北辺の寒風は、常に苛烈だ。この痩せた土地で、アガベ帝国の将軍たちが得たものは、ただ寒さと疲労、そしていくばくかの勝利のみである。アードベック大将軍の眼前には、北方の蛮族の首が積み上げられ、その上にはまだ血の滴る剣が突き立てられていた。
そこへ、血相を変えた伝令兵が駆け込んできた。
「なにっ、双将が? 一万の軍勢が敗れただと?!」
アードベックの怒声が、氷の洞窟に響くような反響を呼んだ。将軍は、目の前の分厚いオーク材の机を粉砕した。粉砕された木片が、周囲の将軍たちの顔に飛び散る。彼らは皆、恐怖に身を竦ませ、ただ沈黙している。
「信頼だとか兄弟だとか、戦場でそんなものを頼っている
からだ。非常になりきれぬ将など我が帝国にはいらぬ!」
その冷酷な視線が、一人の文官に向けられた。文官は、その視線に全身の血が凍るのを感じながらも、震える声で口を開いた。
「しかし、大将軍。カルアという男は、すでに一万の軍勢を崩壊させた相手。決して侮るべきではありません」
アードベックはゆっくりと顔を向け、その眼光は、まるで獲物を見つけた猛獣のように獰猛な光を宿していた。
「ゆえに私が自ら行く。良いか、黒曜宮に勝手な援軍を送るな。奴を誘き寄せる餌となる」
彼は、一万の軍勢を敗北させた「カルア」という若者に、恐れを抱くどころか、むしろ好敵手を見つけたかのような喜びを覚えているようだった。
「まあよい。北伐も終わった。自らヴェイルウッドの奴らを粉砕してやろう。急ぎ黒曜宮に戻る。全軍に伝えよ!」
アードベックの号令一下、アガベ帝国軍は瞬く間に陣を解き、都市に向けて進軍を開始した。彼らは、まるで飢えた狼の群れのように、獲物へと向かう。
その頃、水の都グレンリヴェットは、活気に満ちていた。城壁に沿って、新兵器「血の刃」、すなわち戦車が五十機ずらりと並び、太陽の光を鈍く反射している。訓練場では、日に日に増していく新兵たちが、規律正しい動きで訓練を重ねていた。
先の戦いで離脱したアガベの兵も、その多くは元々アガベ帝国に反発する者たちだった。彼らは、ヴェイルウッドの旗の下に集結し、その数は瞬く間に一万を超えた。これが、灰の中から蘇ったヴェイルウッドの新たな軍勢、総勢一万三千人を超える大軍団だった。
この軍勢を指揮するのは、亡国の王子カルア。
彼らの指揮のもと、ヴェイルウッド軍は、五つの部隊に編成されていた。
第一部隊は、槍を携えた精鋭で編成された、疾風のごとき機動力を誇るラフロイグ隊二千騎。
第二部隊は、剣を携えた精鋭で編成された、重厚な突撃力を持つタリスカー隊二千騎。
第三部隊は、対歩兵の切り札、新兵器戦車を操るピーテッド戦車隊五十機(百五十人)。隊員たちの顔には、見たことのない兵器を操る興奮と、その恐ろしさを知る者としての真剣な光が宿っていた。
第四部隊は、遠隔攻撃に特化した、百発百中の練度を誇る弓のボウモア隊(千人)。
そして、第五部隊は、四限素魔法を操り、戦場の流れを読み解くヒューガルデル隊(五百人)。
さらに、盾と槍の重装歩兵で編成された、鉄壁の守りを誇るディサローノを歩兵大将とした四つの歩兵部隊(各千人)。彼らが並び立つ姿は、まさに動かぬ城壁だった。
王宮の会議室は、熱気に満ちていた。
「これ以上は、帝国の侵略を待ち受ける必要はない」
カルアの声が、静まり返った室内に響く。彼の双眸は、地図の上の一点を強く見つめていた。その瞳は、夜の砂漠に灯る篝火のように、静かに燃えていた。
「こちらから攻め入る時がきた」
その言葉に、ラフロイグが槍を掲げ、タリスカーが剣の柄を握りしめた。ボウモアは静かに頷き、ピーテッドは、口元を歪めながら手のひらで戦車の模型を撫でる。まるで、飢えた猛獣の背を撫でるように。
「カルア様。我らの目的地は?」
ディサローノの問いに、カルアはゆっくりと立ち上がる。そして、彼の指が地図の、帝国の中心部を指し示した。
「黒曜宮だ」
その言葉は、雷鳴のように響いた。
「アードベック大将軍が拠点とする、帝国の心臓部……まさか、本気であれを落とすつもりか!?」
ヒューガルデルが驚愕の声を上げる。
「直接叩くわけではない。黒曜宮には常に周辺から兵糧が集められている。帝国の兵糧が集められ、そこから黒曜宮に運ばれる前に砦を攻略する」
カルアの言葉に、皆が息をのむ。
「帝国のすべての兵糧が集まる砦を……」
「そうすると、やがて黒曜宮の兵は兵糧が尽き、士気が落ちる」
「周辺の砦の占拠と我々の兵糧の蓄えと一石二鳥ですね」
亡国の王子は、今、自らの手で、帝国の歴史に新たな一ページを刻もうとしていた。彼が描く戦略は、正攻法ではない。しかし、それこそがアードベックという強敵を打ち破る唯一の方法なのかもしれない。
その進撃の先には、果たして勝利か、それとも破滅が待っているのか。
その瞬間、タリスカーの剣が西の陽に染まり、まるで戦場に燃え上がる炎の剣のように輝いていた。