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第2話 魔界の頂点に君臨する「魔王マジェスティア=ヴァルグレイス」の孫娘

――夜明け前。


湿った霧の向こうで、亀裂のような黒い穴が揺らめいている。


そこからひょこっと赤いブーツが突き出され、続いてドサリと全身が転がり出る。


「……いっったぁ~い……」


地面に突っ伏した少女は、ふらふらと顔を上げる。腰まで伸びた黒髪の先端だけが赤く染まった奇妙なグラデーション。瞳は宝石のように金色に輝いていた。


「……なんか気持ち悪い~……」


頭がくらくら揺れ、視界がぼんやりしていく。


少しずつ、あのことが断片的に蘇ってきた。


私は魔界から人間界へやってきたのだ。


このどこか気持ち悪い空気は何だろう?


魔界のような、肌を刺す鋭い緊張感はなく、代わりにぼんやりとしていて、脳みそがとろけてしまいそうな空気。


そう、これは……人間界の空気だ。


「私、頭がバカになってしまいそう~」


彼女の名は――リュシエル=ヴァルグレイス。


魔界の頂点に君臨する「魔王マジェスティア=ヴァルグレイス」の孫娘だ。


「……ここ、どこ? ていうか、あたし何してたんだっけ……」


さっきまで魔界の宮殿でうたた寝をしていた気もするし、誰かに怒鳴られた気もする。


とにかく、目の前には灰色の空と、見慣れぬ建物が並ぶ見知らぬ街が広がっている。


リュシエルはしばらく首をかしげ、にやりと笑みを浮かべた。


「ま、いっか! たぶん人間界でしょ! 探検しよ~っと!」


脳みそは溶けて、バカになっている。


――しかし、一時間後。


「……おかしいなあ。誰も言うことを聞かないんだけど」


リュシエルは公園のベンチにぐったりと座り込み、頬を膨らませている。


通りがかりの人間にこっそり魔法をかけてみるが、誰も従順にならない。


魔界なら、小動物から悪魔まで、たいていは一言で言うことを聞かせられるのに。


「この世界、魔力の通りが悪いのかなあ……お腹すいたなあ……」


お腹が鳴った瞬間、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが漂ってきた。


くんくん……くん。


「……あれだ!」


リュシエルの視線は、商店街の一角から立ちのぼる湯気に向かっている。


のれんには『さなだ』と書かれている。


「……いらっしゃいませぇ」


暖簾をくぐると、髭面で柔和な雰囲気の店主が出迎えてくれた。


カウンターには味噌汁の湯気が立ち、壁には色あせたメニュー札が掛かっている。


「おぉ~……なんか魔界にはない匂い!」


「ごはんください!」


開口一番、リュシエルは指を突き出す。


店主は目を丸くしつつ、にっこり笑って頷いた。


やがて運ばれてきたのは、アジフライ、豚汁、山盛りのごはんだった。


ひと口食べた瞬間――


「なにこれ……おいしすぎるぅぅぅ!!」


椅子からずり落ちそうになりながら感動し、箸が止まらなくなる。


気づけば、空になった皿が三枚になっていた。


……そして、財布はない。


「あの……お嬢さん、お金は?」


「おかね? あぁ、魔界通貨なら――」


懐から取り出したのは、牙の形をした銀貨だった。


店主は困ったように笑い、最近変な外人客が多いなと心の中で思う。


「お嬢ちゃん、うちの料理は旨かったか?」


「めちゃくちゃおいしかった、魔界にはない味だよ~」


「じゃあ、今日はただでいいぞ。ホテルまで帰れるか?」


「うわ、めっちゃいい人……! 魔界じゃ騙されるタイプだな」


「そうだ、じゃあ、だましちゃえ」


リュシエルが何か呟くと、甘い香りが家じゅうにふわりと漂う。


「──私は、あなたの親戚。しばらく、ここでお世話になるの」


低く、平坦な抑揚で囁く言葉は、水面に落ちる小石のように波紋を広げ、男の瞳にさざ波を立てた。瞬きがひとつ。警戒がすっと引き、代わりに懐かしさの色が浮かぶ。


「……そうだったな。よく来たな、こんなところまで」


「ええ、おじさま」


言いながら、魔力の糸を目に見えない針で縫い止める。ほどけないように、でも締めすぎないように。


「おーい、美和ー。親戚の子が来てるぞ」


男が暖簾の奥へ声をかけると、髪を後ろでまとめた女性が顔を出し、柔らかな笑みを浮かべた。


「まぁ、大変だったでしょう。さあ、座って」


その瞳にも同じ光が一瞬だけ走り、すぐに常の色へ戻る。さらに奥から制服姿の少女がひょっこり現れた。


「だれ? ……親戚?」


「そうよ。しばらくウチで暮らすことになったの」


リュシエルが微笑むと、少女はきょとんとしてから、にこっと笑った。


「ふーん、なんかキレイなお姉さんだね」


案内され、店奥の居間へ。六畳の畳、ちゃぶ台、湯気の立つ麦茶、きなこをまぶしたおはぎが置かれている。


「さぁさ、遠慮しないで」


「ありがとう」


湯呑みを両手で包み、湯気と甘い香りが肺の奥まで届く。


――これが、人間界の“家族”。魔界の大広間とも、冷たい謁見室とも違う。ただ、ここには温度と匂いと、笑い声があった。


肩の力が抜けていくのを感じ、リュシエルは小さく息を吐いた。


「……いいものだね」


「ん?」と首を傾げる女性に、「なんでもないわ」と笑ってみせる。笑顔は思いのほか自然に頬に宿り、自分でも驚くほどだった。


けれど、指先の内側では魔力が細く流れ続けている。織った記憶がほつれないように。心地よい温度と冷たい糸、両方を同時に持つのは魔王の血を引く者の習い性だった。


ちゃぶ台の向こう、窓の外で風鈴が鳴る。商店街の夕方はやさしく、のどかで、無防備だった。


リュシエルは湯呑みをもう一度口に運び、湯気に目を細めた。


ここはしばらくの城になるだろう。


彼女はそう決めて、静かに微笑んだ。心地よい家の匂いを空っぽのところ一つひとつに染み込ませるように。


そして、見えない糸を、もう一目だけ、強く結んだ。


――王家の血筋。匂いはこの辺りか。


夜の端で、誰かがつぶやいた。鈍く光る目が、【さなだ】の暖簾をじっと見つめている。

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