その声は、甘美な現世の夢にうつつを抜かす若者に、厳然たる現実を突きつける神託であった。
「殿下、ご無事ですか?」
その言葉は、甘美な響きを持つ「転移」を遂げたばかりのカルアに、己が置かれた状況を正確に理解させた。
彼は夜空の星を閉じ込めたかのような大理石の床に立っていた。天井から降り注ぐまばゆい光が、伝説の神殿かと見まごうばかりの華美な宮殿を照らし出す。だが、その華やかさの奥底には、鋭利な刃を隠したかのような重苦しい威圧感と、重く粘りつくような緊張感が漂っていた。
カルアは、周囲の貴族たちの視線から逃れるように一歩後ずさった。だが、その動きは彼をより一層、深い水底へと沈めていく。まるで溺れる者が藻掻くほど、重力に逆らえずに沈みゆくかのようだった。
「殿下、わたくしの言葉が聞こえませんか?」
再び声が響く。先ほどよりいくらか硬質になったその声に、カルアの全身は凍てついた。声の主は、宝石のように輝く装飾を身につけた年若い侍女だ。その表情は、驚きと戸惑い、そしてわずかな期待が混じり合っていた。しかし何よりも強く感じられたのは、カルアの無礼に対する深い「畏れ」であった。
――殿下。
その言葉の意味を、カルアは理解した。この世界で、自分は「王子」という地位を与えられたのだ。漫画や小説で読み慣れた設定に、何の苦労もなく栄華を手に入れるという甘い夢想が、一瞬胸をよぎる。だが、その期待はすぐに、得体の知れない不安へと姿を変えた。
床の冷たさ、空気の密度の濃さ、肌に吸い付くような上質なベルベットの感触。すべてが、この世界が作り物ではないことを雄弁に物語っていた。
「俺が……この世界の、王子……?」
カルアは、自らの手を見つめる。きめ細やかな肌、血の通った温かさ。それは、かつての「平凡な男子中学生」の手ではない。鏡がなくとも、その事実は明らかだった。もしこのまま、異世界の王子として何不自由ない生活を送れるならば――そんな甘い妄想が、ほんのわずかに、カルアの心をよぎった。貧しい旅人が道端で拾った一文銭を、大金持ちになった夢にまで膨らませるのと似ていた。
だが、その妄想が脆くも崩れ去るまでに、時間はかからなかった。
「敵襲です!アガベ帝国の軍が、城門を突破しました!」
城の外から、地鳴りのような轟音が響いた。カルアの甘い夢は、一瞬にして打ち砕かれる。絶叫、悲鳴、甲冑がぶつかり合う鈍い音。豪華絢爛だった宮殿は、たちまち血と硝煙の匂いに塗りつぶされていく。
窓の外では、夜空を焦がすような炎が渦を巻いていた。巨大な竜が灼熱の炎を吐き出し、大地を埋め尽くすアガベ帝国の兵士たちは、漆黒の津波のように城壁を、塔を、そしてこの国の希望を、すべて踏み潰していく。
「カルア、行け!」
血に濡れた父王は、重厚な王剣を抜き放ち、真紅のマントを炎の風に激しく翻らせる。その背中に刻まれた深い傷口から、止めどなく血が流れ落ち、大理石の床に鮮烈な模様を描いた。
「ご命令です。殿下を、このバルバトスが命に代えても守り抜きます」
バルバトスと名乗る血まみれの元軍団長は、震えるカルアの手に、父王から託された紋章を無理やり握らせた。男の手は硬く、そして温かだった。
「誰にも見せるな。決して、その手を離すな」
それが、父の最期の言葉となった。
城は炎に包まれ、美しい王都は見るも無残な廃墟と化していく。カルアは何もできなかった。戦うことも、守ることも、ただバルバトスに馬に乗せられ、後を追うことしかできなかった。それはまるで、嵐の海を漂う小舟のようであった。
鼻を突く煙の匂い、背中を焦がす熱風、耳元で鳴り響く破壊の咆哮。それは、かつて読んだどんな物語よりも――現実だった。
握りしめた父の紋章は、冷たいはずなのに微かに熱を帯び、まるでカルアの心臓の鼓動と共鳴しているかのように感じられた。
そして、わずか数時間で、カルアの「王子」としての人生は終わりを告げたのだ。王族としての身分も、温かな家族も、この世界の希望すらも。すべてが奪われたその日、彼は初めて知った。異世界に転移したからといって、何一つ報われることはないという現実を。
馬の蹄が、燃え盛る王都を遠ざけていく。漆黒の闇の中、無力な王子はただ独り、答えのない問いを胸に抱きながら、逃げ続けるしかなかった。
「……俺は、これからどうすればいいんだ……?」
彼の問いに答える者はいなかった。ただ、燃え盛る王都を背に、闇夜を駆ける馬の蹄の音が、虚しく響き渡るばかりであった。