『ゆらゆら様の事案の記録集』
最終章 ― 終祓ノ儀(しゅうふつのぎ)・後編
みきの歌声が空気を揺らすたび、対象M――かつて筆者だった存在の輪郭が崩れていった。
蠢く肉塊はさらに膨張し、内から黒い粘液を噴き出しながら、うねりを上げて吠えた。
「――許サナイ……ユルサナイ……記録されねば、意味がない。意味がなければ、我は消える……我ハ記述ダ。我ハ、記録ダ……ワタシハ、“私”ダ――!」
音響ノイズのように変調した声が、頭蓋の奥を響かせる。
それは怨嗟であり、執念であり、祈りだった。
この“もの”は、自らが創り上げた「恐怖の物語」に取り憑かれ、その物語自体と一体化してしまった存在なのだ。
「……来るわ」
みきがそう呟いた直後、天井が爆ぜた。
黒い肉塊から伸びた触手が結界を破り、研究施設上層の床を貫いたのだ。
対象M、変異第六段階。神格化完了。
全身が根のような管に覆われ、眼球は百を超え、背中からは人間の顔に似た“花”が咲き乱れていた。
声帯を持たぬはずの花が、みきの歌に呼応するように、微かに同じメロディを奏で始める。
「祓え……! 全部、祓って……!」
みきが両手を天へ掲げると、天井の穴から、**自衛隊の特殊部隊“朱雀部隊”**が突入した。
彼らは既に、**超常災害対応兵器「ミソギ」**を装備していた。
仏教の真言を銘打ったバレット。神道の結界札で起動する起爆槍。遺伝子認証で放てる“破軍の矢”。
咆哮が轟く。
対象Mが重力を捻じ曲げ、空間の位相そのものを歪ませる。
隊員の一人が逆さまに折れ、血を吐いて崩れ落ちた。
だが、戦闘は止まらなかった。
みきの歌が、再び空気を震わせる。
第二章歌「うつし世の境」
うまれたものに ねむりを
うばわれしものに やすらぎを
われは しろき 風となり
よのつくし かみをうたわん……
みきの喉が裂けるように痛む。血が滲む。
しかし彼女の心はひとつの旋律に向かっていた。
自らの命を代価に、“神”を帰す歌を、最後まで。
「……ごめんね」
目を閉じ、みきは祈るように呟いた。
「あなたを……あなたを忘れたくないって思ってた。でも、それは私の甘えだったの。あなたを人の記憶に留めておくことこそ、呪いだったのね……」
対象Mの巨大な眼が、彼女を見た。
その奥に、一瞬だけ“筆者”だったころの目が見えた。
「みき……?」
それは――微かな救いだった。
最終詠唱「帰神ノ謡(きしんのうた)」
うたう うたう あさとよるの あわいに
きざむ きざむ ひかりとなりて しづむ
われは ゆらぎ そらにかえる
ゆらゆら ゆらり おやすみなさい……
その瞬間、世界が凍りついた。
空気の振動が止まり、全ての時計が狂い、記憶が、欠け始めた。
対象Mの体から、霧が吹き上がった。
それは、世界に刻まれていた“存在の記録”そのものが、上書きされていく過程だった。
まるで最初からそんな神はいなかったかのように。
都市伝説もスレッドも、動画も、論文も、全てが“何か”によって訂正された。
― 三ヶ月後 ―
記録名:不存在
事案名:「ゆらゆら様」は存在しない。
関連人物:佐原みき → 行方不明
政府は何事もなかったように、津山地区での地盤工事に関する報道を流した。
全メディアが口を閉ざし、スレッドも消え、歴史からゆらゆら様は“忘れられた”。
ただひとり。
記録から漏れた存在がいる。
エピローグ:ゆらりの微笑
とある高校の音楽室。
窓辺に座るひとりの女性が、口元に笑みを浮かべながら歌っていた。
ゆらゆら ゆらり
きみも おいでよ
ゆらゆら ゆらり
あのひのつづき――
彼女の目は穏やかで、澄んでいた。
だがその奥に――ひどく澄んだ“狂気”がゆらいでいた。
彼女の名前は、佐原みき。
かつて世界を祓い、神を鎮めた“器”だった者。
彼女の髪が、そよ風に揺れる。
ゆらゆら。
(完)