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少将様の紅袖
少将様の紅袖
和歌月狭山
歴史・時代日本歴史
2025年08月08日
公開日
1.9万字
連載中
時は平安、華やかにして魑魅魍魎が跋扈する京の都。 検非違使(けびいし)として都の治安を守る権少将・高篠是実(たかしなのこれみつ) 京随一の文化人であり女人好きの色男のもとに仕える側女、呉乃(くれの)。 都に渦巻く愛憎と陰謀の中で、是実の「紅袖」と呼ばれる彼女は 知恵と観察力を武器に、主君と共に次々と事件を解き明かしていく。 ――いつか都に巣食う鬼を退治するために。 美しき歌人と冷淡な側女の、静かなる戦いが今始まる。 平安京×サスペンス×復讐劇。

第一話『少将様をお出迎え』

 呉乃くれのは薄闇の中でゆっくりと目を開いた。

 部屋の中の匂いでもうまもなくとらこくだということが直感的に分かる。

 起き上がり髪を手で梳く。頭を振って眠気を払い、また眠ってしまわないようすぐに立ち上がった。

 しっとりと雨が降っている。昨日も主人あるじは帰ってこなかった。それは別にいい。今に始まったことではない。

 呉乃のやることは変わらない。たとえ主人がどの姫のやしきから帰ってこようと迎え入れて出仕しゅっしの準備を手伝うだけだ。

 手早く着替えて邸内を音もなく移動し、炭をくべる。まずは大量の湯を沸かす。次に誰もいない部屋の降りたとばりを巻き上げて部屋を整える。

 後の準備は別の女房にょうぼうに任せ、呉乃は寝殿しんでん軒先のきさきへと向かう。

 雨の中じっと立ち尽くして待っていると、やがて見慣れた牛と牛飼いわらわの姿を見つける。

 ゆったりと揺蕩うような心地で牛が呉乃の前で止まる。華美な装飾は控えめに、夜に溶け込む濃い色の網代車あじろぐるま。身分を隠しながらもどことなく上等だと思わせる牛車ぎっしゃ御簾みすが開き、中からひとりの男が降り立った。

 墨色の直衣なおし姿で眠たげな表情の男。呉乃よりもずっと歳が上だがはりと艶のある精悍な顔立ちをしている。

 乱れた裾や袖口からはねやの匂いが薫る。寝所しんじょで焚いていた香だろう。今夜もどこぞの姫の『宿を借りた』のか。呉乃はそれに言及することはせず恭しく頭を下げた。

「お戻りでございます。是実これみつ様」

 伏せた頭の上から主人の頷く声が聴こえてくる。

 この邸の主人であり、呉乃が仕える公達きんだち――高篠たかしなの是実これみつは今日も女人の香りを纏いながら夜明け前に帰ってきた。

 いわゆる朝帰りである。この京の都でいちばんの色男としての義務を果たしてきたというわけだ。


 ~・~


 呉乃が仕える主人、高篠是実は京の都の治安を守る左近衛権少将さこんえごんのしょうしょうである。

 近衛府このえふで日々みかどの護衛を担いながらも、検非違使けびいしとして都の治安を維持していた。

 今日も今日とて愛憎と権謀術数が渦巻く魑魅魍魎ちみもうりょうの巣、仕事場である大内裏だいだいりへと向かう。

 朝帰りから出仕の準備だ。急ぎながらも決して慌てることなく、是実は支度を済ませていく。

「三条の姫のもとへ通うのはこれきりにされた方が賢明と思われます」

 側女そばめとして主人に薬草入りの白湯を差し出し、呉乃が告げる。

 是実は白湯が入った器を傾け、感心したような顔を見せた。

「ほう、何故そう思う? それにどうして私が三条の姫と逢っていたと?」

 好奇心を秘めたまなざしで是実が問うてくる。ただの女子ならばその瞳にのぼせあがり、思わず口をつぐんでしまうだろうが、何年も仕えてきた呉乃には残念ながら通用しない。

 白湯を飲み干した器を受け取り、袖を通すため後ろへと回る。

「牛車の車輪に濡れた桔梗ききょうの花びらが付いていました。三条の姫が好まれている花です」

「しかし桔梗などどこにでも咲いていよう」

大路おおじへ飛び出すほどに枝を伸ばしているのは三条のお屋敷のみです。是実様に残っている香の匂いもございます。丁子ちょうじが強く濃い香りは最近だと三条の姫のものです」

「……なるほど、ではなぜもう通わない方がいいと?」

「夫は薬師くすしであり、典薬寮てんやくりょうにお勤めのお方です」

「……なるほど?」

 呉乃の淡々としながらも短い説明に、是実は顎に指で触れて考え込む。

 説明を省いてしまうのは悪い癖だと呉乃自身思ってはいるが、中々直すことができない。ちらりと目線をあげるとなんとも間の抜けた表情で考えている主人がそこにいたので、説明を続けることにした。

逢瀬おうせのときコトコがやけに深く眠りませんでしたか?」

 コトコというのは牛の名前だ。ピンとくるものがあったようで、是実は「あぁ、そういえば」と声を漏らす。

杜雄もりおの話だと珍しく深く眠っていたらしい。あの家だと眠りやすいのやもしれぬ」

「コトコの口の周りに飼い葉がついていました。そしてその中には紫陽花の葉も混じっていたようです」

「紫陽花? それは、混じっているとなにか良くないのか?」

「毒、というほどではありませんが、牛にとっては眠りを誘う薬草です」

「なんと、つまり、私をあの邸に留めようとしていた者が……なるほど、それで薬師の夫か」

 ようやく答えにたどり着き、呉乃は目を伏せて頷く。

「屋敷でなにか飲んだり食べたりしましたか?」

「いや特には……長い時間共寝ともねをしていたわけではないからな。まさか人にも効くのか?」

「人にも効くはずです。吐き気、倦怠感、頭痛、腹痛、眠気を誘うなどなど。今後あの邸を訪れることがあっても出されたものは口にしない方がいいでしょう。もしも口にすれば」

「まさしくことのさなかに私は気を失い、目を覚ますとそこには夫が待ち構えているというわけか」

「そうかもしれない、というだけのお話です」

 そう、あくまでもこれは呉乃の推測に過ぎない。

 実際はもっと複雑かもしれないし、もっと単純かもしれない。しかし、こういった呉乃の推測はこれまで外れたことがないのだ。

 それは是実もよく知っている。出仕の準備を済ませ、傍に控えている呉乃を見下ろし、不敵な笑みを浮かべた。

「他ならぬ私の『紅袖くれないそで』からの忠告だ。肝に銘じておくとしよう」

 是実からの言葉に呉乃は無言で礼をする。

 京の治安を守る権少将のもとには日々、奇々怪々な事件が舞い込んでくる。

 妖や呪いといった人の及ばざる事象でも瞬く間に解決してしまう少将様の懐刀、呉藍を冠した側付きの女房――紅袖、それが呉乃の数ある名前のひとつだった。

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