コンクリートの割れ目から生えた雑草が、風に揺れていた。
僕はその細い葉の動きを見つめながら、一歩、また一歩と歩を進める。
ここは新宿。
かつて、「眠らない街」と呼ばれた場所。
でも今は、すべてが眠っている。
静寂の眠りに落ちたこの都市に、目覚める者はもういない。
歌舞伎町の入口に立つと、懐かしい匂いが胸の奥をくすぐった。
いや、錯覚だ。
もうそこに人間の匂いはない。排気ガスも、香水も、焼肉の煙も。
すべては風の記憶に薄まって、どこかへ消えた。
でも僕は、思い出す。
人間たちが笑い、走り、怒鳴り、触れ合っていたこの場所を。
改札の近くで、男性が女性に声をかけていた。
無視される人、立ち止まる人、ついていく人。
あの短いやりとりに、人間の「欲」や「寂しさ」がぎゅっと詰まっていたように思う。
それを、僕はただ見ていた。
その光景が好きだったわけじゃない。
でも、「生きている感じ」が、そこにはあった。
今はどうだろう?
通りはゴミひとつ落ちていない。
きっと、もう風がすべてを吹き飛ばしてしまったのだろう。
人間が残したものすら、自然はゆっくりと消していく。
時々、ビルの上からガラスの破片が落ちる音がする。
「カシャン」
その音が、世界で唯一の心音みたいだった。
僕は、静かに渋谷へと向かった。
坂を下り、古びたガード下をくぐると、視界が開ける。
あの、有名なスクランブル交差点。
そこには、もう「人波」はない。
僕は横断歩道のど真ん中に座って、かつてここを歩いていた無数の足音を想像した。
ヒールの音、革靴の音、スニーカーの擦れる音。
すべてが音のない世界に溶けてしまった。
かつて、大型ビジョンが映していた広告。
アイドル、家電、スマホ、戦争、笑顔。
それらはもう、画面に焼きついたまま止まっていた。
中でも、ひとつだけ。
僕がまだ幼かった頃、ある画面に自分の姿が映ったことがあった。
カメラが偶然捉えた、小さな猫。
それを見た通行人が「あ、ネコだ!」と笑って指をさした。
それだけの出来事。
でも、なぜか今も覚えている。
あの笑顔。
僕のことを「見つけてくれた」人。
今、僕を見ている人はいない。
でも、まだ動いているカメラがある。
あれは、何のために?
何を記録している?
僕は、何を見せるためにここにいる?
時折、鳥の羽ばたきだけが、ビルの谷間を切り裂くように響く。
都会の喧騒は、今やその一拍すら、貴重な「音」だ。
夕方。陽が傾く頃、秋葉原の路地に足を踏み入れる。
ここは、昔から「オタク」と呼ばれる人たちの聖地だったらしい。
でも、今や電子の神は眠っている。
無数のコードが垂れ下がり、壊れた看板の電飾は光ることを忘れた。
パソコンショップの前には、崩れかけたキーボードが散乱している。
小さな液晶画面には、最後のブルースクリーンが微かに焼きついたままだった。
風が吹くと、電子部品がカラカラと転がる。
カセットテープ、コントローラー、USBメモリ。
人間が愛した道具たちは、今やただの廃材。
とある路地裏で、僕は小さな猫の亡骸を見つけた。
段ボールの中。少し前まで、誰かがここにいた。
もしかしたら、この街で最期まで生きていたのは彼かもしれない。
僕はしばらくその前に座り、目を閉じた。
彼が見た最後の景色が、せめて寂しくなかったことを祈りながら。
新宿。渋谷。秋葉原。
それぞれの街に、人間たちの「時間」が流れていた。
それを知っているのは、もう僕しかいない。
そして今、その時間は、僕の中にだけ残っている。
でもね。
記憶は消える。匂いも音も、やがては全部、風にさらわれる。
だったら、僕はどうすればいいの?
誰もいない世界で、誰のために何を残せばいいの?
生きる理由って、何だっけ。
誰かに「君はここにいていいんだよ」と言ってもらうこと?
それとも、自分で見つけるもの?
——そんなこと、猫の僕にわかるわけないよ。
でも、まだ歩けるうちは、見ていたいと思うんだ。
人間が遺したものを。
この都市の「名残」を。