――魔界。
血のように赤黒く染まった木々が鬱蒼と茂り、ざわめく風が枝葉を擦れ合わせ、不吉なざわめきを響かせている。鼻孔を刺すのは、鉄を焼く匂い。暗く重い空に、稲妻が裂けるたび、青白い光が森を鮮烈に切り刻む。
その巨木の根元に立つのは、魔王のひ孫――リュシエル。背筋はまっすぐ伸び、瞳は冷たく澄み渡り、辺りの闇を射抜いていた。
「……やれやれ、また面倒な影が忍び寄ってくる」
小さく呟く声に、背後の闇がわずかに揺れ、湿った低い声が答える。
「ここにいたか……リュシエル」
長くねじれた角と裂けた口を持つ悪魔が、紅く光る瞳で彼女を捕らえている。その視線はまるで心臓を握り潰すかのような圧力を放っていた。
「君は魔界の王位継承者だ。私にとっては障害だ……ここで消えてもらう」
声の奥底からは、冷たく震える怨念がじわじわと滲み出ている。
「俺の力にお前では勝てない。俺の配下になれ、いや、彼女になれ、いや、嫁でもよい」
その言葉に、リュシエルは静かにため息をつき、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「あなたの嫁? 妄想が過ぎるわね。超ロリコンじゃない。私は“ひ孫”。継承権を持つ魔族は百人以上。おじいさまだってまだまだ健在よ」
悪魔の笑い声が周囲に響き渡ると、木々が呻き声をあげ、幹はまるで触手のようにねじれて伸びていく。稲妻がその影を不気味に揺らしていた。
「くだらない。そんなことはどうでもよい。お前は死ぬべきだ」
リュシエルは冷たい声で吐き捨てた。
「悪魔はバカばかり。奇人しかいない。もう、魔界はうんざり」
その声は静かながら、火山の底から湧き上がる熱のように内に秘めた怒りを帯びている。
足元から霧が立ち昇り、世界の色彩が溶けていく。冷たい風と温かな風が交互に頬を撫で、焼け焦げた鉄の匂いが、春の花と土の柔らかな香りに変わっていった。
「私は人間界に行くわ……ついてこないで」
輪郭が霧にかき消される中、最後に彼女の真っ直ぐな視線だけが残った。
その瞬間、彼女は消え、淡い春の香りだけが風に乗って漂っていく。
悪魔は歯噛みし、舌打ちを森に響かせていた。
春の陽光が柔らかく教室に差し込んでいる。窓の外では野球部の掛け声が響き、芝生の緑が爽やかな匂いを運んでいる。
黒板には「転入生紹介」の文字が大きく書かれ、休み時間のざわめきが波のように教室を満たしている。
男子たちは肩を寄せ合い、声を潜めながら笑いを堪えている。女子は机に肘をつき、小声で誰が来るのかと話し合っている。
静かに扉が開くと、長い銀髪が光を弾きながら揺れた。透き通るような白い肌と整った顔立ち、吸い込まれそうな瞳。その存在が瞬時に教室の空気を凍らせる。
男子の何人かは言葉を探し、喉を鳴らす。女子のひとりは息を呑み、握るペンが微かに震えている。
真田悠斗はその場にじっと立ち尽くし、銀髪の煌めきと頬に落ちる光影から目を離せなかった。胸の奥で、説明のつかない鼓動が高鳴っている。
「俺には関係ない。無理ゲーだな」
担任が「今日からこのクラスで一緒に勉強します」と紹介し、教室の緊張が少し和らぐ。
リュシエルは銀色の長い髪を指でかき上げ、「リュシエルです」とだけ答えた。
「……銀髪だよな」
「やば、本当に光ってる」
男子たちは声を潜めながらも、彼女に釘付けだった。
「顔、小さい……目は宝石みたいだ」
「隣の席だったら死ぬな」
笑い声とため息が入り混じり、くだらない冗談が飛び交う。
女子たちは机に視線を落としつつ、耳を澄ませている。
「……あの髪、地毛じゃないよね?」
「学校は染髪禁止なのに」
「初日であれは……ありえない」
声の端に警戒と羨望が混ざり合っている。ペン先で机を軽く叩きながら、横目でリュシエルを追っていた。
リュシエルはそんな視線を気にせず、静かに歩みを進める。
窓際を通り抜けるとき、風が入り込み、銀髪が陽光をはじく。ふっと花の香りが漂い、近くの席の男子が思わず敬語で「……すごいですね」と呟いた。それに友人は肩をすくめた。
担任が示した席は、悠斗の斜め前だった。
悠斗はいつもより高鳴る鼓動を感じつつも、理由がわからない。
椅子に座る前、リュシエルがこちらに一瞬視線を向けた。その瞳は光を含み、唇がわずかに動く。
――笑みか冷笑か、曖昧な表情が心に残る。
隣の男子が勇気を振り絞って「よろしく」と声をかける。
リュシエルは静かに顔を向け、透明で澄んだ声で「なにかしら」と返した。男子は思わず姿勢を正し、顔が赤くなる。
女子の一人が囁く。
「……異世界の人みたい」
もう一人が応える。
「たぶん、普通じゃないよ」
“普通じゃない”という響きに、魅力と警戒の両方が含まれている。
チャイムが鳴り、授業が始まっても視線はリュシエルから離れなかった。
銀髪はこの世界の色を跳ね返すように揺れ、悠斗は黒板を見つめながらも、先ほどの声と視線の熱を反芻していた。
その日、教室にいる全員――男子も女子も――「リュシエル」の名を忘れはしない。
そして、これを境に学校に予想もできない大事件が起こるのだった。