目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

鶯谷、上野


 渋谷から北へ。

 廃線になった山手線の高架沿いをたどるように、僕は鶯谷を目指して歩いていた。


 線路の隙間には、草が伸び放題に伸びていた。

 錆びたレールはもう走る電車を待っていない。

 それでも、どこか“旅”という言葉の匂いがこのあたりには残っていた。


 鶯谷に入った途端、街の空気が変わった。

 どこか湿っていて、少し甘ったるい。

 かつて人間たちはこの場所に、他人には言えない温もりを求めに来ていたらしい。


 その名残は、今も建物の色に染みついている。

 看板の文字は剥げ、ラブホテルのネオンは落ちたタイルに埋もれていた。

 でも、壁に描かれた曲線や、扉の丸みは、まだどこか艶かしい。


 人間は、ああして「触れる」ことで、寂しさを忘れたのかもしれない。

 愛ではない、でも愛に似たもの。

 形だけの抱擁。声。熱。


 猫の僕には、それがどれほどの意味を持つのかは分からない。

 でも、ここにいた人たちの体温が、この街にはずっとこびりついている気がした。


 あるホテルの前で、ドアが半分開いていた。

 覗いてみると、布団が乱れたまま残っている。

 時計は止まり、シャワーの蛇口が錆びて光っている。


 人が最後にここで何をしていたのか、僕は想像するしかなかった。

 もしかしたら、誰かが愛を信じて、誰かに裏切られたのかもしれない。

 もしかしたら、誰かが最後の温もりをここで交わしたまま、消えてしまったのかもしれない。


 僕は小さく鳴いた。返事はなかった。



 坂を上ると、視界が開けた。

 そこには、かつて「上野恩賜公園」と呼ばれた広い緑の空間があった。


 今は草木が繁茂し、動物園と博物館の建物は半分崩れかけている。

 でも、どこかこの空間はまだ「人間の夢」が残っているようだった。


 かつて、子どもたちが走り回っていた場所。

 遠足の列、アイスクリームの屋台、音楽のストリートライブ。


 今は、風の音と、鳥の羽ばたきしかない。

 でも、そこに確かに「生」の名残がある気がした。


 動物園の門をくぐると、檻はすべて開いていた。

 檻の中にいるべきだった動物たちは、すでにいなかった。

 逃げたのか、飢えたのか、それとも——人間と一緒に消えたのか。


 檻の前に小さな看板が立っている。

「シロクマのユキちゃん(♀)は、2014年に生まれました」


 もうユキちゃんはいない。

 でも、その存在を覚えている人は、今どこにいるのだろう。

 生きた記憶も、誰かに忘れられれば消えてしまうのだとしたら、ユキちゃんの人生も今はなかったことになるのだろうか。


 そんなことを考えていたら、涙が出そうになった。

 僕は猫だ。

 人間のように涙は流せない。

 でも、心は、静かに震えていた。


 博物館のガラスはすべて割れていた。

 展示されていたはずの骨や化石も、台座から落ち、床に散乱している。

 それでも、不思議とこの場所には“知”の匂いが残っていた。


 人間たちは、恐竜の時代を知りたがった。

 自分たちがどこから来たのかを、必死に掘り起こそうとした。


 でも、今度は誰が彼らの痕跡を掘り起こすのだろう。

 もう誰もいない。

 人類は、自分自身を記録しようとした最後の生物だったのかもしれない。



 上野の広場で、1羽のハトが倒れていた。

 翼に傷を負い、動けなくなったまま、地面に横たわっていた。


 僕はそっと近づく。

 ハトは、かすかに目を動かした。

 僕を見ているのか、見ていないのか、それは分からなかった。


 言葉は交わせない。

 でも、命がもうすぐ終わる瞬間には、何も言葉はいらなかった。


 ハトが、息を引き取る。

 とても静かに。風がそれを包み込むように。


 僕はその隣に座り、空を見上げた。


 もう、人間の飛行機は飛ばない。

 でも、空は今も変わらず広くて、きれいだった。



 鶯谷と上野。

 欲と知、命と記憶。

 人間は、この街にあらゆる感情を刻み込んでいた。


 でも、どれもいずれは風にさらわれる。

 残るのは、音のない建物と、倒れた案内板と、忘れ去られた名前だけ。


 僕はそこに立っていた。

 誰にも見られることなく。

 誰かを探しながら、でも誰にも会わずに。


 こんなにも静かな世界で、僕はまだ、生きている。

 それが、どうしてなのかは……まだわからないけれど。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?