私はいい子。
名前ではない。
ただいい子だけを目指した…目指させられた。
母は厳しく、父は日和見主義者。
親戚づきあいは殆どない。
あってもお盆と正月に隣の県に住むお婆ちゃんの家に集まる。
そこでお婆ちゃんや親戚の人達が、私を「いい子ね」、「本当に祢子はいい子ね」と褒める。
礼儀正しく、お行儀よく。
それだけで良かった。
それしかなかった。
母親の要望に応えただけ。
いい子で居なければならない強要と抑圧。
難しい言葉を知らない子供の私は「息苦しさ」だけを感じて苦しんでいた。
・・・
成績は中の下。
今思えば、息苦しさで何も手につかなかった。
そしていい子でいるだけで、もうキャパシティオーバーだった。
24時間365日お行儀よく。礼儀正しく。
一度、友達の真似をして「私」ではなく名前の「ねこ」で一人称をやったら、これでもかと怒られた。
独裁国家で死刑になるとは、こういう理不尽なモノだと思った。
親戚の子達と一緒に遊んで、脱いだ靴を揃えなかったら、私だけが親戚たちの前で怒鳴られた。
泣くまで怒られた。
父親は遠くでビールを飲みながら、「母さん、皆が見ているから」という止め方をした。
親戚の子達と同じことをしても、自分だけが怒られる。
大人しくしていると、また「いい子ね」と言われた。
・・・
歪なまま成長すれば歪む。
調教と呼ぶべき躾と教育の結果。
食物連鎖で言えば肉食動物、草食動物等とよく聞くが、それ未満の「草」になった自覚はある。
家柄も何もないのに、調教にいそしむ母の影響で、同級生たち皆のように名前や呼び捨てで呼ぶ事も許されずに、「さん付」を強要された。
結果、学校ではヒエラルキーの最底辺になった。
いじめられっ子からも、何の理由もなくいじめられる存在になる。
母は学校生活に関して盲目になると、学校には必要最低限しか関わらないようになり、全てを私が悪いと言って片付けて、肉食獣たちや、いじめの首謀者達も「すごくいい子達」と評価して、私の学校生活は順風満帆と記憶や認識を捏造した。
日和見主義の父は母に合わせて学校生活には触れてこない。
・・・
いい子の私は、次にエチレンガスになっていた。
どんな人間も腐らせて、勘違いを誘発するエチレンガス。
同級生たちは学校生活や私生活のストレスを全てぶつけてきた。
いい子の私は反撃も出来ない。
嫌な相手でも「さん付」を徹底した。
次第に腐った同級生たちは、ドメスティックバイオレンスを行うパートナーのようになる。
暴力的な人は、これでもかと皆の前で痛めつけてきた後で、泣いて謝ってきて「そんなつもりじゃなかった」と皆定型文のように言う。
最初は暴力を振るって、後で泣いてからは、1週間は大人しくなっていたのに、徐々に間隔が短くなっていった。
酷い時には朝暴力、泣いた後で夕方暴力で、夜に電話をかけてきて泣いて謝るなんてものもあった。
いじめの標的の子は、いやらしく「【いい子】っていうのは、【どうでもいい子】の事を言うんだよ」と言いに来た。
イジメられた子は、人の痛みがわかる子になると聞いた事があったが、あれは嘘だった。
イジメられた子は、自分が助かる為に、自分の苦しみを誰かに押し付けたくて、イジメの対象を探すんだと思った。
この子達は腐ってしまってどうなるんだろう?
将来うまく行くのだろうか?
無条件で殴れる人、嫌がらせをできる人なんてまずいない。私が異常なんだ。
それでも私という、成功体験を得たこの人たちは、パートナーや友達に暴力を行い続けるのではないか、親がワガママに育てた子供が手に負えないケースより、タチが悪くなるんじゃないかなと、殴られながら、言葉で傷つけられている時にそう思った。
・・・
社会に出て変わった。
高校生でアルバイトを始めた。
母はキツい束縛をするが、私にお金を使いたがらない。
コンビニエンスストアのアルバイト先で、自分の力でお金を稼ぎ、昇給もするようになると、母親が妬み嫉みで悪く言ってきた時に酷く矮小に見えた。
最後にはバイトを辞めろとまで言ってきたが辞めなかった。
これには父親も賛成していて、私の人生はバイト中心になっていた。
ここからやり直せる。
そう思った。でももう遅かった。
身体にしみついた「いい子」は私と混ざっていて、切り捨てられなかった。
お婆ちゃんはまだ元気なので、盆と正月には親と顔を出す。
同年代の子達は、「いい子」ではないので顔を出す必要は無い。
私は染みつき混ざってしまったいい子で、お婆ちゃんにお土産を持っていく。
同年代の子を持つ親戚の人達は、居心地の悪さに私を悪く言って溜飲をさげようとする。
私が褒められている時は、会話を奪い取って自慢気に振舞う母親は、私が悪く言われると、途端に知らない人になる。
これは中学生の時から変わらない。
塾や受験、部活で忙しいと寄り付かなくなる親戚達。
その中でも強制的に「いい子」を披露させられるために、連れていかれる私とそれを悪く言う親戚達。
だが、バイトを始めてから矮小に見えたどころか、この人たちの言う「自分達に従わないと将来困るぞ」の意味がわからなくなった。
お金は働けば稼げる。
遺産なんてある訳もない。
あっても私に回ってくるはずもない。
私は若い。逆にあなた達は老いていく。
困るのは私ではない。
溜飲を下げようと必死になる連中を見た時、この答えに行き着いて、雷に打たれたような衝撃が走った。
この時、私は笑っていただろう。
初めて「何が困るんですか?」と口にした。
シンとなるリビング。
一瞬の後でカッとなった連中の、「可愛げがない」、「昔は従順で可愛かったのに」なんて言葉が聞こえてくる。
秒単位で滑稽に見えてくる。
私は「ふふ」と笑ってしまい、「だからなんですか?」と言った後で、お婆ちゃんには「元気でいてね」、「これからも顔を出すね」と言った。
お婆ちゃんは嬉しそうに頷いてくれた。
・・・
その後は簡単だった。
言い返すだけで言われる回数が減る。
口汚くなるだけで敵が減った。
多分、草から草食動物になったのだと思う。
依然と草食動物ではなく、草だと思って噛みついてくる人は居るが、毒物だとわかると寄り付かなくなった。
気付くと周りに人は居なくなった。
でも嫌な気持ちはなかった。
せいせいした気持ち。清々しい気持ちだった。
・・・
アルバイト先には色んな人が働きに来る。
悪く言ってはいけないけれど、能力的な問題でリストラに遭ったおじさんや、暴力沙汰で学校を辞めたような人、バンドマンの夢が捨てられない人。
沢山の人を見た。
その中に、同い年で数か月だけど先輩の男の子がいた。
ごく普通の男の子。
バイトあがりにスマホでゲームをしたり、何かを見て笑っている。
バイト代をそのままゲームに課金して、「SSRゲット!」と言って喜ぶ。
そんな男の子だった。
自由人という印象で、ニコニコ明るい人。
私にないものだらけで、目が離せなくなった。
彼は人との距離感が凄い。
おじさんでもおばさんでも男の人でも女の人でも、関係なく仲良くなって、名前で「一太郎さん」と呼んだり、「花子さん」と呼んだりする。
名字にさん付けだけの私からしたら驚きだったし、彼は私の事を「祢子」と名前で呼ぶ。
それは特別ではなく当たり前で凄いと思った。
きっと彼の事が好きになっていた。
でも何もできない。
私にはあの親が付きまとう。
見せたくない、会わせたくない。
私には眩しい人。
ただそれだけだった。
・・・
18歳の誕生日。
父親はお祝いを考えてくれたが断った。
母親はお祝いご飯は好きだが、私のお祝いは嫌がる。
それにいくら美味しいご飯でも、行儀よくいい子でいるのはもう疲れた。
親は口答えする私に、小言を言う頻度や熱量は衰えていたが、反射的に気に入らないと言ってくる。
言い返せるが、まず周りの人が言われないことでも言われることが苦痛だった。
だからバイト先で人不足だからと偽ってバイトに入って誤魔化した。
母親は気持ちは外食だからと言って父と外に食べに行った。
せいせいした。
習慣というのは怖い。
やはり誕生日となるとケーキを食べたくなる。
夕飯も無いので、コンビニご飯とケーキをバイトあがりに食べていると、意外そうに彼が「どしたの祢子?」と聞いてきた。
「うん。今日は誕生日だったんだけど、バイトだったし、親も出かけちゃってるから、ここで夜ご飯」
「あー、誕生日だからケーキなのか。お誕生日おめでとう祢子」
これだけで嬉しくて、舞い上がってしまいそうだった。
「ありがとう」と返す私に、「俺金ないからプレゼントできないけど」と言った彼は、「んー」と悩んで、「じゃあ俺を朝日くんから、名前の治世で呼ぶ仲になる?呼び捨てなよ」と言った。
突然の事に真っ赤になってしまった。
慌てる私に、彼は「俺の誕生日は冬で、祢子の方が先だから治世で呼べって」と続けてニコニコと笑う。
真っ赤な私は「で…できないよ」と返すと、「何で?」と言われた。
「うちのお母さん厳しいから、人を名前で呼んではダメだし、名字にさん付けがルールだったから今更言えないよ」
私の説明に「んー…そっか」と言って、朝日治世は「じゃあ、外人みたいにハルゥヨォーって呼べば?」と言った後で、「無理言ってごめんな」と言って帰って行った。
残された私と言えば、もっと強要してくれたら、仕方なくの体裁で呼べたのにと思ってガッカリしたし、小さく「治世」と呟こうとしたが、緊張で声が出なかった。
次のバイトでは何事もなく「祢子」と「朝日くん」の仲だった。
・・・
私は大学進学を遠くの学校にした。
出費を理由に不満を口にする母を見て、改めて私の成功やチャンスが嫌いなんだと理解した。
言われた時の為に用意していたバイト代を見せて、一部を私費で賄うと言って納得をさせると、逆に今までの生活費を請求されたが、父がそれは止めてくれた。
私は大学に通いながらバイトをした。
自分の世界を構築していきながらも、頭のどこかには、あの18歳の誕生日に、朝日治世を名前で呼べなかった事を後悔していた。
高望みが出来ない性格になっていて、謙虚だとよく言われた。
バイト先で出会った人から告白されて付き合い。
就職も大学の方で決めた。
地元には就職難で見つかっただけマシだとアピールをして、帰らないようにした。
付き合った人は朝日治世とはタイプが違う人だったが、結婚まで見据えた時、あの親に会って幻滅されても傷つかない人にした。
幻滅して婚約破棄をされてもいい人にした。
一応トキメキもあるし好意もある。
結婚をしない選択肢もあった。
でも私の中の「いい子」はそれを選べなかった。
・・・
結婚をして普通の日常を見聞きして体験していくと、ドンドンと自分の知らなかった欲が出てくる。
欲に流された先の私は、十分だと思っていた夫に不満を抱く。
人なんて誰にも悪い部分がある。
完璧な人なんていないし、そんな人は私なんかを選ばない。
だがどうしても不満はぬぐえなかった。
子供は可愛い。
こんな私が親になれるのかと心配したが、今の所は躾に煩くないと思いたい。
周りからはキチンとしていると言われるが、私が母から受けた事の1割もしていない。
現に子供は友達を名前で呼び捨てにしている。
その子供も高校生になってアルバイトを始めるようになる。
夫は夫で変わらない。キチンと愛情を持って接してくれる。
記念日には奮発をしてくれて、盆には私の実家に顔を出してくれて、正月は夫の実家に私が顔を出すと、キチンと間を取り持ってくれる。
親たちに関しては、余計なアドバイスをしてきても、別家庭だからと割り切って、生返事だけで付き合っている。
もう、人生の大半を過ごしたと思う。
父は定年後再雇用の方も退職目前で、セカンドライフの計画を練っている。
母は何を考えているか知らない。話すらしない。
自分の身体に衰えと老いを感じて、頭髪に白髪が混じってくる中でも、あの日、朝日治世を名前で呼ばなかった事を後悔している気持ちが消えずに残っている。
・・・
先日、夫の同級生が心臓疾患で死んだ。
同い年だったので、俗にいう早すぎる死だった。
夫に喪服の用意をして送り出した後で、自身の死について考えた時、やはり心にあったのは朝日治世の事だった。
子供は成人して、もう独立目前で、小さな心配はあっても大きな心配はない。
夫にしても、仮に残されても子供が居てくれれば何の心配もいらない。
だからこそ心に残ったのは、18歳の誕生日、狭いバイトのロッカールームで、夕飯とケーキを食べる私に、「じゃあ俺を朝日くんから、名前の治世で呼ぶ仲になる?呼び捨てなよ」と言ってくれた、朝日治世の顔だった。
名前について考えると、何十年も経っているのに、未だにドキドキと心臓の鼓動が速くなる。
私は自分以外に誰も居ない家で小さく「はるよ」と口に出してみた。
震えていた。
声がかすれて喉がカラカラになっていた。
でも心の底が熱くなった。
心が軽くなった。
それから先は、何もない時でも口癖のように、「あさひ」と名字を呼び捨てしてみて震えたり、「あさひはるよ」と呼んでみて震えた。
あの日名前を呼んでいたら何か変わったのだろうか?
きっと両親を見て幻滅した、朝日治世に私は棄てられて、立ち直れずに転落人生を歩んでいただろう。
だからこれでいい。
ちょっとしたおまじないのように、名を呼んで自分を元気づけよう。
それくらいで丁度いい。
朝日治世に会いたいとは思わない。
おばさんになった自分を見せたくない。
おじさんになった朝日治世を見たくない。
あの18歳の姿を胸に抱いて生きていけばそれでいい。
だから私はいい子をやめて彼の名を呼ぶ。
(完)