。ここには自分一人しかいないのではないかと錯覚するような感覚。それに少し、安堵していた。多分自分は孤独になりたかったからかもしれない。だから安堵なんてするのだ。

「あ、健二」

 名前を呼ばれ振り返ると、夏木がスーパーのレジ袋を持って立っていた。中にはたくさんの野菜が敷き詰められている。僕はげんなりとして、溜息交じりで呟いた。


「なんか用か」

「仕事終わるの大体この時間だし、夕食もまだだろうから作ってあげようと思って」

 余計なお世話だと言いたくなるが、頭を掻いてそれを堪える。


 二人して無言でアパートに向かう。玄関の扉を開けて部屋に入ると冷えた空間から逃れるために暖房をつける。ゴォォと古いエアコンがうなりを上げる。

 夏木がキッチンで、慣れた様子で戸棚から鍋を取り出す。それから袋からキムチ鍋の元を出したのを見て、鍋を作ろうとしているのだと知る。

 鍋そんなに好きじゃないんだけどな、と考えてから苦笑する。僕は嫌いなものが多すぎる。まるで好き嫌いの激しい子供だ。こんなんじゃ社会に適合できないよな。

 具材を切る音。コトコトと煮立つ音。それをぼんやりと聞き流しながら、テレビを見ていた。何の変哲もないバラエティ番組でお笑い芸人のMCがアイドルに毒づいている。このアイドル、なんか見たことがあるような、と思っても名前が思い出せない。そういえば、しばらくテレビなんて見ていなかったな。ヤクザになってからとにかく多忙で、そんなもの見る暇なんてなかった。

「出来たよ」

 目を開けて時計を見やると、一時間ほど経っていた。いつの間にかうたたねしていたみたいだ。少し酸っぱい匂いが部屋に充満している。キムチ鍋の独特の香り。

 テーブルの前に座り、器に少し具材を取り分けた。相原を見殺しにしたあとから、食欲なんてなかった。本当は一口も食べたくなんてなかったが、夏木が作ってくれたし、むげにするわけにもいかないかという良心からの行動。肉と白菜をまとめて食べる。ただの食材に過ぎないのに、どこかぬくもりがあった。だけど、それが愛情かどうかはわからない。愛情を感じるほど、僕は夏木と親しくない。何も言わずただ食べた。夏木はその様子を見て微笑んだ。


 鍋が半分ほどなくなった。それのほとんどは夏木が食べたが、夏木は食欲のない僕にあえて何も言わず

「残った分は冷蔵庫に入れておくから」と鍋をしまった。

 夏木が食器洗いを終えた後、僕にすり寄ってきて、

「今日は帰りたくない」




 と甘く女性的な声音で僕を誘惑した。それから僕たちは自然に口付けし、互いの背を手で這わせながらこの行為を感じようとした。僕はどこか投げやりに、夏木は楽しもうとしながら求め合う。


 酷く官能的な時間だった。




 十二月二十五日。クリスマス当日。家族や恋人と愛情を分け与えながら時を過ごす人も多いこの日。

 僕は苛々としながら煙草を吸っていた。駅前のライトアップされたクリスマスツリーの前。聖夜で愛を語らう恋人が浮き立つ広場に、僕は夏木のことを待っていた。


 ——なんでクリスマスまであいつと過ごさないといけないんだ。


 そんな怒りともおぼつかない感情が、胸にひしめいて離れない。


 確かに、夏木とは恋人だ。だがそれは偽りでしかなく。夏木が僕のことを好きでも、僕は嫌いだ。それをわかっていながら、クリスマスデートを持ちかけてきた。どれだけ性格が悪いんだよ。

「ごめん、お待たせ」




 夏木の声。その方を見ず、僕は「別に……」と言って歩き出そうとする。それを夏木は引き留めた。


「何か言うことないの」

 僕は夏木を睨み付ける。これ以上苛々させるなよ。夏木は苦笑して、

「服装や髪形を褒めるとか」


 と、やけに乙女っぽいことを口に出した。そんなことを言えるほど、お前の心は清廉潔白ではないだろ。だが、夏木の髪はいつもより内巻きにカールし、右耳の十字架のピアスが煌めいていて、化粧もどこか大人っぽい。服装も綺麗なトレンチコートで、いつもより全体を気遣っているのがわかった。

「ああ、はいはい。似合ってるよ」


 もう行こうぜ、と今度こそ歩き出す。夏木は全く、と呆れ交じりの声を漏らし僕の隣に続いた。

 夜の街頭が刹那に光る。その照らされる道を歩いていた。目的地は、夏木しか知らない。どこに向かっているのだろうと疑問に思っていると、夏木がある高級フレンチ店で足を止めた。

「今日はここで夕食を食べるから」

「えっ、はあ⁉ 僕こんな店で払えるほどの大金、持ってきてないぞ」

「大丈夫。ここ『多田組』がケツ持ちしてる店だから。組でツケるように言うわ」

 それならまあ安心か。と思い、人生初の高級店へ入店した。


 凛々しい店員が席へと案内する。大人な雰囲気の店に、まだ未成年の僕たちは目立っていた。周囲の視線も、自ずと敏感に感じる。

 席に着いた僕たち。夏木は慣れた様子でワインとコース料理を注文した。僕はメニューを見てもさっぱりなので夏木と同じものを頼んだ。


 ワインを待っている間、夏木が僕の左手の生々しい傷に今更のように気付き、「その傷どうしたの?」と訊いてきた。

「仕事で失敗してさ。お前もよく知ってるだろ。落とし前だよ」

 落とし前。ヤクザの世界では常識で。その酷く偏った常識に今も惑わされ続けている。実のところ大友は僕に、出来もしない仕事を与え、当然のように失敗すると嬉々として落とし前を突き付けてくる。それがヤクザでは新人の洗礼だと言われている。兄貴にしごかれることが。


 そのことを夏木も理解していて、これ以上深くは訊いてこなかった。


 前菜と白ワインが運ばれてきた。そのワインを口に含む夏木。普通なら年齢確認は求められるが、暴力団傘下の店なら犯罪者御用達であるので咎められない。闇のベールに包まれた店なのだ。僕もならって飲んだ。高級ワインなど味なんてわかるわけがなく、深みがあるななんて誰でも思いそうな感想を浮かべた自分。それに少し夏木との身分の違いを感じて、恥じた。夏木は祖父がヤクザの総長だからきっと裕福な家庭だろう。高級品を幼少期からたしなんでいたはずだし、だからこそ僕よりも素養ある言葉が脳裏に浮かんでいるかもしれない。


「夏木、最近学校はどうなんだ? また誰かをいじめてんのか」


 いじめている、という言葉にかすかに眉根を寄せた夏木。事実だろうにそんな過敏に反応しなくても、と思ってしまうような様子で、その時は彼女から潔癖さが見えたような気がした。

「別に……今はそんなことしてないわよ。——というか、あんたは私より彼女のことが知りたいんじゃないの?」

 どこか見透かしているような口調に、少し腹が立ったが素直に、まぁなと肯定した。


「でも聞くと会いたくなるんだよ。記憶からわざと消してる存在に、すがりたくなってしまうんだ」

「純愛ね。その気持ちを私にも傾けてくれると嬉しいんだけど」


 それは無理だ、とか言うのがもう阿呆らしい。僕が、夏木自身に対して嫌悪感しか抱いていないことをわかっていてそう挑発しているのだ。僕はその意図がときどきわからなくなる。彼女はどうして僕を誘惑するのか。そもそもどうして交際を持ちかけたのか。だけどそれを彼女に聞くのは、はばかられる。彼女の踏み入れてはいけない心の闇に、触れてしまいそうだから。


 そして食事を終えて、席を立つ。会計の時に夏木は自分の名を出し料金を払わず二人で店を出た。

 夏木の足取りは大人の愛の園、ラブホテルへと向かっている。僕は無感情にそのあとに続いていく。

 僕たちはそうして夜の泡沫に消えた。




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