部屋の中の匂いでもうまもなく
起き上がり髪を手で梳く。頭を振って眠気を払い、また眠ってしまわないようすぐに立ち上がった。
しっとりと雨が降っている。昨日も
呉乃のやることは変わらない。たとえ主人がどの姫の
手早く着替えて邸内を音もなく移動し、炭をくべる。まずは大量の湯を沸かす。次に誰もいない部屋の降りた
後の準備は別の
雨の中じっと立ち尽くして待っていると、やがて見慣れた牛と牛飼い
ゆったりと揺蕩うような心地で牛が呉乃の前で止まる。華美な装飾は控えめに、夜に溶け込む濃い色の
墨色の
乱れた裾や袖口からは
「お戻りでございます。
伏せた頭の上から主人の頷く声が聴こえてくる。
この邸の主人であり、呉乃が仕える
いわゆる朝帰りである。この京の都でいちばんの色男としての義務を果たしてきたというわけだ。
~・~
呉乃が仕える主人、高篠是実は京の都の治安を守る
今日も今日とて愛憎と権謀術数が渦巻く
朝帰りから出仕の準備だ。急ぎながらも決して慌てることなく、是実は支度を済ませていく。
「三条の姫のもとへ通うのはこれきりにされた方が賢明と思われます」
是実は白湯が入った器を傾け、感心したような顔を見せた。
「ほう、何故そう思う? それにどうして私が三条の姫と逢っていたと?」
好奇心を秘めたまなざしで是実が問うてくる。ただの女子ならばその瞳にのぼせあがり、思わず口をつぐんでしまうだろうが、何年も仕えてきた呉乃には残念ながら通用しない。
白湯を飲み干した器を受け取り、袖を通すため後ろへと回る。
「牛車の車輪に濡れた
「しかし桔梗などどこにでも咲いていよう」
「
「……なるほど、ではなぜもう通わない方がいいと?」
「夫は
「……なるほど?」
呉乃の淡々としながらも短い説明に、是実は顎に指で触れて考え込む。
説明を省いてしまうのは悪い癖だと呉乃自身思ってはいるが、中々直すことができない。ちらりと目線をあげるとなんとも間の抜けた表情で考えている主人がそこにいたので、説明を続けることにした。
「
コトコというのは牛の名前だ。ピンとくるものがあったようで、是実は「あぁ、そういえば」と声を漏らす。
「
「コトコの口の周りに飼い葉がついていました。そしてその中には紫陽花の葉も混じっていたようです」
「紫陽花? それは、混じっているとなにか良くないのか?」
「毒、というほどではありませんが、牛にとっては眠りを誘う薬草です」
「なんと、つまり、私をあの邸に留めようとしていた者が……なるほど、それで薬師の夫か」
ようやく答えにたどり着き、呉乃は目を伏せて頷く。
「屋敷でなにか飲んだり食べたりしましたか?」
「いや特には……長い時間
「人にも効くはずです。吐き気、倦怠感、頭痛、腹痛、眠気を誘うなどなど。今後あの邸を訪れることがあっても出されたものは口にしない方がいいでしょう。もしも口にすれば」
「まさしくことのさなかに私は気を失い、目を覚ますとそこには夫が待ち構えているというわけか」
「そうかもしれない、というだけのお話です」
そう、あくまでもこれは呉乃の推測に過ぎない。
実際はもっと複雑かもしれないし、もっと単純かもしれない。しかし、こういった呉乃の推測はこれまで外れたことがないのだ。
それは是実もよく知っている。出仕の準備を済ませ、傍に控えている呉乃を見下ろし、不敵な笑みを浮かべた。
「他ならぬ私の『
是実からの言葉に呉乃は無言で礼をする。
京の治安を守る権少将のもとには日々、奇々怪々な事件が舞い込んでくる。
妖や呪いといった人の及ばざる事象でも瞬く間に解決してしまう少将様の懐刀、呉藍を冠した側付きの女房――紅袖、それが呉乃の数ある名前のひとつだった。