●1.ミュンヘン
ミュンヘンで有名な巨大ビアホールのホフブロイハウスは、世界中の観光客や地元民で賑わっていた。ドイツ語以外の言葉もかなり飛び交っていた。
林原の前にキャラメル色の黒ビールが注がれたジョッキが置かれた。一人旅な上に片言の英語しか喋れない林原にとってスマホの翻訳機能は欠かせなかった。何かおつまみとなるものを頼もうと、スマホの画面越しにメニューを見ていた。
「あなた日本人ですか。私、日本のアニメ大好きです」
生粋のドイツ人らしい人物がジョッキを持って隣に座ってきた。久しぶりの日本語に思わず振り向く林原。
「日本語が上手ですね。どこで覚えました」
「それほどでも。あぁ私はエックハルト・ベルガーです。日本語はアニメで覚えた独学です」
「私は林原征志朗です。ちょうど良かった、地元の方ですよね。ここのおすすめは何ですか」
林原とベルガーは握手を交わしていた。
「しかし、ドイツはいろいろな人を受け入れていますね」
林原が周囲の客たちを見ながら言うとベルガーは急に渋い顔をした。
「あぁ初対面の人に言うのも何ですが、ヨーロッパ、特に我がドイツでは、移民や難民の受け入れを推進してきましたが、その結果がこの様です」
ベルガーは飽き飽きしたという表情をしていた。
「ドイツ人の我慢も限界です。観光はともかくとして、ここはドイツ人のドイツですよ」
「お察しします。確かに自分たちと違った価値観や歴史観、社会規範や教育水準を持つ人々と暮らすには苦労が伴います」
林原がアニメの話でないことに乗って来たので、ベルガーは嬉しそうにしていた。
「林原さん、あなたには熱い思いがあるようですね」
ベルガーの言葉に林原は喉のつかえがとれたような表情であった。
「世界中の国で保守派が大勢を占め、自国ファーストの右傾化が進むのは当然じゃないですか」
ベルガーはさらにたたみかけた。
「日本には郷に入れば郷に従えと言う格言があります」
林原は『郷』という言葉が通じるかどうか心配であった。
「郷とは村レベルのことでしょうが、国としても同じことですし、その国のルールに従うべきです」
「私は、このような時代の新たな信条・理念として『郷に入れば郷に従え』という日本語を広め、賛同者を集めたいと、かねてから思ってました」
「郷に従え…確かに良い言葉です。他の国の文化や習慣を尊重はしますが、押し付けられては閉口しますから」
ベルガーは独学にしてかなり日本語の語彙が豊富であった。
「日本はまだ移民や難民はそれ程の数になっていませんが、観光客においては、他所の国にお邪魔している感覚がなく遠慮さなど微塵もないのは困りものだと思います」
「オーバーツーリズムですか。ご覧の状況ですから我々も同じです」
ベルガーは大きくうなづいていた。
「それに日本では観光客用の言語の案内板が乱立しています。わかりやすさと注意を促すためということでしょうが、私はむしろ、自分の国にいるような錯覚に陥り、好き勝手にやりたくなる気持ちを促すような気がします」
「なんか、私が考えていたことを代弁してくれているようで、共感しました」
「自分の国でやってきたことや、できなかったことを平気でやり、自分たちの言葉を堂々と話し、その国に溶け込もうとする気持ちが全くありません。そのような人間は排除すべき対象です。これは差別ではなく、区別です」
林原がひと呼吸置くとベルガーは息遣いが荒くなってきた。
「彼らは国を乗っ取るつもりなのかもしれませんが、それは断じて許しません」
ベルガーはキッパリと言い放った。
「自分たちが築いてきた国の誇りを、そう簡単に手放したくはないですよ。ですから本来、その国にいた人にとっては、民族的に違う人は、観光客としては受け入れるにしても、その国のマナーや伝統を学んだ上での訪問を望みます」
「日本人でそのようなしっかりとした考えを持っている人に初めて出会いました」
「お褒めいただき、ありがとうございます。ハッキリ言って、よそ者は言葉がわからないから、何をやっても良いわけはないのです」
「郷に従えでしたっけ、それに共鳴するドイツ人は多いでしょう。私は『もったいない』と同じにその言葉をドイツ、いや世界に広めようと思います」
「ベルガーさん、やっと理解し合える人と出会えた気がします」
「このままではアイデンティティー不明のエセドイツ人ばかりになり、伝統など消え去ってしまいます」
「私も同感です。日本を伝統も歴史もない極東の国籍不明の小国に変えようとする輩が蔓延っています」
林原とベルガーは話がかなり盛り上がってきていた。
巨大なビヤホールの中央付近のテーブルでドイツ語、片言のドイツ語とドイツ語以外の言葉で激しくののしり合う声が聞えてきた。人々が歓談する声を抑え込むように響いていた。そのうち、ひと際大きい怒号が飛び交い、テーブルがひっくり返り、ジョッキなどが割れる音がし出した。林原がビヤホールの中央付近を見るとドイツ人の若い男たちと中東系の男たちが殴り合いを始めていた。3対8で中東系の方が優位に見えた。だが近くにいたドイツ人の大男二人が加勢すると形勢が逆転した。さらに拳銃を持った中東系の男とアフリカ系の男が加勢し、中東系がまた優位になった。乱闘騒ぎに巻き込まれたくない客たち、中央付近からどんどん立ち去って行った。
銃声が上がるが、ドイツ人の腕をかすめただけであった。それを見ていた中年ドイツ人たちのグループが、一気に中東系のなどの男たちに飛びかかった。ビヤホールは怒号と悲鳴に満ちた修羅場になった。
15対10でドイツ人が優位になり、中東系側がぼこぼこになり、そこら中に血が飛び散っていた。ちょうどその頃、警察のパトカーのサイレンが聞えてきた。
「ベルガーさん、あのドイツ人たちは正当防衛ですよね」
状況を見守っている林原。
「人数的に見て…過剰防衛で逮捕となりかねませんよ」
「それじゃ、あの若い3人組ぐらいは匿ってあげますか」
林原は自分たちのテーブルのテーブルクロスをめくり上げていた。
「…それだったら、私の車で連れ出しましょう」
ベルガーはそう言うと、3人組を手招きをしドイツ語で呼びかけた。3人は地獄に仏と言った顔で走り寄って来た。林原とベルガーが3人組の血を拭い終えた直後、ビヤホール内に警官たちがなだれ込んできた。林原たちはビヤホールから避難する客を装って、警官たちと入れ違いに出ていった。
ビヤホールの駐車場に停まっていたベルガーの車はレトロなバン(フォルクス・ワーゲン・バス・タイプⅡ)であった。それに乗ってミュンヘンの旧市街を出て行った。
「どちらが先に仕掛けたかや、どちらか悪いではなく、軋轢が起きるのは、その土地のしきたりに従わず、異質な文化などを押し付けてくるからではないでしょうか。あなた方の怒りや行動は自然なものです。抑えることも恥じることもありません」
林原は日本語でドイツ人に言っていたが、運転席に座るベルガーが訳してくれていた。
「日本には郷に入れば郷に従えという格言があります。私はこれを『もったいない』や『かわいい』と同じに日本語のまま世界に広めたいと思います」
林原はベルガーが訳す『郷』のニュアンスが微妙に伝わっていない気がしていた。
「民族自決の原則に基づけば、その国の民族の一員になり住むのですから、元何人かは忘れて、その国の言語や価値観に合わせるべきです。勝手に自分たちのコミュニティーを作り、税金を納めず、いろいろなことを差別だとか言って主張をするのは間違っています」
林原の言葉に血だらけのドイツ人たちは拍手していた。
「…ゴウニシタガエ」
一人のドイツ人が言い出すと、他の二人も言い出した。そのうち、ベルガーとドイツ人たちは、ドイツ語で話し合い始めた。
「林原さん、彼らが言うには、『郷に従え』党を結党したらどうかと言っています」
ベルガーがぼそりと言った。
「結党ですか。それもここドイツでですか」
「SNSにアップすれば、ゴウニシタガエの言葉に賛同し、すぐに党員が集まるとも言っています」
「そうですか。しかし、まずは病院に行きましょう」
林原は後部座席に座る3人のドイツ人たちを見ていた。
林原たちはミュンヘン郊外の病院でシュルツ、ミュラー、ランゲルと名乗る3人の治療させた。その後、シュルツの祖父が営む農園に向かうため、国境を越えてオーストリアのザルツブルグに行った。
ザルツブルグ郊外にあるシュルツ農園の牧草地には羊が放牧され、のどかな雰囲気があった。
「取りあえず、3人はしばらくここにいれば、事情聴取もないし、本格的に捜査の手が伸びて来たら正当防衛を主張すれば良いでしょう」
ベルガーは肩の荷が下りた表情であった。林原たちが立ち去ろうとすると、シュルツがベルガーを呼び止めドイツ語で何か話し始めた。林原は一足先にベルガーのバンに乗り、ベルガーが来るのを待っていた。
「林原さん、シュルツたちは、祖父のPCで『郷に従え』党のホームページを作り、SNSで広めるつもりらしいのですが、その内容について監修して欲しいとのことです」
「ということは、ここに滞在しろってことですか」
「まぁ、そうなります」
「彼らの情熱は歓迎ですから、一緒に作って、洒落で党員集めでもしますか」
「林原さん、洒落ですか。シュルツたちはマジですよ」
「わかりました。まずはドイツ語で広めた方が賛同者が多く集まりそうですから」
「日本語のニュアンスを上手に汲んでくれていると言えますが…、」
林原はベルガーが訳してくれた『郷に従え』党のホームページを読んでいた。
「何か気になる点がありますか」
「ベルガーさん、入党資格の所ですが『郷に従え』に賛同するだけで良いと思います。また党費は党員がある程度集るまでなしで行きましょう」
「わかりました。さっそくシュルツたちに伝えておきます」
「あぁ、それとご意見とか相談を受けるチャットコーナーがあった方が良さそうです」
「なんか面白い企てになりそうですよ」
ベルガーはすっかり乗り気であった。
「あ、もう一つ、党首は私とベルガーさんにしてください」
「えっ、でも『郷に従え』の提唱者は林原さんですけど」
「このドイツの地で発足したのですから、ドイツ人の名もないと変ですけど」
「わかりました。何か責任を取る事態が起こったら、共に背負いますよ」
「しかし、大きなムーブメントになりますかね」
林原は今でも党員集めは、ちょっとした洒落のつもりであった。